第1話

文字数 29,312文字

7月31日 


AM7:00

朝。
目が覚めるとまず、することがある。
そう思えるだけで私の朝はスムーズに進む。
だから私は毎朝目覚ましにコーヒーを飲む。

・・・。ピッ・・・。・・・・・ピピッ・・・ピピピッピピピッ
うるさいアラーム音がまだ半分夢の中にいた私の耳にまで届いてきた。
目を開いてもまだここが夢の中なのか現実なのかわからなくなる。
少しずつ記憶がよみがえってくる・・・どうして私がここにいるのか。
今日、何があるのか。何をするのか。
でもまずは
「ああ、コーヒー飲まなきゃ」

コーヒーマシーンがウイーンと大きな音を立てて動き出す。
このマシーンの使い方を覚えることに私は結構手間取っていた。
昔から機械音痴ではあったし、仕事だって機械を扱う仕事とは程遠かったから。
コーヒーがカップに注がれている間、無意識にため息がでた。
そこでふと思い出した。誰かが言った“ため息は幸せを逃がしているんじゃない。自分を落ち着かせるためにある”って言葉。
幸せが逃げるわけじゃない。
そう言い聞かせ今度は意識をしてもう一度ため息をついたところで、甲高い音が鳴った。
いつの間にかコーヒーの香りが部屋中に広がっている。
この香りは不思議だ。言葉でうまく表現できないけれど、暖かくてやわらかくてなんだか安心する。これから起こるすべてのことに対してきっと大丈夫だと思わせてくれるような。だから私は毎朝コーヒーを飲む習慣をやめられなかったのだろう。なにより今日という日はそんな思いが特に必要だった。
カップを口に運ぶとコーヒーが苦味をもう苦いと感じなくなった舌を通り、喉へと流れていく。
もう一度カップを口に運んだところで私は無意識に今日の予定を改めて思い返していた。
このコーヒーを飲み干したら私は・・・。
ああ、だめだ。
このコーヒーの不思議な力をもってしても今日これから起こそうとしていることに対しての不安をぬぐいきることはやはり不可能のようだ。
自分がしようとしていることを想像しただけだったのに手に汗をかき、ぎゅっと力強くカップの柄を無意識に握りしめていた。想像だけでこんな状態なのに私は一体今日、どうなってしまうのだろう。
カップを流しに置いて洗おうかと思い水道の蛇口に手をかけたが、まとわりつく不安からかどうせ私がこの部屋を出た後に誰かが洗ってくれるだろうと投げやりな気持ちになった。
だが、知っている。こういう時は逆に投げやりな気持ちに支配されてはいけないことを。私は蛇口をひねりカップを手でゴシゴシとこすって洗った。
不安に飲み込まれそうなときこそ、投げやりになってはいけない。
不安の波にそのまま飲み込まれてしまっては何もうまくいきはしないのだから。
特に今日は。失敗するわけにはいかない。


服を着替えようと寝室に戻ると、ぐちゃぐちゃになったベッドが目に入った。布団はカバーが外れてベッドの端で力なく垂れ、なぜか枕カバーまではずれている。シーツに至ってはベッドの中央に引き寄せられていた。
私は昔から寝相が異常なほどに悪かった。
それでいつも母さんに怒られていたっけ。

“どうしてあなたたちはいつもこんなことになるの?”

母さんの口癖。
母さんはいつも私を“あなたたち”と呼ぶ。
“あなたは”とか言われたことあったかな?

“どうしてあなたたちはいつもこんなことになるの?”

今日、母さんは来るのだろうか?
いや。必ず来るに決まっている。
でも、今日だけは母さんに会いたくはない。今日だけは。
願掛けなのか何なのかわからないが私はとりあえずベッドメイキングに取り掛かっていた。このベッドだって誰かがきれいにしてくれるのに。わざわざ。だから、神様どうか今日は母さんに会わせないでください。どうか。

ベッドメイキングし終わってからやっと寝室に服を着替えにきたことを思い出した。
寝相の悪さのせいで今から何をすべきかわからなくなるなんて、そろそろ私はこの寝相の悪さを本格的に悩んだ方がいいのかもしれない。
なんてまたくだらないことを考えながらクローゼットを開けてぶら下がった服をじっと眺めた。花柄のワンピース、黒のノースリーブ、ジーンズ、白のシャツ、薄水色のスカート、白のワイドパンツに黒のロングスカートももちろんある。      
とにかく自分が持っている服をすべてここに持ってきたがこの服を普段着ることはほとんどなかった。だから特段気にいっている服もない。
クローゼットの服を一着一着じっくり眺める作業を3周してからやっとあきらめがついた。ここではどの服を着たって私は絶対に目立ってしまう。
だからもう、一番取りやすいところにかけていた白いシャツと膝まである薄水色のスカートを手に取った。

支度ができた私を鏡で見るとそれはやはり見慣れない私だった。私はそんな私から目をそらしてバックを手に取り玄関で靴を履いて足元を見つめた。この靴を履くと自然と背筋が伸びるような気分になる。履き慣れていないこの靴はずっとほしかった靴で今自分が履いていること自体なんだか不思議な感じがする。そしてこの足元ももちろん見慣れない。
部屋を出たところでため息をついた。もちろん幸せを逃がしたわけじゃなくて一旦自分を落ち着かせるために。それからエレベーターに乗って1階を押す。
エレベーターを降りたところまではまだいい。そこは大きなロビーだから。
ここでは誰にもジロジロと見られたりもしない。誰にも存在が認識されていないわけではなくてこのロビーにいることが許されているような。フロントにいる人たちは優しく微笑みかけてくれるし、ロビーのソファーに座っている人たちには親近感すら湧く。
そうだ、まるで聖域みたいな。
しかし、この神聖なロビーの居心地がいいくせになぜか今日の私は早歩きになっていた。
この履き慣れていない靴のせいだろう。
今まで遠ざけてきた靴だったがこの靴を履いているとカツカツカツとリズム良く音をたてて私はいつもより速く歩くことができる様な気がする。
ドアマンが微笑み扉を開けて私に声を掛けたが、私は無言で微笑み返すことしかできなかった。
扉の向こう側から強い光が私の目に飛び込んできたものだから、思わず手で遮っていた。
指と指の間から光がきらきらと漏れている。
今日も暑くなりそう。
私は肩から提げていたバッグの中からサングラスを取り出した。更に目立つことにはなるのだが、いくらなんでも日差しが強すぎるので仕方がない。
暑すぎる日差しから逃げるように駅へと向かう。まだ少ししか歩いていないというのに汗が流れ出して止まらない。額から流れ落ちる汗を腕で拭った時、目の前から歩いてきた男と目が合った。
さすがにもう慣れてはきたが、私が誰かとすれ違うたびにその誰かは私を見つめる。いい気分ではないが今はとにかく暑くて暑くてたまらない。
早朝でこの気温なんて・・・
「あの子、暑さに弱いのに」
思わずひとりごとを言ったものだからまたすれ違った誰かが私をじっと見つめた。


AM8:00

『ではここでメッセージを紹介。メロディーノーツさん、16歳から。おはようございます。DJのコバヤシさん。僕は何の取柄もないどこにでもいる高校生です。特にこれといった趣味もないし部活だって帰宅部でもちろん勉強だってできる方ではないです。そんな僕でも最近テレビを見て世界に向かって輝いているみなさんを見つめていたら、大きな夢を持ちたいと思う様になりました。こんな何の取柄もない僕でも持つことのできる夢って何ですか?教えてください。・・・そうだね。メロディノーツさん。最近のテレビを見ているとそう思ってしまうのは本当によくわかるよ。うーん。夢か・・・。僕なんかが人に対して夢を助言できるような立場じゃないんだけど。そうだね・・・しいて言うならカメラマンとかどうかな?』

へえ。と思って俺はラジオの音量を上げた。

『カメラなら指でシャッターを押すだけで世界を撮ることができる。何の取柄もないって言い張る君でも指でシャッターを押すことぐらいはできるよね?きれいな景色があるところまで歩いて行くことも。現像はお店に任せていいし、まずは自分ができることを全力でやってごらん?きっとカメラのレンズを通して違う世界が見えてくるよ。じゃあそんなメロディノーツさんにこの曲を、“Fantasy of the blue sky”』

ああ、この朝にこの曲はよく合う。そう思って俺は窓を開けた。ウイーンと音をたてて窓が下がると生暖かい風が俺の顔に吹き付けた。
ハンドルを握る手に力が入って、アクセルを強く踏んだ。吹き付ける風が強くなって俺の目の前に大きな青空が広がる。
青空を見ているとここがどことか関係なくなって自分だけの世界にいるような不思議な気分になった。この世界でなら何をしても許されるようなそんな自由な世界。どこまでもまっすぐに伸びる道を俺ひとりだけが走っていてこのままこの世界の果てにまで行ける気がする。だから俺は晴れた日の朝の高速が好きだ。

“何の取柄もないって言い張る君でも指でシャッターを押すことぐらいはできるよね?”

