第1話
文字数 3,480文字
私のボスはとても厳格だ。
好き嫌いが非常に明確で、いつも白黒はっきりつけたがる。そして、大変厄介なことに、ボスが白といえば何であろうと白。ボスが黒といえば何であろうと黒となる。
ルールを守る側ではなく、ルールを作る側の存在。
定められた鉄の掟を守る者にはどこまでも寛容だが、己の意に沿わぬ者には全く容赦がなかった。
絶対の権限を持つボスには誰も逆らえない。
誰も彼もがボスを敬い、慈悲を乞い、怒りを買うまいとする。ボスを敵に回すことは、冗談などではなく世界そのものを敵に回すことと同義だった。
そんなボスが最も嫌っている行為がある。
それは嘘を吐くこと。
正直こそが最大の美徳。正直者こそが報われるべきで、嘘吐きは地獄に落ちるべき。嘘など吐く者は、心にやましさが詰まっている違いない。まっすぐに生き、嘘のない生き方こそを至上としていた。
「虚言はこの世で最も恥ずべき行いだ」
「そうですね」
何かにつけてボスは、嫌悪感を示し。
その度に、側近である私は一も二もなく頷いてみせた。
「よく言うであろう。嘘吐きは何とやらの始まりだと」
「そうですね」
「世界は真実で溢れているべきなのだ。真実だけあれば良い」
「そうですね」
「嘘など吐く奴の気がしれん。そうは思わぬか?」
「そうですね」
正直、私は自分がこうやって無条件にボスの意を肯定していることが。
嘘偽りなく本心からのものなのか、最近分からなくなってきているのだけど。
まあ、そこら辺は言わぬが花である。
「そうですね」
以外の選択肢など、最初から私にはありはしないのだから。
虚ろにイエスを繰り返すこちらに気付いているのかいないのか。いつもボスは自信満々に胸を張る。
「上に立つ者として、この身は嘘を吐いたことなどないし……これからも嘘を吐くことなどない」
強者は嘘を吐かない。
絶対者は嘘を吐く必要がない。
何かを誤魔化す必要が一切ないから。
事件は突如として、あるいは起こるべくして起こった。
「本日は、我々から捧げものをお持ちしました」
「ささやかですが、どうかお受け取りください」
とある兄弟が自分達の日頃の成果を届けにきた。私も良く知る、己の仕事に誇りを持った実に働き者の二人だ。
兄が持ってきたのは、畑で収穫した野菜や果物。
弟が持ってきたのは、放牧で育てた肉類。
「おお、これは立派な羊の肉だ」
両者の前で。
兄の品には一切目もくれず。
ボスは弟が持ち込んだ贈り物を大層喜んだ。
「良い物を持ってきてくれた。これからも、この調子で励むように」
そう言って、一方だけを褒め讃える。
決してボスに他意があったわけではない。
別段、弟を可愛がっていたわけでもなく。兄を邪険にしていたわけでもない。全くの偽りなく。ただ正直に。自分にとって価値があると思ったものを絶賛しただけ。自分にとって価値がないと思ったものを拒絶しただけ。
弟は莫大な褒美を与えられた。
兄は一度も顔をあげることもなく屈辱で拳を震わせていた。
「少々あからさま過ぎではないでしょうか」
兄弟が退出した後。
流石に、私はボスへと一言物申した。
「はて、何の話だ?」
本当に心当たりがなく。
問題としている部分が分かっていないようで。
ボスは首を傾げる。
「先程の二人への対応のことです。肉をお喜びになられましたね」
「ああ、羊肉は好物だ」
「しかし、青果については触れることもなかった」
「ああ、野菜は嫌いだ」
返答は明確に過ぎた。
心の中で、私は大いに頭を抱える。
「どちらも、あなた様のために精魂込めたものです。その労を思えば……兄の方にも何かあっても良かったのではありませんか」
それこそ。
たとえ嘘であったとしても。
ほんの少し。ほんの少しで良いから。相手の誠意に対して、喜んでみせるだけで。報われる何かがあったのではないか。
欺瞞かもしれない。
間違った考えなのかもしれない。
そして、ボスは絶対に間違えることはない。間違えることが出来ない。
「駄目だ、嘘は吐けん」
嘘を吐かない。
