第1話

文字数 25,315文字

親愛なるジョーンズ様
 この度、私が開発した脳の萎縮改善治療方法を慶んで紹介致します。これは貴社の得意領域である神経系や循環器の分野にも大きく貢献できる治療であると信じております。
 つきましては紹介の場として、小生の研究施設にお招きしたいと考えております。ご興味があれば、下記にご一報ください。秘密保持契約等の詳細を含めて返信致します。
 なお、誠に勝手ではございますが、貴社以外にも招待を予定しており、入札形式でビジネスを進めさせて頂く旨、ご理解の程よろしくお願い申し上げます。
 貴殿をはじめ、皆様にお目にかかるのを楽しみにしております。
博士 フランクリン・ワイルド
連絡先 XXXXXXX@YYYY.ZZZ


 トーマス・ジョーンズは昼過ぎに空港からタクシーで船着き場に到着すると、目印となるムカデのようなデザインの旗はすぐに見つかり、ワイルド博士所有のクルーザーに乗り込んだ。よく日に焼けた肌に潮に当たった頬の皺の数々は少なくとも自分よりは年長だと思える操縦士のマリオに、どのくらいの時間で目指す島に着けるかと訊くと二時間くらいだと言う。ならば早速出航してくれと頼むと、吃音気味にもう一人の乗船客を待っていると言う。同業他社か、と思っていると現れたのは予想とまるで違った、日傘に薄手の白い長袖、その下にはハイビスカスのような花柄の袖のない夏物ワンピース、長い黒髪で、スリムなアジア系の若い女性だった。大きな帽子に大きめのサングラスで、小さめのハンドバッグ、およそこれから向かう入札の場には似つかわしくない。でも見た目と違って同業他社の可能性もゼロではない。マリオは小さく頷き、女性の名前も訊かないので顔見知りなのだろう、互いに言葉も交わさず、彼女は慣れた様子で乗り込んで来た。トーマスは笑顔で自己紹介をしたが、女性はジュリアとだけ名乗り、特に笑顔を見せるのでもなく、それ以上は話そうともしない。英語が苦手なのか、客室に入って行く。トーマスは追いかけてまで話すことはしなかった。
 黙ったまま潮風にあたり、晴れた海を眺めていると、日々の仕事から解放されてバカンスの気分になる。暫くしてマリオにワイルド博士について訊くと、こちらも吃音だからか、無愛想で、よく知らないと答えた。では自分のような訪問客はなかったかと訊くと、昨日一人連れて行ったと答え、以降また沈黙だった。やはり同業他社は来ているのか。

 テレビや雑誌で宣伝している製薬会社だけが薬を作っている訳ではない。一般用医薬品とは違い、処方箋を要するものや、一般人が目に触れない、医療現場でしか使われない医療用医薬品の会社は、それらを媒体に使う必要がない。トーマスがいるガーボポルテ製薬もその一つだ。
 薬の候補物質が千あったとしてモノになるのは一つだと言われていたが、今や二万の候補が必要だと言う業界専門家もいる。候補を探すこと自体も大変だが、各種試験をする過程で効能が確認できなかったり、副作用があったりして、候補から脱落していくからだ。いかに薬の新製品が出来るのが困難か分かる。もし有力な候補の提供があるのなら、そしてそれを金で買えるのなら、研究費も時間も、さらに人員も大幅に削減できる。それは大学の研究者からもあるだろうし、今回のように最終的な薬自体は作らないにしても、候補の探索に特化したベンチャー企業もある。特に動物実験の第Ⅰ相、ある程度の被験者を要する第Ⅱ相、さらに被験者を増やした第Ⅲ相の試験、最終的に各国の審査を通過して販売に至る時間を考えると、今回は少なくとも第Ⅰ相をクリアしていると想像されるので、現状のラインアップと販売チャネルに乗せやすいだろうと考える、だから入札に参加しない手はない。

船酔いをしたかなと思っていると、岩の塊が海から頭を出す。近付くと島だと分かる、大きくはない。突出した断崖絶壁が周囲をぐるりと回り、これから入札が行われる、競争の場であり、記念にデジカメに収める。白い鳥が何羽か飛んでいる。来た方角から見て島の裏側に、崖の手前の僅かな砂場に桟橋が伸びていた。
 ワイルド博士は一時期、臓器移植の分野では論文数も手術実績数もかなりあり、遠隔操作手術ロボットの開発にも携わっていたが、十年くらい前の嫌疑不十分になった婦女暴行騒動から学会への発表や出席もほとんどなくなり、人間嫌いになって外部との連絡を絶ったという噂だ、という程度がトーマスの予備知識だったが、この島はそれを裏付けるかのように外部から誰も寄せ付けない様相だ。
 桟橋には二人が立っていた、中肉中背の若者と、体格の割には少し頭部が小さいような大男。ジュリアの上陸を先に促し、彼女は若者に手を引かれて桟橋に上ると、白いブレスレットを受け取って嵌めて、先に行くわねと残して、振り向きもせずに断崖に掘られたような洞窟の中に消えて行った。
 若者はトーマスの名前を確認すると、アルバートだと名乗り、害虫除けになるプラスチック製の、ジュリアに渡したのと同じブレスレットを嵌めるように促した。見ると、この若者も大男もしている。薬剤の匂いがするかと鼻に近づけると、若者が無臭だと教えてくれる。確かに匂いはしないようだ。
 マリオは食料が入った箱を全て下し、役目を終えると挨拶もせずに帰港の準備を始めていた。若者は足早にトーマスを洞窟に先導する。振り返ると大男は黙って食料の箱を担いで運び始めている。
洞窟の入口から奥に白い出口がすぐ見える。白いだけで出口の先の景色はまだ見えないが、短いトンネルの出口に差し掛かると、目が慣れてきて植民地様式の建物が見えてきた。空から降り注ぐ陽に数匹の羽虫が反射し、別世界か、秘境の宮殿のようだ。その横に窓がなく、植民地様式とはそぐわない、コンクリートの外壁の建物がある。周囲は今しがたのトンネルを除くと隙間なく絶壁の内側で、外界からそれらの建物は完全に孤立している。とても海からは想像できず、上空からしか姿を見せないだろう。
 トーマスは立ち止まってしまったことを若者に話しかけられるまで気が付かなかった。
「凄い場所だな」
「大昔に火山で隆起して出来た地形のようです。お気に召さないかもしれませんが、博士は大層気に入っているようです」
「ああ、そうだろうな。私も気に入ったよ」
 声を絞り出し、それで喉が乾いているのに気付いた。
「中に入ったら先ず何か飲みたい」
 写真を撮ろうとすると、博士の言いつけで撮影は一切禁止だと言われ、断念する。
 玄関を入ると議事堂にあるような幅広い階段が、大理石のフロアの、広い玄関ホールを気付かせないほどに構えている。すぐに二階に案内され、突き当りは薄暗いが両側に三部屋ずつくらいありそうだ、その廊下の右側の中ほどの部屋をあてがわれた。
「お飲み物はそちらの冷蔵庫にミネラルウォーター、ジュースやビール、若干のアルコールを用意しておりますので、お好きなだけどうぞ。通信用のパスワードは机の上にメモを置いてあります。夕食は二時間後ですので、それまでおくつろぎ下さい。バスタオルなどが足りない場合は、先ほど一緒にいたジムにそちらのお電話から仰せ下さい、すぐにお持ちします」
 大男はジムか。
「それから誠に申し訳ございませんが、夕食まではお部屋の扉は外から鍵をかけさせて頂きます。博士はお客様方に勝手に屋敷内を歩かれるのを嫌がりますので。何かございましたら机の上の電話でお呼び下さい。では夕食の準備をしますので失礼いたします、後ほど伺います」
 奥を覗くとモダンなシャワールームもあり、ケーブルテレビまであり、招待するだけあって必要なものは揃っている。炭酸水を半分飲み、孤島でさらに一室に暫く閉じ込められてしまったと感じる。

