第1話

文字数 9,223文字

貧しき棟の夫妻





















 貧窮するということがどのようなものか、二十三の私は未だ識らなかった。
 太宰治の小説ではないが、食卓でまいにち飯を食らうことが、自らの命を繋ぎとめるのに欠かせない行いであるという実感を、それまでの私は抱いてはいなかった。餓えるまでは、すなわち、私は私の人生というものを真に生きてはいなかったのだ。金がない、ということが、人間の心をどんなに蝕み腐食せしめるか―
 が、思えば食うに困らぬ分に加えて、娯楽に放蕩にと思いきり金を注ぎこんでいた学生の頃より、ようやく親の庇護を脱け、銀行の口座残高を調べるたび内臓を噛まれるような焦慮に苛まれる現在の方が、人生というものは鮮明な姿をして見える。通帳に記載された数の並びは私の生活を規定し、私の骨肉を規定している。飢餓が鮮明である分だけ、満足も充実もいっそうリアルに味わえるのだ。
 貧しさについて、まともに考えたのは結婚してすぐのことだった。
 時宜にそぐわぬ学生結婚を遂げた私と妻は、世田谷区の郊外にある公営団地で蜜月を送った。それまでは祖父母の使っていた一階の部屋は、祖父の病死を機に祖母を実家に引き取るという事情のために、月四万の家賃さえ払えば私たち夫妻が自由に棲んでよいことが決まった。
 築五十年をゆうに超えた公団は、銀杏並木の茂る舗道と、金網のフェンスに囲まれた広大な空地に挟まれて、閉鎖病棟のように重々しく聳え建っていた。年月に晒されたモルタルの外壁は、煙草のけむりの染みたような黄ばみを全貌に帯びて、一階の世帯それぞれの土地である猫の額ほどの庭には、夏になれば卵から孵化した蟷螂の幼虫が夥しく這い回るだろう、雑草が長く伸びていた。
 北陸の、それなりに裕福な家で育った妻に、この新居は少なからぬ驚きを与えた。傷んだ畳張りの床、襖紙の剥がれかかった和室、施錠するたびに赤い錆の落ちる窓、炊事場の流しには、今では珍しくなったプロパンガスの給湯器があり、同じように天井の低い浴室にも、バランス釜という旧型の浴槽があった。それら調度は、ふたりの老人が長い時間をかけ残していった饐えた汗のような生活の臭いのなかで、沈黙を保つようにただ存在していた。
「凄いところ」妻は、太い突っ張り棒で永久に固定された紫檀の箪笥を、撫でようとした手をしかし引っ込めた。
「短い辛抱だよ」祖父の遺影に供えられた水を代えつつ私は答えた。
「金が溜まったら、こんなとこすぐに引っ越してやる」
 事実、学生の身分でありながら結婚し、職も貯金もない私たちにとって、その公団の部屋はありがたかった、言い出せばきりのないほど不満はあったが。

 あえて一つ、公団について述懐すれば、夜、その部屋はほんとうに寒かった。公団の建てられた当時と現在で、窓というものは、ここまで耐寒性の進歩を経ていたのかと感動したほどに。エアコンはあったが、旧型のせいか、つけると咽喉が妙にいがついたため、妻の反対で使用を控えた。居間の、炬燵を点けっぱなしにして、床に敷いた布団との間に体をいれてみても、夜の寒さは依然として消えなかった。妻は歯を鳴らし、ひとつの布団のなかで、抱き合いながら体を温めて私たちは床についた。
 月灯りの加減で、蒼く染まった室内で、私は震える妻の体を抱いて、これまでと、これからの人生をよく考えた。都の、西北にある私立大には、卒業を控えた次の春で、六年間通ったことになる。就職活動を、私は行わなかった。面接のための書類を記入するにあたり、家族との思い出について簡単なエピソードを書けという項目で、私の指は、全く動かなくなってしまった。その質問を、気軽に作成した人物の他意のなさと、自分の躊躇と沈黙とが、そっくりそのまま社会と私との距離なのだと思った。
 妻のからだは小さく震え、しかし温かかった。私は、私自身の体温が皮膚から皮膚へまるごと妻に移ればいいと、体をきつく抱きしめた。今までに、何度も、そんな風にして迎えた夜明けがあった。

