第1話
文字数 2,487文字
「スタンドバイミー」
20XX年の早春。
人類は未知のウィルスに脅かされていた。
スーパーマーケットの棚から商品が無くなり、街から音楽が消える。
会いたい人に会う事も出来ず、私達の日常が壊れてゆく。
ついに、この街でも外出を差し控える要請が発表される。
ここ数か月の自粛ムードに包まれた街は静まりかえっていた。
次々に閉店していく商店街。繁華街からネオンが消えてゆく。
私の店も今月で閉店する事になった。
この街で小さなバーを開店したのは20年前の事だ。極力、ランニングコストを抑えて、誰でも気軽に来れる店を心掛けてきた。
しかし、客足の途絶えた店では固定費が首を絞めていく。家賃、借金、人件費が重くのしかかり、閉店を決意するしかなかった。
資産のない私に選択肢はない。
ジィリィーリィ、ジィリィーリィ。
電話のベルが鳴った。
電話の声は常連客のヤシロさんだった。
フリーライターのヤシロさんは病気がちな母親を看病しながら自宅で仕事をしている。
「マスター、大丈夫。最近、行けなくてゴメンね。お店の閉店が多いから心配しちゃってね。少ししか飲めなくて申し訳ないけど、今から飲みに行きますよ」
「有難う御座います。ヤシロさん。お母様は大丈夫ですか」
「うん。もう歳でね。ウィルスが心配でさ」
「ヤシロさん、こんな時期だからこそ、御自身の周りの人を第一に考えないと。お母様への感染リスクは避けないとダメですよ。不要不急の外出は控えないと」
「ありがとう。はぁはっはっ。マスター、生真面目だね。お店の人が、そんなこと言っちゃってさ。何で、お店開けてんのよ」
「はぁはっはっ、そうですね。スミマセン」
「うん。ありがとう。梅雨過ぎぐらいにでも落ち着いたら必ず飲みに行くから」
「あっ、はぃ」
私はバーを閉店する事を言い出せなかった。
チャリーン。
電話を切ると同時にバーの扉が開いた。
入口に立っていたのはミホさんだった。
「ミホさん、どうしたの」
薄手のスプリングコートを着た小枝のように細いミホさんは心を何処かに置き忘れたかのように立っていた。だが、私が声をかけると笑顔を造って明るく振る舞い答えた。
「はぁはっはっ。マスター何よ。『どうしたの』じゃないでしょ。いらっしゃいでしょ」
「あぁ、そうでした。いらっしゃいませ。どうぞ」
ミホさんをカウンター席に案内する。
「マスターの顔、見たくなっちゃてさ。一杯ちょうだい」
「いつものでイイの。ミホ・スペシャル・カクテルね」
「うん。御願いします」
私はシェーカーにエメラルドグリーンのリキュールを注ぎシェークした。
カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。
静かな店内にシェーキングの音が木魂 する。アンティーク調のグラスに注がれた緑色の液体。カクテルから漂うハーブの香りが彼女を包む。宝石の様なカクテルに目を輝かせるミホさん。ミホさんがカクテルグラスに口を付ける。
「うーん。キタッー。美味しぃ」
店内にジョン・レノンが唄う、スタンドバイミーが流れる。
"When the night has come and the land is dark
And the moon is the only light we'll see
No I won't be afraid, no I won't be afraid
Just as long as you stand, stand by me
So darlin', darlin', stand by me, oh stand by me
Oh stand by me, stand by me "
「アタシ、この歌の歌詞が好きなんだよね。恐れはしないさ、君がそばにいてくれればって歌よね」
いつもの明るいミホさんは他愛もない世間話をして自分の小指を見詰めた。ミホさんの左の小指には、いつもの指輪がなかった。思い出すように語りだすミホさん。
「マスター。アタシ、彼と別れちゃった」
「えっ、あのラッパーの彼ですか」
「うん。明日の週刊誌で若いモデルの女の子との交際宣言がスクープされるらしいよ」
「そんなぁ。だって、今でこそ有名ラッパーになったけど、元々は下積み時代を支えたミホさんの御蔭じゃないですか」
「違うの。イイのよ。私が頑固なだけだから。生真面目過ぎたのかな」
それ以上は何も語らずに彼女は席を立った。
「マスター、ありがとう。マスターに会えてよかった。こんな時期だから、お店やっているか心配だったの。私も不要不急で用事もないのに出歩いてて怒られちゃうね。また、来月に来るから」
「あっ。はい。あのー。ミホさんっ。実は来月、お店、開けられないかも」
「えぇーっ。お店、閉めちゃうのぉ」
「だけど、ミホさん。何とか出来るとこまでやってみます。もしもの事があってもミホさんが必要としている時には屋台を引いてでも駈けつけますから。ミホ・スペシャル・カクテル、いつでも作るよ」
「マスター、」
涙目になってしまった彼女に私は何の根拠もなかったが言った。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのよ。何もかもダメになっちゃうじゃないの」
「大丈夫。絶対に確かな事はね。ミホさん、あなたは笑顔で幸せになるべき人なんだよ。どんなに社会が変わっても私達は変わらないから。私は、いつまでもミホさんのバーテンダーだから。いつでも傍に居るから。ミホさん、願いは絶対に叶うんだよ」
ゆるぎない確信をもって私は答えた。
「きっとよ。きっと、また会えるよね。マスター、アタシにまた、カクテル作ってね。お願い」
少し笑顔に戻った彼女がバーの扉を開くと桜吹雪が強い風と共に舞い込んできた。
季節が変わろうとしている。
私に出来る事は、今できる日常を守る事。バーに集まる人達が私の資産だから。
私はバーの扉を閉めると、明日の為に開店準備を始めた。
