第1話

文字数 4,587文字

“ごめん! さっき急に重たい案件が入って、何時に上がれるかわからなくなった! ご飯、キャンセルにさせてもらってもいいかな? ほんっとーにごめんなさい。埋め合わせは必ずします!”
(まあ、こんなもんだよね)
隠れ家イタリアンレストランへ向かうべく乗った電車の中で、陽子は人知れずため息をついた。
突然降り出した大粒の雨が、ドアの窓を激しく叩きつけている。

年を取るにつれ、心にメッキが施されたのか、滅多なことじゃ傷を負わなくなったと思っている。
親友のドタキャンのLINEに対しても、大学生の頃なら、憤慨して、涙も2,3適零れていたかもしれないけれど、今は別にどうってことはない。
世の中に対する期待値も、徐々に下がっているのかもしれない。
そもそも、今日のご飯は、5年間付き合っていた男に数日前に突然振られた陽子を慰めようと、20年来の親友が企画したものだ。陽子はその気遣いに心から感謝していた。しかし、たとえ5年の恋愛にピリオドが打たれようと、親友が思うほどには落ち込んでいないのだと、陽子は今回のご飯キャンセルの件を通して気づいてしまった。

(強くなったってことだよね。でも、冷酷というか、機械みたいになっちゃったな、私)

雨脚は一層強くなり、ドアが開閉するたびに、床のぬかるみが増していく。陽子は、滑って転びそうになった乗客に押され、全く降りるつもりのなかった駅のホームに転がり出てしまった。先程からの自分の運の悪さに、苦笑いが零れた。電車に急いで戻ることも考えたが、半ばやけくそで、こうなったら美味しい店を見つけてやる!と意気込んだ。
初めて降りた駅だったので、土地勘はまるでなかったが、マップを辿って歩く気にもなれなかった。土砂降りの中、小さな折り畳み傘片手にパンプスで通りを闊歩していても、目に入るのはドラッグストアとパチンコ屋ばかりだった。やがて風も強くなり、心許ない折り畳み傘は、骨が折れてしまった。

しばらく通りを進んでいくと、枝のように分かれた細い道で、ぼんやりと浮かぶ仄かな灯りと、ぶら下がった看板が見えた。砂漠でオアシスを見つけた旅人の気持ちが、今の陽子には分かる気がした。思わず駆け寄ると、濡れそぼった木製の看板には、“あなたといっしょに たべたいごはん なかもと”と書かれていた。
(あなたといっしょ……私ひとりだけど大丈夫かな)
一瞬不安がよぎったが、冷え切った体を温めることと、空腹を満たすことの優先が圧倒的に上回った。

「びしょびしょですみません……」
謝りながら店内に入ると、今まで外で見ていた薄暗い景色が嘘のように、橙色の丸みを帯びた温かな光に包まれた。
「おお! こんな雨の中、よくお越しくださいましたね。今タオルをお持ちしますね」
30代半ば頃の細身の男性が、穏やかな笑顔で出迎えてくれた。「マスター 中本」という名札をつけている。
「ありがとうございます。恐れ入ります」
奥から小さな女の子がタオルを抱えて現れた。まだ小学1年生くらいだろうか。
「こんばんはー! いらっしゃいませー! おねえさん、タオルどうぞ」
「ありがとう」

陽子は鞄と服を拭きながら、座席に向かった。他に客はいないようだった。
外の照明と看板の雰囲気から、昔懐かしい洋食か、和風家庭料理あたりのお店と予想していたが、シンガポール料理店だった。
テーブルには小さなマーライオンの置物が置かれ、壁には色鮮やかなタイルが掛けられていた。
メニューの1ページ目に書かれていた「おすすめ!シンガポールチキンライスセット」を頼むと、ゆっくりと息をついた。座っているだけなのに体がホカホカと温まり、優しいBGMが心地よく、ついウトウトしてしまった。

「お待たせしました。シンガポールチキンライスセットです。雨風がひどいから、お客さんも来ないし、どうしようかと思っていたんですよ。あなたが来てくださって本当に良かったです」
マスターは、さっき出迎えてくれた時と同じ、穏やかな微笑みを浮かべながら陽子にそっと語り掛けた。
「ありがとうございます。いただきます」
早速、スプーンにご飯と鶏肉をのせて、頬張った。ショウガとニンニクのハーモニーが、鼻腔をくすぐる。

出汁の効いたご飯を味わいながら噛みしめていると、陽子の左目から涙が一筋流れ落ちた。陽子は自分の頬が濡れている理由がわからず、混乱していたが、陽子の思いとは裏腹に、次々と熱い涙が溢れ出してきた。
少し離れたところで見守っていたマスターが、慌てて戻ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「ご、ごめんなさい……! 自分でも……何で泣いているか……わからないんです」
奥の部屋にいた小さな女の子が、今度はティッシュを抱えて、心配そうに陽子の席の側に来ていた。
「おねえさん、ティッシュ使って」
「ありがとう。タオルに……ティッシュに……たくさん持って来てもらって……ごめんなさい」
「いいんですよ。それより、味が変だったとかではないですか?」
「違うんです。とっても美味しいんです。美味しくて……なぜか……」
陽子はありがたくティッシュを使わせてもらったが、二人の優しさに胸が熱くなり、ますます涙と鼻水は溢れる一方だった。

「サチ、今日はもうこの天気だし、お店を閉めて、お姉さんのお話を聞こうと思う。ドアノブのプレートをクローズにして来てくれる?」
マスターは小さな女の子の耳元に小声で囁いた。
「りょうかい、パパ!」
サチと呼ばれた小さな女の子は、機敏な動きでドアへ向かった。まだ幼いが、かなり有能である。
陽子が鼻を何度もかんでいる間に、マスターは、自分とサチのシンガポールチキンライスセットを手早く準備していた。
「あの、もしお嫌でなかったら……一緒にお話ししながら食べませんか?」
陽子は驚いたが、自分の散々な泣き顔も二人には見られていたので、これ以上何も隠すこともないなと思い、快く了承した。

