小説

文字数 6,409文字


「元カレに連絡したい内容を、俺に送って来い」

 彼氏と別れて一ヶ月、会社の先輩が言った。
 返信が来ないと泣く私に、そいつにはもう送るな、と。





 その日の夜、先輩へメッセージを送った。

『好き』って、それだけ。

 たった一言のメッセージは先輩へ、じゃない。彼氏へ送るはずだった言葉。
 少しだけ悩んで送信ボタンを押した。何か言われたら指が当たったことにしよう、間違えましたって送れば……
 なんて考えている間に既読が付き、すぐ後にメッセージが入った。

先輩:わかった

 それだけ、たった一言。
 翌日出社したら「正解」と言われた。

「昨日みたいな感じでいい、俺を頼ればいいから」

 温かい缶コーヒーを私のデスクに置いた先輩の視線はどこか遠く、目は合わなかった。




私:今なにしてる?
先輩:牛丼食ってる
私:今帰りですか? もしかして昨日の案件なにか動きました?
先輩:もう片付いたから気にするな。それより、これは俺に送ったのか? それとも元カレに送るつもりのやつ?
私:元カレへ送るつもりだったけど、先輩と会話してました
先輩:了解

 何が了解なんだろう?
 そんなことを考えているうちに新しいメッセージが入った。

先輩:ごちゃごちゃ考えるな。明日もまた連絡しろ

 ふっと何か、胸のつっかえの様なものが取れた。
 顔を上げると空に細い月が見えて、心が洗われた気がした。
 これでいいんだろうか?
 いいんだよね?

「ごちゃごちゃ考えるな……明日もまた、先輩に連絡しよう」





私:会いたい
先輩:それは俺へ送ったのか、元カレ?
私:元カレへです
先輩:どこにいる?
私:会社出たとこです
先輩:すぐ行く。ビルの中入って待ってろ

 どう返事していいかわからなかった。通知を見ただけで既読もつけずその場に突っ立っていると、後ろから頭をポンっと叩かれた。

「中入ってろって言っただろ?」
「あ、すみません」
「つーか既読はつけろ、何かあったんじゃないかって心配するから」

 ってそれ、彼氏が言うことですよ? と思ったけど、そういえばそうだった。
 先輩は私の、彼氏の代わりをしてくれているのだ。

「なに食いたい?」
「え?」
「飯まだだろ?」
「食欲ないです」
「牛丼行くか」
「……色気ないですね」
「文句言うな、奢ってやるから。別れた記念に」
「別れた記念?」
「別れただろ、彼氏と。だからそのお祝い」
「お祝いが牛丼屋さんって……」
「それで充分だろ。それとも一人数万するレストラン行きたいか? 別れた記念のお祝いに?」
「……牛丼屋さんで充分です。でもなんかこう、お祝いって……」
「頭使いすぎなんだよ、いつも。仕事ですげー頑張ってるの知ってるから余計、プライベートの時ぐらいぼけーとして誰かによりかかっとけ。もっと楽に生きていいんだよ、深く考えるな」

 風邪引く前に行くぞ、と言われ、慌てて先輩の後を追った。
 賑やかな街並み、キラキラした街灯に外まで漏れるお店の音楽、ビルの前で笑い飛ばす人の声。
 誰も彼もが楽しそうな道を抜け、先輩の隣へ並んだ。
 鼻先が痛くて赤くなっている気がしたけど、先輩の鼻は普通だったのでこの痛みは寒さのせいじゃないと思った。
 涙を堪えて、先輩を追いかける。
 
「俺歩くの早かったな、ごめん。足痛くないか? もうすぐ着くから」

 なんてやっぱりそれ、彼氏が言うことですよ?
 そんなことは聞き返せなかった。
 記念日って何ですか? 私と彼氏の別れが牛丼で充分ってどういうことですか?
 あ、彼氏じゃなくて元カレか。
 これであってます?
 正解ですか?
 
 とか。
 聞きたいことはたくさんあったけど何一つ声にできなくて、お店に入ると同時にお腹が鳴った。
 いい匂いだなたくさん食えって笑った先輩の顔が、印象的だった。




 初めての彼氏だった。
 生まれて初めてのこともたくさんした。この人じゃなきゃダメだと思ってた、一緒に過ごす幸せがずっと続くと思っていた。
 プロポーズどうするんだろ、クリスマスイブだと素敵だな。なんて、そんなことを考えて浮かれていた。
 別れたいなんて、そんな言葉を告げられる未来なんて想像もしていなかった。

私:クリスマスどうする?

