菜の花の話

文字数 2,189文字

『花畑』

一面の菜の花。
そんな詩を昔、教科書で読んだ気がした。どんな詩だったかはあまり覚えいないけれど、今、私の目の前に広がる光景にぴったりな詩であった気がした。
足元に広がる菜の花が、もうすでに私の膝の少し上くらいまで僕を蝕んでいた。目線を遠くに運んでも、背後を振り返っても、あたり一面に菜の花が詰め込まれていて、それから逃げ延びることはできなかった。
空は思案の色で輝き、雲は高いところで私を見下していた。天も地も無邪気な少年のごとく、そう、ベタ塗りの油絵のような、濃厚な色彩で私を生き埋めにしようとしていた。
菜の花として上塗りされてしまいたいくらいに私は自分を見失いそうであった。実際、ここがどこで、私は何者で、何をもってここに存在しているのか、それら一切すべてが理解できなかった。気がつけば、ここにひとりぼっちであった。
菜の花が、侵入していく。黄色が、脳を駆け巡る。それを反芻し、恐る恐る舌の上で転がしてみると、なんだかイイキモチになった。菜の花が、溶けていく。空も溶けている。形を失った花々は、私を埋めていく。いや、そうではない。違う。溶けているのは、私。
私は、私が溶けてしまうことの善悪の判断すらできなくなっていた。ただ、キモチヨクテ、タノシクテ、ドロリ、グチャリ、ベチョリ……。
「自分の足で立って」
突如背後で聞こえた、しっかりとした丸い陶器のような声が私をタプンとした。やがて人へと戻った私は、いぶかしげにゆっくりと後ろを振り返った。
オーバーサイズのワンピースを着た、淡く、白い、水彩のような人が、そこにいた。
私は、口の中に残っている黄色を咀嚼しながら、白いワンピースがなんだか似合っていない彼女に尋ねてみた。
「ここは、どこです、か?」
彼女は少しイジワルな微笑みを浮かべながら、こう答えた。
「さぁ、どこでしょう」
私は、その表情の疑惑を心の中で問いただしながら、その推理を述べてみた。
「もしかして、天国?」
彼女の視線が、上に逸れた。
「そう、かもしれないですね」
さっきとは打って変わってふんわりとした声に、不安になった。
「伝わっているかな。ここは、あの世なのか?」
彼女は目と口を丸くした。
「あの世、とは?」
もっと言い方をかえて言ってやろうかと思ったが、激昂する気分になれなくて、ため息を吐いてしまった。
「君にはもっと聞きたいことがあるんだけど、しっかりと答えてくれないの?」
すると今度は、目尻を少し下げた。
「あなたは私といればあなたを取り戻せる。あなたは私を知っている。あなたはあなたになるために私と一緒にあそこに向かって歩くの」
彼女はゆっくりと左手を水平にあげ、人差し指で私に示した。彼女の指す方角では、いつのまにか雨が降っていた。
「雨が降っている」
私は彼女が突然早口気味にまくしたてたことと、天気のめまぐるしさに戸惑ってしまったがために、思考回路はショート寸前のところまで行ってしまった。
「うん、降ってますねぇ」
赤子をあやすような彼女の声色に、「あぁ、私は決して月の光に導かれて何度も巡り会うわけではないのだな」などという意味不明の納得をしてしまった。私は呆れついでに、疑問を投げかけてみた。
「傘、持っているのかい?」
すると彼女は、服の内側に手を入れ、いかがわしい部分をまさぐり、傘を取り出してみせた。
もはや仕組みを聞こうとは思わなかった。
「そういうあなたは持っているのですか?」
私はどうみても手ぶらである。なぜそのような質問をしたのだろうか。彼女の真似をして、自分のいかがわしい部分をまさぐってみようかと思ったが、恥ずかしさのためにやらなかった。
「持っていない。素直に濡れるとするよ」
彼女はまたイジワルな微笑みを浮かべた。
「だめですよ、それは。この傘をいっしょに使いましょう?さては、相合い傘が恥ずかしいのですか?」
そういうわけではなかったが、相合い傘は恥ずかしいと思った。それに、もうやりとりが面倒くさくなってしまった。
「あぁ、そうだよ。その通りだ。恥ずかしいから、しない。それでいいか?」
少し大人になった気持ちで勝ち誇っていたら、彼女は突然素直な顔になって、柔らかく私を見つめた。
「だめっていっています。濡れたら風邪をひいてしまう。風邪をひいたら、困るのはあなた自身ですよ。ほら、入って。」
なんだか私は本当に恥ずかしくなって、本当の素直さで傘の中に入った。
一面の菜の花はただの菜の花であった。空はただそこに在るだけである。もう、菜の花は私を菜の花にしようとしない。私は、菜の花にはなれなかった。
菜の花になれないつまらない私のとなりには、似合わないワンピースを着た彼女が、小ぶりな傘をさして待っていた。
「ほら、行きますよ。思い出すために」
その言葉で私は何かを思い出さなければいけないことを、ふと思い出した。私が一体何を忘却したのかは、思い出せそうもない。
「そんなことないですよ、すでに少しづつ思い出しはじめている」
私たちは改めて大洪水の方角を見た。いったいいつまで、どこまで、大洪水なのだろうか。
この方角に向かって歩く必要性は、未だに理解できていなかった。しかし、不思議とそこに疑問は抱かなかった。
「さぁ、行きますよ」
私たちはいつも通りのペースで歩き始めた。
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