ふとさっきのDJの言葉が頭によぎった。
その言葉は間違っていない。
レンズを向けてシャッターを押すだけ。本当にそれだけだ。
でも、そんなシャッターを押せなくなる時だってあるんだ。
それが今日かもしれない。
そう思うとハンドルを握る手が少し震えた。


いつの間にかラジオでは曲が終わってよく聞くCMが流れ、前の車が増えくるとやがて俺はスピードを緩めた。それからすぐに車は渋滞に巻き込まれて完全に動かなくなった。
静止した車の中で俺は俺だけの世界からいつもの世界に帰ってきた。
さっきよりも空は狭くなり、風は止んだ。
少しずつしか動かない車を見ていたら俺はどうしてこんなところにいるんだろうと思い始めて無意識にハンドルをきっていた。

高速を下りてすぐ近くにあったコーヒーショップのドライブスルーでコーヒーとベーグルを注文し受け取ると車内にコーヒーの香りが広がった。そのまますぐ車の中で食べてもよかったのだが今の俺はそんな気分になれなくて、わざわざ少し車を海沿いへと走らせた。
俺の目の前に広がっていた青空が徐々に海と交わって、また自分だけの世界に戻ってきたなんてそんなことを思った自分に苦笑した。
車を降りて砂浜へとつづくコンクリートの階段に腰かけると、海から吹く風が潮の香りを運んでくれたおかげか暑さはまだましな様に感じた。太陽もちょうど雲で隠れている。
コーヒーを飲んで、ベーグルを一口食べて、またコーヒーを飲んで。
今頃今日の被写体はこんな優雅な時間を過ごしているはずもないだろうなとふと思ったその時、ピーヒョロロと鳴き声が聞こえて俺は空を見上げた。大きな青空にまばらに浮かぶ雲。ちょうど雲から少しずつ顔を出しはじめた太陽の光を背に受けてトンビが気持ちよさそうに大空を飛び回っていた。
今日も暑くなりそうだと思いながら、どんな気持ちで今日を迎えようとしているのか想像もつかない被写体へ改めて思いを巡らせた。

ピピピ・ピピピと小さな音がポケット中で鳴っていることに俺はなかなか気が付かなかった。それぐらい海から吹く風と波の音が心地よかったのだ。
この音は不快だ。さっきの渋滞ぐらい。
ピピピ・ピピピと鳴り続ける音に聞き飽きてしぶしぶポケットから携帯を取り出した。着信相手を確認すると、こんな俺に今日の大仕事を依頼してきた例のもの好きからだった。
「もしもし」
「もしもし!?やっとつながった」
「何、ずっとかけてた?」
「ええ。さっきからずっと」
「そりゃ悪かったな」
「あの、まだ着かないんですか?」
「まだっていうか今海見ながらコーヒー飲んでる」
「は!?」
「本当だから仕方がない」
電話の向こうからもの好きの長くて深いため息が聞こえた。
「私はあなたの仕事の段取りをよく理解しているわけではありませんが」
「ん?」
「見ておかないんですか?事前にどんなどころかちゃんと把握しておいた方がいいんじゃないんですか?」
俺はあーと言ってコーヒーを一口飲んだ。
「俺が焦ることはないだろう」
「でも」
「今日は俺が主役じゃないんだから」
電話の向こうでもの好きが数秒の間沈黙をした。それからまもなくこう言った。
「それって・・・常にじゃないですか?」
俺は軽く笑った。
「そういうこと。俺は常に主役じゃないの。だからもうそんなに焦るな」
もの好きが再び長くて深いため息をついたのが電話越しでもわかった。
「じゃあ、お昼前には絶対来てくださいよ」
「ああ。わかってるよ」
電話を切った俺はコーヒーを飲み干して立ち上がり、大きく伸びをしてから腰に手を当てて後ろに軽く背中をそらした。
自然に顔が青空を見上げた。
トンビがピーヒョロロと鳴いて気持ちよさそうに空を何度か旋回しやがて俺の視界から消えてしまった。
視線を元に戻すとしずかに波を押しては戻す海が輝いている。
俺は飲み干したコーヒーの紙カップをぐしゃっと握りしめて、また長い運転をする決心をした。

AM9:00

誰かとすれ違う度に考える、いや疑っている。常に。
あいつは何かやらかすんじゃないかって。もしくは

やらかしたんじゃないかって。

早歩きで歩く俺の横を人々が通り過ぎていく。いや、ちがう。俺が早歩きでこの群衆の中を泳ぐように歩いている。まるでこの前水族館で見たサメのようだ。優雅に泳ぐ魚たちの中をかき分けてものすごいスピードで泳いでいくサメ。あのサメは海よりもはるかに小さい世界をぐるぐると回っていたがその点も今の俺と同じ。
同じところを何度ぐるぐると回っていたのか数えたことはないが、この小さな世界を回るようになって今日でちょうど一週間。
あたりまえだがここは相変わらず世界の縮図の様で俺はこの小さな世界を今日も変わらず巡回している。
いつのまにかここを巡回することが俺の朝の日課になってしまった。
それはきっと人々の笑顔、泣き顔、真剣な顔、そんな様々な表情を国なんて関係なしに人類の集まりとして純粋にここでは見ることができるからだ。
常に人を疑う仕事をしているとこうして人々の純粋な表情を何万単位で見られることは尊く美しいものに感じてこの世界に浸っていたくなる。そして同時にここを守りたいとも強く感じる。
ちょうど今日の日程が始まったところだった様で大きな歓声が俺の耳の中で響き渡る。そんな歓声の中でも、もちろん俺は見逃さないはずがない。
観客は皆立ち上がり、今日の始まりを歓喜し叫んだり、今日という日が待ち遠しかったのか泣いている人だっている。まるで大きな祭りの様なそんな観客たちの前を縫うように通り中央の観客席から無事抜け出した男が俺の横を通り過ぎようとした。
俺は俺の仕事をする。それだけ。それだけだったからその男は俺の横を通り過ぎることができなくなった。
俺に腕を掴まれた男は驚いて俺の顔を見上げる。
その男の顔を見れば俺にかなり油断していたことがわかった。それは俺の妻が考えた計画どおりだったのだが、この男には死んでもそれは言わない。
男が言葉を発する前に俺が先に言葉を発した。
「お前、とったな?」
男の目が泳ぐ。
「な、なんのことですか?」
俺は泳いで逃げようとするその男の目を逃さなかった。
「とったんだろ?」


「撮ったんだと。大量に」
上司がそう言って大きなため息をついた。
「つまり、盗撮ですか?」
「ああ。目の前で世界レベルの出来事が常に起きてるってのに、それには目もくれず、女性のスカートの中を・・・・だ」
盗撮か。
さすがにそこまではわからなかった。ただ、何かやらかした顔をその男がしていたから何か盗ったのかと思ったのだが、撮った方だったとは。俺の問いかけはある意味間違っていなかったからまあいいか。
俺はボリボリと頭をかいた。。
「カメラが」
「あ?」
「カメラがかわいそうですね」
上司がぽかんと口をあけて俺を見上げていたから俺は補足した。
「だって、世界一の瞬間を撮れるチャンスだったのに」
「お前図体でかいくせにたまに女みたいなこと言うよな。それになによりその」
俺は、ああと声をあげた。
「匂いですか?」
「一瞬女子が横切ったのかと思って、振り返って、お前だとわかった時の絶望感」
「ひどいこと言いますね」
「だってその匂いあまりにもお前とかけ離れすぎてんだよ」
「だからです」
「は?」
「俺の見た目がこんなんだからこんな匂いにしたんです」
「まあ、なんでもいいや。とりあえず今日は全世界が注目しているからな。気を抜くなよ」
俺は上司の言葉が理解できなかったものだから思わず顔をしかめた。
全世界が今日に注目?
「なんだ、忘れたのか?」
「今日ですか?今日に注目するにはまだ早すぎませんか?」
上司はふうっと大きく息を吐いた。
「女王だよ。女王復活」
ああ、そうか。今日だったのか。汚名を着せられた女王の復活は。
「マリア・オルガナですか」
「そう。ひどい汚名を着せられて散々叩かれた女王がここで、俺たちの国で復活するんだよ」
「そりゃ全世界が注目しますね」
「だからこそ、盗撮とかのレベルじゃねえ。また女王を陥れようとする人間がでてくるかもしれねえからな。そうならないために俺らがいるんだ」
へえ。めずらしく男前なことを言う。
「めずらしいこと言うじゃねえかって顔してるな」
「俺たちはどうせ民間の小さな警備会社だからいてもいなくても一緒だっておっしゃったのはどなたでしたっけ」
「うるせえな。こんなところにいたら気も大きくなるんだよ」
それはわからないでもない。ここにいると世界レベルで大きなことをしている気分になってくる。俺の朝の巡回がそうであるように。
「お疲れ様です~。あれ、先輩?」
待機室に入ってきた後輩が俺を見て不思議そうな顔をした。
「先輩、今日は午後からじゃなかったでしたっけ?」
「こいつ、午後担当でも毎朝ここの巡回してんだよ。しかもいつも誰かしら捕まえてくるしな」
「へえ!先輩さすがっすねえ」
上司がにやっと笑った。
「気がでかくなっているのはどっちだよってな」
上司は俺のマウントをとった気になったようで俺はバツが悪くなった。
「ちょっと午後まで時間つぶしてきます」
俺は上司のにやにや顔を背後に感じつつ、後輩のゆるい「お疲れ様で~す」って声を聞き流して待機室を出た。
俺はポケットから小さな瓶を取り出して自分の体に振りまいた。そんな俺の姿を見て大概の人間は驚いて俺を見つめる。
俺みたいな人間が香水を振りまいている姿は、はたから見れば滑稽なのだろう。

