第1話

文字数 3,486文字

 「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば・・・か。」和夫はつぶやいてみた。空を見上げてみても東京のどんより曇った空には鳥一匹も跳んでいず、どこかの店のアドバルーンが重々しく浮いているだけだ。和夫はコートの襟を立て、背中を丸め、待ち合わせの喫茶店に足取りを早めた。
 喫茶店のドアを押し、中に入ると、コーヒーの香りと人の息の臭さとが混ざり合った、むっとするような暖気が、和夫の体を包んだ。祥子はまだ来ていない。腕時計を見ると四時五分前だった。あと五分あるな、と思いながら和夫は店員にコーヒーを注文し、タバコに火をつけた。タバコの煙を吸いながら、和夫は郷里北海道の澄み切った青い空を思い出していた。半球状に広がるあの北海道の空の下には何かがあった。というよりは、北海道に住んでいたころのぼくに内在していたと言うべきであろう。それは、ただの若さであったのかもしれない。しかし、若さと一言で片づけてしまえない、ぼく自身の可能性とも言うべきものがあったのではないだろうか、と和夫は考えていた。
 タバコの灰がズボンに落ちた瞬間、和夫はふいにあの青い空の下で気球に乗ってみたいと思った。タバコの灰を手で払いながら、和夫はその気まぐれな思いつきが見る見るうちに頭の中で膨らんでいくのを意識した。いつの間にか、そうすることをずっと前から望んでいたかのように思えてきて、気球を作るにはどうすればいいのだろうかと考えだしていた。和夫は、下宿に熱気球の作り方が記載してある雑誌があったことを思い出し、あれは何の雑誌だったかなと考えているところへ祥子がやってきた。
 祥子は、コートの雪を払い、少し息を切らせながら、
「雪が降りだしたわよ。」
と、子どものように嬉々として言った。東京生まれの祥子にとって、雪は珍しく、雪が降ることは喜びであった。和夫は、気球のことを頭から追い払うと
「北海道じゃ、この位の雪は降ったうちには入らないんだ。二メートルも三メートルも積もるから、ぼくなんか雪を見るとうんざりするよ。うん、そうだ、春休みにぼくの家に遊びに来ないか。スキーを教えてやるよ。」
「行こうかな。けど、その前に試験があるから、スキーの話はテストが済んでからね。」
そう言うと、祥子は店員にミルクティーを注文した。英文科で二回生の祥子は試験科目も多かった。商学部で三回生の和夫は、もう大方の単位を取ってしまい、四回生になったら就職活動に乗り出すつもりだった。
「私、来週から家庭教師をすることになったの。」
と、祥子は家庭教師のことを話し出したが、和夫は気球のことが頭からこびりついて離れず、祥子の話に適当に相槌を打ちながら、気球のことを考えていた。
 どれ位の大きさだったら人が乗ることができるだろうか。費用はいくら位かかるだろうか。今のアパートは手狭だから、どこかもっと広いところを捜すことにしよう。一人ではとても無理だから、そうだ、津田に手伝ってもらおう。津田なら理系だし、こういうことが好きだから喜んで手伝ってくれるだろう。ゴンドラは何で作ろうか。軽い方がいいが底が抜けてしまったら困るし・・・とあれこれ考えていたがどうしても落ち着かず、腰を据えて考えたいと思い、祥子の話が途切れた時に
「今日中に仕上げなければいけないレポートがあるから今日はもう帰るよ。」と言って早々に店を出た。祥子を家まで送りとどけると、和夫は急いで電車に乗り込んだ。電車に揺られながら、自分自身に問うてみた。
--本気でやるつもりなのか。
--うん、そうだ。
--来週からある試験はどうするつもりだ。
和夫は思いついたらすぐに始めなければ気の済まない性格であり、時を待つなんてこととは無縁の性格であった。
--今回はパスする。卒業までに取らないといけない単位はあと少しだから来年にでも取ればいい。どうしても今すぐやりたい。僕は山上憶良とは違う。飛び立たなければならない。
--何から飛び立つのか。
--それは、しっかりとは分からない。しかし、ぼくは今、何かに縛られている。この状態から何としてでも脱しなければならない。
--気球を飛ばすことが、そして乗ることが、その状態から脱することになるのか。