 ところで十八から二十三にかけて、大学生活の五年間を、私は主に新宿で過ごした。法的に、倫理的に、書くことのできぬことも山のように起きた。そして、いまだ自分にとって始末がつかず、私自身の個人的な都合によって、書くことができずにいることも。が、私をそのような場所に赴かせたものは、まぎれもなく私に開いた傷口であった。けだし人間の個性とは、その傷の種類いかんによってではなく、治療のされ方によって決まるのでないか。新宿に、集まる人間の傷はその数だけあったが、その治療の方法は、どれもこれも似たようなものだった。すなわちアルコールによる消毒と、セックスによる縫合である。都会という巨大な病巣を構成する患者の一員として、私もまたアスファルトの寝台に仰向けに横たわり、兄の記憶を皮膚のなかに隠蔽した。

 一月中旬、つめたい夜気に身を包み、一組の来客がわれらの公団を訪れた。扉を開けた妻は、ワ、と明るい声を上げた。
「ひさしぶり」と義久は言い、彼の後ろから樺が貌を見せた。吐く息が白く輝いている。
「わざわざありがとう」と妻は二人を居間へ通した。炬燵のなかで蜜柑を剥いていた私と対面すると、義久はなぜか照れたようにはにかんだ。
「素敵なお家――」と便宜的に樺が言って、厭味に響いたことを恐れたのだろうか、本当に、と無意味につけくわえた。
「酷いところだろ」と私は笑った。「けど、すべてはここから始めようじゃないか」
「いつまでここに棲む気だ」義久が訊いた。
「長くたってせいぜい半年かな、金が溜まり次第出ていくさ」
「そうか――」
「まあ、座れよ。寒いだろ」
 四人は炬燵を囲んで座り、私と義久、妻と樺がそれぞれ向かいあう姿となった。提げていた紙袋から日本酒の瓶を取り出すと、結婚祝いだ、と義久は天板に置いた。四人で飲もうと私は言い、炊事場からコップを四つ運んだ。常温で運ばれた酒は、しかし程よく冷えていた。
「あっという間だな」と義久は言った。
 入学したての大学で、はじめて言葉を交わしたのが他ならぬ義久であった。放浪癖がある義久は講義にはほとんど出ず、しょっちゅう国内外へ飛び回っていたため疎遠になる時期もあったが、私にとって唯一大学の友人だと呼べるのは彼ひとりであった。
 私と妻が結婚する二月前、義久は、樺の腹にできた子を中絶させた。樺からの電話でそれを知ったとき、義久が彼女に、最後まで産んでほしいと願ったことを聞き、言いようのない怒りが込み上げてきたのをよく覚えている。行き場のない、しかし烈しく暗い怒りであった。
 お互いの両親にさえ秘密裡に婚姻届けを区役所に出したとき、私が保証人の欄に判を押すことを頼んだのは、やはり義久と樺だった。自分のすることに、他人のくれる承諾などいるかと思ったが、もし誰かの許しのようなものが必要ならば、それは彼らであってほしいと訳もわからず強く思ったのだった。

「不思議な感じ」と、二人が帰った後で妻が独り言ちた。
「みんな、今までは、同じような生活してたじゃん。二十過ぎで、学生で―、でも私はもう結婚してるから、他の子のおくる卒業後の生活とはすこし違うものになるわけね。そうやって、じぶんが人生の分岐路に立っているって、さいきんよく自覚するの」
 酒に紅潮した貌をほころばせ、妻は、困ったような笑みをつくった。
「こういうのってセンチメンタルかね」
「いや―」
 後悔してないか、と、言いかけた言葉を私は飲んだ。
 空地の拡がる窓外の景色を横断している、幾本かの電線に鴉が群れている。夜の帳が彼方から降りてきて、鴉どもの姿は空に近いものから夕闇に紛れていった、薄紫色の地平を遠く背負って。
 もともと綺麗好きの妻が水場を拒んだため、公団から駅にかけての商店街の一角にある銭湯で入浴を済ませたころ、人気のない舗道にはもう水銀灯が灯っていた。澄んだ夜気に、吐く息はことごとく凍った。星屑と、人工衛星の光が冬空に霞んで見えた。