“視覚であなたを認識する前に嗅覚で先にあなたを認識させてしまえばいいじゃない”

これは妻の名言だ。
俺は高身長でそれなりに鍛えているせいで体の幅もでかい。顔はもちろん可愛い気のある顔ではなくて体格に合った愛想のない顔をしている。人込みの中ではかなり目立つしどちらかといえば人から怖がられる存在なものだから俺の仕事柄かなり不利で見た目通りといえば見た目通りの仕事をしていることになる。
俺が近づいただけで犯罪者は逃げる。だから、妻は俺にさっきの名言を与えた。
はじめはこんなこと馬鹿らしいと思ったが結果的に香水をつけているときの方が犯罪者の検挙率が上がったのだった。
香りひとつで犯人たちは油断するものなのだろうか。まだ俺は妻の考えに半信半疑だが犯罪者を捕まえることができれば自分がどんなに滑稽で笑われてもかまわない。
 空を見上げるとまだ真上に昇りきっていないくせに太陽は日差しを容赦なく俺に向けていた。もちろん俺だけじゃない。今日の始まりを歓喜する観客たち、そして何よりも今日世界を驚かすべく待機しているあの女王にも。
そんなことを考えつつ香水をポケットに戻して俺は再びこの小さな世界を巡回するために歩き始めた。

AM10:00

今日この日がくるまで、私を知っている人間に会いたくないという理由から私はこの場所を同じ街にいながらも今まで避けていた。食事をとる場所も眠る場所もこの近くで探すことはなかった。
でも、ある意味ここもさっきのフロントと同じで聖域なのか。ここまでたどり着いたら私もジロジロみられることはない。
あたりを見回した。
母さんはもう到着しているだろうか。ここで会いたくない人間など数えきれないくらいいるが、やはり母さんには一番会いたくない。だからこそ今一番にしなければいけないのは  あの子の居場所を見つけること。
早くあの子を見つけなければ。
どうすれば・・・
何度考えてもやはり方法はひとつしかない。それは自分のこの容姿を逆手にとるのだ。関係者専用通路の入り口まで来ると、ちらっと警備員の顔を見て安堵した。
この警備員ならきっとあの子と間違える。
私はそう思い切ってサングラスを外すとその警備員に声をかけた。
「こんにちは。ここに入りたいんだけど、通してもらえる?」
警備員は驚いて私の顔を見たが、何を言えばいいのかわからないようで意味不明な言葉ばかり言い放っていた。
「お願い。時間がないの。家族なんだからいいでしょ?」
警備員は困った顔をしていたが私の顔をじっと見て思い出したように、ああと大きな声を上げた。
警備員が言い放つ言葉の中で唯一聞き取れた言葉があった。
「マリア・オルガナ」
私はその名前を聞いても笑顔を崩さなかった。今日はその名前を聞いても動揺してはいけないとそう自分に言い聞かせた。
警備員は嬉しそうに騒ぎ、顔をほころばせて私を関係者専用通路の入り口に通してくれた。
「ありがとう」
私は堂々とその入り口に入っていった。警備員の視線を背中に感じながら。でもその眼差しは疑いの眼差しではなく羨望の眼差しであることは後ろを振り向かなくてもあきらかだった。
マリア・オルガナ
私は顔から笑みを消して、再びサングラスをかけた。少し心臓の鼓動が速くなったことを私は気が付かなったふりをした。
関係者しかいないこの細長い通路はまるでアリの巣みたい。通路から派生してたくさんの部屋があって、そこからまたたくさんの人たちがせわしなく出入りし、私の存在なんてまるで認識していないかのように走り去っていく。
私の今の恰好はここではかなり浮いているけれど誰も気に留めなかったことに本当に安堵していた。みんなそれどころじゃない。自分たちのことで今は精一杯なのだから。
少し前まで自分もそうだったから彼らの気持ちはよくわかる。私もきっと多少服装が浮いている人間がいても気に留めることはなかっただろう。
そんなことを考えていたからか・・・私は足を止めたと同時に呼吸が一瞬止まった。なぜなら通路の向こう側からかつての私が走ってこちらに向かってきていたからだ。すぐに幻想だと分かったが足は一歩も前に出ようとせず私は昔の自分に釘付けになった。
彼女の目は前だけを見据え、私に視線を移すこともなく、私の脇を走り去っていく。まっすぐに。そう、ただまっすぐ前だけを見つめて・・・どこに向かうなんて関係ない。
自分の幻想を見送ったその瞬間、気が付かないふりをしていた自分の鼓動を感じた。血を打つ感覚がわかるほどの大きな鼓動ひとつを感じただけで私は自分の中に眠っていた感情を思い出した。
鼓動の音がこの通路を行き来している人たちにも聞こえるんじゃないかってくらい大きくなる。私の足はようやく進む気になったようで一歩一歩前にカツカツと音をリズムよく鳴らしてぐんぐん進む。
カツカツカツカツと甲高く鳴る私の足音とドンドンドンドンと低い音を鳴らす私の心臓、このセッションのリズムは速まっていく。
進めば進むほど私は思い出す。ずっと押し込めていたあの感情を。
早く、早く。見つけなければ。
心臓の鼓動が激しさを増し、私はぎゅっとシャツの胸のあたりを握りしめて下を向いて立ち止まってしまった。昔の自分を思い出しそうで。というよりも昔の自分に戻りそうという言葉の方が正しいかもしれないと速まる鼓動を感じながらも冷静にそう思った。
朝、コーヒーを飲んでいた時はそんな昔のこととは無縁の世界にいたのに。今ではもうあの世界こそ私にとって無意味な世界へと戻ろうとしていた。
さっきみたいな幻想の自分とはもう会うことはないだろうと思った。さっきの幻想はきっと私がもう振り切ったと思っていた過去の自分だった。でも今ならわかる。幻想なんかじゃなくて今ここに存在している自分こそあの頃となんら変わらない自分なのだとはっきりわかったから。
ああ、こんなにもすぐに戻ってしまうのか。
ここにいるみんなの姿を見ていたらあの時の悔しさ、嫉妬、そして何よりも・・・。
その時、大きな歓声が聞こえた。
顔を上げて前を見つめると目をつむりたくなるほどのまばゆい光が通路の先から見えた。いつのまにか通路の一番端にまで来ていたのだ。そしてまた狂喜すら感じる歓声が聞こえて私の耳にビリビリと響き渡る。この熱狂に包まれた歓声にひどく懐かしさを覚えた。
そう。何よりもこの歓声。あの場所で走り終えた者だけが得ることができる栄光。
私はまた戻ってきたのだ。この世界に。
その時、ふわっと甘い香りがして誰かが私の肩をたたいた。

AM11:00

指定されていた駐車場をなかなか見つけることができなかった。この街に来ること自体ひどく久しぶりだったというのもあるのだが、ここ数年でこの辺りの開発が進み俺の知っている風景からはかなり変わってしまっていた。
さっきまでどこまでも続く広い大きな海を見つめていただけにこの大都会の入り組んだ狭い道が俺に余計なストレスを与える。ぐるぐると何度か同じ道を行き来したりしてようやく俺はもの好きから指定されていた駐車場に車を停めることができた。
そこには関係者以外立ち入り禁止と書かれてはいたもののほぼ満車の状態。
そりゃそうだ。会場には世界中の人間が集まっているのだからその関係者の数も半端ないのだろう。
車を降りると大きな歓声が俺の耳に飛び込んできた。ここにいても会場から溢れ出てくる熱気が伝わってくるそんな気がした。
上着のポケットに手を突っ込み、あらかじめもらっていたIDカード引っ張り出して首からさげた。それから車のトランクからカバンを取り出し、肩から提げたところで俺はそっとカバンに触れた。
今日俺はまたあの日のようにシャッターを押せないのかもしれない。
なんてことを考えながら。
気を取り直して車をロックすると俺はまだ歓声が止まない会場へと向かった。

