虫のいい話

文字数 1,877文字

「生まれ変わることができるなら蚊になりたいな」
 言いながら彼女は隣のベッドの上で寝返りを打った。服から覗かせた肌の色は透き通るほどに薄白く、腕は枯れ木のように痩せこけていた。
「それは鬱陶しい存在になりたいっていう解釈でいいの?」
 僕がぶっきらぼうに訊くと彼女は吹き出すように笑った。
「違うよ。だっていつもあんな能天気に宙を飛んで毎日を過ごしているんでしょ。気楽そうでいいじゃん」そのまま彼女は両手を勢いよく叩いてからしたり顔で僕を見る。「それに苦しまないで一瞬で死ねるしさ」
「そういうブラックジョークは返す言葉に迷うからやめてよ」僕は辟易するように言った。彼女からこんなブラックジョーク聞かされるのはもう何回目になるだろうか。「それに、数日前は猫に生まれ変わりたいって言っていたのに。死が近づくと飼い主から離れて死ぬのがかっこいいとか言ってさ」
 僕が言うと彼女は拗ねるように口を尖らせた。
「だって、よく考えてみたら猫が外の世界で生きていくにはネズミとか生ごみとか食べないといけないでしょ。糞は鼻が曲がりそうなほど臭うし。だから猫にはなりたくなくなったの」
 反論する気にもなれずに僕はため息をついてから窓の外へと意識を向けた。最初に狂ったように鳴くセミの声が耳に届いた。それが僕に何かをせかしているように聞こえた。目には雲一つない青い空が映って、その真ん中にある太陽が病室から出られない僕を嘲笑うように光を放っていた。
 それほどに、僕のいる世界は息苦しいものだった。

 すると、閃いたように彼女が口を開いた。
「どっちかっていうと今の私はセミみたいだ」
「なんでセミなの?」僕は言ってから、訊いた事をすぐに後悔した。少し考えれば分かることだったのに。
「だってほら、私の寿命も残り一週間じゃん。お揃いっていうこと」彼女は出会った頃よりも大分やつれてしまった顔をこっちに向けた。「ねぇ。セミがなんで雨の日に鳴かないのか知ってる?」
 僕はベッドに寝そべる体制を変えながら言った。
「さあね。セミが雨の日に鳴かないって言うのも知らなかったし、意識したこともなかったよ」
 彼女はそれを聞いて、わざとらしく大きな咳払いをしてから得意げに語り始めた。
「セミが鳴いている理由は求愛行動のためなんだって。オスが鳴くことで、メスに自分の位置を知らせて飛んできてもらうって言うわけ。でも、雨が降ると羽が濡れちゃうから飛べなくなるの。つまり、雨の日にどれだけ鳴いてもメスは飛んできてくれない。そのことをオスは分かっているから雨の日は鳴かないんだよ」彼女は区切るように大きく息を吐いて、呼吸を整えた。
「君は生まれ変わったら何になりたい?」
 その質問に僕はしばらく答えることができなかった。最終的に口から出たのは、一番初めに浮かんだ彼女を傷つけてしまうかもしれない答えだった。
「生まれ変われるなんて思っていないよ」僕は彼女から目線を逃がして、まくしたてるように続けた。「死んでしまったら無になると思う。ずっと寝ているのと同じ状態で、あるのはただの暗闇だよ。もしかしたら、自分が死んでいることにすら気が付かないかもしれない」
 どうしてこんなひどいことを言ってしまったのか分からない。きっと、僕は死ぬことを恐れていたんだと思う。だから、彼女が死に対してさほど恐怖を抱いていないのが羨ましかった。
 彼女は少しの間、黙っていた。背中を向けてしまっていたため彼女がどんな表情をしているのかは分からなかった。頬を膨らませて怒っているかもしれないし、呆れて声も出ないのかもしれない。もしかしたら、泣きそうな顔で唇を嚙んでいるのかもしれない。
 後悔の念に駆られる僕に、彼女は言った。
「君は優しい人だから、きっともう一度人間になれると私は思うな」
 その包み込むような優しい声音に、僕は今度こそ何も言うことができなかった。

 彼女は寿命残り三日前になると、自宅療養に切り替え病院を出て行った。最後の瞬間は自宅で過ごしたいという彼女の希望だったらしい。病院を出ていく日、彼女は僕に自分の携帯番号を渡していった。
「このまま、お別れになるのは悲しいからいつでも連絡してね」
 それが、人の姿をした彼女を見た最後だった。
 
 今日も僕は出るはずのない相手に電話を鳴らす。無音だった病室に無機質な呼び出し音が響いた。やがて、留守番電話に変わった画面に目を落としてから電話を切る。この意味のない行動が僕にできる唯一の手段であり、抵抗だった。

 暖かな日差しが差し込む窓に目を移す。
 狂ったように鳴いていたセミの声は、もう聞こえない。
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