第1話

文字数 4,761文字

 オレンジと白のタイルが敷き詰められた商店街の床をシゲジイは蹴り、蹴り、蹴り、駆け抜ける。普段なら人混み、とはいかないまでもある程度賑わっているアーケードも、元旦の午前11時、殆どの店でシャッターが降り、静寂の中老人の足音だけが響くトンネルと化している。
 走るにはおよそ向いていない、赤いちゃんちゃんこにダボダボのスウェット。こたつでみかんを食みながら新春特番を見ていた老人が、いきなり箱根駅伝に参加させられたかのようだ。履き潰されたスニーカーは、右足の紐がほどけている。気にせず床を蹴る、蹴る、蹴る。


 商店街の駅に近い出入り口近くに店を構える日用品店、浅野商店の長男正一は、五歳の甥っ子、健太を連れて初詣に行くところであった。正一が一歩進むと健太が三歩かけて追いつく。ゆっくりゆっくり、商店街のアーケードを通って神社へ向かう。普段とは違い人通りがほとんど無く、まだ小さい健太も安心して連れて歩けた。
 初詣に健太を連れて行くと言い出したのは正一だった。冬休み前、クラスで女子たちが初詣に行く約束をしているのを正一は耳をそば立てて聞いていたからだ。可愛らしくよちよち歩く健太を連れていれば、偶然出会った女子たちが寄ってきて、ちやほやされる気分を自分も味わえるのではないか。そんな思惑を胸に、逸る気持ちを抑えて何も知らない健太を連れて一歩、また一歩と歩みを進めていた。
 前方からタッタッタッ……と、規則的な音が聞こえてきた。健太に視線を落としていた正一が前方に顔を上げると、50メートルほど先から誰かが走ってくるのが見える。何者だろうか。正月早々こんなところで一人全力疾走する人物を尋常ならざる者と判断し、正一は健太を背中で隠すようにして身を固めた。が、30メートル、20メートルと距離が縮まるにつれて、その人物が誰なのかはっきりと認識できた。
「え、シゲジイ?」
 正体自分がいつも商店街でよく会う、気のいい老人であることがわかり声をかけようとしたが、シゲジイの必死な形相に気圧され、健太と呆然と突っ立っていることしかできなかった。シゲジイは二人に目をやることなく、速度を落とさず通過していった。
「なんや、あれ……。」
 ふと、かばんの中でスマホが震えているのに気がついた。チャックを少し開けて手を突っ込み、手探りで取り出すと画面には「お母さん」と映し出されている。
「もしもし?」
「あ、ショウちゃん、神社にはもうついたん?」
「まだもうちょい、橋本電器のとこまで来たところや。それより、さっきシゲジイに会うたで」
「ほんまぁ。ちゃんと新年のご挨拶した?」
「いや、そんな暇なかったわ。なんかめっちゃ全力で走っとって。出口の方へ向かってったから、多分自分の家に向かってるんやと思うけど、普通じゃない焦りようやったで」
 この商店街には正式にどちらが入口でどちらが出口という決まりはないが、地元の住人はなんとなく駅から降りて入る方を入口、逆に住宅街につながる方を出口と呼んでいる。正一のいる橋本電器店の前は、ちょうど商店街の中間に位置していた。
「あら、そうなんや。まあとにかく、遅ならんうちに済ましてきいや」
 正一の母、直美は電話を切って台所に戻り、栗きんとん用にゆでておいたサツマイモを鍋から引き上げると、裏ごし作業に取り掛かった。ざるとしゃもじでグニグニとサツマイモをつぶしながら、息子の正一の言葉に考えを巡らせる。シゲジイに何かあったのだろうか。年齢の割には活発な老人ではあるが、それにしても元旦早々から商店街を疾走とはただ事ではない。
 直美は最近、シゲジイと話した内容について思い返してみることにした。最近物忘れが増えてきたこの頃、結構な頭脳労働だ。
「そうだわ」と、呟いた。シゲジイは昨日、浅野商店に買い物に来ていたのだった。トイレットペーパーや洗剤といったいくつかの日用品とそれから…白味噌!
「毎年正月には、俺が女房に雑煮を作ってやるのが恒例行事なんですわ」
 やれやれ、という顔をしながら、それでもまんざらでもなさそうなシゲジイのしわくちゃな顔を思い出す。きっと奥さんのほうもおいしいおいしいといいながら毎年二人して雑煮をつついているのだろう。今頃もそのはずである。
 新春特番の合間を縫うようにして組み込まれたニュース番組のアナウンサーの声が、台所まで届いてきた。
「高齢者が餅をのどに詰まらせるといった事故で、大阪府ではすでに10名が救急搬送されており、消防庁は注意を呼びかけています…」
 直美はしゃもじを動かす手を止め、リビングで流れるニュースを食い入るように見た。
「……まさかな」
 そう思いながらも直美はざるとしゃもじを置き、スマホを手にとって電話を一本かけた。