嘘を吐く必要のない絶対者は、不要な捧げものを早々に処分するように指示を出す。自分の興味のないものに対しては、徹底して正直に興味がない方である。
「本当に……本当に全て廃棄してしまって宜しいのですか?」
「そうだ。目障りだから、さっさと片付けろ」
ボスの命令に逆らうことなど出来るはずもない。
だが、このままで良いのか。目の前で何もかも見過ごしてしまって、後悔はしないのか。自身の心に曇りなき真実を問いかける。
青々とした新鮮な野菜。
よく実った果実。
山のように積まれたそれらを一瞥してから、私は最大限の勇気を振り絞って深々と願い出た。
「……でしたら、私がいただいても構いませんか?」
「うん? これをか?」
「……はい。是非とも」
あるいは決定的な不興を買うかもしれぬ。
次の瞬間、自分の首は胴から離れていてもおかしくない。
沙汰を待っていた時間はきっと数秒にも満たないだろうが、私にとっては永遠にも等しく感じる刹那だった。
「貴様も物好きな奴だな。好きにするが良い」
拍子抜けするほどあっさりと許しは出た。
厳格な上位者は、自分の定めたルール以外のところでは慈悲深い。相手の気が変わらぬうちに、私は兄の贈り物を残らず持ち去った。
ふと赤い実が目につき、そのまま丸かじりする。
清々しい甘さが口の中いっぱいに広がる。献上された青果はどれも絶品であり、一つ一つに育てた者の思いが溢れていた。
件の兄が弟を殺したのは、翌日のことだった。
当初は行方不明とされており、怪訝に思ったボスは兄を呼び出した。
「お前の弟が帰っていないそうだが、何か知らないか?」
嘘を吐いてはならぬ問いに。
兄は真正面から答えた。
「知りません。私は弟のお守りではありませんので」
嘘だ。
直感的に、私はこの者が嘘を吐いているのだと分かった。
目を泳がすこともなく。口調も淀むこともなく。堂々とした態度で、後ろ暗いところなど何もないかのような態度だったけれども。
だからこそ、偽りなのだと確信する。
ああも、平然と嘘を吐く様を目の当たりにして、私は心底恐ろしくなった。
入念な調査を行うと、程なくして弟の血痕が見つかった。嫉妬に駆られた兄が、弟を野原に呼び出して殺害したのだ。
我らがボスが支配する地において、初めての殺人であり。
初めての偽証であった。
当然、ボスは激怒した。
「許さん。殺人を犯した上に、よりにもよって嘘まで吐くとは!」
果たして絶対者は、どちらにより罪があると感じたのだろう。
近親を殺したことか。
それとも、嘘を吐かれたことか。
「お待ち下さい。どうか冷静に」
即座に極刑に処そうとするのを、私は必死になって止めた。
情ではなく。
理によって。
「あの者の犯した罪はあまりにも重い。最早、自身の死などでは償えぬほどにです」
「……どうせよと言うのだ?」
「はい。あの者をこの地より永久に追放します。子孫ともども、二度と足を踏み入れることを禁じるのです」
詭弁だ。
だが、どちらも真実なのだ。
罪を許せないと私が感じるのも。
罪を許したいと私が感じるのも。
「あの者の血を受け継ぐ者は、ことごとく生まれながらに悪徳の業を背負うことでしょう。苦しみは連鎖して、決して終わることもない。それこそが、相応しい末路かと」
もしかしたら、私は文字通り死よりも非情なことを促しているのかもしれない。
なにせ、彼一人だけではなく後の世代にまで禍根を残そうとしているのだから。
それでも。
そうだとしても。
「……良かろう。確かに奴には相応しい罰だ」
速やかに刑は執行された。
弟を殺した兄は、東へと追放された。二度と帰ってくることはないだろう。彼も、彼の子供たちも。たとえ、どんなに数が増えて繁栄できたとしてもだ。
これで良かったのか。
出来る限りのことはしたつもりではあるが、正直自信はない。きっとそれが分かるのは何年、何十年、何百年、何千年も経ってからであろう。
小さな嘘があれば、今回の事件は起こらなかった。
そして、今回の事件で人は嘘の味を知った。
「さようなら……カインにアベル」
生別した人の兄と。
死別した人の弟に。