 業務メールを処理し、まさに二時間後、部屋の扉を若者にノックされ、彼に案内されて玄関ホールの隣のダイニングに連れて行かれた。天井からは大きなシャンデリアが吊り下がり、十数人は座れるテーブルの中央の席に、持ち手の付いた銀の半円ボウル、大小のクローシュが五つ六つ、一組分だけ用意されている。
「私だけなのか」
「左様でございます」
「博士は」
「実験の最中です」
「マリオによると昨日先客を連れて来た、と言っていたが」
「そのお客様は既に夕食を済まされて、お部屋でお休みです」
「一緒に来たジュリアは」
「彼女は後で食事するようです」
「そうか、明日の朝食は出来れば他の人と一緒にさせてくれないかな」
「承知致しました」
 若者は、洒落たワインを出したいが博士を始め誰もワインを飲まないので、赤と白いずれも年代や品種、産地は定かではないテーブルワインを用意したと指差した。自分は博士の手伝いに戻るので給仕は出来ない、できる範囲で用意したが食材に限りがあるので、口に合うかは分からない、冷めないうちにクローシュを順番に開けて楽しんで欲しいと申し残してダイニングから出て行った。
 手前から開けるとオードブルから始まり、スープこそないが、魚料理も肉料理もあり、これだけ準備するのも大変だろう。味もなかなかだ。デザートにプリンと、デカフェまであった。

 食後は部屋にまた閉じ込められる。考えてみた。博士は招いていながら姿を見せない。ご丁寧に部屋の外側から鍵までかけて、客人を部屋に閉じ込める。他の招待客とも接触させないのだろうか、それでわざと食事時間をずらしたのだろうか。一緒にいた女性も姿を見せない、あの女性は何者だろうか。考えても、少なくとも今夜のうちには答にはたどり着けない、と分かっているのだが。
窓の外は、完全に闇だ。月があれば崖の内側から屋敷までの庭も見えるだろうが、あいにく曇りのようで何も見えない。同じ並びの部屋から光が漏れていても良さそうだが、それもない。先客は廊下の反対側だろうか、物音はしない。崖の向こうから静かに波の音だけが聞こえる。生後間もない子も気になり、妻へメールして眠ることにする。

 夢を見た、鍵のかかった扉の向こうに女がいる、この島に来たことを自分だけが話せば扉を開けてもらえる、しかし別の部屋にいる誰かも話せば水を一杯飲めるだけで扉は開かない、話さなければ扉も開かないし水も飲めない。別の部屋の誰かも同じ条件だ。「囚人のジレンマ」だ。汗ばむ。
 
 意に反して朝食も一人だった。同業者は本人の希望でまたも先に済ませたらしい。若者によると午前十一時から博士の研究の発表をすると言う。それまで部屋に閉じ籠りきりでは飽きるし、気分転換に島を散策してみたいと希望すると、快く受け入れて、新しいブレスレットを持って来た。その間に部屋の清掃などをするので、彼等には好都合らしい。
 ブレスレットを嵌め、外に出、昨日は気付かなかったが建物の前にいくつもの太陽光パネルが置かれている。なるほど、これが電力源か。振り返って窓を見るがどれも人気を感じない。裏側に回っても良いが、先ずは気分転換だと歩き出し、短いトンネルを通って昨日の桟橋に来る。船はない。ということはマリオか誰かが来ないと本土に戻れないということだ。彼はどのくらいの頻度で来島するのか、晩餐に出たステーキも今朝のソーセージや野菜類も運んで来ているはずだ。桟橋から少し離れた場所にも太陽光パネルらしきが浮かんでいる。その上を昨日見た鳥が何羽か。
 引き返して、今度は隙間なくそびえ立つ内壁に沿って歩いてみる。背よりも高い木々や腰まで伸びた植込みは、誰かが手入れをしているのだろうか、どれも植栽はそれなりに整っている、あのジムがしているのだろうか。おや、食事に出た、小さなキノコが生えている。屋敷に背を向けて誰にも見られないようにポケットからデジカメを取り出し、こっそり撮る。お、クルーザーの旗の図柄のような、見たことのない色のムカデのようだ。昆虫学者の知り合いができたらみせてやろうとパチリ。ブレスレットをした手首を少し近づけると逃げて行った。成程、効果はあるな。大きくはないが菜園スペースもあり、少しは自給をしているのが分かる。これを世話するのもジムだろうか。崖の上に通じる道は見当たらない。その様子もこっそり。
 窓のない建物は五階建てくらいの高さだろうか、音も聞こえず、これこそ研究施設の、無機質な印象しか与えない。昨日は気付かなかったが、少し離れた場所にバラック小屋があり、煙突が少し見えるので焼却炉だろう。これも電力源として利用しているのか。煙が少し見える気がする。
 あ、雨だ。急いで屋敷に戻り、誰にも会わずに部屋に戻ると、タオルも替えられ、ベッドメイキングもされているが、すぐに外側から扉の鍵をかける音がして閉じ込められた。扉越しに若者の声で、
「濡れた服はバスルームの洗濯カゴに入れておいて下さい。洗っておきますから」
と言われ、分かったと返事する。開けろと叫んでも無駄だろうから、シャワーを浴びてから溜まっていたメールをチェックする。

この島に来たと白状する、部屋から出るためには白状するしかない。コップ一杯の水が出される、別の部屋の誰かも喋ったのだ。一気に飲み干す。部屋に閉じ込められままだ。

メールのチェックをしているうちに少し眠ってしまったようだ、予定の時間になったとノックされて気付く。若者の先導で階段を下り玄関ホールを挟んでダイニングと反対側にあるリビングに通され、既にサイドテーブル付きの椅子が壁のスクリーンに向かって二つ並べられている。彼に勧められて手前の席に座り、博士を呼んで来ると言って部屋から一旦出て行った。その間に見回すと、座席の背後の大きな窓越しに外が見えるが、雨と断崖の内壁以外は見えない。本人が写った写真などはなく、他に調度物もない。
間もなく若者は戻り、博士は昨日到着した製薬会社と、既に契約済みの別の新薬開発について打合せがまだかかるので、先に昼食を取ってほしい、との伝言だった。さらに午後、もう一社が来島して入札に参加するので、全員が集まったところで夕食前には発表するらしい。
ジュリアは朝食が遅かったので昼は抜き、トーマスはまた一人で食事を済ますことになった。ここに来て、三食とも一人で味気ない。とはいえ、クローシュを開けるのはささやかな愉しみで、スパゲッティ・カルボナーラは絶品だった。
午前中に島を見たので部屋で大人しく過ごすことに決めた、どうせ鍵は掛けられているし。バスルームの洗濯カゴは空になっている。椅子を窓際に動かし、激しくなった雨の中、次に来る者が現れるのを眺めることにした。

いつ終わるか分からない、繰り返しのゲームにしっぺ返し戦略がある。初手から相手に協調し、以後は相手の一回前と同じ選択を続け、相手が裏切らない限り自分からは裏切らず、相手が裏切ったら自分も裏切る。初手で協調した訳ではないが、水が出されたので相手も同じで、結局協調と同じだ。例えば効能が同じ薬AとBが別々の会社から売り出され、無益な価格競争を避けるためにしっぺ返し戦略で協調を続けるのは分かるが、今試されているのは扉が開いて部屋の外に出たらそれっきりだから、繰り返しのゲームとは違う。
今度は黙っていようかとも考えるが、白状する以外に扉は開かないので、黙っている選択はない。待てよ、一旦黙って、仮に別の誰かが外に出たら次は堂々と白状すれば良いのではないか。いや、その次はないかもしれない。