 彼氏に送るはずだったメッセージ。楽しみにしてた、ずっと考えてた。
 うちに泊まるかな、それとも……
 
私:どこか泊まりに行かない?

 そのメッセージを送る前に既読がついて、間髪入れず先輩からの返信が入った。

先輩:それは俺へ? それとも彼氏へのメッセージ?
私:彼氏へ送る予定だった内容です。
私:あ、彼氏ってか元カレでした。元カレへです。
先輩:わかってる
先輩:そうか、クリスマスか
私:どうしたらいいですか?

 送信ボタンを押すと同時、涙が出てきた。
 私、何してんだろ、何がしたいんだろ。先輩にこんなメッセージ送って……彼氏じゃない、そうだよ別れたんだ。
 彼にはもう連絡出来ない。
 そもそも彼氏じゃない、元カレなのに。

先輩:チョコ好きだったよな?

 ピコンと音がして画面に目を落とすと、先輩からの返信が来ていた。
 目尻の涙を拭い、送られて来たメッセージを再読する。
 チョコ? なんだろう、急に。

私:三食チョコでいいくらい好きです
先輩:本当か? 明日の昼飯チョコ食えよ? 夜も見張るからな?
私:すみません嘘です。ていうか、何ですか?
先輩:ケーキ、チョコのやつでいいか? それともショートにするか?

「ケーキ? それって……」

私:クリスマスケーキですか?
先輩:他に何があるんだよ。誕生日は八月だろ?
私:そうですけど……どうして私の誕生日知ってるんですか?
先輩:クリスマスのチョコケーキって何がある?
私:誕生日の話はどうなりました? 誤魔化すんですか?
先輩:切り株のケーキあるよな、何だっけあれ
私:bûche de Noëlですか?
先輩:本格的な英語やめろ。それ、ブッシュドノエル
私:カタカナ英語やめてください。お店で買うと高いですよ、あれ
先輩:作るか?
私:先輩が?
先輩:ケーキがたけのこの山まみれになるぞ
私:食べてみたいです、たけのこの山
先輩:食ったことないのか?
私:たけのこの里ときのこの山なら食べたことあります
先輩:ケーキは任せる
私:たけのこの山はどうなりました?
先輩:飲み物や食い物はこっちで用意するから、掃除よろ。夜はサンタを追いかけるサイト見たいから、早めに帰る

 また誤魔化された……いや、そんなことはどうでもよくて。
 サンタを追いかけるサイト? なにそれ……じゃなくて!
 そこじゃなくてっ!

「家に来る……わけないですよね? 二人きりのクリスマスイブ?」

 なんて、そんな質問は出来ず、既読無視みたいな形になってしまった。
 翌日、同じ部署の人から「クリスマスよろしくねー」と言われて肩を落としたのは別に、がっかりしたからではない。
 恋人がいないメンバーを集めてクリスマスイブに談話室で飲み会するって、先輩がいろんな人に声をかけてるって。
 二人きりじゃなかったんですね。なんて、そんなことは絶対に聞けないし、がっかりなんてしていない。





私:定時で終わったー! 嬉しいけどこれからヒマ!
先輩:それは俺に送ったのか? 元カレ?
私:元カレへです
先輩:今日頑張ってたもんな、おつかれさま
私:先輩まだ会社ですか?
先輩:一時間くらい残業
私:すみません
先輩:どうして謝った?
私:先帰っちゃったので
先輩:頑張った成果だろ。あ、ヒマなんだったな、飯でも行くか?
私:牛丼ですか?
先輩:元カレとまだ連絡とってんの?
私:いえ、彼に送るつもりのメッセージは全部、先輩へ送ってます
先輩:じゃあ駅前のパスタ行こう。どこかで時間潰しててくれ
私:パスタ好きです
先輩:よかった。一時間もかかって悪いけど、待っててくれ
私:了解です



私:今から戻ります
先輩:それは俺? 元カレ?
私:先輩へです
先輩:お疲れー、どうだった?
私:手応え充分です。アイス買って帰るけど、バニラとチョコどっちがいいですか?
先輩:ナチュラルに買い食いしようとするな
私:仕方ない、両方自分で食べて帰ります
先輩:太るぞ
私:先輩が食べてくれないから
先輩:チョコ好きだろ? バニラは俺がもらう
私:十五分後に談話室集合で。こっそり来てくださいね