 かつて義久と親しくなったばかりの頃、大学のそばに下宿していた彼のアパートで、はじめて書いた自分の小説を読んでもらったことがある。私は十八か十九で、義久も二十になりたての頃だった。理由は分からぬが、その頃の私はとにかく何かが作りたくてたまらなく、絵でも写真でも映画でも演劇でも構わなかったが、一番手っ取り早く始められるという理由で小説を選んだ。原稿用紙で百五十枚ほどのつたない処女作は、結局新人賞の候補どまりで落ちてしまったが、そんなことよりも私には、はじめての読者たる義久が、自分の書いたものを面白く読んでくれたことが純粋に嬉しかった。
 率直に言えば、その時私は安堵したのだ、おれの陥っていた状態は決して異常なものでなく、現代の青年の背負う病の一つなのだ、と。当時の私は、必要に迫られてその小説を書いた。書くという行為によって、つまり手段の熟練が目的を無効化することを期待して、初めて創作の場における産声を発したのである。
 その小説のテーマこそが離人症であった。いま、乏しいながらも当時よりは知識を得、世界は固まり――そのおかげでかつての危機感に裏打ちされた表現衝動は勢いを潜めてしまったわけだが――、時代というものの姿がおぼろげながら見えるようになったからこそ、そういった症状は決して現代人特有のものでないと述べることはできよう。が、その頃の私は少なくとも、そのために原稿用紙に文字を書いては消し、その作業を二か月近く続けねばならないほどには、自らの症状に自我の危機を感じていた。で義久が私の処女作に共感をしめしてくれた時、大洋の遭難者がようやく陸続きの地に泳ぎ着いたごとく、私は自己と社会との接点を見出したのだった。いわば現実からの乖離を書くことによって、私は現実に帰着したのだ。

 義久たちが公団に訪れてから卒業まで、ほんの二か月足らずの間に、私の周囲の状況は驚くほど性急な変化を遂げた。前触れなく、実家にいる母から連絡を受けた私はすぐに成城の自宅へと帰省し、父の容体を確かめるべく急いた。顔面神経麻痺、というのが父の病名だった。原因の大半は心裡的なストレスらしく、ステロイド剤を服用すればやがて快方に向かうとのことだった。ストレスの原因は、新しく家庭に追加された血の繋がらぬ認知症の義母と、統合失調症の経過が思わしくなく、精神的にも経済的にも自立する日は遠いだろう長男と、将来の見通しも立たぬまま身勝手な学生結婚など遂げたその弟だと私は思った。
「実は、うがいをするのが一番つらい」老いた父は右半分の顔面を動かさず告げた。瞼も頬も唇も、自由のきく左半面の筋肉の動きに釣られて引っ張られるだけで、何か人工的につくられた、粘土でできた皮膚のように見えた。母の表情の翳りから、これからの生活に不穏な、滅びの影が差すのを私は感じた。居間のカウチに座る認知症の祖母は剥製のように静止して、しかし殺気立った瞳を忙しなく動かしている。
 いよいよ踏ん張らねばならぬ時が来たと私は腹を決めた。公団に戻ると、心配そうな眼差しを妻が私に向けている。このちっぽけな安息の場所を、おれはどうしても護らねばならぬ。不意に、嵐のなか難破した船から、ボートで脱出する己の姿が脳裏に湧いた。不格好な小舟には、私と妻だけが乗っている。
 どろ船だ、と思うと同時に、なぜなのか込み上げてくる痛快さがあった。