またノックがして我に返った。若者が看守に思えてくる。ホールに下りる時に今度こそ他の客に会えるのだろうな、と念を押すと、既にお二人ともお待ちだと言う。少しは生きた心地になる。
が、ちょっと違った。昼前に見た片方の椅子のサイドテーブルの上にカメラ付きモニターが置かれ、東洋人風の男が映っている。トーマスに気付くと、パームファルマックス製薬の立花サイチと名乗り、トーマスも名前とガーボポルテ製薬だと名乗った。パームファルマックスと言えば、製薬会社というよりは買収を重ねるバイオ関連の投資会社の側面が強く、入札に参加するには確かに相応しい。しかし何故この部屋にいず、モニターでの参加なのかと本人に訊くと、以前もそうだったが、博士は入札参加者同士の接触や情報交換を嫌い、こうなったのだと話してくれた。それの良し悪しは別にして、やはりそうだったか、若者もそれなら事情を初めから話してくれれば良かったのに。
どこかで別の男の声が聞こえてきた、何を言っているのかは分からない。午前中に来た時には気付かなかったが、壁に扉があるので、向こうに別の部屋があるのだろう、そこからみたいだ。若者がこちら側からもうすぐ始めますと返答したので急かすように言っていたのだろう、トーマスの前日に到着し、午前中は博士と別件を打ち合わせていたという同業者だろうか。正体を当然確かめたいが、今しがた聴いたサイチの話を考えて遠慮してしまう。ここは博士の研究を知るのが最優先だ。
博士は実験で手が離せないので、若者が代りに発表するよう命じられたと前置きをしてから始まった。製薬会社を相手に案件を売り込もうというのだから、そのデータ取りの実験には助手が必要になるだろう、それが彼なのだろうか。タイトルにF31A6だけとあり、それが博士の開発名なのだろう。
先ず脳の構造イラストの説明で、側面から見た大脳、小脳、延髄、次に上方からのだ。さらに健康体のMRI脳断面、萎縮の場合、ここではアルツハイマー病を例に、治療後が映し出され、確かに特有の萎縮が改善され、空隙が減少している。同じ事例を他にも紹介し、治療の有効性を強調した。
治療方法の概要は鼠径部からカテーテルと呼ばれる細い管を使って動脈を通る脳血管への薬剤、脊髄まで循環して脳のクッションになっている髄液に注入するため腰椎への別の薬剤、脳底部にある腫瘍を鼻孔から内視鏡を使って切除する場合と同様に鼻孔からもさらに別の薬剤を投与、これらにより脳自体の内側から、外側から、脳底部からも、つまり外科手術で開頭をすることなく三つの薬剤注入アプローチを施している。これだけでなく、加えて生殖ホルモンの皮下注入が脳の活性化に役立っているらしい。これは学術誌か何かで報告されていた。考えられる非外科的アプローチ全てをしているわけだ。
隣の部屋から先ほどの声で、
「投与している薬剤は新規開発なのか、それとも既に開発されたものを組み合わせているのか」
 若者が応じる、
「生殖ホルモン以外は全て新規開発物質です」
「被験者の同意はどうしたのか」
「法的なことや倫理上の観点からのご質問ですね。実は被験者は皆R国の死刑囚です。従いまして、ご懸念は問題ありません」
 R国が死刑囚を提供しているのは、トーマスも知っている。倫理上問題があるが、提供を受けている製薬会社があるとの噂も耳にしている。
「R国の死刑囚には都合よく脳萎縮が多いのか」
「それは分かりません。被験者の手配は博士自身がされています」
 モニターのサイチが、
「萎縮が改善された被験者の知能レベルはどうなったのか、被験者はまだ研究所にいるのか」
「知能レベルについてはこちらのテスト結果をご覧ください」
 一連の施術前と後の知能テストが示された。どれも若干向上している。ただトーマスは知能テストの判定には疑問を持っていて、事実ノーベル賞受賞者の中には際立った判定結果を示していない者もいると聞いたことがある。
「被験者は皆R国に送還されていて、こちらには誰も残っていません」
「なぜ十分な予後を検証しないまま送還しているのか」
「検証していないわけでありませんが、博士とR国との取決めで、リカバリー後は送還することになっています。ただR国からの連絡では、被験者は全員が社会復帰しているそうです。死刑囚が社会復帰するというのも変な話ですが、更生はしているそうです」
 また説明に戻った。
「今まで薬剤について述べてきましたが、博士は実はもうひと工夫を加えて、先ほどの結果を得ています」
 次に映されたのは電気椅子の死刑で被るようなヘルメットだった、これによる刺激が今までの結果を得るためには必要だったらしい。ここではこのヘルメットを使わなかった場合の結果は割愛すると付け加えられた。
かれこれ三時間近く質疑応答も含めて発表は続いた。入札に関わるので真剣に聴き、さすがに疲れた。若者は、皆さんは一旦部屋に戻って必要事項をまとめて欲しい、今日見せた資料はファイルで各自にすぐに送るが、コピーは出来ず、入札後には閲覧不可になるとも言った。入札は明朝十時、昼食のあたりで結果を伝えられるだろうとも付け加えた。促されるようにトーマスは自室に戻り、例によって施錠された。暫くしてから思い返すと、隣室の人物と顔を合わすチャンスだったが、集中して疲れて全く思い付かなかった。
夕食の時間も忘れて会社への報告をまとめ、扉のノックで気付く。階下のダイニングに行くと、意外にも既に老人が一人席に着いていた。
「初めまして。トーマス・ジョーンズと言います、ガーボポルテ製薬会社から来ました」
「チャールス・マルクだ。スパークス製薬だ」
 彼が年配なので、てっきりワイルド博士かとトーマスは思った。
「アルバートの発表の時に奥の部屋にいらした方ですね」
「いや、あれは弟のテッドだ」
「えっ」
「ああ、驚くのも無理もない。きっと君は私を競合相手だと思ったのだろう。でも正確には違う。今回の入札に参加する、キミの競合相手は弟で、部屋に籠ってレポートをまとめている。夕食はもう少し後になるだろうから私だけ先に済ますことにした」
漸く島の住人以外に会えたと思ったら、予想していた競合相手とは微妙に違う。
「ではチャールスさんは何故こちらに」
「私は参加しないとはいえ、弟と同じスパークス製薬で、既にワイルド博士と締結した開発案件の担当でね、弟がこちらに来ると知って便乗することにしたのさ。博士と良い機会なので色々と打合せをしようと思ってね。だから午前中ずっと博士と打合せをしていたんだ、言わば今回のような案件の経験者だな」
「そうでしたか」
 サイチの言う通りなら、こうして誰かに会えるのは相手が当事者ではないからか。
「で、どうだった、アルバートの発表内容は。おっと、こんな事は訊いてはいけないな、私はこの件で秘密保持契約書にサインしていない、とはいえ、弟と同じ会社なら秘密保持契約の範疇だろうし、キミはキミで私が弟にキミの感想を伝えるかもしれないと勘繰るだろうし」
「そうですね、入札のことを考えると私の感想は述べない方が良さそうですね」
「では楽しく食事をしよう」
 表情からしてトーマスと同様にクローシュを開けるのは愉しみみたいだ。
「ところでワイルド博士はどんな感じの人ですか」
 クローシュを開ける手を止め、顔を上げてトーマスを見、
「ああ、そうか、キミは博士に会っていないのか。私のような爺だよ」
「チャールスさんは以前の案件の契約を結ぶ時、こちらの島にいらしたのですか」
「いや、その時は博士が我が社に来たので、ここに来たのは初めてだ」
 待てよ、マリオは自分が到着した昨日、その前日に一人ここに連れて来たと言ったはずだぞ。
「弟さんとは一昨日一緒に着いたのですか」
「そうだよ。お、このチーズは美味いな」
 あれ、マリオの話と違う。
「博士は来訪者には部屋に閉じ籠っていてほしいようですし、出歩くにしてもこの島は決して大きいわけでもないので、飽きてきませんか」
「昨日は博士が研究所や島内をあれこれと案内してくれたんだ。キミの言うように島は大きくないし、研究所も決して大きくはないが、私には研究スペースは興味深く楽しめた」
「そうですか、私も是非案内して欲しいです」
「博士が忙しいようなら、アルバートに頼めば良い」
「ご助言ありがとうございます。食後に頼んでみます。ところで博士はなぜ我々を部屋に閉じ込めたりするのでしょうか」
 サイチから聞いていたが裏を取ってみたくなった。
「さあ、普段はアルバートやジムしかいない場所に、それ以外の人がいるのに慣れていないのかな、気を遣ったり、それとも研究の邪魔になるのかな」
「チャールスさんは閉じ込められて嫌ではないのですか」
「あまり良い気持ちはしないが、本社との連絡で忙しく、何かあればアルバートかジムに頼めば欲しいものをすぐに用意してくれるので、ある意味、集中して仕事をこなすには最高の環境かもしれない。ケーブルテレビも楽しめるし。料理も美味いし」
「鍵まで掛けて来訪者を閉じ込めるなんて、どんな理由であれ、度が過ぎていませんか。それなら我々を招いて発表するのではなく、チャールスさんの前回のように、別の方法でも良いのではないでしょうか。私は少し無礼だと思います。ここには博士とアルバートとジムの三人だけなのですか」
「そのようだったな」
「あ、そうだ、他にジュリアがいましたよね」
「誰だい」
「ジュリアですよ、昨日クルーザーで来る時に私と一緒に。アジア系の女性ですよ」
「さあ、昨日案内された限りでは見かけなかった。その女性とキミは何時頃ここに着いたのだ」
「午後でしたね、四時少し前でしょうか」
「その頃は建物内の案内は済んで、部屋にいたから会わなかったのかもな。私がその女性に会っていたら、時間から考えてキミにも会っていたかもな」
「言われてみればそうですね。部屋に戻っていたなら、会っていなくて当然ですね」
「うむ、おお、鴨肉が美味い。パリで食べて以来だな、こんな美味いのは。アルバートは博士の助手である以上に腕の良いシェフだな。低能なジムには作れないな」
「そうですね、美味しいですね。ニンジンやキノコにも肉汁が滲み込んで絶品ですね。
それでジムが低能だとよく断言できますね。以前から彼を知っているのですか」
「今回初めてここに来たが、彼を見た時から、あの顔を見れば、そんな感じだ」
「まあ、利口そうには見えませんね。ところでアルバートやジムはここに来る前は何をしていたのですか」
「さあ、知らないな、本人達に訊いてみたらどうか」
 もっと根掘り葉掘り、パームファルマックス製薬の立花サイチを見たかとか色々訊いてみたかったが、彼はあまり喋りたくなさそうで、話題は途切れた。翌朝は弟を残して先に早く出発すると言って、デザートも食べずに部屋に戻って行った。部屋はどこかと訊けば良かったか。皿を下げに来た若者にデカフェを飲みながらそれを訊くと、意外にも廊下を挟んだ向かいだと言われる。序でに明朝の研究所の案内を希望すると自分が朝食後にすると快く引き受けてくれた。
 部屋に戻るとベッドの上に洗濯カゴに入れた衣服が綺麗に畳まれている。
 マリオは一人連れて来たと言っていたが、チャールスは二人で一緒に来たと言う。マリオの言い間違いで、一組という意味かもしれない。
 まあ、明日にしよう、すべき事が目の前にある、まとめの続きをし、入札額の算出に移った。脳の萎縮を呈する対象患者数は概ね予想していたので、来る前に見込んでいた市場規模を再確認、過去の事例から開発費ほかの経費を差し引き、現在価値を再計算、さらに利益額を出して入札上限額を確認する。今回は薬剤だけでなく、あの電気椅子のヘルメットのような機器があり、もう少しスタイル良く開発する必要があるので、経費はいつもより多めに含んでおいた方がよいだろう。この部分を再考して上限額を修正して、利益を最大化するために入札額を決めよう。落札できなかった場合の既存製品への影響も加味し、一方で闇雲に落札ばかりに目が行くと、市場価値よりも高い額で落札してしまう勝者の呪いになってしまう。
 声が聞こえたような気がする、女性の低い悶え声のような。PCから指を離し、耳を澄ます。やはり女性の声だ。ジュリアだろうか、方角から向かいのチャールスの部屋ではなさそうだが、同じ階なのか違う階なのか見当が付かない。他人の営みに耳を聳てるほど暇でもないし興奮もしない。

