第1話

文字数 1,977文字

 喜寿を前にした祖母が入院し、母が病院に祖母を見舞い家事に手が回らないときは、大学生の私が家族の食事を準備することになった。母に代わって私が病院に行くときもあるが、そういう場合はこれまで通り母が食事を用意する。作る側の母と私に問題はなかったが、食べる側の父と高校生の弟に微妙な違和感が生まれたようで、「なんかいつもと違う」と言う。これまで滅多に食事を用意しないできた私の料理に「なんか違う」と感じるならまだ理解できるが、母の料理にも違うと感じるのだそうだ。母がいうには、入院前は祖母が買物、食材の保存、下ごしらえなどの調理前のひと仕事に手を貸してくれていたけど、いまはそれがなくなったからではないかと言う。私が病院に行った時に祖母にその話をすると、祖母は「調理の手際や味付けはそんなに変わらんから、素材の選びかたとか、冷蔵庫に入れる前の食材の洗いかたとか、保存に相応しい切り分けかたとか、下味のつけかたとか、そういうとこじゃないのか」と言う。
 入院からひと月後に、容体を拗らせた祖母はあっけなく他界してしまった。葬儀期間中の食事は店屋物になるのかと思っていたところ、近所のみなさんが料理を作って差し入れてくれた。生前に料理上手できこえた祖母から料理を習ったという皆さんは母よりちょっと上の年頃で、「こんな形でお礼するのは残念だが、せめてもの弔意として受け止めていただければ」と、腕によりをかけた料理を持ってきてくれた。父も弟も、皆さんの料理には違和感を覚えないらしく、「これは慣れ親しんだお袋の味だ、おばあちゃんの味だ」と喜んで食べている。私は近所の皆さんに祖母から何を習ったのか聞いて回った。近所の皆さんから聞いた話には皆さん独自のノウハウが加えられていたが、最後にはみな異口同音に「下ごしらえ」の重要さを語っていたのが印象的だった。私は皆さんに「下ごしらえ」の具体的な手法を聞き出し、食材ごとに方法を整理して祖母の秘伝をまとめた。
 そういえば子供の頃家に帰るといつも祖母は「ご飯食べたかい?お腹空いてないかい?」と聞いて来た。「お腹空いてる!」と答えると祖母は美味しい一品をさっと用意してくれた。お焼き、水餅、フルーツポンチ、豆腐料理、サラダロール、など和洋中幅広く、甘過ぎず辛過ぎず、夕食までのつなぎ程度に空腹を満たす絶妙な量の一品だった。こちらの希望をきくと祖母は冷蔵庫や収納から新聞紙に包み、或いは下味をつけて冷蔵庫に保存していた食材をさっと取り出していたが、あれこそ祖母の実践していた下ごしらえだったのだろう。私は拙い記憶を頼りにそのときの様子を思い出した。
 葬儀を終え再び家族の食卓が戻る日、私は秘伝メモと子供の頃に見た景色を頼りに買い物から母を手伝った。食材を選ぶにも重さや形、葉ぶり根ぶり、色艶をよく吟味し、野菜は洗ってから濡れ新聞に包み、肉や魚は酒や塩を振ってラップに包んだ。汁物は油抜きしたお揚げに豆腐とネギを併せた味噌汁にした。煮物は筑前煮で、アク抜きして程よく灰茹でした筍に、板ずりして塩をなじませた人参、硬めに茹でた里芋、ゆっくり時間をかけて戻した干し椎茸を用意し、隠元と蒟蒻を合わせて大鍋で煮込んだ。焼物は吟味して選んだ厚手の鯵の干物で、干物は焼く前に酒を塗ってもうひと干しした。茶碗蒸しは卵液に小エビと細かく刻んだ旬の野菜を溶いて蒸し挙げ、香物は乱切りした茄子に塩して水気を切ったあと、生姜と庭先でとれた茗荷と大葉を刻んで合わせ、甘酢で和えた。料理は父にも弟にも「ああ、これだよこの味だよ!」と好評だったが、私は自分のしたこと、かけた手間暇を振り返ったときに、料理って結構大変なものだなあ、仕事しながら準備するとなると大変だろうなあ、とも思った。それでも料理はこの上なく楽しかったし、食べた人が喜びの表情を見せると何よりも嬉しかった。
 母は食後に、祖母の秘伝を参考に私が吟味して選び紙袋に入れて野菜室に保管していたリンゴの皮を剥いている。私は砂抜きしている浅蜊の塩水を替え、「明日は酒蒸しかな、それとも洋風にボンゴレのパスタにする?」と言うと母は「いつまでも続くと思っているのかしらね」と父と弟の方を見やりながら私に微笑んだ。私への言葉かと思ったがどうも母は父と弟に対して言っているようで、意味を考えるとはっとした。父も弟も祖母から母へと受け継がれてきた我が家の秘伝に基づく味付けを当たり前に思っていたとしたら、それはちょっと不幸でもあるまいか。弟はこれから出会う女の人の料理をどう味わうのだろうか。父は私が嫁に行き母に何かあったら独りで何を食べるのだろうか。そう気づいた時、りんごの皮を剥く母の包丁の刃先がキラリと光って見えた。居間では父と弟が能天気に爪楊枝をくわえながら、食後のリンゴを待っている。 
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