後光なき聖母たちの夜

文字数 893文字

 やわらかな爆音──もとい娘の泣き声があたりに響くと、私はたちまち覚醒して上半身を起こした。時計を見れば24時50分。冬でなくたって真っ暗な時間帯だ。

 近くに置いていた防寒用のボア素材ベストを羽織る。出産前はお洒落なケープやポンチョを……と考えていたのに、これに至ったのは袖の通しやすさと動きやすさ、何より肩と背中の暖かさを重視したからである。深夜の授乳に、お洒落など必要はない。

 おむつを替え、母乳だけでは足りないのでミルクを用意したあとに、やっと生後三ヶ月の我が子を抱っこした。娘に乳首を含ませようとするが、うまく口にはまらない。ぐっと押しつけるようにすると、やっと吸盤のように吸い付いてくれた。

 授乳というものを想像するとき、たいていの人は、聖母が赤ん坊をあやしているかのような穏やかさを思い浮かべるだろう。私だってそうだった。けれど、現実は甘くはない。母親も赤ん坊も『授乳』という体験に関しては、スタートは必ず初心者なのだ。うまくいくわけがない。乳首を吸ってくれず、吸っても出てこないと諦められたり、泣かれたり、怒られたり。歯が出てくる頃には噛みちぎられるほどだという話を聞いてからは、戦々恐々とする思いだ。
 夜の母親たちには、聖母のような穏やかさも、眼差しも、後光などもない。あるのは眠気と疲労、産後のホルモン変化による体調不良だ。

 それでも、まだ慣れない胸元の感触を抱きながら想像する。
 この町の、この国の、この地球上の中で、私と同じように我が子を抱き、おむつを替え、母乳やミルクをあげている同志たちのことを。その人たちにも後光などはない。けれど、はるか遠くの頭上には、優しい月の光があるはずだ。

 この部屋に月光などは差してこない。けれど、キッチンから届くダウンライトの微光が、がんばれとでも言うように私の背中に当たっていた。LEDライトの聖母──それもまた、良いのかもしれない。小さく笑うと、娘が授乳に集中しろと抗議するかのように、ふにゃふにゃと泣き出した。ああもう、ごめんったら。

 そうして後光なき聖母たちの夜は今日も、地上の片隅で、ささやかに慎ましく、ただ過ぎていく。
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