この会場の中はまるでひとつの小さな世界の様だ。様々な国の人間がそこにはいて肌の色も、言語もみんなバラバラだった。ここが俺の生まれた国だということを忘れてしまいそうになるくらいに。
まるで祭りだな。世界中の人間が集まって騒いでいる。
関係者入口と書かれたグラウンドへと続く通路の前に例のもの好きが立っていた。
「おはようございます」と言って声をかけてきたものの全然早くないじゃないかと顔には書いてあった。
「おはよう。ちゃんと昼前には来ただろう」
「もう少し余裕を持っていただかないと困ります。12時からスタートなんですよ」
「大丈夫だ。どうせ」
俺は大げさに辺りを見回してみせた。
「なんですか?」ともの好きは怪訝そうな顔をして俺を見つめる。
「ほら、これだけの多種多様な民族が集まっているんだ。時間なんて足りないに決まっている」
もの好きは呆れたように小さく息を吐いた。
「1時間」
「ん?」
「もうすでに1時間・・・以上おしてます」
俺はにやっと笑った。
「だろ?」

強い日差しが俺の目を突き刺したものだから俺は思わず手で遮っていた。
同時に大きな歓声が俺の耳に響く。
手を下ろすとまぶしい光の中で世界中から集められた各国の代表たちがそこにいた。
選ばれた者だけが入ることを許される神聖な空間と化したグラウンド。
上を見上げれば360度このグラウンドを囲む国なんて関係なしにぐっちゃぐちゃに混ざり合った観客たち。
そんな観客の歓声を気にもせず彼らは自らの記録と向かい合っている。
俺は強い日差しのもとただ眺めていた。
4年に一度しか見ることのできないこの景色を、人を。
そしてなによりも燃え上がる聖火を。
「なぜあなたを推薦したと思いますか?」
唐突にもの好きにそう聞かれた。
もの好きもまっすぐにこの景色を見つめている。
「それは、あんたがもの好きだからだ。俺みたいなカメラマンを推薦するなんて」
もの好きは、ふんと鼻で笑った。
「私はあなたの写真が好きです。だから今回の大会であなたには専属のカメラマンになってほしかった」
「悪かったな。俺にはそんな資格ないから」
「それならどうして引き受けたのですか?今回の件」
「決まっているだろ?」
もの好きは小さく息を吐いた。
「マリア・オルガナ・・・ですね」
俺は何も言葉を返さなかったが、そういうことだというのがもの好きには伝わったようだった。
「まったく。天才は天才に惹かれるんですかね。マリアなんですよ。女王復活の写真を唯一撮影することが許されたカメラマンとしてあなたを指名したのは。もちろん。私はマリアよりも先にあなたを今大会専属のカメラマンとして推していましたよ。多くの人間から反対されても」
もの好きは今度はあからさまに大きく息を吐いた。
「なんていったってあなたはあの時ユキヒョウの写真を撮らなかった。あなただけが撮ることを許されていたのに」
俺は声を上げて笑った。この話をされるとなんだか笑いがこみあげてくるようになったからだ。会う人会う人みんな俺の顔を見るとこの話をする。
もの好きはむすっとした顔で俺を見る。
「笑っている場合ですか。何日も何日もかけて山を登り大勢の人に助けてもらって遂にユキヒョウを見つけたのに、あなたは撮らなかった。どれだけの迷惑をかけたか」
ようやく笑いが収まった俺は、まだにやついた顔でもの好きを見た。
「本当に迷惑だと思ってるのか?」
もの好きは、勢いよく俺をにらんだ。
「思うわけないでしょう!?さすがだと、天才だと私は思いましたよ。でも。世間は」
「世間は許さなかった。だから俺はあんたからの専属カメラマンを断ったんだよ。反対を押し切ってまで推薦してくれたのに」
笑い疲れて俺は大きく伸びをした。
「でも、マリア・オルガナには興味があった。舞い戻った女王。まさか、マリア・オルガナ自身が俺を指名していたとはな」
「あなたがシャッターを押せないと彼女は言っています」
ふうんと俺は言いながら今円盤を投げた選手を見つめた。
「おかげでどの国のマスコミもその話題でもちきりです。カリスマカメラマンと蘇った女王。カメラマンは再びシャッターを押すことができないのか・・・・なんてあおりまでついて。でも、お願いだから」
大きな歓声がもの好きの言葉をかき消した。
もの好きはじっと俺を見つめて俺の言葉を期待していた様だったので俺は一言だけ言った。
「あんたが言っていることとあんたの顔に書いてあること逆だけど?」


もの好きは忙しい。この大会のそれなりに偉い立場の人間だからだろう。俺と話している最中に呼び出しがあってあのむすっとした顔のまま去っていった。
「では、あとで。お待ちしてます」
そう言って。
俺は青空へと向かって飛んでいく円盤を見つめていた。円盤は選手の手から離れると太陽の光を浴び、一筋の光になって空へと飛んでいった。
美しいものはこうして肉眼で見ていたい。そう思うのは人間の本能だ。本能には逆らうことなんてできない。それをある意味運命と言うのかもしれない。

“あなたがシャッターを押せないと彼女は言っています”

あの静かな雪山でユキヒョウを見つけた時。
本当に美しいものを見たとき人間はレンズ越しで見ることをやめてしまう、自分の肉眼で見てこの瞬間を一生留めておきたいと感じることがあるんだと学んだ。
俺はその経験を通していい勉強になったが、もちろん周りからはものすごく怒られた。
でも、あの被写体は今でも俺の目の中で留まっている。俺の目の中だけで。あれはきっとそういう運命だったのだ。後でこっぴどく怒られたことも含めて。
そして俺はまた今日、シャッターを押せないかもしれない。
もの好きの言葉通り。

しばらく円盤投げを眺めていたが暑さで軽いめまいを覚えた俺は水を求めてふらふらと歩き出した。
ぼうっとした俺の頭にさっきのもの好きの言葉がよぎった。

「お願いだから彼らの期待通りにはならないで」
響き渡る歓声の中、もの好きはそう言いながらも顔は笑っていた。
まったく、もの好きは俺に期待を寄せすぎだ。

グラウンドから関係者専用通路を抜けて外に出るとすぐに救護室を見つけた。
水をもらい、パイプ椅子に腰掛けようとしたときふと、ハイヒールに膝までのスカートをはいた女性が目についた。肌の色からこの国の者ではないことは確かだった。
別に彼女がこの国の人間でないことに目がいったのではない。そもそもここでは様々な国の人間がいるというのにいちいち別の国の人間がいたとしても気になることなんてない。
ただ彼女の横にいる図体の大きな警備員がおかしくて、嫌でもふたりはこの救護室で目立っていたのだ。
警備員は必死に彼女にジェスチャーで何か伝えようとしている。
片手に紙コップを持って。手をひらひらさせたり水を飲むふりをしたり。
その様子がおかしくておかしくて。
 警備員は外国語が一切話せないようで、だからかこの国の言葉をゆっくりと話していた。だが彼女に通じるはずがない。
ジェスチャーはどんどん大げさになって警備員の言葉もどんどんゆっくりになっていく。
それをまた目つきが悪くて図体の大きな警備員がしているものだから余計におかしいのだろう。俺を含め救護室で休んでいた人間はくすくすと笑いながらその様子を眺めていた。
しばらく見ていたが、彼女には、まったくもって伝わっておらずそのうえ少し彼女からも笑われ始めた。
仕方ないなあ。
俺は立ち上がり、ふたりに近づくとふわっと独特な香りがした。まるで別々の香水を掛け合わせたような。まあこの図体のでかい警備員さんが香水なんてつけているはずもないから彼女の香水なのだろう。
彼女の肌の色から見て、きっとこの国の言語だと思われる言葉で声をかけた。
「彼はこう言いたいんだよ」
俺の声を聞いた彼女が振り返る。
やはりこの言語で正解のようだ。
「この暑さは危険だから水分補給はした方がいいって。ほら、彼が持っている紙コップ。あれ飲んでくれって言ってるんだ」
彼女はサングラスをかけていたから表情はちゃんとわからなかったがじっと俺を見てそれから横にいた警備員に視線を戻したようだった。
「そうだったの」
そう言ってから彼女は笑った。
「彼、一生懸命私にジェスチャーで伝えようとしてくれていたんだけど全然わからなくて。申し訳ないけど彼のジェスチャーを見ていたらだんだん笑えてきてしまったの」
「俺も面白くてその様子をしばらく見ていたよ。優しい警備員さんじゃないか」
「ええ、本当に」
彼女は警備員から紙コップを受け取った
「ありがとう」
微笑んで彼女は紙コップの水を飲み干した。
「彼女の国の言葉わかるんですか?」
横にいた警備員が俺に声をかけた。
「ああ。少し前に彼女の故郷で仕事があってね。ありがとうだって。それに君のジェスチャーが面白かったみたいだよ」
警備員は、頭をボリボリとかいた。
「すみません、ありがとうございます。彼女、熱中症でふらついていたから心配だったんですが言葉が全く通じなくて」
「いや、ちょうど俺が知ってる言語だったってだけさ」
そう言って彼女に視線を戻した時、サングラスをかけてはいるものの彼女の顔を知っているような気がした。
「君、どこかで会った?」
彼女はじっと俺の顔を見つめ返して、思い出したように大きく口を開けた。
「あなた、もしかしてユキヒョウの?」
彼女がそう言ってサングラスを取った瞬間、俺は驚いて目を見開いた。
同時に、円盤投げが終わったと会場にアナウンスが流れた。

