第1話
文字数 3,733文字
僕が君の姿を認めたのは、塾の帰り路に通っているベンチと自販機だけが置かれた簡素な公園でだった。俯きながらベンチに腰掛けて白く立ち上る吐息を出し、両手を上着のポケットに仕舞い縮こまっていたのが気になってしまい、僕は飲む気もないのに自販機でドリンクを買ったあと君の隣に座り込んだ。
あたかも飲み物を飲む為に腰掛けて居合わせた人を演じる様に。ドリンクを飲みながら流し目で君の横顔を盗み見ると、曇り空に負けない位どんよりとした沈鬱な表情をして俯いている。
話す切っ掛けを探る所から始めるつもりだったのに、その表情に居た堪れなさを感じてつい声をかけてしまった。
僕に声を掛けられる瞬間まで隣に人がいた事に気付かなかった君は、驚きのあまり短く呻いたあとポケットから手を出して仕舞い込んでいた何かを落としてしまった。
地面に転がり落ちたのは長方形型の何かだった。寒さを和らげるための充電式カイロかなと思いながら屈みこんで掴み取ろうとするよりも、君は咄嗟に拾い上げてポケットに戻してしまった。
不審者に思われたくなくて、突然声を掛けた事と物を落とさせてしまった事を詫びた。君はその間、少し震える唇と揺れる瞳で僕のことを見定めるように見つめている。顔に穴が開くんじゃないかと思うほど凝視されて少したじろぎかけたけど、言葉を切らしたら駄目だと思って思いつく侭に言葉を紡いでいたけど、君はおもむろに立ち上がって公園から出て行いったのを眺める事しか出来なかった。
機会を無くしてしまったかと思いきや、明くる日も君はベンチに腰掛けていた。正直、なんでこんな時間にこの場所に留まっているのか気になって仕方ない。通り抜け様に、君の顔を盗み見ると紫色の痣が出来ているのが目についてしまった。
昨日はなかった様に思えた卵のようにつるっとした顔に浮かんでいる不自然な痣。これはただ事ではないと思い、お節介も承知の上で懲りずに声をかけた。君は僕の問いには態度で示すかのように無言で立ち上がって、その場から立ち去ろうとしたから咄嗟に右腕を掴んで引きとどめた。
君の顔にはそぐわない、困惑と苦痛が滲み出ていた表情にもどかしさを感じて、なんとか心を開けないかと本気で願った一夜。僕の想いなんか知る由もなくて、無理やり力任せに振り解こうとしていた。
咄嗟に出た言葉に耳を傾けてくれたのか、振り解こうとしていた力が緩んだ瞬間。全ての感情が抜け落ちた様な表情で僕の顔を凝視してきたから、その視線から決して逃げないと、態度で示すように君の双眸を見つめ返した。
時間にして数分のことなんだろうけど、その時は延々と続くように感じられた時でもあった。
沈黙が支配していた二人の時間を壊したのは君だった。
君は目を細めて僕のことを値踏みするかの様に凝視してきたけど、逸らさずに見返していたら先に視線を逸らしたのは君で、ぽつりと言葉を漏らすように吐き出した。
君の背中を見つめながら、徐々に活気が消えていく街で歩数を重ねていく。
何処に案内されているか解らないけど、君を苦痛で束縛している何かに立ち会える瞬間を与えてくれるのなら、それから解き放ってみせるよ。
二階建てのアパートが見えてきて君は一度立ち止まり、光が漏れている窓の方をみつめていたけど、意を決したように再び歩き出して、玄関に備え付けられた電子錠の数字を打ち込み建物の中に吸い込まれていく。その後を追うように僕も歩み続けた。
君が上がり框で靴を脱ぎ捨てていた時、部屋の中から野太い声が響いてきた。
男の声を聞いた君は、全ての動作が凍り付いてしまったのかマネキンみたく動きを止めてしまった。僕は瞬時に頭を働かせ、浮かび上がる様々な状況に思考を巡らせていたら、吐き捨てるように君が教えてくれた。
君が帰らずに公園に居続けたのも、顔に痣ができてしまったのも、本来なら心休まる場所だったのに、そうでなくなった為に起こってしまったんだね。君の様子を伺うと顔は血の気を失せて小刻みに震えている。あまりの居た堪れなさに僕が代わりに歩みだした。
男は微動だにしない僕を見かねてか、更に怒りだして次の拳を繰り出そうとしたから、咄嗟に右足で男の腹に蹴りを入れてやった。男は土手っ腹を抱える様に前かがみになったから、その隙に更に足元に蹴りをいれて足払いをしてやった。男は体制を崩して前のめりに倒れ込んだから、とどめの一発として背中を思い切り踏みつけてやる。
短い雄叫びをあげた後、力尽きたように動かなくなった。男を見下ろしながら僕はスマホを取り出して、警察に連絡を入れる為に操作をした。
あんな奴でも保護者だったらしく、父親が捕まった事により君は今まで住んでいた家から出なくては行けなくなった。そのせいで地元から離れることになり、僕の側から居なくなってしまうことになるとは予想もつかなかった。会えなくなると思うと、あの時の選択は間違っていたのでは無いかと思う自分が嫌になる。でも君の表情には、憑き物が落ちたような晴れ晴れとしたものが宿っているように見えた。
無理に作られた笑顔から、その顔に似つかわしくない物騒な言葉が出てきた。
僕はその先を促すように、黙ったまま君の顔を見つめて次の言葉を待っていた。
君は黙って僕の言葉に耳を傾け、寂しげに揺れている瞳。
無言でナイフを受け取り、少し目を瞑った後、ゆっくりと手を開いてゴミ箱に捨てた。
月光に照らされて君の目元から生まれ落ちていく滴の存在に気づき、拠り所を失ってからっぽになってしまった手を握りしめた。君はそれに応じるように、僕の手を強く握り返してくれた。心の中で疼いて仕方ない思いが溢れてきて口を開きかけたけど、寒空には白い吐息が霞みながら立ち昇って行くだけ。
言葉の代わりに更に強く握り返すことにしたんだ、僕の想いを込めて。
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