今度は黙っていようかと考える。次の一手は自分の都合で決めるのではなく、相手の出方を考慮しないといけない。販売計画も競合相手の動きを見込んでおかないと頓挫してしまう。
やはり部屋から出るためにもう一度白状すると、またコップ一杯だ。別の誰かも同じ戦略だ。

 どのくらい眠っていたのだろうか。冷蔵庫からミネラルウォーターを取って一気に飲み干す。
 ジュリアだろうか。島に到着以来、見ていない。ジュリアでなければ誰だろう。そして相手は誰だろうか。今まで会ってきたのは、アルバート、ジム、モニター越しにサイチ、それにチャールス、会っていないのは気配を感じたテッド、チャールスが会っていたと言うが気配すらまだ感じないワイルド博士、正しければこの誰かだ。
 そもそも博士は招待しておきながら姿を一度も見せないのはなぜか。実は博士はチャールスではないか、テッドは始めからいず、隣の声は博士だったのではないか。

扉の向こうからジュリアが呼んでいるが、部屋から出られない。白状する前にビールが出された。白状しないなら何も出ないのではないか。誰かが部屋から出て行ったらビールが出されるのか。今までの誰かが出て行ったからなのか、いや、部屋に閉じ込められていたのは二人ではなく、三人以上で、自分が白状しなかったので誰かが出て行ったのか。

 朝食を知らせる扉のノックで目が覚めた。階下に降りると、若者に敢えて訊くまでもなく、予想通りまた一人の朝食だった。
「昨夜ここで会ったチャールスは」
「今朝早くお帰りになりました」
「ジュリアは」
「えっ」
「私と一緒に来たジュリアだよ」
「ジョーンズ様はお一人でいらっしゃいましたよね」
「いや、マリオの操縦するクルーザーで一緒に乗って来た女性だよ、長い黒髪のアジア系の」
「いいえ、お一人でしたよ」
「そんな筈はないが」
 どうなっているんだ。
「今、ここには誰がいるんだ」
 指を折りながら、
「我々以外には、博士、ジム、チャールス様の弟のテッド様、それに立花様ですから、合計で六名です。どうかされましたか」
「博士は何処にいるんだ」
「もう実験を始めておりますので、後ほど案内の時に挨拶されるかと思います」
「他の三名は」
「テッド様と立花様は夫々のお部屋で朝食を召し上がっていらっしゃいます。ジムはジョーンズ様のお部屋を片付けております」
「その二人はなぜ自分達の部屋で食事しているのだ。ここで私と一緒に食べてもいいんじゃないのか」
「お二人とも夫々のご希望でお部屋でお食事をされています。ご存知のように、スパークス製薬もパームファルマックス製薬も本社との時差がジョーンズ様のガーボポルテ製薬本社よりもあるので、お打合せの合間にお食事されるのではないでしょうか、入札期限の時間も迫っておりますし。ジョーンズ様もこの後の研究スペースの案内の前に入札を済まされた方が宜しいかもしれません、十時に間に合わないと大変ですし」
 博士の意志だとは言わないようだ。