 新宿で過ごしていた時期、私は清濁さまざまな仕事を経験したが、今、新しく船を出すに及び、穢れた仕事はもうしたくなかった。まっとうな仕事、社会に向かって、というより自らに流れる血と運命に対し胸を張れる仕事だけをしていきたかった。そして、願わくば良い暮らしがしたかった。裕福な、というわけでなく、少なくともあの公団を引っ越し、夜気のなかで妻を凍えさせることもなく、人並みの幸福を築くことができたら―。
 すでに世間一般のなかで、スーツを着込みネクタイを締めるような仕事には耐えられぬだろうことを自覚していた私は、その晩冬から下北沢の外れにある製菓工場で働き始めた。すなわち生卵と小麦粉とバターでタネをつくり、二百度を越える業務用の巨大オーブンの型のなかに流し込んでは焼くという、大学で身に着けた自然科学の知識をまるきり要さぬ反復作業である。
 あらゆる仕事にも長短があるが、工場での仕事にもむろん良い面と悪い面があった。良い面はそれがワン・オペレーションで、つまり誰にも気遣わず完遂できる作業であったことで、悪い面は仕事の始まりが遅いことだった。昼間は本職のパティシエが作業するため、素人でも作れるようなシュークリームの皮などは夜の間に仕込まねばならない。
 夜中の十時を過ぎてから自転車で公団から工場に向かい、始発すぎの時刻に公団に帰ってくるという生活が続いた。強烈な金属音に痺れる鼓膜にも、二重にした軍手で触っても火傷する掌にも慣れ始めた頃、私はそれまで入り浸っていた新宿の街にほとんど行かなくなっている自分自身に気がついた、確かに多忙な日々ではあったが、脚を運ぼうと思えばどうにでもなったはずなのに。しかしその頃にはもう、そもそも新宿に行きたいなどという欲望すら芽生えなくなっていた。わざわざ混乱のなかに再び飛び込んでいくよりも、工場での作業を終え、冬の朝焼けの眩しさに眼を細めながら喫む煙草の美味さの方が私にとって新鮮であった。鳴りやまぬ耳鳴りを煩わしく感じ、肉体労働でふらつく脚で自転車を漕ぎ、公団に帰るといつも、妻は起きて私の帰りを待っていてくれていた。

 卒業式の日には、義久の下宿先に妻とともに訪問し、すでに待っていた樺も含め四人で焼酎を飲んだ。すでに映像作家として働いていた義久は、私の現在の仕事が肉体労働であることに異を唱え、知人に頼めば小規模の出版社で翻訳の仕事の口を紹介できると言ってくれたが、私は謹んで辞退した。
 妻と樺が女同士で散歩でもしたいと、まだ肌寒い学生街へと出歩いて行ったあと、男二人のぎこちない沈黙が室内を埋めた。
「しばらく、会えなくなるかもな」不意に義久が口を開いた。
「ああ、卒業したら、東京はもう離れようと思ってる」
「何か理由でもあるのか、奥さんの故郷に帰ったり――」
「いや、もう飽きたよ。二十三年もいたんだ」
「仕事はどうすんだ」
「先々で見つけるさ、まあ、何とかなるだろう」
 義久は呆れたようにため息をつき、しかしどこか嬉しそうに微笑んで頷いた。
「死ぬなよ」と、私の唯一の友人は言った。
「俺もお前も、きっと同じような人種だ」
 私は頷いた、茶化すことのできぬ覚悟めいたものを友人の言葉に根拠なく信じて。

 転居の日は、予想より早く訪れた。少なくとも半年は棲むはずだった公団を、二月の短さで離れることになったのは、厄災、といって差し支えない出来事が妻の身に起こったことが原因であった。風の荒く吹きすさぶ夜、卒業してから数日がたったころ、まだ身を切るように冷たい三月の夜気のなかで自転車を走らせ工場に向かっていた私は、降りの斜面で派手に転倒して利き腕である右上腕を折った。アスファルトに削られた頬からは肉の色がのぞき見え、顔だけでなく腿や膝にも豪快な擦り傷を負った。
 しばらく仕事を休み、ギプスをつけて療養することが決まった際、私の頭には不安の影がよぎった。肉体労働者である私は、この体なくしては飯を食うこともままならぬのだ!長らく忘れていた自分の肉体が、突如としてその存在を主張し始めた。
 結局全治にはひと月ほどかかり、その間じゅう私は仕事を休みずっと公団にいた。
 そして悲劇はその期間に起こった。