そっと静かに、私は別れを告げた。
好き嫌いが非常に明確で、いつも白黒はっきりつけたがる。そして、大変厄介なことに、ボスが白といえば何であろうと白。ボスが黒といえば何であろうと黒となる。
ルールを守る側ではなく、ルールを作る側の存在。
定められた鉄の掟を守る者にはどこまでも寛容だが、己の意に沿わぬ者には全く容赦がなかった。
絶対の権限を持つボスには誰も逆らえない。
誰も彼もがボスを敬い、慈悲を乞い、怒りを買うまいとする。ボスを敵に回すことは、冗談などではなく世界そのものを敵に回すことと同義だった。
そんなボスが最も嫌っている行為がある。
それは嘘を吐くこと。
正直こそが最大の美徳。正直者こそが報われるべきで、嘘吐きは地獄に落ちるべき。嘘など吐く者は、心にやましさが詰まっている違いない。まっすぐに生き、嘘のない生き方こそを至上としていた。
「虚言はこの世で最も恥ずべき行いだ」
「そうですね」
何かにつけてボスは、嫌悪感を示し。
その度に、側近である私は一も二もなく頷いてみせた。
「よく言うであろう。嘘吐きは何とやらの始まりだと」
「そうですね」
「世界は真実で溢れているべきなのだ。真実だけあれば良い」
「そうですね」
「嘘など吐く奴の気がしれん。そうは思わぬか?」
「そうですね」
正直、私は自分がこうやって無条件にボスの意を肯定していることが。
嘘偽りなく本心からのものなのか、最近分からなくなってきているのだけど。
まあ、そこら辺は言わぬが花である。
「そうですね」
以外の選択肢など、最初から私にはありはしないのだから。
虚ろにイエスを繰り返すこちらに気付いているのかいないのか。いつもボスは自信満々に胸を張る。
「上に立つ者として、この身は嘘を吐いたことなどないし……これからも嘘を吐くことなどない」
強者は嘘を吐かない。
絶対者は嘘を吐く必要がない。
何かを誤魔化す必要が一切ないから。
事件は突如として、あるいは起こるべくして起こった。
「本日は、我々から捧げものをお持ちしました」
「ささやかですが、どうかお受け取りください」
とある兄弟が自分達の日頃の成果を届けにきた。私も良く知る、己の仕事に誇りを持った実に働き者の二人だ。
兄が持ってきたのは、畑で収穫した野菜や果物。
弟が持ってきたのは、放牧で育てた肉類。
「おお、これは立派な羊の肉だ」
両者の前で。
兄の品には一切目もくれず。
ボスは弟が持ち込んだ贈り物を大層喜んだ。
「良い物を持ってきてくれた。これからも、この調子で励むように」
そう言って、一方だけを褒め讃える。
決してボスに他意があったわけではない。
別段、弟を可愛がっていたわけでもなく。兄を邪険にしていたわけでもない。全くの偽りなく。ただ正直に。自分にとって価値があると思ったものを絶賛しただけ。自分にとって価値がないと思ったものを拒絶しただけ。
弟は莫大な褒美を与えられた。
兄は一度も顔をあげることもなく屈辱で拳を震わせていた。
「少々あからさま過ぎではないでしょうか」
兄弟が退出した後。
流石に、私はボスへと一言物申した。
「はて、何の話だ?」
本当に心当たりがなく。
問題としている部分が分かっていないようで。
ボスは首を傾げる。
「先程の二人への対応のことです。肉をお喜びになられましたね」
「ああ、羊肉は好物だ」
「しかし、青果については触れることもなかった」
「ああ、野菜は嫌いだ」
返答は明確に過ぎた。
心の中で、私は大いに頭を抱える。
「どちらも、あなた様のために精魂込めたものです。その労を思えば……兄の方にも何かあっても良かったのではありませんか」
それこそ。
たとえ嘘であったとしても。
ほんの少し。ほんの少しで良いから。相手の誠意に対して、喜んでみせるだけで。報われる何かがあったのではないか。
欺瞞かもしれない。
間違った考えなのかもしれない。
そして、ボスは絶対に間違えることはない。間違えることが出来ない。
「駄目だ、嘘は吐けん」
嘘を吐かない。