食後に一旦部屋に戻り、いくつかの事項を確認して、時間はまだあるが若者が勧めるように入札時間に部屋に戻っている保証はないので、期限時間前に入札額を送信、秘かに撮った写真を見返しながら若者のノックを待っていると間もなく音がした。昨日、庭を歩いて建物の外側を見たが、見落としている物もあるかもしれないし、良い機会なので色々と訊きたい。若者に島内から案内をして欲しいと頼み、承知されると新たにまたブレスレットを用意されて嵌める。どんな害虫がいるのか、ムカデかと訊くと、主にムカデだと頷き、刺されると痒みや痺れが暫く続くと博士は言っているらしい。アホウ鳥みたいのが糞を落とし、そこに植物の種と一緒に昆虫の卵も混じっているらしい。
 昨日と同じように船着き場に続くトンネルに入り、
「アルバート君はこちらの島での生活は長いのか」
「はい、五年くらいでしょうか」
「元から博士を知っていたのか」
「博士は幾つかの大学や病院で臓器移植を中心に研究や手術をされていて、私は肝臓移植の患者でした。手術は十年ちょっと前でしたが、今に至るまで御覧のように健康で、感謝の気持ちからこちらに来ています。大学の専攻が生物学であったこともあり、博士の諸々のお手伝いをしております」
「ああ、だから昨日の発表を博士の代理として務めることが出来たんだね、専門的な質問に答えるのも手際が良かった」
「ありがとうございます」
「五年間ずっと島で暮らしているのか」
「ほぼそうですね。たまに博士の使いで島を離れて、新しい装置の購入とかしますが、それ以外は」
「世間とかけ離れた生活で若者には物足りないのではないか」
「健康を取り戻し、きれいな空気を吸い、博士に感謝しながら多少なりともお役に立って恩返しが出来ていると思えるのですから、そのような考えはしません」
「僧侶みたいな境地だな。ジムは」
「彼も移植の患者でした」
「え、あんな大柄で」
「病気に体格は関係ありません」
「そりゃ、そうだな。彼もずっといるのか」
「私が来た時にはもういました。博士が何から何まで一人でするのは大変ですから、博士と一緒に来たのかもしれませんね。元々腕の良いシェフだったと聞いています。
 と喋っていたら本人がいました」
 本人はチャールスを迎えに来た時にマリオが置いていった食料の箱を持ち上げている。
「朝食の支度をしたりして、食料を運ぶのが今になったようですね。本人と話しますか」
「まだ重そうな箱が幾つかあるようだし、邪魔をしたら昼食の準備に差し障るだろうから止めておこう。それよりも海を見ていて思ったのだが、この付近に他に島はないんだよね」
「ありません。だから博士は集中して研究しようとこの島に移られたのでしょうね。見えるのは穏やかな海だけですから」
「博士の所有だというクルーザー以外に船はないのか」
「ありません」
「所有物は所有者の許にはないのか。マリオは毎日来るのか」
「だいたい週に一回くらいでしょうか。ジョーンズ様方がいらっしゃったので、この二三日は毎日ですが、皆様方が今回の件を終えてお帰りになると、また週に一回くらいのペースに戻ると思います」
「マリオを呼ぶことは出来るのか」
「連絡は取れます。ただ来るのは一日に一回です」
「マリオ以外が来ることはないのか」
「ありません。今まで遭難船や他の船が来たこともないです」
「もしマリオに何かあったらどうするんだ。会社経営の立場から考えると、リスクには常に備えておくべきだ」
「それは大丈夫です。もしマリオに連絡が付かない時には、自動的にマリオの仲間に連絡が行くので。でも今までそんなことはありませんでした。
 よろしければ引き返して、建物の周りを案内致します」
「そうだな、そうしよう」
短いトンネルが終わろうとする辺りで、
「ところで今までに女性がいたことはないのか」
「以前はメイドが一か月交替で来ていたそうですが、私が来てからは誰も」
「島を見た時にクルーザーから写真を撮って、さっき見返したらそこに今朝キミに訊いたジュリアが写っていたんだ。だから女性がいないと言うのも、私は一人で来たと言うのも事実と異なる」
 若者は顔をゆっくりとこちらに向け、付近の木の根元辺りを指さして、
「たぶんキノコのせいでしょう、火は十分に通してありますが、たまに幻覚を見たりする人がいるようです」
「そのキノコのせいだと言うのか。夜中に女性の悶え声が聞こえたが」
「人によっては幻聴もあるかもしれません。ただそのようにキノコに当たる方は少ないと思います。何年か前にメイドがそうなったそうですが、大事に至らず、翌日には直っていたそうです。熱はございますか」
「熱っぽくはない」
「ではあまり気にされなくてよろしいと思います」
「しかし写真にはジュリアが写っていた」
「では後ほど拝見しましょう、ジョーンズ様の思い違いだと分かりますよ」
 若者は動じた様子もなく、あまりに平然としているので、本当にキノコに当たったのだろうか。今度は菜園を指して、料理に使っていると説明したが、トーマスは今しがた聞いたジュリアの件が気になり、うわの空で聞いていた。
 小雨が降り出したので、焼却炉を遠目に建物に戻りながら手短な説明だった。
「よく使うのか」
「どうでしょうか、発電もする装置だそうですが、最近はあまり」
「廃棄物はあまり出ていないということか」
「食材など無駄にならないように使い切っておりますので。では研究スペースをご案内致します」
 昨日の発表を聴いたリビングの脇にある廊下を進む途中で、大きな厨房をちらりと覗くと、自分達が菜園などを見ている間に先に建物に戻ったジムが食事の準備を始めている。
廊下の奥にある金属製の扉を開ける、その上には監視カメラ。ここまでの未滅菌の、つまり不潔領域から清潔領域に入るので棚から白衣を渡され、袖を通す時、
「ジョーンズ様、手首の近くが少し赤くなっていませんか」
 見ると、ブレスレットをしていない方に確かに小さな腫れがある。痒くはない。若者はブレスレットの効果は一日くらいだと言う。昨日害虫に刺されたか、慣れないベッドのシーツの擦れか、刺されたにしろ、擦れたにしろ、覚えはない。
その後、マスクを付け、キャップを被り、一人々々エアーシャワー室に入り処置を受けると、さらに奥の扉が開いた。
 天井は高く明るく、大きなホールにいるようで、四隅には監視カメラがある。実験台が何台も並び、PCだけ置かれたのもあれば、電子顕微鏡や見たことのない装置、おそらく培養された肉の塊だろう、透明な液体の箱に入れられて置かれているものもある。若者によると、どちらかと言うと内蔵系の組織で、移植や施術時に起こる免疫反応を抑えるための研究用の脾臓や肝臓らしい。研究開発担当としては、これは何かとついつい訊いてしまい、その度に若者は概略を説明する。なるほど昨夜チャールスが興味深いと評したのは頷ける。どの実験台にも薬品棚がないので奥まで見渡せる。片方の壁には滅菌状態を維持するために長手袋が外側から内側に突き出した実験台や培養装置、もう片方には薬品・消耗品棚が並ぶ。消火設備や非常スイッチまであり、本格的な研究スペースだ。大学の研究室などよりはずっと充実していて、かつ整理されている。ガーボポルテ製薬の中央研究所のどの部屋よりもずっと広いだろう。さらに二つある扉の一つの部屋にはガラス窓から解析装置と合成装置が何台か見える。
 もう一つの扉はガラス窓から見ると手術室のようだ。背を向けた人物がいる。傍にはアームが何本か付いた装置がある、手術ロボットだろう。若者が博士だと教えてくれる。博士はこちらに気付いたようで、軽く片手を挙げるが、帽子を被りマスクをしているので目が少し見えるだけだ。背筋は伸びて、中肉中背だが、皺の感じからチャールスに似てなくもない。既に手術台には開胸か開腹かで赤い内臓部がちらりと見える。覆布のせいで見えるのは足裏だけだ。若者が博士に気遣い、行こうと促す。患者は誰なのだと訊くと、別のプロジェクト用にR国から取り寄せただと。え、さらに開発案件があるのか。
 引き返して培養組織を見ていると、別の実験台でPCを見ていた若者が寄って来て、三社の入札のうち二社が同額で、どうすべきか博士とこれから打ち合わせるから、先に部屋に戻って欲しい、昼食はジムに運ばせるので部屋で取って欲しいと言われる。マスクをしているが、目の表情から想定外の状況だと察しは付き、言うままにする。
 エアーシャワーを一人抜けて、白衣やマスク、キャップを使用済みのカゴに投げ入れて、廊下に出るとすぐにジムが昼食のトレイを持って厨房から出て来る。部屋に戻り、また鍵を掛けられた。今しがた見た研究室に少し興奮しているが、忘れないうちに机に置いたままのデジカメを手にする。ない、ジュリアが片隅に写っていた写真がない。ファイル名の通し番号が抜けている。島の外観や建物もない。そうだ、持参したパソコンにコピーした筈なので確認すると、あった。ジュリアの顔は写っていないが、長い髪が写っている、誰かがデジカメから消したのだ、誰だ。チャールスは帰ったはずだ。若者は自分と一緒だったから博士かジムの仕業だ、昨日散歩をしている時に部屋の清掃をしてあったので当然鍵は持っている、そもそも彼らが住む建物だ。どちらの仕業にせよ、どうやってジュリアの写真があるのを知ったのか。このブレスレットで盗聴していたのか。よくよく見ると裏側に小さな穴がある、これかもしれない。ではどちらかがずっと会話を聴いて、部屋に忍び込んで、いや、昨日と同じように清掃ついでにデジカメから写真を削除したのか。盗聴していたらテッドもサイチも考えられる。まさか姿を見ないジュリアか。それともまだ見ていない誰だろうか。何の為に。
 昼食のハンバーガーを一口食べ、まさかと思ってバンズを開けてキノコがないのを確認する。もう一口食べ、キノコの味がする。再度バンズを開けて、このソースではないだろうか。ハンバーガーは止めてポテトだけにし、メールを見ていると、博士からだ、若者が言っていた通りの結果のため、三時間以内に再度入札額を送れとある。どうしようかと考えてもすぐには名案が浮かばないだろうから、他のメールを開いていくと、業界の情報屋からメールだ。先着五名のみに提供とあり、ネタ元は当然いつも秘匿されているがインサイダーだと見当が付く、違法だが内容は確かだ、高額だが購入をクリックする。
 チャールス達のスパークス製薬がモーリス製薬と合併、発表は明後日らしい。ということは今以上に資金力が付く、しかしだからといって入札額を無暗に上げることは出来ない筈だ、往々にして両社それぞれの未着手のプロジェクトは合併作業が開始されると互いに凍結、ストップがかかる筈だ。となるとスパークス製薬の入札自体もストップになる可能性が出て来る。いや、テッドはまだ発表を知らないから予算に余裕があれば入札額を上げることが出来る。しかし落札しても本契約にストップがかかるだろう。ということは、いや、今は他社が入札額を上げるかもしれないことだけを考えよう。結局、状況が変わらないなら高い情報代になったか。
 待てよ、一社よりも二社が同額で高いからといって博士はさらに釣り上げるために再度入札にしたとなると、低い一社にも同様のメールを送るだろうか。この一社は再入札になることで、さらに高値を出すことになるだろうから、成程メールを三社全員に送る意味はある。
 いや、本当に三社のうち二社は同額なのか、再入札にすればさらに入札値を吊り上げることが出来る。こうすることは最初から仕組まれていたのではないのか。
 一緒に来たジュリアは行方知れず、しかも写真は消され、焼却炉は実は時々使っているのではないだろうか。
 手首が少し痒くなる。