 シゲジイは額に冷や汗をかきながら自身のウェストポーチを手探りで探していたが、もどかしくなり中身をテーブルの上にひっくり返した。目当てのお年玉の袋は見当たらない。初孫、空の不安そうな視線が冷や水のように体にしみるのを感じた。
「お義父さん、もう大丈夫ですよ」
「あんた、袋なら私の余ってるから、それに入れて渡したらええやんか」
 息子の妻と自身の家内、菊代の静止も聞かず、シゲジイは空っぽのウェストポーチをひっくり返してはたたく。
「あれやないとあかんねや。せっかく空が好きなヒーローの袋を見つけてきたのに」
 シゲジイも意地になっていた。正月ということもあり朝からおせちの数の子をつまみにビールと熱燗をあおっていたせいもあるが、やめろと言われれば余計引き下がれなくなる生来の頑固さも起因していた。菊代がため息をついて言う。
「そんなにあきらめきれないなら、洋が買出しから帰ってきたら車で家まで連れて行ってもらえばええやないですか」
「そんなには待ってられん、昼過ぎには綾香さんの方のご両親にも会いに行かなあかんのでしょう?」
 綾香は遠慮がちに頷いた。シゲジイはこぶしを額に当てて少し考えをめぐらせていたが、空に横から声をかけられた。
「おじいちゃん、お年玉ないの?」
 泣き出しそうな空の顔を見ると迷いは吹き飛び、立ち上がって敬老パスの入ったカードケースと自宅の鍵をつかむと早足で玄関へと向かった。
「まさか、今から取りに帰る気ですか?」
「洋が帰ってくるのを待つよりは早い。駅から走れば家までは10分でつくから、電車の時間合わせても往復一時間もかからんやろ」
 綾香も立ち上がって「お義父さん、無理しないでください」と言い終わる前にシゲジイはスニーカーを引っ掛けて飛び出してしまった。酔いが覚め、コートも着ずに走ってとってくるなどといってしまったことを後悔するのは自身の最寄の駅に電車が到着するころだった。

