第1話

文字数 1,023文字

 海に突き落とされた気分がする朝だった。
 空気中の水分を全て体に取り込んだような倦怠感。仕事にいく元気はおろか、ベッドから起き上がる気力もない。

 猫塚は独身女性であった。この町にきて約一年、身寄りのいない町で家と職場を行き来する生活を送っている。
 服を着替え、最低限の化粧を済まして外に出る。そよ風のおかげで室内より多少呼吸がしやすい。

 足を引っ張るように歩き、猫塚は出勤前に公園に立ち寄った。ベンチに座って休憩したかったが、生憎の雨で濡れていることを忘れていた。溜め息がこぼれた。

 公園には、紺色の傘が開きっぱなしでぽつねんと置かれていた。目を凝らせば、老婆が傘を肩に乗せて屈んでいるのがわかった。
 角度を変えると見えるものも変わる。旋回するように少し歩くと、老婆がさす傘の下には、銀色の皿に顔を埋める猫の姿。
 立ち上がった老婆は背後に猫塚にいたことに驚き、目を丸くした。猫塚が会釈すると、老婆は柔和に微笑んだ。

「猫は好き?」
「え、あぁ、……はい」
「やってみる?」

 老婆が猫用ブラシを差し出してきた。猫塚は断りたかったが、しっかり握らされてしまうと、仕方ないと観念した。老婆にいわれるがまま、寝転がる猫を撫でるようにブラシを通してみる。

「上手上手。おつゆちゃんも気持ちよさそう」
「おつゆ?」
「この子の名前よ。去年の六月に見つけてね。見た目も(つゆ)みたいでしょう?」

 いわれてみれば、と猫塚は櫛で毛をすきながらおつゆを眺めた。くすんだ茶色の毛並みはめんつゆを思わせる。

「この町は地域猫活動をしているの」

 地域猫活動とは、地域住民皆で野良猫を見守る運動のこと。野良猫を増やさないために猫の去勢手術をし、猫の命が尽きるまで地域住民が世話する取組みをいうのだと、老婆は、やってきた黒猫に餌をあげながら説明する。

「耳に切り込みがあって桜の花びらみたいでしょ? さくら猫ちゃんは保護会の皆で世話するのよ」

 黒猫の耳をちらと見た。たしかに桜の花びらみたいな切り込みが入っている。
 素敵だな、と猫塚は思った。実家にいた頃は親がアレルギー持ちで断念し、一人暮らしを始めるもペット禁止のアパートばかりで落胆した。そんな彼女にとって地域猫の話は楽園のように聞こえる。
 毛繕いを終えると、おつゆは背を向けて歩いていった。

「ありがとうございました。ブラシ、お返しします」
「こちらこそありがとう」

 猫に癒されたのか体が軽くなった。老婆と別れた猫塚は軽い足取りで職場に向かった。
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