扉の鍵の音がしたような気がする。気配がないのを暫くじっと確認する。恐る恐る扉を開ける。誰もいない。階段を下り、やはり誰もいないようだ。奥の研究ホールへの扉が少し開いている。白衣を着て入ってみる。照明が落とされて暗い室内には何台かのモニターが点いているので、ある程度は様子が分かる。見かけなかったいくつかの円形の水槽も照らされ、細く気泡が底から上がっている。近づいてみると、どの水槽にも金属枠に支えられて、肉の塊が中央部に浮かび、細いコードやチューブが付けられ、塊は蛇のとぐろのようで、自らの意思を持ったようにゆっくりと動いている。それ自体グロテスクな上に、動きが不気味さを増している。あ、脳だ。どれも脳だ。ホルマリン漬けは動かないが、どれも動いている。左脳と右脳との空隙が増えたり減ったりするものもあり、葉の裏の気孔の開閉のようだ。
 奥の手術室から薄明りが漏れ、恐る恐る扉を開けると手術台には誰もいないが、壁には数多くのステンレスの取っ手があり、近づくと自分の顔が歪んで映るのが気味悪い。引いてみると全裸の死体だ。他の取っ手を引くとどれもこれも死体で、男女、老人も若者も。アジア系も西欧系も。女性の体形はスリムや程よい肉付きのグラマラスも。チャールスじゃないか。まだ温かく、首に絞めた痕があるあ、ジュリアだ。やはり来ていたのだ。一昨日までは元気だったのに。博士の仕業か。
 隣室はMRIのようだ。他にも扉がある。案内された時には手術中だったので気付かなかった。開けると昆虫の飼育培養装置だ、主にムカデだ。傍にワインセラーが置かれている。見ると、ラベルにはロマネ・コンティとある、ワインに詳しくないトーマスにも高額な代物だと分かる、他にもワイン好きの上司のフィッツァーランドと飲んだモンラッシェもあるじゃないか。誰かがワインにかなり精通しているはずだ。また若者の虚言か。それにしても温度管理の都合でムカデの培養とワインの保管をすぎ傍に並べる設計になったのだろうが、気色悪い。
 手前のホールに戻り、窓ガラス越しに別の部屋を覗くと、患者の手術衣を着て、裸足でいる、プロジェクトの発表にあった電気椅子みたいのに座る二人が片目だけ開けて宙を見ている。イルカのような半球睡眠か。交感神経と副交感神経を同時に活性化させているのだろうか。こちらには気付いていないようだ。壁際にベビーベッドが二つ、夫々に赤ん坊がいるじゃないか。誰の子だ。ここで生まれたのだろうか、彼等のような実験対象から産まれた子供だろうか。共に静かに眠っているようだ。この赤ん坊も新たな実験対象なのだろうか、臓器を培養したり、初期細胞を利用したり。
 後退りして今度はモニターに目をやると、何台かは何かの信号を読んでいるようでグラフが横に動いている。一台だけ風景が映っていて、隅の方に「遺書」というフォルダがある。開いてみると、遺書ファイルとデータフォルダがある。前者を開くと見知らぬ老人が映し出され、ビデオが始まった。
「どこから始めようか、私がガンを患っていることから始めようか。私、フランクリン・ワイルドはガンだ。末期ステージで転移もある。その分野の専門ではないが、永くないのは自覚している」
 チャールスが博士かと疑ったが別人だった。
「私は臨床医であり、研究者でもあるので、自らに治療を試みることも考えられるが、私は死を恐れていない。それよりも私の思考が途切れてしまうことが残念でならない。私は臓器移植を専門とし、自他共に認めるほどの実績がある。多くは消化器系だが呼吸器系も対象としたことは論文を見て貰えば分かるだろう。しかし私には手を付けていない分野がある。顔面移植の症例は他の医師から報告されている。脳の試みはあるようだが、私が満足するレベルの発表はない。
 十年くらい前から脳を対象に関心を持っていたが、予想していた以上に困難を極めた。脳は血管や神経が他の臓器よりも複雑で、そもそもその形状を頭蓋骨から取り出した後に保持するのが困難だ。
そこで私は考え方を変えてみた、臓器移植における目的はレシピエント体内で移植された臓器が正常に活動されるようになることだ。ならば脳移植、少なくとも余命少ない私が行おうとする脳移植の目的は、私自身の頭脳の移植だ。物理的な脳ではなく、データとプログラミング、つまり記憶と思考が移されて正常に機能すればいい。
 例えば理論や思考方法を伝えるのに教育は有用な手段だと考えるが、医学部のクラスメイトは私と同じ教育を受けたはずなのに、臓器移植に限らず、論文・実績数で私に匹敵する者は誰もいない。おそらく教授陣でも及ばないだろう。となると教育が私の頭脳を移植するのに有用かは疑わしい。何よりも時間が足りない。
 ではどうやって記憶と思考を移植させるか。実験を繰り返し、その過程で随分と犠牲者を出して、その度に外にある焼却炉で処分したな。そもそも入手手段にも苦労した。健康体であることは絶対条件だが、頑強なだけでは上手く行かないのは、R国の死刑囚で分かり、元からの知能の程度は最低でも平均レベルが必要だった。そこで我ながら秀逸な手段を思い付いた、製薬会社の幹部を入札に招き、彼等を実験に用いることにした。知能レベルは私の期待に応えるが、高齢者もいてレシピエントには不向きだった。しかしドナーには向く。用済みになったら裏の焼却炉で処分した」
え、では開発案件は嘘なのか。
「男性だけでなく、女性も試した。婦女暴行騒ぎを起こすほど私は女性好きで、好みの範囲は広いかな。自分で言うのも変だが、取り分け性行為の最中に首を絞めるのは最高の悦楽であり、それで脳死状態になってくれるのは実験対象を得るのにも好都合だ。
彼女達には次の開発で出産してもらう必要がある。赤ん坊や幼子の肌を研究するのに是非とも必要だ。老人に限らず、若い女性も綺麗な肌を求めて、様々な物質を調合して化粧をしているが、いっそのこと赤ん坊や幼子の肌を素にすれば良い。しかしこの身がそこまで持つことはないだろう。私の脳を持った者に委ねよう。
少し脱線した、話を戻そう。辿り着いた方法はR国の死刑囚の脳をアルツハイマー病に見られるような空隙を増やして萎縮させ、彼等が持つ古いデータを消去、いわば大脳浄化だ。一方で製薬会社の幹部には幻覚や幻聴を誘発し、意識を刺激するキノコを食べさせたり、アルバートが遺伝子操作をして培養飼育したムカデに刺されるようにしたりした。そして大脳から逆シナプスで海馬へ記憶の逆転移、いわばコピー化を開始、これは短期的記憶の海馬と長期記憶の大脳の循環だ。特殊な磁性微粒子を注入し、磁気駆動装置で海馬まで誘導して切断、脳底部にある腫瘍を鼻孔から内視鏡で施術するように海馬を摘出、その海馬を培養して死刑囚に注入、人為的に癒着、生殖ホルモンと三つの新規薬剤、さらにヘッドギアによって萎縮を元に戻す」
開発案件は本当だったのだ。しかし、まるで『モロー博士の島』か、『フランケンシュタイン』の創造ではないか。
「詳細はフォルダにデータを入れておいた。容量が大きいので、メールアドレスを入れてくれれば後でアクセスサイトとパスワードを連絡する。
現在の私が考え得るレベルで一つの手法に辿り着いたが、やがてAIも他の技術も進歩し、私の手法は無駄になるのか、それとももっと効率の良い手法で、例えばスキャンして放射線か何かでピンポイントで遺伝子を刺激するとかで、私の思考は引き継がれるのだろうか。外部への記憶装置も発明されるかもしれない。
 私は手術ロボットにも詳しく、今までの実施手術を学習させ、無人で操作出来るまでに達した。死体置き場を見れば、私が相当数の実験をしたのが分かるだろう。ちなみにあれらを焼却しなかったのは、まだ利用価値があるだろうと思って保存したものだ。利用価値がなければ、即焼却しただろう。
さて、いよいよ今の私自身の最終実験にして、新たな実験の開始に至った。
 その前にワインを飲もう、これはそこのワインセラーのあるうちで一番古く、私のお気に入りだ。銘柄は、あ、いや、止めておこう、諸君の想像に任せよう。
では諸君、私の海馬を持った、違った顔の私に乾杯。
ふむ、なかなかの味だ。次の私もこれを選ぶかな。ドナーの嗜好がレシピエントに表れたという報告があるので、私の性癖が新しい自分にもあるかな。では、また会うのを楽しみに待っていてくれ」
 博士は手術台に向かって行くところでビデオは終わった。『ジキル博士とハイド氏』ではないか。恐ろしくなって這う這うの体で戻る。