 ようやく僅かながら寒さの和らぎだした晩冬の暮れ、広大な空地に降りそぼつ糠雨を眺めつつ、私はベランダの安楽椅子に凭れてマルボロを喫んでいた。祖父の使っていた缶型の灰皿に屑を落とし、私は、死んだ祖父も、実家に引き取られた祖母も、生涯の大半をここで過ごしたのかという想念に浸った。沖縄で産まれ育った祖父は戦後に本土へと渡り、大阪でタクシーの運転手を勤めたのち、上京し定年まで土方として働き抜いた。熊本で旅館の女給をやっていた祖母と、どの時期に知り合ったのかは分からなかったが、いつか沖縄の海をもう一度見たい、と常日頃から親族へ話していた祖父は、ついにその願いを叶えることなく死んだ、破裂した脳血管の作用で意識不明の状態に陥り、寝たきりの病床で皮膚の下にはちきれんばかりの水を詰め、人間のからだとは思えぬほど固く大きく膨張した姿で、遺産の代わりに、認知症の症状で実の娘の顔も分からず、せん妄のおかげで夜になれば狂ったように泣き叫び暴れまわる妻だけをこの世界に残して。
 それと同じ血が私のからだにも確かに流れているのだ。
 雨粒は空気中の花粉を吸いこんで、庭の金柑の樹木や雑草を伝い、地中に深々と浸みこんでいく。窓越しに部屋のなかに眼をやると、外に較べ明るい室内で、妻が、畳張りの床を掃除している、掃除機でなく、ウェットティッシュのようなもので、散らばった生活の破片を摘まみ上げてはポリ袋に棄てていく。
 死んだ祖父に結婚を告げた際、祖父はカップ酒で赤らんだ顔を顰め、苦々しく私の祖母を、つまり自らの妻を見やった。その場所も、たしかにこの公団であった。私と祖父は炬燵越しに向かいあい、祖母は、炊事場で何かしていた。
「だったら、まあ、――なんだ、」呂律の回らぬ口ぶりで、祖父は私に告げた、男尊女卑の時勢に生きた男の尊大さを存分に発揮して。
「女房、ちゃんと躾けてやらにゃ――」
 その言葉を聞いた時、私は心から祖父を憎んだ。このような愚昧な土人の血が自分の体内に流れているという事実さえも我慢ならなかった。中座しようと腰を浮かせかけたとき、祖母が炊事場から炒飯を盛った皿を手にやってきた。礼を言い、仕方なく平らげたが、満腹になっても怒りは消えなかった。以来、祖父が病室で息を引き取るその日まで、私は一度も見舞いには行かなかった。
 妻が、室内から私を呼んだ。拡げたウェットティッシュを私の前に差し出し、
「これ、何だと思う?」
 見ると白い布紙のうえに、消しゴムのかすのような、黒ずんだ物体が転がっている。
「さあ――」
「掃除しても気がついたらまた落ちてるの」
「埃か何かかな、見当もつかない」
「うーん」妻は首を傾げ、折り畳んだ布紙ごとポリ袋に棄てた。