 ぽち袋はすぐに見つかった。玄関の下駄箱の上に置きっぱなしであったのだ。昨夜、間違っても忘れないようにと思い目に付く場所においたのがあだとなる結果となった。
 数十年ぶりの激しい運動でシゲジイの体力は底をついていた。帰りは歩いて帰ろうか。いや、洋に車で迎えに来てもらおうか。疲労がプライドを上回る。息を吸っても吸っても肺に入っていかず、ヒッヒッという浅い呼吸音が玄関に響く。顔の体温が急激に冷えていき、目の前の世界が傾くのを感じた。片膝を床に付き、手を胸に当ててうなる。
 もう片方の手でポケットを探るが、携帯電話が見当たらない。固定電話は居間においてあるが、そこまで這って行けそうにもなかった。一度腹ばいになれば、もう動けないような気がした。
「だ、誰か……」
 玄関の扉が勢いよく開いた。シゲジイが振り返り、その正体を確かめる前に男に声をかけられた。
「大丈夫か!?ってあれ、シゲジイ?」
 男は二人組みのようで、先に声をかけた方が後ろの男に振り返って言う。
「兄貴、もち詰まらせたのって、おばあさんのほうって話じゃなかったか?」
 男兄弟。シゲジイもやっと二人が誰なのか認識できた。橋本電器店の橋本兄弟だ。両者とも50代だが未婚で、兄弟仲睦まじく商店街で電器屋を営んでいる。
「ばか、どう見たって助けてほしそうなのはシゲジイだろが。伝言ゲームのちょっとしたミスだろ。それより、早くシゲジイを床に寝かせろ」
 弟は頷き、シゲジイの両脇に両手を突っ込むと、半ば引きずるようにして床に横たえた。
 よかった、助かった。シゲジイが安心したのも束の間、兄のほうが何か手に持っているのに気が付いた。
「シゲジイ、苦しいがちょっとの辛抱だぞ」
 そういうと弟がシゲジイの頬とあごを固定し、口を開かせると、兄が手に持った筒状のものをシゲジイの顔に近づけていく。掃除機だ。コードレスの持ち運びが可能なタイプで、T字の先端部分が取り外され、細いノズル部分がむき出しになっている。
「ま、まへ…なにほ…」
 暴れるシゲジイを弟が押さえつけ、兄は掃除機の先端をのどまで突っ込み、スイッチを入れた。

 洋の車が病院につくと、中で綾香と空を待たせ菊代と二人で病院に入った。
待合室のソファでは橋本兄弟が不安げな表情で並んで座っていたが、洋と菊代に気がつくと、兄のほうが駆け寄ってきた。弟は受付の看護師に、親族が来たことを伝えに行ったようだ。
「吉田さん、えらいすんません。浅野さんから吉田さんとこのおばあさんが餅喉につまらせたかも知らんから様子見てくれって言われたもんで……。それで来てみたらシゲジイが苦しんでるもんやから俺らてっきり……」
「事情は浅野さんからお電話で聞きました。そんなにお気になさらないでください。お正月から親父のために駆けつけてくださって、ありがとうございます」
 橋本兄弟が駆けつけてまもなく、シゲジイの家には念の為にと橋本兄が手配した救急車が到着した。掃除機を老人の口に突っ込んで試行錯誤する二人を慌てて止めると、ぐったりとしたシゲジイを病院まで搬送したのだった。
 奥の診察室から、医師に連れられシゲジイが出てきた。シゲジイはバツが悪そうに頭をかき俯いているが、しっかりとした足取りを見て洋と菊代は胸をなでおろした。
「親父、大丈夫か?心配したで」
「ふたりとも、心配させてすまんかったなぁ。ご近所さんにも迷惑かけてしもた」
 後ろでは橋本兄弟が二人並んで首を振る。医師が洋に話しかける
「急に運動したもんやから、体がびっくりしてもうたんでしょう。軽い貧血ですわ。お正月らしく、安静にしてればすぐ良くなりますよ」
 洋と菊代、シゲジイは先生と橋本兄弟に何度も頭を下げて病院をあとにした。

 駐車場の車に向かっていると、車窓から祖父の姿を捉えた空がドアを開け、駆け寄ってきた。後ろから遅れて綾香もついてくる。
 シゲジイはズボンのポケットを探り、お年玉を取り出そうとしたが、抱きつく空に阻まれた。
「おぉ、空、どないしたんや。お年玉、待たせてすまんかったなぁ」
空はシゲジイのセーターに顔をうずめて何も言わない。
「空ったら、お義父さんが病院に運ばれたって聞いてからずっと、おじいちゃん死んでもうたらどないしよって、ずっと心配しとったんですよ」
 綾香が後ろから笑いながら言う。空の締め付ける力が強くなる。菊代が後ろから声をかけた。
「綾香さんの家には明日行くことにしてくれたそうですよ。洋が、空が今日は私達と過ごしたがってるからって」
 空のサラサラの髪を撫でる。上着も着ず、トレーナー1枚で飛び出してきた空を見て、自分も薄着なのを思い出した。
「空、寒いから車に入ろうか」
 空は小さく頷き、二人は顔を見合わせた。その距離が去年よりも随分近づいてるのに気がつき、シゲジイは笑う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み