第1話

文字数 4,059文字

ふうう。



深い嘆息が聞こえる。

昼間でも薄暗い竹林の中の道の脇の石の上に座り、老婆がひとり、俯いている。

深く深く項垂れているらしい。

長くて乱れた白髪が下に垂れて、今にも地面に着きそうになっている。
風が通る。どこからか微かに潮騒と、潮の香が感じられる。
ここは海が近いらしい。

そう思って足元をみれば、なるほど竹林とは言っても下は砂地で、そう言われてみれば、周りは薄暗いとも薄明るいとも言えるような、夕日の差しこむ、林ともいえぬ林だった。

ふうう。

老婆の嘆息は続く。
なにかブツブツと呟いているようだが、とても小さな声である。
この距離でもよくは聞き取れない。

痩せていて、髪は長く、まったく手入れがされていないざんばら髪だ。橙の陽の光の具合で定かにはわからないが、白い、黄ばんだ着物を身につけており、顔色は病人のように青黒い。

それでいて体は大きい。背が高いというよりは、大きな、老婆なのだった。

ふうう。

みたび嘆息をして老婆が立ち上がる。

やはり大きい。異様、といっていい大きさだ。うずくまっていたのでハキとはわからなかったが、立ち上がるとよくわかる。地面に着きそうになっていた髪は長く、腰ほどまであろうか。

老婆は道を行きも戻りもせずに、おもむろに傍らの竹藪に入っていく。
不思議なことに行く手にある笹の葉はひとつも揺れない。
そうして、老婆はスウっと竹林の中に消えていったのだった。

ぼくは、なにか見てはいけないものを見てしまったのかもしれないと、思った。

思わず右胸を押えて、元来た道を駆け戻る。
少し戻れば小学校がある。まだ先生たちは職員室にいるだろうか。

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薄くなっているといえばいいだろうか。

「あたしゃあ、どうしちまったのだろう」

声に出してみるが、誰も応えない。

昔からそうなのだ。いつが昔なのかも老婆にはよくわかっていないのだけれど、兎に角昔から、そうなのだ。老婆はいつも一人である。

老婆はその理由を考えている。

そもそも老婆は自分がなんなのかもよくわからないでいるのだ。

老婆の思っていることを強いて表現するのであれば、老婆は自分を、林の中の淀み、だと思っている。

渇くことも飢えることもない。

自らに具体的に物理的な質量を感じていない。

そしてそれは正解にだいぶ近いことも、老婆は知らない。

老婆はいつも、子供を待っている。

いつもとは、いつも夕方に、という意味である。
朝や昼や夜や、そういうはっきりとした時間は、老婆の時間ではないのだ。

また、いつもとは言っても、毎日という意味ではない。
毎日ではなく、いつも、なのだ。

林の中の短い道の、入口と出口の真ん中あたりのグネッっとひしゃげたU字になっている場所。入口と出口の真ん中の、Uの底のだいたいその辺り。入口の近くにも、出口の近くにも老婆は、ない。

老婆はいつも、子供を待っている。

いや、待っている、というのも違おうか。ないとは決まっていない、という状態でいる。

小学校の帰り道。

通学路ではない道だということはみんな知っているけれど、3分ほど近道なのだ。

図書館で夢中で本を読んでいて、気づいたらいつもより少しだけ、学校を出る時間が遅い。家路を急ぐのだ林を通り抜けて。

なんのことはない。時間にしてほんの5分もない、短い竹林である。
フッとヒンヤリとした空気が流れて、なにかが気になって思わず後ろを振り返る。

なにもない。

ふう、と力を抜いて、さて先を急ごうと前を向く。

そこに、老婆はある。

老婆も実は平静ではない。十分に驚いているのだ。

突然目の前に、驚きの余り呆けているか、恐怖の余り叫び声をあげている小学生が現れるのである。なんどやっても慣れない、と老婆は思う。

そう思いながらも老婆は、お化け屋敷の機械仕掛けの人形のように、毎回規則正しい同じ動きをした。

まずは両手を大きく上げて、ちょうどよく鋭くなっている伸ばし放題の爪を見せながら、出来る限り下の方から伸びあがる。
一、二、三歩、近づいて、もう一度大きく伸びる。
それから地の底から這い上がってくるような低い声で、出来得る限りビブラートを利かせながら、それでも聞き間違いを起こさせないように細心の注意を払って、こう言うのだ。

「な~ふ~だ~、おいてけ~」

そうしておいて、ゆっくり3秒ほど待ってから、小学生の右胸に手を伸ばし名札を毟り取る。

名札には洋服に縫い付けてある場合と、安全ピンで止めてあるパターンがあるのだが、必ず洋服を傷つけてはいけない。
名札だけを、洋服を傷つけないように、かつ、毟り取ることが必要なのだった。

毟り取ったら、ニヤリと笑いかけ、笹の中に消えていく。

それで終いだ。

小学生は立ち上がり、夢遊病者のように頼りない足どりで歩き出し、直ぐに思い直したように全速力で駆けて、林を抜けていくのだが、老婆は振り返らないので、そのことは知らない。