 揺れている、気のせいではなく揺れている、地震だ、日本に出張した時に遭遇した地震よりも大きく真下から響いて来る。
「緊急事態、緊急事態、地震発生、三分以内に二階廊下の奥の扉から屋上に向かい、自動操縦のヘリコプターに乗れ、繰り返す、地震発生、三分以内に二階廊下の奥の扉から屋上に向かい、自動操縦のヘリコプターに乗れ」
 え、ヘリコプターなんて聞いていないが、あるのか。島内の見学時には雨降りで気付かなかった。スマホだけ握りしめて、寝間着代わりのTシャツとトレパンのまま急いで廊下に出る。自動的に開錠されたのか、扉は楽に開いた。廊下の突き当りを見やると、薄暗くて今まで気付かなかったのだろう、扉が確かにある。揺れていて、真っ直ぐ歩けない。それでも壁にぶつかりそうになりながら、とにかく扉にたどり着く。開けると階段で、上っていくと、屋上に出、確かにヘリコプターが一台あり、無人だが既にエンジンがかかっている。これも手術ロボットのようにプログラムされているのか。とにかく乗り込み、清掃が行き届いていないのか、埃が少し舞い、そのせいかくしゃみを何度か。シートベルトを締めると間もなく浮かび上がった。
 自分だけか。既に数メートル浮上したところで眼下を見やると、若者が扉から飛び出して来た。目が合った。助けを求めている目だ。その目から逸らすことができない。動けない、何も言えない。みるみる上昇し、小さくなっていく。ジムらしき人影も見えた。ヘリコプターの前面ガラスに白い鳥がぶつかる。海上に来て、振り返ると煙が上っている。