PM12:00

 彼女を見逃すな、と俺の直感がささやいていた。関係者専用の通路でふらついていた彼女を見かけた時から。だがしかし、まさか彼女の正体が・・・・

突如現れた身なりの汚い男が彼女に何か話かけて、彼女がサングラスを取った瞬間。
俺は彼女の顔を見て愕然とした。
その顔はあの有名な女子100m走世界記録保持者のマリア・オルガナの顔だったからだ。

“ひどい汚名を着せられて散々叩かれた女王がここで、俺たちの国で復活するんだよ”

 今朝、そう言った上司の言葉を思い出した。
彼女が今日復活するあの女王?
しかし、彼女はシャツにスカートにヒールまで履いていて、どう見ても選手の格好をしていない。それに何より彼女からは・・・。
身なりの汚い男も彼女の顔を見て驚いてはいたようだったが彼女に一言二言言葉を返していた。彼女は男の言葉を聞くとはっとした顔をしてすぐにサングラスをかけ直した。
「警備員さん」
突然彼女と会話をしていた男に声を掛けられて俺は男を見つめた。
「彼女をどこか静かな・・・できたらここから少し離れたところに移動させてあげられないか?」
「待ってください」。
俺は声を落として身なりの汚い男を見つめた。
「彼女はこのあと午前最終の女子100m走に出場予定の、あのマリア・オルガナですよね?」
身なりの汚い男は視線を彼女に移してしばらく見つめてから俺に視線を戻した。
「いや、違う」
「でも彼女の顔は連日ニュースで流れているマリア・オルガナの顔と同じ・・・」
俺はそこで言葉を止めた。彼女の顔はマリア・オルガナの顔と確かに同じ。だが彼女を見逃してはいけない、そう俺の直感がささやいていることも確かなのだ。着ているこの服装ももちろんなのだが、どうしても俺には彼女が今日復活するあの女王には見えなかった。
ならば彼女は一体何者なんだ?
男は俺をバツが悪そうに見つめた。
「警備員さんに言っていいのか」
男は腕を組んでしばらく考えこんでから意を決したように言った。
「彼女は・・・マリア・オルガナのお姉さんだそうだ」
その言葉を聞いて俺はさらに驚いた。
「マリア・オルガナの姉って」
「警備員さん、このことは」
「彼女がマリア・オルガナにドーピングの罪を着せた犯人?」
 今大会で女王が復活するとなって、テレビのワイドショーでは女王復活を称えるために4年前の事件が連日取り上げられていた。今大会の出場選手に疎い俺でもマリア・オルガナを知っているのはテレビで彼女のことが嫌というほど報道されているからだ。
俺は改めて目の前にいるマリア・オルガナの姉を見つめた。サングラスを掛けてはいるものの、まだ幼い子供の様にも感じた。
信じられない。こんな女の子が。

4年前、大会直前に世界記録更新を期待されていたマリア・オルガナのドーピングが発覚した。その後、彼女自身はドーピングをしておらず妹に対する嫉妬から彼女を陥れようと犯行に及んでしまったマリア・オルガナの実の姉が犯人であることが判明。姉自らが名乗り出るまでマリア・オルガナ本人は自国からも他国からもひどく責められ一度は連盟からも追い出されている。
しかしその姉がまさかこんなにも顔が似ているとは、双子だったとは知らなかった。
「彼女がここにいることがばれたら大騒ぎだ。警備員さんだから」
「あたりまえです」
そう言い放った俺を男はじっと見つめた。俺が彼女をどうする気なのか察したのだろう。
彼女の腕を掴もうとした俺の手を男が止めた。
「まってくれ。彼女は確かに4年前の大会で事件を起こした。でもそれにはちゃんとした確証もなくて」
「周りの選手やスタッフの証言で発覚したとニュースで見ました。それに何より彼女自身が自供したと」
「今はまだ何もしていない」
「ですが、先ほど彼女は関係者専用通路にいたんですよ」
「いただけで何もしていない」
「何か目的があったのかも」
「だったら一度話を聞いてやってくれ」
「彼女の言語がわかりません」
「俺が通訳をするから」
「では、とりあえず彼女の身柄をいったんこちらで預かります。上司にも報告しないと」
俺は男の手を振り払って再び彼女の腕を掴もうとしたが、彼女が先に俺の腕を掴んで何か言葉を発した。

「え?」
その様子を見た男がすぐに彼女の言葉を代わりに俺に伝えた。
「私の話を聞いてほしい」
それからまた彼女は言葉を発した。
「私はあの子に何かしようなんて思っていない」
そう言って彼女はサングラスを外しぎゅっと力強く俺の腕を掴んだまままっすぐに俺を見つめる。その目に嘘はないと俺の直感が言っていた。
そう。その目には嘘がない。しかし、俺の直感はまだささやいている。
彼女を見逃すなと。
俺の腕を掴む彼女の手は少し震えていて、目には涙まで浮かべていた。俺は犯罪を食い止めるためだったらたとえ女でも子供でも容赦はしない主義だ。でも・・・
大きく息を吐いて、頭をボリボリとかいた。
俺も甘くなったものだ。ここで仕事をしていると少し寛容な気分になるのかもしれない。世界中から集まった人々の純粋な表情をずっと眺めていたものだから。
「わかりました」
俺は静かに彼女の腕をほどいた。
「確かに彼女は何かをしたわけではないし、上司への報告は彼女の話を聞いてからにします」
男は安堵した様でほっとした顔をすると彼女に俺の言葉をすぐに通訳し、男の言葉を聞いた彼女は何と言っているかは相変わらずわからなかったが同じ言葉を何度も言って俺に頭を下げた。
そんな二人を見て俺は小さく息を吐いた。
「とりあえずあなたの言う通り彼女はこの会場から遠ざけた方がいい。いいところがあるので案内します」

この会場周辺は普段の仕事場が近く俺はこの辺りの地理には詳しい。とりあえず、この会場から少し離れた公園にでも向かおうと考えた。
俺の後ろで男とマリア・オルガナの姉は会話をしていたが、もちろん彼らの会話は理解できない。
しかし、おそらく彼女をここで捕まえるわけではなくここから離れたところに移動していると説明してくれているのだろう。彼女の顔はさっきよりも少し緊張していたがどこか安堵している様でもあった。
「あの、頼んどいてなんだけど」
男は俺の背後から声をかけた。
「警備員さんは持ち場から離れちゃって大丈夫?」
「正式な勤務は午後からなので。それに」
俺はちらっとマリア・オルガナの姉を見つめた。
「彼女のことはまだ気になりますし、あそこで別の人間にばれたらもっとややこしいことになる」
そうかと言って男はいきなり俺の両肩をがしっと掴んだ。
「ありがとう。ありがとうな、警備員さん」
にやっと笑って男は俺の肩を軽くたたき、マリア・オルガナの姉にまた何か話しかけた。
変わった男だ。彼女の国の言葉がわかるとはいえ普通なら大会の関係者に任せて試合観戦に戻るはずだ。それとも高いチケットを無駄にしてでも復活する女王に偶然会えたことがよっぽど嬉しかったのだろうか。

男のことを気にしながらも二人を連れて会場から少し離れた公園に案内した。とりあえず彼女をベンチに座らせると近くの自販機で男がコーヒーを三本買ってきてくれた。
なんだかベンチに座っている異国の女の子にふたりの中年男が声をかけているような図になった。
くだらないことだが、俺は制服を着ていてよかったと安堵していた。横に立っている男はこんなにも身なりが汚いし、通報されてもおかしくないからだ。制服を着た人間が一人でもいれば通報されることはないだろう。
俺は一口コーヒーを飲んで少し雲が出てきたからか日差しがましになった空を見上げた。ここにいてもまだ少し会場からの歓声が聞こえる。
「警備員さん、で、彼女に聞きたいことは」
それは考えるまでもない質問だった。俺は視線を横に立っている男に戻した。
「なんであの関係者専用通路にいたのか」
男はうなずくと彼女へ俺の言葉を伝え始めた。