陽子はだいぶ落ち着いてきたので、透明なスープを一口すすった。鶏のやさしい出汁の味に、心も温まったように感じた。陽子の向かい側に座ったサチは、チキンライスを美味しそうにパクパクと口へ運んでいる。
「改めて、この店のマスターの中本啓介と申します。こちらは娘の幸穂で、サチと呼んでいます。差し支えなければ、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
マスターの丁寧な語り口が、陽子の気持ちを安心感で満たしていた。
「鈴木陽子です」
「ありがとうございます。妻の旧姓が鈴木でして、少し呼びにくいので、陽子さんと呼んでもよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
職場でも鈴木が2人いて、いつも下の名前で呼ばれているので、慣れっこだった。

「先ほど、陽子さんは涙を流されていましたが、とてもお辛いことがあったのですか?」
「うーん、辛いというよりは、少しだけ残念なことは続いていました。このシンガポールチキンライスを食べたら、とっても美味しくて、それでなぜか泣けてきてしまったんです」
陽子は自分でも、涙が流れてきた理由はわかっていなかった。ただ、チキンライスを口にした途端、何かが溢れてきたのは間違いなかった。
「よーこさん、パパがつくるチキンライスは、まほうがかかってるんだよ。みんな、げんきになるの」
サチは隣に座るマスターの腕を指でツンツンとつついた。テーブルに置いてある照明用の小さなローソクの炎がチラチラと揺らめく。
「まあ、魔法かはわかりませんけども。そうでしたか、残念なことが続いていたんですね。それは大変でしたね」
「いや、でも大したことないんです。最近、“プチ嫌なこと“に慣れてきてしまって、免疫がついているので、あまり辛いとかそういう気持ちが湧かないんです」
マスターの澄んだ瞳が、陽子をじっと捉えていた。陽子はチキンライスを食べる手を止め、マスターを見つめ返した。
「これはあくまでも僕の体験なのですが、本当にきついときは、心が蓋を閉めてしまって、自分が何を考えているのかわからなくなるときがあるんですよね。僕は、妻を亡くした時がそうでした。まだ小さいサチのためにも、自分が泣いていては駄目だと言い聞かせて、無理をしていましたね」
“心が蓋を閉める”という言葉を聞いた瞬間、陽子の体中を電撃が駆け巡った。
外でも大きな雷が近くに落ちたようで、サチがおへそを隠して、マスターに頭を寄せていた。
「マスター、私、それかもしれません……」
陽子のスプーンを持つ手が震えていた。

(彼氏と別れようが、親友とご飯を食べられなかろうが、知らない乗客に押されようが、土砂降りにあおうが、どうってことない。だって、自分の心は頑丈だもん。ゴテゴテのメッキに覆われているもん。――そう、思い込んでいただけだったのかもしれない。
私、本当はちゃんと辛かったんだ)

「私、最近彼氏に振られたんです。でも、全然心が動かない自分を、強いとも思ってたし、機械みたいで気味が悪いな、とも思ってたんです。それで、マスターのシンガポールチキンライスが、私の心の蓋を開けてくれたんです。涙が流れた自分は、人間の心を持ってるんだなって思えました」
マスターはサチの頭をポンポンと優しくなでると、陽子に真っ直ぐ向かい合った。
「陽子さんの心の蓋を開けてしまって良かったのかはわかりませんが、スッキリされたなら良かったです。僕も、自分の本当の気持ちに気付いたきっかけが、出張先のシンガポールでご飯を食べた時だったんです」
思わぬ共通点に、陽子は目を丸くした。
「当時は、妻を亡くした直後で、何も考えずにがむしゃらに働いていたのですが、シンガポールチキンライスに感動して、自分にも美味しいって思える心がまだあったんだと思ったんです。その時、商社を辞めて、この店を開くことを決意しました。無事に開店できた日の夜、初めて泣けたことを今思い出しました。あの涙の半分は安堵だったと思いますが」
陽子はまた涙腺が緩んでくるのを感じた。マスターの奥深い優しさは、辛い経験の賜物なのだろうな、としみじみと考えていた。この味も、マスターの人柄あってこそだろう。

「ね、やっぱりまほうでしょ?」
サチが自信満々に陽子へ笑いかけた。この子も幼いながら、マスターの大きな支えになっていることは間違いない。
「うん、絶対魔法だね。みんなの本当の気持ちを教えてくれる魔法がかかっているんだね」
陽子もにっこり笑いながら、チキンライスの最後の一口を頬張った。口の中に幸せが広がっていく。と同時に、食べ終えてしまう名残惜しさも感じていた。

「ごちそうさまでした。本当にありがとうございました。マンゴープリンのお土産もありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。素敵な夕飯の時間になりました。また良かったらぜひお越しくださいね」
「サチも待ってるよー!」

お勘定を終え、店を出ると、あんなに激しかった雨は上がっていた。
冷たく肌寒い風が吹き抜ける中、街灯の明かりを反射して水たまりがキラキラと光っている。
彼氏と別れたことの悲しみが急に癒えたわけでもないし、これから何もかも万事うまくいくというわけでもない。ただ、今日のご飯は決して忘れないと思う。
陽子は改めて店の看板を眺めた。
(あなたといっしょに たべたいごはんって……そういうことか)

後ろを振り返ると、マスターとサチが手を振ってくれている。
陽子は手を振り返すと、軽やかな足取りで、駅へ向かって行った。
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