瓶詰めの神様

文字数 890文字

「蛸」という短編小説を覚えているだろうか。
小学校の教科書に載っていた、廃墟となった水族館の水槽に遺された蛸の話。
人々が消え、水槽が藻に覆われて何も見えなくなっても、蛸はずっと居たのだ。例え肉体が朽ちたとしても、そこに残る蛸に愛おしさを感じた。
「神様」の話を聞いた時、そんな小説を思い出した。

ある日、業者が家に大きな水槽を運び込んでいた。
「大きな魚でも飼うの?」
この人の名前何だっけな、と思いながら使用人に聞くと、
「神様の水槽を取り替えるのです。」
と答えが返ってきた。
「カミサマ?そんな魚いるの?」
「魚ではありません。家を守るのです。」
使用人は目も合わさず固い表情で言うものだから、これは大変な事なのかもしれない。
「神様、見てみたいな。」
使用人はとんでもないものを見るような目で私を見た。
「ご覧になったらいいじゃないですか。」
使用人は吐き捨てるように言って、業者の元へ行ってしまった。

夜、長い母屋の廊下を軋ませながら、私は庭園の真ん中に据えられた離れに向かった。水槽はそこに搬入されたのだ。
神様を見てみたい。水の中から、私を見てくれるだろうか。暗い、藻に満ちた、澱んだ水の中から。

離れには水など引かれてなかった。水槽は水蒸気で曇っていた。
中に、同じくらいの背丈の少女のような者がいた。少女はくぐもった呻き声を上げながら、硝子に手を合わせて、私に接触しようとしてきた。
結露越しに、赤い服、黒い髪が揺れる。
私は近づき、硝子に手を合わせると、神様は手を離し、後退り、背面の硝子にぶつかった。
「神様。」
「可哀想、愛おしい神様。」
数日後、神様の水槽は空だった。微かに汗と唾液の臭いが残っている。神様はいるのだ。

「パパ、これ何?」
小さな硝子の金魚鉢を大事そうに磨き、毎日酒を備える父に聞いた。
「神様だよ。我が家を、君を守ってくれるんだ。」
父は私の髪を撫でた。
「神様は、ガラスの中にいるの?」
「いるんだよ。だから大切にするんだ。祈りを込めて。」
気が付くと水槽の前で眠っていた私は、混濁していく記憶の中で、幼い会話を思い出した。
水槽を見ると、結露はまだできていない。
新しい「神様」が私を睨んでいた。




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