PM13:00

 思わずサングラスを外してしまった時はもうだめかとあきらめそうになったが、とりあえずこんな状況でも会場から離れることができてよかった。
あそこから、あの子から私は一刻も早く離れなければいけなかったから。
私を見下ろす二人の茶色い瞳はまっすぐに私を捉えて離さなかった。
なんとなく、確証なんてない、ただなんとなく、その瞳を見ていればこのふたりに嘘は通用しないことが私には確信できた。同時にこのふたりなら私がどんなことを言っても全て受け入れてくれるとも感じた。だからこそ私はふたりに伝える言葉を慎重に考えた。このふたりへ私の本当の思いを伝えたい、わかってもらいたい。でもばれてはいけない。
少し時間を置いてからやっと私は口を開いた。
「あの子に人生を返しに来たの」
持っていた缶コーヒーをぎゅっと握りしめた。汗をかいていた手が冷やされていく感覚が気持ち良い。
「頑張ってって伝えに来たの。まあでも伝える前にこの暑さでふらついているところを警備員さんに助けてもらったんだけど」
「それだけ?」
そう言ったのは私の国の言葉がわかる男だった。私は改めてこの男の顔をじっと見つめた。
やはりこの男はあのカメラマンだ。
「ねえ、あなたは例のユキヒョウのカメラマンよね。今日あの子の復帰戦を唯一撮影することを許された」
男はいきなり自分の話になったものだから、俺のこと?と言って自分を指さした。
「そう。あなたのこと」
「君は俺のこと知っているのか?」
「私たちの国ではあなたは有名人だもの。ユキヒョウの写真を撮らなかったこと、大ニュースになってた。国を挙げて探検隊を結成していたから」
「そりゃあ、恥ずかしい」
「横の警備員さんは知っているの?」
「いや、知らないだろうな」
「教えてあげたら?」
カメラマンの男は拍子抜けしたような顔をしていたが、そうだねと言って横にいた警備員に私が何を言ったのか通訳し始めた。
私はふうっと息を吐いた。
この二人に嘘は通用しない、と何度も自分に言い聞かせた。
特にこの警備員には。警備員の目は私のずっと深いところを見ているような気がして怖かった。警備員が私をじっと見つめる前に私は言葉を発した。
「あなたをカメラマンに指名したのはあの子なのよ」
警備員と話していた男は私に視線を戻した。
「知っていたのか?」
少し驚いた顔をしているのがなんだかおかしかった。双子だからねなんて言葉を返そうと思ったがくだらなくてやめた。
「さっきも言ったでしょ?あなたのこと私たちの国では大ニュースになってた。その時、あの子が言ったの。私も同じだって」
「同じって?」
「“私もそのユキヒョウと同じだわ”そう言ってた」
あの時、私はあの子が何を言っているのかわからなかった。だから冗談でも言っているのかと思って笑ってあの子の言葉を流したけどテレビを見つめるあの子の横顔は真剣だった。まるで、遠くにいるそのユキヒョウに共鳴しているかのような。
「その言葉がどういう意味だったのか今ならわかる気がする。自分が選んだ道をまっすぐに歩いているだけで周りにいる誰もが見とれる。あなたが見たユキヒョウの様に。はるか遠くから様々な国の人々が訪ねて来ようが美しさに見とれてシャッターを押せないでいようが関係ない。自分の進むべき道を歩んでいくだけ。あの子もそう。私があの子にどんな感情を抱いていようが、誰かに何を言われようが、あの子には関係ない。ただ走りたい、速く走りたいそれだけを目指してあの子は自分の道を進んでいる。あなたを指名したこと、ドーピングについてちゃんと調査をしなかった連盟への腹いせだとか騒がれているけど、そんなんじゃない。あの子は自分の本当の美しさを試したかっただけ。あの時のユキヒョウと同じかどうか。それだけなの」
自分の声が震えていた。
ふたりへ伝える言葉を考えようとすればするほど4年前のあの頃の気持ちを私は思い出してしまいそうになる。
伸びない自分の記録、仲間への嫉妬、何よりもあの子のことをずっと羨んでいた。ただ純粋に走りたいという思いが残っているあの子が本当に羨ましかった。

“どうしてあなたたちはいつもこうなるの?”

あの事件が報道された時も私は何も言っていないのに母は“あなたたちは”と言った。事件の全てが報道されていたにも関わらず母は“あなたたちは”と言ったのだ。
私はまだ何も言っていなかったのに。母にはわかったのだろう。私の内面から溢れる醜さが。
「なれるものならユキヒョウの様に私だってなりたかった。でも、もうわからなくなってしまったの。私はこんなにも必死に自分の道からはずれないように歩いているというのに、誰も気づいてもくれないし助けてもくれない。人々が見ているのは私の走りじゃない。私の記録だけ。なにより助けを求めることも逃げることも誰も許してくれなかった」
言葉はもう止まらない。4年前の私が誰にも言えなかった言葉、言うべきだった言葉が今になって私の中から飛び出したから。
「怖かった。ずっと怖かった。どうして誰も助けてくれないの?どうして誰も私を見てくれないの?どうして誰も認めてくれないの?あのトラックをたった100m走っただけで一体何を得るというの?このままだと私は壊れてしまうと思った。だからあの子はこんな私を」
私はそこで息を呑んだ。はっとして顔を上げて二人を見つめたその時だった。
ピピピ・ピピピと小さな音が聞こえた。携帯の着信音だろう。だが、カメラマンの男も警備員の男も誰もポケットを探ろうとはしなかった。
ピピピ・ピピピ・・・音は鳴り続ける。
ふたりはじっと私を見つめていた。だから私も何も言わずにふたりを見つめ返していた。
木々から漏れる木漏れ日がふたりを照らす。暖かい風が私の髪を撫でて遠くから聞こえる人々の熱狂にあふれた歓声を私たちの元へ運んできた。
いつのまにか携帯の音は止まっていた。
最初に口を開いたのはカメラマンの男だった。
「君にこれだけは言っておくよ」
カメラマンは私の耳元に口を近づけてささやいた。
「俺は今日、本物のユキヒョウを見る」
私はその言葉を聞いて力なく笑った。

PM13:30

「彼女に」
唐突に横に立っていた警備員がつぶやくように俺に聞いた。
「彼女に何て言ったんですか?」
「警備員さん」
「あなたは気が付いたんじゃないんですか?」
警備員が鋭い目つきで俺を睨んでいた。この警備員は目つきだけではなくて勘もなかなか鋭いようだ。
「俺はさ、ただ美しいものが見たいそれだけなんだ」
警備員は何か言葉を発しようとしたが結局何も言わなかった。
「彼女を頼んでもいいか?トラックの上にいるユキヒョウを待たせるわけにはいかないんだ」
それは賭けだった。彼はきっと自分の仕事を全うしようとしている。ここで俺を行かせないこともできるはずだ。
警備員は空を見上げて何かつぶやいた。ちゃんと聞き取れなかったが、俺は甘くなったもんだとか何とかつぶやいていたようにも聞こえた。
ぶつぶつと言ってから警備員は俺に視線を戻した。
「シャッターは押せそうですか」
そう言われて俺はこの警備員を思わず抱きしめたい衝動にかられた。
「いいのか?」
「何のことですか?私はただここでカメラマンのあなたと選手の親族と会話をしただけ。それだけです」
その言葉を聞いて俺は笑ってしまった。
見た目と違って優しい警備員なんだなとも正直に俺は思ってしまった。
「ありがとう。警備員さん」
その時ちょうど雲から顔を出した太陽が俺たちの気持ちなんか考えもせずに俺たちに強い日差しを浴びせてきた。それはきっとあのグラウンドにいる彼らへも同じように。
彼女は・・・舞い戻った女王は今、どんな気持ちでそこに立っているのだろうか。
俺はベンチに座っていた彼女に視線を戻して微笑んだ。
「すまない、時間なんだ。仕事を終えたらすぐ戻るよ」
その言葉を聞いて彼女の顔に初めて笑顔を見た。嬉しそうにうなずく彼女を見て俺は、彼女は俺がここに戻ってくる前にここから去るのだろうと思った。
会場に向かおうと置いていたカバンを肩に下げた時、ふと思いついた。
「なあ、ふたりとも」
俺はにやっと笑ってふたりを見つめた。
「一枚だけ写真を撮ってもいいか?」