 カーテンの隙間から差しこんだ光の筒のなかを、大気中の埃がじりじりと泳いでいる。夜の間も雨は降り続いた。私はいつも通り布団と炬燵の間で、妻のからだを両腕で抱いた。
「ちゃんと躾けてやれ」という祖父の声と、はらわたの煮えくり返るような憤怒を追想するたびに、知らず知らず腕に力が籠った。
 そのとき妻が、私の肘を軽くつねって、「怖い」と、張り詰めた声音で言った。
 同時に、襖の向こうで、ガザガザと何か物の動く気配があった。狼狽したが、静かに体を起こし、私は襖の方を見やった。それは明らかに生き物の動く気配であった。
 すぐに浮かんだのは、死んだ祖父の霊が怪談のようにあらわれて、悪戯でもしているのかという馬鹿げた考えであった。が、死霊の立てる音としては、それはあまりにも生々しすぎた。襖を爪で掻くような耳障りな音が暫く続くと、私は枕を掴み上げ、襖に向かって投げつけた。
 けだものの奔りまわる音がして、新宿でさんざ耳にした、神経を逆撫でするあの不快な鳴き声を上げ、死霊は襖の向こうから去った。立ち上がって電灯を点け、妻の顔を見下ろすと、血の気の失せたような顔で私の膝に冷たい頬をつけている。
「ただの鼠だ、心配ないよ――」
「鼠―――」と妻は呟き、何かに気がついたようにはっと息を飲んだ。
「あの黒いてんてん、もしかして―――」
 眼を丸くした妻が言い終わる前に私にもその正体が分かった。
「糞か――」
 今にも気絶しそうなほど青ざめた妻は、眉をあげ、微笑みのようなものを貌に表した。がむろんそれは微笑みなどでなく、限りなく純粋な怯えの表情であった。
「大丈夫か」
「トイレ、行きたいけどもう怖い」
「行こう、おれも付いてくよ」
 襖を開け、畳から板張りに変わる廊下を入念に確認しながら、私たちは一歩ずつ足を進めた。時間をかけて便所に辿り着くと、妻は扉を閉め、私は廊下で妻が用を足すのを待った。炊事場の矩形の窓のなかに、降り続く雨と水銀灯の光が見えた。
 やがて水の流れる音が聞え、妻が出てくるかと思った矢先、
「うぎゃああああああっ!」と凄まじい悲鳴が扉の向こうから聞こえた。何事かと思わずノブを捻ると、鍵は開いていて、便器の前に立ち尽くす妻の背中が眼の前にあった。
「どうしたっ」と私が訊ねると、妻は必死に呼吸を落ち着かせ、次にその全身を思いきり痙攣させた。
「紙ッ、取ろうとしたら天井からこれが―――」
 床を見ると、夥しい数のあの黒い物体が散乱している、何が起きたか私にはすぐに分かった。使い切ったトイレットペーパーを代えようと天井に手を伸ばした妻の頭に、その詰め替え袋のうえに転がっていた大量の糞粒が豪快に降り注いできたのだ。
 妻はほとんど過呼吸になって、涙さえ流さずに肩を震わせている。私は急いで妻を連れて居間へと戻り、服を脱がせて全身に糞が残っていないか確かめた。まだ開いている銭湯を探そうと携帯を開いたとき、背中に温かい感触を感じ、振り返ると妻が私の背に縋りついていた。
「引っ越そう、もう―――」と私は言った。妻は無言のまま激しく頷いた。
 泣きじゃくる妻の声を背中越しに聞きながら、その時私は分かったのである。これが、貧乏なのだ。これが、貧困なのだ。貧しい、ということは、愛する妻の頭に糞の雨を降り注がせることと同義なのだ、それも醜いけだものどもの。
 しかし妻には心底申し訳ないが、胸のすくような痛快さが私のなかに込み上げてきた。これが貧乏なのだ、と思うと同時に、これが人生なのだ、という溢れんばかりの実感も、体の奥からとめどなく湧いてくるのだった。

 ゼロからでもマイナスからでも何でもいいが、少なくともその瞬間が、私の実人生の始まりであった。生活保護受給者だらけの古ぼけた公団で、泣き止まぬ妻を背中に負って、深夜営業の銭湯を大慌てで探したその冬の雨の夜が。
 その日から、ようやく一年がたった。
 建築法に違反しかかった公団は、そこから少し離れた場所への再建が決まり、今ではもう住民は立ち退いて、ただ重々しい外観だけを銀杏並木の一角に残している。いつになるのかは知らないが、そのうち取り壊される予定であろう。私たちの方は今でこそようやく生活も落ち着き、多少なりマシな暮らしができるようになったが、何かにつけて私はその公団で暮らしていた短い時期を思い出す。
 私と妻を除き誰も知り得ない、貧しきわれらの蜜月を。
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