笹の中に消えていくまでは、「ある」のであって、そのあとは「ない」のだった。

敢えてあるとするならば、林の中の淀み、のようなものとして、である。

何人かの子供は、叫びながら、
「名札とりババアだー!」
と、言う。

だから、ババアは、「あたしは名札取りババアというものらしい」とは思っているようだ。ただし、ババアは、肝心の名札がなんたるかは知らない。

諸兄はご存じだろうか。小学生が、自分の姓名と血液型、時には住所を書いた札を常に身に着けている。それが名札だ。概ね母親が記載をすることが多いのだろうが、一般的には右胸に着けておく、迷子や事故にあったときの身元確認用の仕組みである。

ババアは淀みながら、曖昧な意識の中で考える。

-あたしゃあ、なんなのだろうか

ババアには皆目わからない。
そもそも考えることが出来るようにはなっていないのだ。

言ってみれば、都市伝説か妖怪の類なのであろう。
そしておそらくこのババアの怪は、極めてローカルな、か細い怪である。
学術的な研究にもひっかからないし、テレビ番組にも取り上げられない、それはそれはか細いものだ。

噂、の域を出ないほどのものなのかもしれない。

ババアはいつも単数である。数える単位すらもない。
日本語に、名札取りババア達、という言葉は存在しない。
仲間もいない、孤独なババアなのである。

だが、ババアにとっては、それもこれもどうでもいいことだ。
彼女の目下の悩みは、自らが消えかかっていることにある。

ふうう。

-あたしゃあ、どうしちまったのだろう

淀み、また嘆息する。

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想像するに、竹林の笹や枝を洋服にひっかけて、名札を無くす小学生がいたのだろう。そうして、通学路から外れた薄暗い、危ないところを通って家に帰ったあと、怖い顔をした母親から、「あなた、名札はどうしたの?」と問い詰められている子供がいたとしよう。

人は、得体のしれないものに姿かたちと名前を与えて安心する。
寝相が悪いのは、「まくらがえし」のせい、山の中で声が返ってくるのは、「こだま」のせい、暗い山道で急に体が重くなるのは「子泣きじじい」のせい。

怪しいもの訝しいものをそのままにしておくほど怖いことはない。

そういえば、なんどか大人たちがババアを探しに出かけたことがある。
それなりに多くの小学生がババアの存在をほのめかしたので、すわ変質者かと、看過できなくなったのだろう。4、5人くらいの大人が、7日くらい来ていただろうか。当然ではあるが、ババアを見つけることはできなかった。

-そんなこと当り前じゃあないか。

ババアは独りごつ。
なぜなら大人は子供ではないし、毟るべきものをつけていないからだ。

自分のことが皆目わからないババアにだって、そのくらいのことはわかっているのだ。

でも大人にはわからない。

おそらく、子供にはわかっている。

林の中の淀みは曖昧だが、たしかに慄いている。
このままでは消えてしまうかもしれない。
理由もわからずに。

-あたしゃあ、どうしちまったのだろう

ふうう。
*********************************************************

ババアは知らない。

小学生が林の中を俯きながら一人で歩いている。石蹴りでもしているのか。いや、なにかを一心不乱に覗き込んでいるようだ。四角い、板状のもの。指を忙しなく動かしている。

フッとヒンヤリした空気が流れても、気づかない。

気づいても、ちょっと顔を上げて、又すぐに手元に視線を落とすのだった。

後ろを振り向いてから、前を向かなければ、ババアはないままだ。

ババアは知らない。

実は、最近の小学生は服に名札を縫い付けたりしない。
正確には親が、そうしない。服に名札を縫い付けて、服に穴が空くのは好まれない。名札に個人情報を記載して、変質者に覚えられたら大変だと、心配する。昔はなぜそれが許されていたのかと、訝しい思いを持っている。

ババアにとっては毟るものがなくなる。それはババアの一部なのに。

ババアは知らない。

ババアが、初めてあるようになったのは、40年ほど前なのだ。

そして今、ババア自身が危険を感じるほどに、ババアは失われかけている。

ババアを辛うじて支えるのは、昔を懐かしむ、元子供の大人たちだ。

実は、嘆息しながらもなんとなく、ババアは知っている。

大人たちが忙しいとき、子供時代に思いを馳せないときには、もうババアはほぼない。

なんとなく、ババアは知っている。

-あたしゃあ、どうしちまったのだろう

ババアのせいではない。ババアは何も悪くない。

土に埋めた死体が、少しずつ分解されて、いずれ土と同じになるように。
薄まって薄まって、あるがなきかになる。

何事も終着点は同じなのだ。

早く来るか、遅く来るかの違いでしかない。

ババアは、あといくつの名札を毟ることができるのか。

それは悲しいことではない。
寂しいことではない。

もう、我々は嘆息しなくていいのだ。
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