第1話

文字数 2,000文字

「人生の変え方教えます」
正一がそんな怪しげな看板に引かれてその事務所らしき部屋を訪ねたのも無理はなかった。
正一の人生は何をやっても上手くいかなかった。
運が悪い人生とはこういう事だろう。
正一の不運な人生は高校受験の日に交通事故に遭い志望校へ進めなかったところから始まった。
大学受験の日はインフルエンザに罹って一浪し翌年の受験の日は虫垂炎を発症した。
大学を諦め最初に入った会社は一年で倒産し手に職をつけようと入学した調理師学校ではフランベした火がエプロンに燃え移り大火傷をおった。有り得ない事故だった。
何か良くない物が憑いているのではないかとお祓いを受けたが、その帰りに神社の階段を踏み外して足を捻挫した。
間に合いそうな電車に間に合った事はなく、クジで当たった事は人生で一度もなかった。
自分の人生はこういうものなのかと諦めかけていた時に、この看板が目に入った。
「人生の変え方教えます」
こんな怪しげなものに引っ掛かる奴なんて俺くらいだろうと思いながらも、その雑居ビルへ入ったのは、やはり自分の人生を諦めたくはなかったからだ。
事務所のドアを開けると、そこにはデスクに座る年齢不詳の男がいた。
「こんにちは。どうぞお掛け下さい」
そう言われ、デスクの前に置いてあるソファに腰かける。
「人生を変えたいんですね」
お茶を入れながらその男は言った。
「ええ、まあ。今までの人生、あんまり良い事なかったんで…」
「そうですか。それは大変でしたね。ご苦労されましたね」
「はぁ…。あの、人生変えるって、どうするんですか?」
正一は宗教の勧誘だったらすぐさま席を立とうと思っていた。
「はい、これは科学的な話です」
「科学的?」
「ええ、量子力学に基づくものです」
「量子力学?」
「ええ、そうです。貴方は並行世界ってご存じですか?」
「並行世界? なんか聞いた事はあります。この世界の他に全く同じ設定の別の世界があるみたいな奴ですよね?」
「そうです。並行世界は存在してます。これは量子力学が示唆してる事で間違いない。私たちのすぐ隣には四本目の空間軸座標が少しだけ違う世界が存在してます。そしてその世界は感知できないかというと、実は出来るんです。我々の世界は常に揺らいでいます。ですからこの隣の世界と私たちのこの世界は重なる時があるんです。そのタイミングですぐ隣にある世界に実は私たちは行ったり来たりしてるんです。でも、お隣の世界はここと殆ど変わらないから移ってしまった事に気付かない。でも希に座標が大きく違う世界と重なる事もあります。確率的には低いですがゼロじゃない。その時にそっちの世界に移ってしまうと、それまでの人生とは大きく違う人生を歩むことになります。ですから貴方が人生を変えたいと思うなら座標軸の違った並行世界へ移ってしまえば良いんです」
「はぁ。でもどうやってそっちの世界へ移るんです?」
「ゲートを通過すれば良いんです。空間が揺らぐ事で重なる部分、我々はそこをゲートと呼んでいますが、ゲートは一定時間、移動しながら現れます。この世界に近い世界ほどゲートの現れている時間は長く、移動する速さはゆっくりです。だから知らず知らずの内にそのゲートを通過してしまうことがあるわけです。逆に言うと、貴方の人生を大きく変えたいなら、短時間、速いスピードで移動するゲートを通過すれば良いということです。そういうゲートを上手く駆け抜けることが出来れば貴方の人生は大きく変わります。でも予め言っておきますが、それが必ずしも今より良い人生かどうかは分かりませんよ。確かな事は、今の人生とは変わるという事だけです」
「そのゲートというのは見えるんですか?」
「ええ、それなんですが、多くの体験者の方は、意識して気を付けていれば分かると言っていますね。時々景色の一部がずれるように見えたりダブって見える事がありますよね? 普段は目の調子がおかしいと思って目をこすったりしてますけど、実はそれこそがゲートです。それを見つけたら猛ダッシュしてそこに突っ込めば良いそうです」
「体験者?」
「ええ、別の世界からこの世界に来た人は何人もいるんです。でも、彼等にとって、ここは以前の世界と設定は何も変わりません。ただ、過去のどこかの選択を変えた人生を歩む事になります。だからその人の人生が変わる」
「…」
「貴方も、人生を変えたいと思うなら、今日からそういう目で景色を見て下さい。ゲートを見つけて下さい。これで説明は終わりです。もし上手く別の世界へ行く事が出来たら、その世界の私に成功報酬として十万円ばかりお納め下さい」
そんな説明を受けて事務所から出てきたが、半分はバカバカしく思えた。
だが残りの半分は、もしかしたら…という気もしていた。
気を付けて景色を見るのか。
雑居ビルを出て街路樹を見ると木がぼやけて見え、ぼやけた部分が右から左へ速いスピードで動いていた。
正一は思わず駆け出した。
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