これは即興で作ったフィクションのミニ小説です。登場人物や設定は事実とは一切関係ありません。 (了)
20XX年の早春。
人類は未知のウィルスに脅かされていた。
スーパーマーケットの棚から商品が無くなり、街から音楽が消える。
会いたい人に会う事も出来ず、私達の日常が壊れてゆく。
ついに、この街でも外出を差し控える要請が発表される。
ここ数か月の自粛ムードに包まれた街は静まりかえっていた。
次々に閉店していく商店街。繁華街からネオンが消えてゆく。
私の店も今月で閉店する事になった。
この街で小さなバーを開店したのは20年前の事だ。極力、ランニングコストを抑えて、誰でも気軽に来れる店を心掛けてきた。
しかし、客足の途絶えた店では固定費が首を絞めていく。家賃、借金、人件費が重くのしかかり、閉店を決意するしかなかった。
資産のない私に選択肢はない。
ジィリィーリィ、ジィリィーリィ。
電話のベルが鳴った。
電話の声は常連客のヤシロさんだった。
フリーライターのヤシロさんは病気がちな母親を看病しながら自宅で仕事をしている。
「マスター、大丈夫。最近、行けなくてゴメンね。お店の閉店が多いから心配しちゃってね。少ししか飲めなくて申し訳ないけど、今から飲みに行きますよ」
「有難う御座います。ヤシロさん。お母様は大丈夫ですか」
「うん。もう歳でね。ウィルスが心配でさ」
「ヤシロさん、こんな時期だからこそ、御自身の周りの人を第一に考えないと。お母様への感染リスクは避けないとダメですよ。不要不急の外出は控えないと」
「ありがとう。はぁはっはっ。マスター、生真面目だね。お店の人が、そんなこと言っちゃってさ。何で、お店開けてんのよ」
「はぁはっはっ、そうですね。スミマセン」
「うん。ありがとう。梅雨過ぎぐらいにでも落ち着いたら必ず飲みに行くから」
「あっ、はぃ」
私はバーを閉店する事を言い出せなかった。
チャリーン。
電話を切ると同時にバーの扉が開いた。
入口に立っていたのはミホさんだった。
「ミホさん、どうしたの」
薄手のスプリングコートを着た小枝のように細いミホさんは心を何処かに置き忘れたかのように立っていた。だが、私が声をかけると笑顔を造って明るく振る舞い答えた。
「はぁはっはっ。マスター何よ。『どうしたの』じゃないでしょ。いらっしゃいでしょ」
「あぁ、そうでした。いらっしゃいませ。どうぞ」
ミホさんをカウンター席に案内する。
「マスターの顔、見たくなっちゃてさ。一杯ちょうだい」
「いつものでイイの。ミホ・スペシャル・カクテルね」
「うん。御願いします」
私はシェーカーにエメラルドグリーンのリキュールを注ぎシェークした。
カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。
静かな店内にシェーキングの音が
「うーん。キタッー。美味しぃ」
店内にジョン・レノンが唄う、スタンドバイミーが流れる。
"When the night has come and the land is dark
And the moon is the only light we'll see
No I won't be afraid, no I won't be afraid
Just as long as you stand, stand by me
So darlin', darlin', stand by me, oh stand by me
Oh stand by me, stand by me "
「アタシ、この歌の歌詞が好きなんだよね。恐れはしないさ、君がそばにいてくれればって歌よね」
いつもの明るいミホさんは他愛もない世間話をして自分の小指を見詰めた。ミホさんの左の小指には、いつもの指輪がなかった。思い出すように語りだすミホさん。
「マスター。アタシ、彼と別れちゃった」
「えっ、あのラッパーの彼ですか」
「うん。明日の週刊誌で若いモデルの女の子との交際宣言がスクープされるらしいよ」
「そんなぁ。だって、今でこそ有名ラッパーになったけど、元々は下積み時代を支えたミホさんの御蔭じゃないですか」
「違うの。イイのよ。私が頑固なだけだから。生真面目過ぎたのかな」
それ以上は何も語らずに彼女は席を立った。
「マスター、ありがとう。マスターに会えてよかった。こんな時期だから、お店やっているか心配だったの。私も不要不急で用事もないのに出歩いてて怒られちゃうね。また、来月に来るから」
「あっ。はい。あのー。ミホさんっ。実は来月、お店、開けられないかも」
「えぇーっ。お店、閉めちゃうのぉ」
「だけど、ミホさん。何とか出来るとこまでやってみます。もしもの事があってもミホさんが必要としている時には屋台を引いてでも駈けつけますから。ミホ・スペシャル・カクテル、いつでも作るよ」
「マスター、」
涙目になってしまった彼女に私は何の根拠もなかったが言った。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのよ。何もかもダメになっちゃうじゃないの」
「大丈夫。絶対に確かな事はね。ミホさん、あなたは笑顔で幸せになるべき人なんだよ。どんなに社会が変わっても私達は変わらないから。私は、いつまでもミホさんのバーテンダーだから。いつでも傍に居るから。ミホさん、願いは絶対に叶うんだよ」
ゆるぎない確信をもって私は答えた。
「きっとよ。きっと、また会えるよね。マスター、アタシにまた、カクテル作ってね。お願い」
少し笑顔に戻った彼女がバーの扉を開くと桜吹雪が強い風と共に舞い込んできた。
季節が変わろうとしている。
私に出来る事は、今できる日常を守る事。バーに集まる人達が私の資産だから。
私はバーの扉を閉めると、明日の為に開店準備を始めた。
これは即興で作ったフィクションのミニ小説です。登場人物や設定は事実とは一切関係ありません。 (了)