第1話

文字数 1,974文字

「冷川トンネルの先の家に山姥が住んでるらしいよ」
 そう言った男子の尻を思いっきり蹴り上げた。前のめりに転んだそいつは、尻が2つに割れたと訴えてきたけど、尻は本来2つだ。それは良かったなと、冷たく返してやった。
 
 冷川トンネルの噂は最近よく耳にするようになった。本当に会ったやつがいるのかもしれないし、噂が一人歩きしているだけなのかもしれない。ただ、冷川トンネルの先にある家はもう、紀美子さんの家しかない。その紀美子さんが山姥だと言うのならば、そいつは眼科に行ったほうがいい。紀美子さんは畑仕事をしているにも関わらず、柔らかそうな綺麗な肌をしているし、笑ったときの皺の入った顔はなんだか、こちらをほっとさせてくれるような愛嬌がある。よっぽど駄菓子屋のしかめっ面のやかましい婆の方が山姥に見える。
 紀美子さんは私の祖母だ。亡くなった父の母親だ。病院で看護師をしている母は、父を無くした悲しみが深かったのか、元来あまり家庭に関することが得意ではないのか、私のことも家のこともままならなくなった末に、私を紀美子さんの元に預けるようになった。
 今思うとそれは良い選択だったのだと思う。紀美子さんの生活力と包容力は私に不安を抱かせる隙を与えなかった。嬉しい話も悲しい話も一生懸命に聞いてくれた。嫌なことがあってふてくされている私の頭や背中をカサついた小さな掌でなでて、慰めてくれた。卵焼きや大根の漬物はいつも程よくほんのり甘くて、ひなまつりのちらし寿司は店に売っているものよりも華やかで優しい味がした。聞き上手、慰め上手、料理上手、そして少しお茶目。お手本のような良き祖母なのだ。
 山姥の噂のせいなのか、みんなが敬遠する冷川トンネルを小石を蹴りながら通り抜ける。この小石を紀美子さんの家まで届けることができたら、母のところに行かなくて済むかもしれない。最近は母が自分の家で生活させようとしてきて喧しい。時々、向こうの家で寝泊りすることもあったけど、私にとってはこっちがホームだ。向こうの家のほうがアウェイなのだ。母が紀美子さんに連絡していないといいけど。紀美子さんは母に弱いのだ。
 小石がもう少しで紀美子さんの家に届くというところで、野兎が草むらから飛び出してきて、小石を見当違いなところに蹴とばしてしまった。野兎め、次に会ったら覚えておけよ。
 納屋の前を通ってガラス張りの引き戸に手をかける。
「ただいま~」
 小さなゆっくりとした足音を待つと、廊下の向こうから紀美子さんが顔を出す。
「恵理ちゃん、おかえりなさい。手を洗っておいでね」
「はーい」
 優しい声と皺の入った柔らかな微笑み。これだけでなんだか安心する。
「今日、お母さんから連絡きた?」
「来たよぉ。だから、今日はあんまり遅くならんうちに、ここを出らんとねぇ」
 少し寂しそうに紀美子さんが言う。私も寂しいよ。でも、ここで言うことを聞いておかないと、紀美子さんと母の関係が悪くなってしまうかもしれない。
 学校でのどうでもいい話から、大事な進路の話までべらべらと紀美子さんに報告する。とくに高校進学の話は紀美子さんも一緒にいろいろと考えてくれるから有難い。母に話しても、自分の話に摩り替わってしまうから、話にならないんだ。
「恵理ちゃん、そろそろ暗くなってくるから、お母さんのところ行かなねぇ」
 心配して少し早めに出してくれる紀美子さんが恨めしい。でも、帰らないと、ではなくて、行かないと、っていう言い方をしてくれるのを、ほんの少し嬉しく感じる。紀美子さんのこういうところが好きなんだ。

「向こうの家に1人で行かないで」
 家に帰ってくるなり、母が冷たく言い放った。いや、無理でしょ。この家の方がアウェイなんだよ。うまく生活できる気がしないよ。
「あの家、売ることになったから。リノベーションして住みたい人がいるって」
 淡々と、今日の天気でも告げるように平然と母が言う。は?じゃあ、紀美子さん、どうすんのさ。どこに帰ればいいんだよ。
「紀美子さんの遺品は今度一緒に片づけに行こう。だから、もう寄り道しないで」
 
 冷川トンネルは本来、通るときに願いごとを繰り返し唱えると、願いを叶えてくれるというトンネルだった。だから、私は唱えた。私の紀美子さんをかえしてって。そうして、紀美子さんは帰ってきた。あのトンネルの先の家に帰ってきた。私の妄想なのかもしれない。それか、紀美子さんの霊を無理やり縛りつけてしまったのかもしれない。それでも、私にはまだ紀美子さんが必要だった。これからも私の人生の中に居て、畑仕事でカサついた小さな掌で、私の背中を慰めていてほしかった。
 本当は山姥なんて言われたくない。それでも、そこに住んでいるという言葉が私の紀美子さんをそこに存在させてくれる。紀美子さんが確かにそこに居るのだと思わせてくれるんだ。
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