セカイのシュタイ

文字数 2,000文字

 喉の渇きを覚え、沢を見下ろした俺の目に、直立する黒白の鳥が飛び込んだ。
「何だあれ、ペンギン? こんな山奥に……!?
 思わず大きな声で言ったあとに、視界が一回転する感覚を覚える。ああ、やべ――両頬をぱちんとやって見直すと、やはりだ、ペンギンは消えていた。縦長の岩に、水がぶつかってしぶきを上げているだけ。
 遭難時は幻覚が発生しやすい。知識はあったが、まさかそれを実感する事態に陥るとは思わなかった。
 山に入ったのは2日前。仕事の繁忙期を乗り越えた週末、久々に気持ちも軽く登山に出かけた。
 登山といっても攻略対象はマイナーな低山。この日入った山の難度は、子どもが遠足で登れる程度だった。
 だから油断した。山頂までが簡単すぎたので、下山ルートを変更した。道があやふやになってきたが引き返さず、崖っぷちに阻まれて初めて登山アプリで現在地を確認しようと思った。が、そこでミス。スマホを崖下に放ってしまったのだ。
 それを追って崖を下ったら登り返す力がなくなった。このまま下山しようと判断して、道なき道へ進んだ。
 今ならわかる。これは鉄壁の遭難ルートだったと。
「水を汲もう」
 俺はわざと呟き、沢に下りた。沢に下りるのは良くない。だが水の補給はしないと、それはそれで詰んでしまう。
「生きて帰らなきゃ」
 俺はもう一度呟いた。

「そうよぉ、生きて帰らなきゃ」
 不意に肩越しに声が降り注いだ。大きくて明るい声。
 急いで顔を上向かせて、俺は驚きに目を見張る。良く知っている笑顔がそこにあった。
「……さ、酒井さん!? え!? 何でここに!?
「念力が通じたんでしょうよ。会えてよかったぁ」
 彼女は改めてにっこりする。
 酒井さん。俺に低山の楽しみを教えた職場の大先輩。40代の彼女を20代の俺が「近所のおばさんみたい」と評するのは失礼かもしれないが、それは敬意ゆえの表現のつもりだ。山でも仕事でも、まさに近所のおばさん的な立ち位置で、見守り、導いてきてくれた人だから。
「酒井さん……俺の捜索を?」
「そうよぉ、怪我がなくてよかった。さああとひとふんばり。救助隊も来てる」
 俺は救助要請を出せていない。崖から放ったスマホは壊れてしまっていたからだ。だがそうか、彼女が動いてくれたのかと、俺は納得した。山に行くことは職場で話している。彼女は出社しない俺の危機に気付いてくれたのだろう。
 救助が来た。これで助かる。俺は明るい気持ちになり、先に歩き出した彼女に続いた。
 あたりは木々の手が絡み合った森だ。そこを彼女はいつもよりハイペースに進む。俺は息を切らしながら枝をかき分け、彼女を見失うまいと追いかけた。
 思えば、どうして彼女と山の話をするようになったんだっけ。確か一緒に残業していたときだ……と思ったとき、目の前にありありとオフィスが現れ、記憶の光景が再生された。そうだ、俺が担当したデザイン(仕事はクリエイティブ系だ)が客先から盛大なダメ出しを食らい、彼女とアイディア出しからやり直しているときに話が脱線して、趣味の話になって。当時の俺は有名山や高山を攻略していたが、彼女はそこで「山ならマイナー低山一択!」と力説してきた。
「何がいいって、人がいない。ソロだったらほんとに自分しかいなかったりする。それがいい!」
「え。寂しくないんですか」
「あらあ、ソロ登山やる人がそれ言う?」
「いや有名山は人いますよ、意外と」
 彼女はふふっと笑った。
「マイナー低山のソロはハマるよぉ? 自然と自分の、存在の大きさを感じるよ」
「へえ、自分の小ささを感じるんじゃなくて?」
「私は逆かな。だってそこに存在して、動いて感じて、考えている主体は自分でしょ。ひとりで山にいると、この世界の主体は一人ひとりの『自分』なんだって、そんなふうに思わされるんだよね」
 それを感じさせてくれるのがマイナー低山――彼女はそう言った。
 言わんとしたことをちゃんと理解できているか自信はない。だが2日間の山の中、確かに俺は俺の感じる主体であった、かもしれない。たくさん幻覚を見たと思うが、見たものが幻覚が真実かも、結局は俺にとって真実かどうかだけのことで、現実にどうかなんて、どうでもいいことで――。

 突然また、視界がひっくり返る感覚を覚えた。

 不意に光に目を刺される。とっさに顔をかばってから、そっと腕を外してみると、切れた森の向こうの空に、まだ光の強い太陽がいた。前を阻むガードレール、舗装された道路。
 山を――下りた?
 下りた、下りられた。酒井さん! 叫ぼうとして、はっとした。現実感を取り戻していく頭の中。送別会で渡した花束の鮮やかさ。あれ、彼女はとっくに退職しているよな。それは病気のためで、そして俺は確か、彼女の葬式に――。

 酒井さん。
 あれが真の「彼女」だったのかは知らない。 
 だが山の中で、俺という主体は確かに彼女を認知した。
 それでいいと、思っている。
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