会場に戻ると同時に現実に戻ったような感覚がしてさっきまで3人でいたあの公園は幻だったのではないだろうかなんて思わず思ってしまった。
とにかくごった返す人、人、人。飛び交うどれ一つとして同じじゃない言語。それはいよいよ始まる午前最後の種目女子100m走予選を待ちかねている人々だった。
時計を見るともう14時を過ぎていた。俺の予想は的中し、予定の時間よりもかなり遅れ
ているようだ。
関係者入口の前まで来ると不安そうな顔をしたもの好きと目が合い、怒ったようにズカ
ズカと俺に近づいてきた。
「どこにいたんですか?携帯にもでてくれないし」
「ああ、悪かった」
あからさまに大きなため息をもの好きはついた。
「急いでください。もう始まりますよ」
関係者専用の通路を俺が通ると談笑していたアスリートもスタッフも急に黙り込んでみんな道をあけてくれた。国も関係なしにそこにいる人々は俺が通る度にじっと見つめる。俺はそんなことを気にするような人間じゃないがあまりいい気はしなかった。自分の国の言葉が俺に理解できないと思っているのかこそこそと話す奴。もちろんそいつらはアスリートじゃない。同業者だ。そして誰かが言った、どうやって連盟に取り入ったんだって。
俺はそんなこと気にはしないがイラッとはする。まあ、結局は気になっていたってことなのだが。だから俺はそいつらにそいつらの国の言葉で言ってやった。
「悪いな。俺の実力らしいわ」
そいつらは、驚いて俺を見た後もっとこそこそと何か話し始めた。しかし、声が小さすぎてさすがに聞き取れはしなかった。
「何やってるんですか?」
もの好きが大きなため息をついた。
「馬鹿に構ってる時間なんてありませんよ」
俺は驚いてもの好きを見つめた。もの好きはそいつらの言語ではっきりとそう言ったのだ。こそこそしていた奴らもその言葉を聞いてさすがにもう話すのをやめた。
俺はにやっと笑ってそいつらを見つめたが、「急いでください」ともの好きから声を掛けられたのでそいつらをもう構うことはなく先を急いだ。
長くて辛気臭かった通路を抜けると俺たちはグラウンドに飛び出すように出たがまだ足を止めることはなかった。100m走を行うトラックはこの通路から出て少し距離のあるところに位置していたからだ。激しい日の光を浴びながらも歩みを止めないもの好きが唐突に言った。
「今朝、電話で私に言いましたよね」
「何を?」
「俺は主役じゃないって」
「ああ、そのことか」
「そう思えるんでしょうか」
俺は思わず足を止めた。歩きながら話す内容じゃないとなぜかそう思えたから。
「何が言いたいんだ?」
もの好きも足を止めると俺をじっとまっすぐに見つめた。
「あなたはあの時、雪山でユキヒョウを見た時、主役は自分だと思ったんじゃないんですか?」
俺はその言葉を聞いて目を見開いた。
「あの時、自分を脇役になんてすることはできなかった。そうでしょう?カメラを通してじゃない、自分自身で感じたいものがあるってことを知ったんじゃないんですか?」
ああ、そうか。
「自分が・・・主役?」
聞き返した俺の言葉にうなずいたもの好きから目が離せなくなった。
俺はずっとあの時の感情を言葉にできなかった。なぜ自分がシャッターを押せなかったのか言葉であらわすことができなかったのだ。
しかし、もの好きが言ったその言葉はあの雪山で俺が感じた感情を明確に言葉であらわしていた。
俺はあの時自分のためにこの景色をずっと見ていたいと思い、誰かにこの美しさを届けたいなどと思いもしなかった。フィルムになんて残らなくていいからこの景色を見続けたいと願わなかっただろうか。
あの雪山は俺とあのユキヒョウだけの世界になっていた。誰にも邪魔できない、誰にも邪魔させない世界。
たとえそれがシャッターを押すだけの愛用のカメラだとしても。
「私はあなたの写真が好きです。だからずっと考えていました。あなたがあの時写真を撮れなかったのはなぜなのか」
そう言ってもの好きは、俺に微笑んだ。
「いいのか?」と俺がそう聞くと、もの好きは少しうーんと唸ってから、にっと笑って胸に手をあてた。
「あなたのお好きなように」
そう言っておじぎをした。
俺はそんなもの好きに「ありがとう」と一言だけ言って背を向けようとしたが、もう一言付け加えた。
「あんたに会えてよかったよ」
初めて見たもの好きの笑顔に背を向けて俺はひとりで女王が待つトラックへと向かった。


PM14:00

歓声が大きくなったのがこの公園にいてもわかった。
きっともう始まるのだ。女王の復活戦が。彼女は今どんな思いなのだろうかと思ってベンチを見つめたが彼女は缶コーヒーを開けず、ずっと握りしめたままそこに座っていた。
俺は、「飲まないのか?」と言って俺が持っていた缶コーヒーを持ち上げて指さした。
彼女は思い出したように缶コーヒーを見ると、俺のそばに寄ってきて缶コーヒーを差し出した。
「いや、俺がほしいわけじゃなくて」
俺は手を振ってちがうちがうとジェスチャーで答えたが、彼女は首を振った。
ああ。そういうことか。
俺は彼女から缶コーヒーを受け取ると、立ち上がり公園入口を指差した。
彼女は俺の指が差し示す先に自動販売機があるのを見て微笑んだ。
「すまない。気が付かなかった、君はコーヒーが飲めなかったのか」

自動販売機に小銭を入れると、いくつかのボタンがピッという音とともに光が灯った。彼女はその中から冷たいオレンジジュースを何の躊躇もなく選び、すぐにガタンとジュースが落ちてきて彼女はやっと念願の飲み物を手に入れた。救護室で水を飲んで以来だったからとても喉が渇いていたのだろう。ごくごくとオレンジジュースを飲み干していた。
飲み終わったその姿を見て、疲れたんだろうなと思った。きっとこの子にとって今日は間違いなく人生で一番大変な日だったに違いないと思ったからだ。
「君はさっきの会話の中で何一つ嘘をつかなかった」
彼女はきょとんとした顔をして俺を見つめた。俺の言葉が理解できなかったのだろう。ならばそのまま理解できなくていい。ここから話すことはすべて俺の勝手な妄想に過ぎないのだから。
「関係者専用通路にいた理由も、言えなかった一言も、カメラマンの彼を指名したことも、君がどんな思いであの世界にいたのかも全部本当のことだ。それは俺にもわかったよ。きっとあのカメラマンにも。でも、君はあの救護室でひとつ嘘をついてしまっていたんだ」
俺は彼女からもらった缶コーヒーを開けてそのまま一気に飲み干した。生ぬるくなったコーヒーが俺の喉を通り流れていく。ぷはっと息を吐いてそれから小さなため息をついた。彼女は不思議そうに俺を見つめている。
「マリア・オルガナ」
彼女は、はっとした顔をして俺を見つめた。
俺の直感はずっと彼女を見逃すなと言っていた。彼女が何かをやらかしたとわかっていたから。
4年前のドーピング事件のことじゃない。この大会で何かをやらかしているそう思わずにはいられなかった。
おそらく彼女は、マリア・オルガナは4年前ドーピングをした。姉にはめられたんじゃない。
そしてこの大会で熱中症にかかってうずくまっている彼女と俺が出会う前に彼女は会場を訪れた姉と再会し入れ替わったのだ。
だから今こうして目の前にいる。そうでもないと俺の直感に対して説明がつかない。
だが、これはすべて俺の勝手な憶測であって何一つとして確証がない。彼女が本当にマリア・オルガナだということも。
それでも彼女はきっと・・・
「君はお姉さんに人生を返したかったんだ。そうだろ?」



PM14:10
警備員の男が私の顔を見てはっきりと私の名を呼んだものだから、持っていたオレンジジュースの缶を思わず落としそうになった。
その時、遠くでまた歓声が聞こえ、警備員の男も私もお互いの視線を外して会場の方向を見つめた。
大丈夫。大丈夫。何度も自分に言い聞かせた。だってもう試合は始まる。
あの子があのトラックを走り抜ければそれでいい。

私たちはふたりでひとつ。

4年前、私はとある世界大会で世界記録を更新した。
あの瞬間、人間の女性としてこの世で一番速く自分が走ることのできる存在なのだと思うと今まで感じたことのない高揚感が私を包んだ。その高揚感をいつまでも感じていたかったが、そんなものはゴールテープを切った瞬間から失われていくものだということを私はすぐに実感した。
私の記録を超そうと仲間たちは今まで以上に練習に集中した。私の記録を超えようとする彼らはまぶしく、そしてその姿は私にはもう真似できない姿だった。これ以上私はもう自分の記録を更新することができないと確信し、なぜこれ以上速く走らなければならないのか理解ができなくなってしまっていたからだ。
そしてその時の私はすでにもう純粋に走ることができなくなっていた。一緒に育ってきた仲間への嫉妬、伸びない自分の記録、何よりも純粋に走ることをまだ愛していたあの子を羨み続けていた。あの子のように昔の自分のように私はもう一度なりたかった。走ることを楽しみ愛しているひとりの人に。
でも私が周りから求められていたのはそんなことじゃなかった。走ることを楽しむよりも愛するよりも今よりも少しでも速い記録をだすことを人々は私に求めた。もちろん私もその期待に応えるつもりだった、国の期待を背負っているのだから楽しむ暇なんてない。そんなことわかっている。
もっと速く、速く、どこまでも速く・・・。
そんな感情が私をドーピングへと追い込んだ。
4年に一度のあの大会に出てみんなの期待を裏切らないためには速く走るしかないから。
だからドーピングした。それだけのこと。
もう、そんな考え方しかできなくなっていた。
記録はもちろん伸びたが私にはもうわからなかった。
速く走れたところで何が楽しいの?
何が残るの?
誰か返して。あの頃の私を。
簡単に私は壊れた。