私:窓の外に猫がいます
先輩:おい、今講演会の途中だろ?
先輩:ごめん、これ誰宛?
私:先輩へです
先輩:スマホいじってんじゃねーよ、不良社員
私:そういう先輩は?
先輩:左斜め前を見ろ
私:めちゃくちゃスマホいじってますね
先輩:誰かさんが連絡して来たからな
私:社長の親戚の方でしたっけ、この人
先輩:三年に一度、下っ端社員を集めて有難いお話をしに来るらしい
私:迷惑な話ですね。猫逃げちゃいました
先輩:その猫、子にゃんこ? それとも孫にゃんこ?
私:なんですか? 子にゃんこ孫にゃんこ?
先輩:あだ名ついてんだよ、この辺に住んでる猫。茶色いやつが子にゃんこで黒いやつが孫にゃんこ
私:もしかして普通のにゃんこもいます? にゃんこ子にゃんこ孫にゃんこ?
先輩:にゃんこ関係ない子にゃんこと孫にゃんこのにゃんこ二匹だ
私:にゃんこ関係ない子にゃんこと孫にゃんこのにゃんこ二匹? 早口言葉みたいですね
先輩:早口言葉はにゃんこ子にゃんこ孫にゃんこだろ
私:知ってるじゃないですか



私:電話していい?
先輩:それは
私:元カレへです
先輩:わかった、三秒待ってろ
私:三秒?
先輩:俺がかける。だから待ってろ



私:寂しいです
先輩:それは
私:先輩へです
先輩:電話するか?
私:かけていいですか?
先輩:なんでだよ、俺がかける。三秒待ってろ
私:ありがとうございます



私:今日で五周年です
先輩:それは
私:元カレへ送る予定だった内容です。この時間に送るはずでした
先輩:三秒待つか窓開けるか、すぐできるほう選べ
私:窓開けました
先輩:月見えるだろ?
私:三日月ですね、綺麗
先輩:俺の部屋からも同じ、三日月が見える
私:同じですね……同じ月を見てるんですね
先輩:綺麗だな
私:綺麗です、すごく

 三秒待つほうを選ばなくてよかった、電話だと泣き声に気づかれていた。
 頬を伝う涙をぬぐい、月を見上げる。
 同じ月を見てる。
 元カレと見るはずだった月を今、先輩と見てる。

『会いたい』

 そんな言葉は送れなかった。
 いつの間にか心が入れ替わっていた。
 いつの間にか元カレを『彼氏』と言わなくなった。
 いつの間にか…………

 先輩とやりとりを始めてから、半年が経とうとしていた。






私:体調大丈夫ですか?
先輩:なんで?
私:会社休んでたでしょ?
先輩:なんで知ってんだ? 今日出張だったろ?
私:早く帰ったので会社寄りました
先輩:悪い、風邪ひいた
先輩:忘れてた。これって誰宛?
私:先輩へです。今からお見舞い行きます
先輩:いらない
私:いるとかいらないじゃなくて、行きます
先輩:うつるから来るな
私:大丈夫です
先輩:馬鹿は風邪ひかないって迷信だからな?
私:馬鹿ではないし、身体も強いです
先輩:つーか、何しに来んの?
私:看病に
先輩:いらない。明日は会社行ける

 困った。
 これ以上どう攻めていいかわからない。黙って勝手に……行っちゃいけないよね、会社が同じだけのただの後輩なのに……ただの後輩か、もどかしいな。
 好きなのに……こんなに好きになったのに。
 最初のやりとりも面倒くさい。
『先輩へです』という一文ばかり送ってる、『元カレへ』なんて言葉はもうずっと、使っていないのに。

私:私のこと、どう思ってますか?

 あ、やっちゃった……興奮して変なことを送ってしまった。
 メッセージを取り消す間も無く、既読がつく。
 いつも秒速で反応をくれる先輩からの返事は、随分と遅かった。

先輩:これ、誰宛?

