1-2.序(2)誘惑を受ける

文字数 3,009文字

 朝食は、ハムと卵焼きとごはん、そして、みそ汁だった。何もかもが不思議な味であった。だしの取り方、塩加減、どれも、いつも、つぐみがやっているものと異なる。しかも、みそ汁では、顕著に私とは違うものだった。どことなくなつかしさもあり、おいしく感じられるのである。味覚は幼いころに形成されるというが、そういうものなのかもしれない。俗に言うお袋の味というものであろう。
 父親はかみしめるように、ゆっくりと机の上の料理を食べながら、提案をした。

「今日は市立植物園に行こう」
「先月も植物園行かなかった?」
「えっ。君がいなくなってから、1回も行ってないんだよ」
「やっぱり、7年間の記憶は上手に修正されてるみたいね。あなたたちが言うように本当に死んでたなら」
「二人とも植物好きみたいで、よく行ってたんだけど、お母さんいなくなってからは行かなくなったもんね」
「母さん死んでからからは、花の色の鮮やかさに耐えきれなくなって行けなくなったんだよな」
「わ・た・し・は生きてるんですけど!」
「ごめんごめん。まりこ」
「ともかく行きましょ」
「そういえば、母さん。服とか車の免許とかは、どうなってるん?」
「えっ。服は、ええと部屋のクローゼットに免許は、バッグの中にあるはずだけど」

 まりこは服と免許を探しにリビングから移動するので、二人もついていった。母親の服は亡くなって一年後に、免許は仏壇の棚にいれていたので、クローゼットもバックもないはずである。

「あれ……ない!! 服も、バックもない。今朝もここで、服を着替えたはずなのにどうして!!」まりこは取り乱し叫ぶように言葉を発し、震えて、泣いていた。
「おちつけ。まりこ。服もバックも買えばいいから。大丈夫だから」父親は、母親の隣によって、やさしく、なだめるように話しかけた。

 確かに、母親は生き返った。だが、つじつまが合わない現実が発生している。すべてが上手くいくにはこの現実はあまりに複雑すぎるのだ。

 そのとき、つぐみのもとに、誘惑するような甘い声がしてきた。

「あなたは、服もバックも作り、二人の記憶も修正できるのですよ。どうして、そのようにしないのですか? あなたと二人を幸せにできるのですよ。だれも不幸にはしないのですよ」

 つぐみは、周囲を見回したが、誰もいなかった、そしてこの声は、他の二人には聞こえていないようであった。

「人は、ただ単に、物の充足だけで生きてるんじゃない。たとえどんなに酷な思い出でも、人は過去の記憶をもとにして今を懸命に生きてるの。その提案はそれを、踏みにじるものだ。受け入れられない」つぐみは、心の中で、そのように返答した。

「あなたはこの世の法則にすべて干渉できる存在、つまり神なのですよ。祈り願えば何だってできるのですよ。人の思い出を踏みにじるとか、それは神への冒涜だという人がするような発想はお捨てになってください。あなたは神なのですから」
「私は、神なんかじゃない。ただ祈っただけ」
「そうですか。じゃああなたは、母親を生き返られたのはどうしてです?」
「それは。私がただ願ったから……」
「人のよみがえりという人の最大の禁忌を犯されて何を恐れているのですか。あなた様は神であらせられるのですよ」
「もうやめて!」
 誘惑する声は去っていき、また、もとの部屋に戻っていた。祈ればその通りになるということは、何となくではあるがわかる。問題はその祈りが本当に正しいものなのかである。そして、正しく履行されるかである。この世の自然界の法則は非人間的に美しくそこに、神の力を人の知恵で中途半端に行使し介入すると、どんな、からまりや矛盾が生じ結果がどうなるのか想像もつかないのである。

 最後の叫びだけは、声になっていたので。両親はつぐみの方を向いて、呆然としていた。

 植物園に行くために、家族で玄関に出たとき、隣の家の婦人が回覧板をもって立っていた。
「ちょうどよかった。あまかぜさん。回覧板をもってきたんだけど」
「ありがとうございます。今すぐに見て、出かけるついでにひぐちさんの家に回しますね」まりこは何もいつものように反応した。少なくとも7年前には違和感のないものだった。
「あらー そちらは新しいお嫁さん候補?」
「いやー まあ……」父親はどう返事をしていいのか悩んでいるようにしか見えない。
「何を照れて。何か後ろめたいことでもあるの。いいことじゃない。もう奥さん亡くなって十年くらいたつでしょ」
「ええ」

 母親が隣のひぐちさんの家に回覧板を持って行くため、玄関から離れたとき。隣の婦人は父親に小さい声で、話しかけた。
「そういえば、新しい奥さん。亡くなった奥さんにそっくりだけど、前の奥さんのことを大切に思うのは良いことだけどね。前の奥さんを重ねてはダメよ。あなたも新しい奥さんも幸せにならないわよ。よけいなお世話だとは思うけどねえ。アドバイスしたくなって」
「いえ、そうではなくて、まりこは生き返ったんです。今日だけかもしれませんけど」
「えっ。今なんと? 前の奥さんが生き返ったって?」
「私も、良くはわからないのですけど、たしかに、まりこが存在しているんですよ」
「そう……ともかく体に気をつけて背負い込みすぎないように……」隣の婦人は、何かおかしなことを言う人でかかわるのは危険と判断したのか、逃げ出すように去っていった。死んだ人が存在しているとかいう人物は冷静に頭のおかしい人なのだ。しかし、疑念を抱かせるには十分であった。死んだ奥さんにあまりにそっくりなのだ。人の好奇心とは恐ろしいもので、好奇心はよく理性を超えるのである。

 つぐみに、また、直接話しかける声がした。

「神よ。あの婦人を亡き者にした方がよろしいかと。あの婦人はあなたと神の家族に今後災いをもたらしますよ。生き返りという現象は神であるあなた様を信じる者でないと理解できません」
「なにをばかな。人の命はそんなにおろそかにできるものではないのです。わたしは人の死の悲しみを知っています。そんなこと出来るわけないでしょ」
「それでは、神と神の家族に永遠の命をあたえたらよろしいかと。そうしないとあなた様は確実に死にますよ」
「それこそ、人のことわりの冒涜の限界を超すわ!」
「ですから、人の理はあなた様が決めるのです」
「だとしたら、私には悪魔のような助言は不要だから帰って」
「そうですね。今は、そうお思いでしょう。もし、その時がきたら、わたくしを祈りお求めください、すぐに参り手助けをいたしますから」

 つぐみは心の中で応答した。そして、論争が終わるときに、母親は回覧板を回して、帰ってきた。母親が今の状況をどう思っているのか、察することは難しいが、混乱の中で、この世界に適応しようとしているように見える。

 今、つぐみの家族は多少の苦しみはあるが幸せの絶頂の中にある。人の幸不幸の合計は最後にはプラスマイナスゼロになるようにできているなら、今までの不幸や嘆きの分が現れているだけかもしれない。この世の物理現象に介入することは、もちろん神の力を与えられているつぐみであっても、母親のことでも、様々な不備を生じさせている。もし、神が全知全能であるならば、どうしてこのような中途半端なことをしたのだろうか。
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