誰か助けて。

そのひとことを誰にも言えないまま私のドーピングが連盟にばれた。私はこのまま自分は本当に壊れていくのだと実感した。
責められて追放されて見放されてひとりで静かに壊れていくのだと。
私にしか聞こえない自分が崩壊していく音が聞こえた。それはまるで私を今まで作り上げてきたブロックがガタン、ガタンとひとつずつ落ちていくような音だった。ガタン、ガタンとこんなにも音は鳴りやまないというのに誰にも聞こえてはいない。

でも、この世にこの音が聞こえる存在がただ一人いた。

“走ることで壊れてしまうあなたを私は見ていられない”

言葉で伝えることすら私はしてこなかったのに、あの子は私が今誰かの助けを渇望していることを察知してくれたのだ。

“だって私たちはふたりでひとつだから”

 そう言ってあの子は私を救うために自分の人生を犠牲にした。
私が犯した罪を被ってあの子は私を守ってくれた、私を助けてくれた。
何よりも走ることが大好きだったからこそ私のために罪を被ったのだ。いや、ちがう。走ることで私が壊れたらきっとあの子も走れなくなる。だからあの子は私たちのために罪を被ったのだ。


あの頃だってあの子の方が私よりも調子が良くて世界記録を狙えたのに。あの子はそれでも私を救う道を選んだ。
あの子のおかげで私は壊れずに生き延びることができ、相変わらずまだこの世界に私は存在している。あの子がいるべきだったはずの世界に。
だから今度は私の番。あの子に人生を返す私の番。そのためにこの代表の座を絶対に誰にも渡さなかった。あれからの4年間あの子のために私は戦ってきた。
でも、もうそれも今日で終わり。

今思えばこの4年間の私は、あの子と同じユキヒョウのような存在だったのかもしれない。自分が選んだ道をまっすぐに歩いているだけで周りにいる誰もが見とれるそんな存在だったのかもしれない。
ただ、私が見ていた道の先にはあの子しかおらず、誰よりも速く走ることを見据えたことなんてこの4年間一度もなかった。だからもう本当に私は走れなくなってしまった。
走る必要がなくなったから。

「本物のユキヒョウは誰か私だけが知っている」

私に視線を戻した警備員はもちろん私の言葉がわからない。彼が視線を戻したのは私が声を発したから、ただそれだけのこと。
私は警備員の男を見つめた。彼は、私の正体に気が付いている。もちろんあのカメラマンも。
私が自分の正体を認めれば今からでも彼はあのトラックへ私を連れて行くのだろうか。私はそんなことを考えて思わずふっと鼻で笑ってしまった。
あたりまえだ。彼は警備員なのだから。出場予定の選手がこんな公園にいたら連れて行くに決まっている。
彼の国の言語を私が知っていればよかったのに。正体を明かすためにではなくて

トラックのスタートラインの前に立つべきなのは出場予定の選手なんかじゃない。
走ることで自由になれる人間こそあのスタートラインの前に立つべきなのだ。

と伝えることができたから。

PM14:20

カバンの中からカメラを出した時、公園で撮った2人の顔を思い出した。
いつか、もっと先の未来でいい。
この試合がずっと過去のものになったとき彼女たちにこの写真を見せたいとふと思った。
本来写真とは容赦なく過ぎ去る時を切り取り保存するものであり、その写真をいつか見た人間がどう思ったかでその写真の価値は決まるのだ。
まさしくこの写真は未来の彼女たちにとって価値のあるものになる。
その時、はあっと息を吐くような大きなため息が聞こえた。
ため息?
後ろを振り向くと彼女が立っていた。
俺は思わずその美しさに見とれてしまった。引き締まった脚の筋肉、まっすぐにトラックの先を見つめるその瞳、それはまさしく復活した女王。彼女の体はこの4年の歳月でも全く衰えてはいなかった。
彼女は走ることをずっと続けていたのだ。
それを知っているのはきっと世界中の人間が集まっているこの会場でも俺一人だけなのだろう。
俺に気が付いた彼女が手を差し伸べてきた。「あなたがユキヒョウのカメラマンね?」と一言つけ加えてくるかと思ったが彼女は無言で手をすっと差し伸べてきたのだ。
俺はその手を力強く握り返して自己紹介もせずに思わず聞いていた。
「ここまで来て、ため息?」
彼女は少し驚いた顔をしていたが、すぐに微笑んだ。
「知ってる?ため息って自分を落ち着かせるためにつくんだって。誰かが言っていたの」
「落ち着かない?久しぶりのここは」
彼女は俺の言葉の意味が分かったのだろうか。俺の言葉を聞いた彼女は小さく笑った。
その笑顔はさっきまで公園で話をしていた彼女と全く同じ顔をしていた。
「まさか」
そう言って俺に背を向けて彼女はスタートラインへと向かった。「今日はよろしく」とか「あなたには私を撮ることができない」とかそんな言葉を掛けてくるかと思ったが、彼女は   まるで俺を観客の一人とでも思っているような扱いをして去ったのだ。それこそ彼女が自信に満ち溢れているからこその振る舞いであることは俺にはもちろんわかっていた。
彼女がスタートラインの前に立っただけで観客たちの歓声はとんでもなく大きくなった。彼女は片手を挙げてその歓声に笑顔で応え、それから目を閉じてこの歓声の意味を実感している様に感じた。妹が守り彼女に返したこの場所の意味を。
そんな彼女の姿を見た瞬間、俺の体はぶるっと震えた。目を閉じて歓声を聞く彼女を見ていると俺の周りから音が消えた。
ここには俺と彼女しかいないそんな空間になったように感じた。まるであの時と同じ、ユキヒョウを見たあの時と同じように、


PM14:25

今ここで彼女の腕を掴み、会場に戻り、上司に報告をし、女子100m走予選を中止させ、彼女の姉を捕まえる。
なんて気はさらさら起きなかった。どのみちもう間に合いはしない。
ただ彼女を見逃すなと俺の直感はまだささやき続けている。
確かに彼女は4年前の大会に出るためにドーピングをしたのかもしれないし、今大会で姉と入れ替わったのかもしれないが確証はなく俺の勝手な妄想であることにも間違いはない。
だからこそ、彼女を見逃すわけにはいかないことも確かであり彼女をここで逃がすのは俺の警備員としての生き方を曲げてしまうことになる。
 彼女はじっと俺を見つめていた。
 まるでここから去るのに俺の許可を待っているような。
 彼女は覚悟もしているはずだ。俺に捕まって、今ここで女子100m走予選を中止させられることも。
 俺はボリボリと頭をかいた。
 本当に甘くなったもんだ。
「俺はこれから目の前で起こった出来事には妥協はしない。これから、君を見逃した今から」
 言葉が通じているはずがないから俺は自分に言い聞かせるように彼女にそう言った。だが彼女は俺の顔をしばらく見つめてから頭を下げた。言葉は確かに通じていないが彼女には俺の思いが通じたのだろうか。
彼女は会場の方向を見つめるとサングラスをかけた。
彼女はきっともう二度とこの国へは訪れないだろうし、自分の国にすら帰りはしないのではないかと思った。
「どこへ?」
言葉が通じるはずもないのに俺は無意識に彼女に声を掛けていた。
彼女は何か言葉を発したが、やはり俺には何を言っているのかわからなかった。それはきっと俺の「どこへ?」の問いに対する答えではなくてさっきの俺のように自分に何か言い聞かせるための言葉なのかもしれない。しかしサングラスの向こう側で彼女の目は笑っているように感じた。
これから彼女の人生はどうなるのだろうか。
マリア・オルガナの姉として生きていくのか、それとも全くの別人として生きていくのか。
俺は彼女を見つめていると毎朝の巡回で見ていた会場で歓声を上げる観客たちのあの純粋な表情を思い出した。
あれほどの歓声を得る各国の代表たちはどれほどの重圧を抱えていたのか、彼女はその重圧の化身の様にも見えた。
正規の手順を踏まないで代表として今、トラックに立っている彼女の姉を正直認めるわけにはいかない。
でもそれでも、目の前にいる彼女は世界記録を保持しこの大会の代表を勝ち得ていたのだ。それは自分の実力で、女王として。観客たちの歓声は確かに彼女におくられていた。
言葉が通じないなんて関係ない。
俺は立ち上がって彼女に言葉を掛けた。
「今までありがとう。君のおかげでどれほどの人が感動したのか、それだけは忘れないでほしい」



PM14:30

ただがむしゃらに走ってきた人生だった。
どうしたらいいのかもわからないで。
でも今、私は自分の人生を取り戻したのだ。
やっと自由になった、その表現が合うそんな気がした。
この空白のような4年間、私はずっと違う世界で生きてきたような気がする。
自分が生きるべきではない世界で。
きっともう二度と振り返ることはない。
でも、何ひとつ後悔なんてしていない。
私たちはふたりでひとつなのだから。
その時、
私の人生が再び始まる音が聞こえて




私は

俺は

彼女は



新しい人生を走り始めた

シャッターを押せなかった。

俺に背を向けて歩き出した。
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