 ふっと、胸の中にあったつっかえが取れた気がした。
 もどかしい気持ちとかもやもやとか、私と先輩の間にあった壁みたいなものが。
 今、ちょっとだけ、見えた気がした。
 勢いそのままに返事をする。

私:先輩宛です、先輩へ聞いた言葉です

 指が止まらない。
 電話をかけたほうがいいかな?
 いや、大丈夫。
 最初の時、先輩が言ってくれた。
 これで正解、私たちの恋はここから始まった。

私:最近はずっと、先輩宛に送ってました
私:先輩とやりとりしてるってちゃんとわかってました
私:全部、先輩へ贈りたかった言葉です
私:だから今も心配なんです
私:お見舞い行きたいです

 だって……だから、先輩からの返信はまだないけれど。
 すぐに既読がつくから、私は安心して一番伝えたい言葉を送った。
 一番知って欲しい思いを。

『好きです』

 って、最初に先輩に届けたメッセージと同じ文。
 だけど今は元カレへじゃない、先輩へ贈る言葉。

先輩:わかった

 返事はたった一言。
 あれ、これだけ?
 そう思っているうちに、新しいメッセージが入る。

先輩:それは
先輩:俺へ送ったのか? それとも

 不安が伝わる、画面越しに。
 先輩いま、どんな気持ちですか?
 好き、の相手が自分じゃないかもって不安な気持ちがありますか?
 私もです、私も同じです。

 ありがとうございました、ずっとそばにいてくれて。
 無視されて終わるはずだった私のメッセージに先輩は返事をくれた。
 面倒くさかったと思います、大変だったと思います。反応が遅い日はなかった、既読の後はすぐに返信をくれた。
 それほどまでに先輩は私に構ってくれた、時間を使ってくれた。

 もし先輩が、例えば、顔の見えない恋から何かを始めようとしていたのなら、
 先輩の想いをそのまま受け止めていい、期待していいのなら。
 今日から少しだけ、形を変えましょう。
 私が今会話してるのは元カレじゃない。
 先輩、あなたです。

私:先輩へです
私:好きです、先輩が好きです

 メッセージを送ると同時に返信が来た。
 返信というか、スタンプ。ピンクのハートマークに囲まれた可愛いシロクマが、愉快に微笑んでいる。
 間違えたのかな? と思って眺めているとすぐに、文字が入力された。

先輩:待て
先輩:違う、間違えた
先輩:間違えてない
先輩:違う、俺も好きだ
先輩:いや悪い、俺もだ
先輩:何度も悪い、俺も好きだ

 速すぎて読み切れないうちにまたポンっとスタンプ、お辞儀するシロクマの吹き出しには『ありがとう』
 
 いつもと違う先輩のメッセージ。
 焦っているのが伝わる、文字から伝わる。
 ドキドキムズムズして、もう一度、同じ言葉を入力した。
 これから何度だって言おう、何度だって贈ろう、『好き』の言葉を。
 これで最後にしよう、『先輩へです』という一文は。

私:好きです
私:先輩へです
私:だからお見舞いに行きます
先輩:それとこれとは話が違う
私:違いません。彼女として彼氏のお見舞に、看病に行きます

 ボンッと、爆発して真っ赤になったシロクマのスタンプ。
 あれ? 合ってるじゃん。先輩ちゃんと、会話に合わせたスタンプ使ってる。

私:もしかして私、先輩の彼女じゃないですか?
先輩:違う!
先輩:いや違うというか、彼女って言っていいのか、これ?
私:ダメですか……
先輩:だから違う!
私:とりあえずお見舞い、行っていいですか?
先輩:マスクして来いよ?
先輩:風邪うつしたくないけど今は、顔が見たい

 嬉しくなって、『オーケーです』の文字がついたスタンプを先輩に送った。
 そういえばスタンプを送り合うのは初めてだ。
 そんなことに気がついて。
 そんな些細なことが嬉しくて、スマホを閉じて走り出す。
 ピコンっと受信音が響いたけどメッセージを確認する時間も惜しくて、既読もつけないまま先輩の元へ向かった。
 今になって思えばあの時、内容を確認しておけばよかったなぁと思う。
 恋人同士になってからの先輩は、恥ずかしがってその言葉を送ってくれなくなった。
 時々ぽそっと囁く時はあるけど。
 堂々と、勢いで衝動的に、顔の見えない距離からあの言葉をくれたのは、その時が最初で最後だった。

先輩:俺も好きだ、ずっと好きだった
先輩:愛してる

 愛してる、って。
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