第2話 異食のグルメ ー友を食すー

文字数 2,543文字

 「調子はどうだい、先生」
 そう言われて、先生と呼ばれた男は笑った。
 「こっちのセリフだよ、ボブ、調子はどうだい」
 「おかげさまで快調だよ。先生の薬はよく効くからね」
 「それは何より、食事はどうだい」
 「ああ食欲も戻ったよ、問題なし」
 体温計を見ながら先生は応えた。
 「ああ、体温も問題ないな」
 そう言いながら先生は注射器を取り出す。
 「先生、何するつもりだい。俺は絶好調、健康優良児だぜ」
 「分かってる、君がおなかを壊したせいで遅れていた予防接種だよ」
 「待ってくれよ。騙し打ちだ。こっちにも気持ちの整理が必要なんだよ」
 「大袈裟だね、ボブ、注射ならこの間も打ったじゃないか」
 「あの時は腹具合が悪くて、熱が出てたじゃないか」
 「また、そうならない為の予防注射さ。観念してくれ」
 そう言いながら先生は注射を尻に突き立てる。
 「先生には、この痛みが分からないんだろう。痛いんだよ。それ、ものすごく痛いんだよ」
 「そうかい、私は共感性が乏しくてね、医者に向いてるんだ」
 そう嘯きながら注射針を抜く。
 「先生、礼は言わないからな」
 「いいさ、報酬は十分に戴いている。君にどれほど憎まれようと必要な治療はきちんとやるよ」
 「変な絡み方をして悪かったよ、先生、ありがとう」
 先生は笑って、「わかってるよ、ボブ、来週は散歩でもしよう」と応えた。
 注射器や診察の器具を鞄に収めて、先生が立ち上がったところで、外から何かが激しい物音と共に悲痛な叫びが聞こえる。
 「やめろ、やめてくれ」と叫んだ後、だ断末魔の後に静まり返った。
 先生は物音のする方を一瞥したが、何事もなかったかのように立ち上がった。
 「じゃあまた、ボブ、お大事に」
 そう言って、先生は、何も聞こえなかったかのようにその場を立ち去った。
 外に出ると、ここの牧場主が先生に声をかけた。
 「先生、今日はとっておきのランチをご用意してます。寄ってって下さいよ」
 「ああ、奥方にも誘っていただいたよ、遠慮なくごちそうになるよ…その鶏かい」
 牧場主は片手に首の折れた鶏を握っていた。
 「これは俺の晩飯だよ。先生には、飛び切りを準備してますから、期待して下さいよ」
 そういわれて、牧場主の家のダイニングに招かれると、テーブルの準備をしていた牧場主の奥方が笑顔で迎えた。
 「先生、いらっしゃいませ。準備万端、お楽しみに、お席についてしばしお待ちを」
 テーブルに着くと、先生は窓の外を眺めた。放牧された牛達が草を食んでいる。のどかな風景だが、先生には異なる感慨がある。
 そうこうする内に、ステーキとワインが運ばれてきた。
 先生の向かいに座った牧場主が自慢げに説明した。
 「先生、うちの牛が品評会で一等をとったお話は先日させて戴きましたが、これは、その肉です。購入して戴いた業者にお願いして、解体後、いいところを分けてもらいました。都会の一流レストランでもめったに口にできない絶品です」
 牧場主の自慢話は続いているが、先生には聞こえていなかった。先生は小さな声で「ドリー」と呟いた。先生がドリーと名付けた雌牛が品評会で一等になったことは聞いていた。
 先生に動物と言葉を交わす能力があることを知っているのは、先生と言葉を交わせる動物だけだった。牧場主は知らない。牧場主自慢の肉は、先生の友人だった。乞われて牧場の家畜の健康管理を受けた為に、街中でペットだけを相手にしていた先生にとっては、これまであり得ない状況に向き合うことになった。
「先生、うちの人の無駄話はほっといて、どおぞ、お召し上がりください」
 奥方に促されて、先生はステーキにナイフを入れようとして、手が止まる。
 「利発で気立てのいい娘だった」
 口にはしないが、先生はドリーに思いを馳せるていた。
 動物と言葉を交わせるとはいってもテレパシーのようなものである。意思疎通できるレベルには差があった。文字通り、言葉の通じない獣もいれば、前世は高僧だったのではと思わせるような高い見識を示すものもある。ドリーは、自分の見ている世界をいかに愛しているのかを饒舌に語ることができた。牧場の四季の移り変わり、日々の出来事、目の前の景色や牧場の外の世界への興味と憧れを語るドリーとの会話は、先生にとって心楽しいものだった。牧場に出向いた時は必ずドリーと言葉を交わした。
 奥方が注いだワイングラスを先生は無言で掲げ、ドリーに捧げた。
 先生は、ステーキにナイフを入れる。
 「正確には、二歳と半年か」
 ドリーは先生が取り上げた。先生は、それからのドリーとの日々を思い返していた。出荷の前日まで、先生に牧場での日常を楽しく語っていたドリーを思い出す。二歳半の処女牛は、品評会で値踏みされ、業者に売られて、屠殺され、解体されて切り身になって牧場に戻り、丁寧に程よく焼かれ、先生の手によって、食べやすく切り分けられている。
 先生が肉片を口に運ぶと牧場主が先生の反応を待っている。
 先生は、咀嚼し飲み下した。
 「うまい」
 先生が表情を変えずに呟くと、牧場主と奥方は、満面の笑みで喜び、牧場主の自慢話が再び始まった。
 先生は、ドリーに思いを馳せて、うわの空で牧場主の自慢話を聞いていた。
 「先生、ドリトル先生、聞いてますか」
 「もちろん、ただ、あまりにもおいしいのでね」
 「そうですか、先生のおかげで体調も戻ったので、来週末のセリに駆けようと思うんですが、いかがです」
 うわの空で聞いていたドリトル先生は、何の話かと思ったが、すぐに理解した。ボブを来週末には出荷しようという話だった。
 「ああ、治療が早かったので、体重や肉質には全く影響ないでしょう。問題ありません」
 ドリトル先生がそう答えると牧場主はうれしそうに頷いた。
「あいつも、こいつに負けず劣らず、上等に育ちましたから期待してるんですよ。また、分けてもらいますんで、ご一緒に」
 ドリトル先生は、こいつと呼ばれた皿の上の肉を見ながら応えた。
 「それは楽しみです」
 ドリトル先生は、ボブと約束した来週の散歩を思いながら、無表情にドリーを口に運び、食べつくした。
 「うまい、思い出が極上のソースになるとは知らなかった」
 ドリトル先生は思わず声に出して呟き、口元だけで笑った。


 
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