 その答えが出る前に電車は和夫の降りる駅に着いた。和夫は小走りに改札を通り抜け急いでアパートまで帰ると、気球の作り方の載っていた雑誌を捜し出し、それを読んだ。しかし、それは素材がサランラップという「ちゃち」なものであり、大きさも直径が3メートルという小さなものであった。まさかサランラップでは人は乗れまいと思い、和夫は苦笑いした。
 それから夜明け近くまでかけて考えた挙句、次のような計画を立てた。
 材質は薄手の黒のビニール。これは黒のゴミ袋と同じ材質のもので畑なのでよく見かける、農業用マルチと言われているあれだ。気球の大きさは直径10メートル位。この大きさだと外気温を10度とした場合、気球内の温度を90度まで上げれば120キログラムの浮力が生じる。和夫は気球の事を思いついた時点から気球イコール熱気球と考えていた。人が乗るゴンドラは竹を編んだものを使用する。気球を上げる場所は北海道。時期は気球が完成したらすぐ等々。
 和夫は翌日から行動を開始した。今のアパートとは別に千葉に3DKの平屋の一軒家を借りた。津田の協力の快諾も得た。津田はもう一人近藤という彼の後輩を連れてきた。和夫は、津田と近藤という男に計画の詳細を話した。話を聞き終えた津田は和夫に尋ねた。
「何も農業用マルチで作らなくても、気球専用の丈夫な素材の物があるんだし、そっちの方を使ったらどうだい。それに熱気球じゃなくてもヘリウムを使った方が浮力が大きいから、大きさも小さくて済むと思うんだが、どうだろうか。」
「うん。それは確かにそうだか、ぼくはどうしても熱気球がいいんだ。それに黒ビニールという安易さ、不確かさが何とも言えないんだ。」
「けど、気球が舞い上がった後の調節はどうするんだい。ビニールの耐久性を調べてみないと分からないけど、どう考えてもガスバーナーだとかガスボンベは積めそうにないぜ。」
「それも考えてみたけど、ボンベなんかつけないで、浮力を蓄えておいて一気に上昇させるつもりだ。」
「そんなんで大丈夫なのか。まあ、お前がそうするって言うのなら俺は何も言わないが。」
と津田は呆れた顔で言った。それから3人で、気球を作る上で必要なものを買い集め、千葉の一軒家に運んだ。
 その翌日から、作業を開始した。しかし、なかなか思うように進まず、時間ばかりが過ぎていった。だが、和夫は全く焦らなかった。遅々として進まないように見えても確実に前に進んでいるという確信と充実感に満ち溢れていた。試験期間に入ると、津田と近藤はしばしの休暇を申し出、和夫は一人でやることになった。一人では全くはかどらなかったが、和夫は誰に邪魔されることなく精神の高揚を感じることができた。時々、祥子が食事を作りに来てくれた。祥子は気球を作ることについて、反対とも賛成とも何も言わなかった。ある時、祥子は言った。
「こんなんで、本当に飛ばせることができるの。」
「うん。絶対に飛ぶ。飛ばせてみせる。そうだ。君も北海道に来るだろう?北海道で飛ばすんだ。飛ばす日はまだ決まってないけど。たぶん3月の中旬ごろになると思う。」
「行くわ。だけど、飛ばなかったらどうするの?」
「どうするったってどうしようすもないな。飛ばすしかない。」
実際、和夫は飛ぶものと信じていた。
 試験期間が終わり二人が復帰し、一軒家に閉じこもって作業を続け、丸20日間かけてようやく気球は完成した。それから一日がかりで点検した。その後二日の休息をとった後、気球を車に詰め込み北海道に向けて出発した。
 その日は、快晴であった。大雪のすそ野にはまだ1メートル近い雪が残っていた。ガスバーナーで温かい空気を気球に送り込むと、気球は徐々に膨らみ、浮力を増していった。気球が張り裂けんばかりに膨れ上がり、ゴンドラが取り付けられた。ゴンドラに和夫が乗り込む。皆がゴンドラからゆっくり手を離すと気球はすぅーっと上がり、見る見るうちに地上から離れていった。和夫は、だんだんと遠ざかっていく地上を見て、今まで感じたことのない充実感を覚えた。が、次の瞬間、何とも言い表しがたい寂しさを感じた。もう遊びは終わった。終わってしまったのだ。明日からは、またいつもの、何かに縛られた重苦しい日々が続くのだ。結局、何も変わりはしなかった、と思い、軽い眩暈を覚えながらも、地上に向かって力いっぱい手を振った。
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