嘘を吐く必要のない絶対者は、不要な捧げものを早々に処分するように指示を出す。自分の興味のないものに対しては、徹底して正直に興味がない方である。
「本当に……本当に全て廃棄してしまって宜しいのですか?」
「そうだ。目障りだから、さっさと片付けろ」
ボスの命令に逆らうことなど出来るはずもない。
だが、このままで良いのか。目の前で何もかも見過ごしてしまって、後悔はしないのか。自身の心に曇りなき真実を問いかける。
青々とした新鮮な野菜。
よく実った果実。
山のように積まれたそれらを一瞥してから、私は最大限の勇気を振り絞って深々と願い出た。
「……でしたら、私がいただいても構いませんか?」
「うん? これをか?」
「……はい。是非とも」
あるいは決定的な不興を買うかもしれぬ。
次の瞬間、自分の首は胴から離れていてもおかしくない。
沙汰を待っていた時間はきっと数秒にも満たないだろうが、私にとっては永遠にも等しく感じる刹那だった。
「貴様も物好きな奴だな。好きにするが良い」
拍子抜けするほどあっさりと許しは出た。
厳格な上位者は、自分の定めたルール以外のところでは慈悲深い。相手の気が変わらぬうちに、私は兄の贈り物を残らず持ち去った。
ふと赤い実が目につき、そのまま丸かじりする。
清々しい甘さが口の中いっぱいに広がる。献上された青果はどれも絶品であり、一つ一つに育てた者の思いが溢れていた。
件の兄が弟を殺したのは、翌日のことだった。
当初は行方不明とされており、怪訝に思ったボスは兄を呼び出した。
「お前の弟が帰っていないそうだが、何か知らないか?」
嘘を吐いてはならぬ問いに。
兄は真正面から答えた。
「知りません。私は弟のお守りではありませんので」
嘘だ。
直感的に、私はこの者が嘘を吐いているのだと分かった。
目を泳がすこともなく。口調も淀むこともなく。堂々とした態度で、後ろ暗いところなど何もないかのような態度だったけれども。
だからこそ、偽りなのだと確信する。
ああも、平然と嘘を吐く様を目の当たりにして、私は心底恐ろしくなった。
入念な調査を行うと、程なくして弟の血痕が見つかった。嫉妬に駆られた兄が、弟を野原に呼び出して殺害したのだ。
我らがボスが支配する地において、初めての殺人であり。
初めての偽証であった。
当然、ボスは激怒した。
「許さん。殺人を犯した上に、よりにもよって嘘まで吐くとは!」
果たして絶対者は、どちらにより罪があると感じたのだろう。
近親を殺したことか。
それとも、嘘を吐かれたことか。
「お待ち下さい。どうか冷静に」
即座に極刑に処そうとするのを、私は必死になって止めた。
情ではなく。
理によって。
「あの者の犯した罪はあまりにも重い。最早、自身の死などでは償えぬほどにです」
「……どうせよと言うのだ?」
「はい。あの者をこの地より永久に追放します。子孫ともども、二度と足を踏み入れることを禁じるのです」
詭弁だ。
だが、どちらも真実なのだ。
罪を許せないと私が感じるのも。
罪を許したいと私が感じるのも。
「あの者の血を受け継ぐ者は、ことごとく生まれながらに悪徳の業を背負うことでしょう。苦しみは連鎖して、決して終わることもない。それこそが、相応しい末路かと」
もしかしたら、私は文字通り死よりも非情なことを促しているのかもしれない。
なにせ、彼一人だけではなく後の世代にまで禍根を残そうとしているのだから。
それでも。
そうだとしても。
「……良かろう。確かに奴には相応しい罰だ」
速やかに刑は執行された。
弟を殺した兄は、東へと追放された。二度と帰ってくることはないだろう。彼も、彼の子供たちも。たとえ、どんなに数が増えて繁栄できたとしてもだ。
これで良かったのか。
出来る限りのことはしたつもりではあるが、正直自信はない。きっとそれが分かるのは何年、何十年、何百年、何千年も経ってからであろう。
小さな嘘があれば、今回の事件は起こらなかった。
そして、今回の事件で人は嘘の味を知った。
「さようなら……カインにアベル」
生別した人の兄と。
死別した人の弟に。
そっと静かに、私は別れを告げた。