 帰還して島の噴火や地震のニュースはないかとネットでも検索したが、それらしきものはなく、日々の仕事に忙殺されていつしか忘れてしまった。



 株主の喝采を浴びて総会は終わった。製薬は具体的な新薬の候補があれば、開発段階から市場投入まで計画が立てやすく、株主の期待に沿いやすい。市場に投入しても、開発費を回収するまでは数年を要するが、それでも他の分野のビジネス分野のように不確定要素が多過ぎて、経営陣の美辞ばかりで取り繕うのとは違う。しかも今回は新薬の候補がある。
その後の懇親会では大きなホールで千人以上の参加者に酒類と軽食が提供されていた。
 トーマスは広報のマリリンを見つけると笑顔で近づいて行った。
「どうだった」
「最高だったわ」
 マリリンが笑顔で答えると、トーマスは顔を少し寄せて小声で、
「今夜、いつものように」
 彼女は一度彼を見て、それから目を伏せて小さく頷く。それを確認して、彼女から距離を置く。
 トーマスは妻の第二子の懐妊、島から戻って新薬の開発に邁進して興奮するのか、妻では満たせない性癖を受け入れてくれる愛人、そして願った出世、全てが好調で有頂天だった。
「あまり派手にしない方が良いぞ」
 ほくそ笑むトーマスにガーボポルテ製薬会社の退任予定のCEOフィッツァーランドが背後から小声をかけて来る。振り返った時に、視界に日に焼けた男の姿が飛び込んだ。フィッツァーランドはトーマスのその目の動きに気付き、
「知り合いかね」
 見たことがあるような、ないような。
「ええ、かもしれません」
「これからはスキャンダルになりそうな事はくれぐれも注意するんだぞ」
 執務室で抱き合っているのを一度見られたかもしれない。扉のノックにマリリンはスカートの裾を慌てて直し、フィッツァーランドは気付かない様子だったが、こんな言い方をするのはやはり気付いていたか。去りゆく老兵に言われたくないが、
「はい、身を引き締めて経営に当たります」
と返事をする。老兵は、
「では私は他にも挨拶する人達がいるので、そちらに行くとしよう」
 フィッツァーランドの背中をちらりと見やり、視線を戻すと、男は目の前まで来ていた。
「マリオです」
 思い出せない。
「クルーザーでワ、ワイルド博士の島に送ったマリオです」
 え、あ、あのマリオか、確かに吃音で、沢山の皴も日焼けもマリオだ。スーツにネクタイ、着慣れている感じはない。
「思い出して下さいましたか。次期CEO就任、お、おめでとうございます」
「あ、有難う。君も株主だったのか」
 さらにマリオの背後から東洋人が顔を見せた。
「モニター越しに挨拶しました立花サイチです。ご無沙汰しています。上級副社長からCEO就任、おめでとうございます。あの案件のおかげですね」
 そう言われて顔を歪め、
「君も株主だったのか」
「はい、ワイルド博士の会社が株式を持っていますので」
「え、ワイルド博士の会社だって」
「私はパームファルマックス製薬の社員では元々ありません。前々からワイルド博士が残した会社を引き継いでいます」
「待ってくれ、君の話はよく分からない。君はそもそも無事だったのか」
「このように無事です。島は人工地震で揺れたでしょうが、私はあそこに始めからいなかったのですから」
「え、人工地震だって。君はあそこにいなかったって」
「博士の研究に外部から捜索が入った場合を想定して、建物の地下に人工地震発生装置を仕込んでありました。あの時、初めて使われました。作動されると焼却炉から煙が出て、海上からでも分かるようにしてあります。自動的にヘリコプターのエンジンもかかります。
ご存知のように博士は製薬会社を相手に入札を催していましたが、私はモニター画面に映っただけで島には行っていません」
「でもアルバートはキミもあの島にいた、と言っていた筈だが」
「嘘をついていただけです。彼は他にも噓をついていませんでしたか」
 ジュリアやワインセラーの件を思い出して、視線を戻してから頷き、
「ああ、そうだな。では君は島に来ずに入札に参加、いや、パームファルマックス製薬の社員でないなら何をしていたのだ」
「正しくは参加のフリをしていました。ガーボポルテ製薬会社に高値で入札して貰いたくて。それが博士の狙いでした。あれは神経系や循環器の分野が得意な貴社にとっても相乗効果をもたらしますよね」
 トーマスは二回目の入札をせずに、島から帰って、博士のサイトにアクセスし、データを入手すると、それを自社の開発案件として進め、おかげで次期CEOの座を射止めた。
「トーマスさんが再入札されなかったのは気にしていません。だって問題が発生しましたからね。私やマリオは良いのですが、他は失敗作です、アルバートにしても、ジムにしても、チャールスにしても」
「え、何を言っているのだ。よく分からない」
「私やマリオも彼等もR国出身なのですよ、そう言えばお分かりですよね」
 トーマスは自分でも顔色が変わっていくのが分かる。
「失敗というのは予想外の行動を起こす副作用です。彼等のような初期モデルは未完成部分が多かったのか、それともむしろ個体差に由来するのかは分かりませんが、失敗作です。
 ジムはチャールスを殺害しました。随分バカにされ、堪忍袋の緒が切れたのでしょう。チャールスはスパークス製薬の開発担当者だったと思います。博士の海馬を移植されて、入札参加者を惑わしてテッドのフリをして一人二役を演じていました。いや、手術室で手を振って博士のフリもしたから一人三役か。彼もまた失敗作ですが、トーマスさんもおかしいと思われたでしょう。私ならもっと上手に誤魔化したでしょう、現にトーマスさんはさっきまで、私をパームファルマックス製薬の社員で、あの島に残されたと思っていたでしょうし。
アルバートはジュリアを性行為の最中に殺害しました。いや、ジュリアもジムの仕業だったかな。どちらでも良いのですが、彼女はアルバートやジムの性処理係で、時にはチャールスの相手もしていたかな。他にも処理係はいましたが、金髪もアジア系も、スリムもグラマラスも。多分、死体置き場でご覧になっていたでしょう。
殺人行為自体は副作用だと考えていません。博士も随分と犠牲者を出していましたし、アルバートもジムも我々のような政治犯ではなく、正確にはこのマリオは政治犯に雇われた傭兵ですが。彼等は元々殺人で死刑囚になっていましたからね。ドナーの性癖を引き継いだのか、レシピエントの性癖が存続したのか、どちらにせよ殺人自体は問題視していません。でも、彼等を観察していると気色悪かったですよ、アルバートは女性の身体の上にムカデを乗せるし、ジムは女性に放尿し、チャールスに至っては緊縛の性癖がありましたからね。いやぁ、見るに堪えない奴等でした。
問題はジムが研究スペースにある人工地震のスイッチを入れたことです。さらにその前にあなたにデータを漏洩しました。ジムのログであなたにパスワードを送ったのは確認しました。あの時あなたはアドレスを入力していましたね。そんなことをして何の意味があるのか。予想外の行動とはドナーやレシピエントの生活歴にない行動が起きる、ということで、説明が付かない、好ましからざる行動なのでバグというか、副作用というより悪作用と称すべきだと考えています」
さらに続けて、
「短い人工地震の後で我々は直ちに上陸、生き残っていた失敗作の二人を処分しました。何しろマリオは傭兵でしたから手際が良かった。戦闘ゲームみたいでしたね。殺人歴があっても戦争経験がなければ、こいつの相手ではありません」
「今まで行方不明者の捜索はなかったのか」
「たまに問合せはありましたが、このマリオが知らないと言えば済みます。船着き場は人もまばらで、空港から船着き場までのタクシー運転手にも言い包めてありますから。まあ、飛行機の搭乗は記録に残るでしょうが、そこまでです。ジュリアのような相手も同様です。来島の痕跡は残していません。トーマスさんがいらした場合も同様です。帰りのヘリコプターの着陸場所の方も当然管理者には言い含めてあります。
 そうそう、入札の前の情報のご購入、ありがとうございました」
「え、情報の購入だって」
「スパークス製薬とモーリス製薬の合併ですよ」
「え、あのクリックか」
「博士の会社は製薬企業を相手にしています。インサイダー情報網を構築しているからこそ、相手先を正しく判断できます。
ところであなたも気を付けた方が良いですよ、博士の性癖が移っているかもしれないですからね。我々もそのうちそんな性癖を露呈するかもしれません。私は監視カメラばかりを見ているせいで、少し覗き趣味になったかな」
「え、何を言っているのだ」
「人工地震が起きる前の眠っている間に、あなたにも我々と同じように博士の培養された海馬が鼻孔から移植されました。アルバートです。それも監視カメラで確認しています。少量の移植は短時間で、しかもリハビリを殆ど要しないので気付いていないかもしれませんね。意識が戻った時に咳やくしゃみはしませんでしたか。
移植臓器からドナーの嗜好がレシピエントに移行した報告がありますから、くれぐれもお気を付けください。
本来ならネタを盗用したのを強請(ゆす)るところですが、諸々の秘密は今後も守ってもらえるでしょうから、口止め料ということで相殺しましょう。逸失利益は小さくはないですが、まあ、良いでしょう、今までの開発で資金は潤沢ですし。
じゃ、マリオ、我々はそろそろ失礼しよう」 

新聞・経済誌・ネット上の記事などを参考にさせていただきました。

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