第1話

文字数 10,637文字

出鱈目を吹き込まれるような日々を過ごした助監督時代を終え、三十路を前にして撮ったアイドル映画をヒットさせた那乃俊哉は、誰からも賞賛されちやほやされる現状が嬉しくて仕方なかった。
「芸術に時間なんてないんだよ」
「君のセンスのレベルで売れる映画は取れるのかねぇ」
勿論、内心腹を立てつつ、こんな大口を叩いてヒットを出せない監督にも立場をわきまえて従った。
これは業界の一側面でしかなく、全ての業界の人間がこのように考えている訳ではないのかも知れない。寧ろ嫌味を跳ね除けて、時間をかけずに丁寧な編集で魅せた映画を撮り、大人気監督の仲間入りを果たした今の方がまともだとも、那乃は自負している。
一杯千円のこだわったコーヒーを出す喫茶店で、那乃は次の映画のイメージを固める。人間とは呑気に環境を見るもので、実績を残しただけで人間として格が上がったように思えた。見下した人には何でも言っていい――そんな思いを情けないとは思えなくなった那乃に、比較的簡単に終えられそうな新しい企画が舞い込んできたのは、すっかり寒い十二月の頭のことだった。舌で転がしたコーヒーが飲み干されたカップを置いて、那乃は打ち合わせの場所へ向かうべく腰を上げた。

プロデューサーの永智清一は、一階が見える吹き抜けの休憩ルームで煙草を咥え、那乃を待っていた。相変わらず宝くじ売り場に置いてあるビリケン様が実写化されたその容姿に、那乃はちょっと吹き出しそうになった。開放的に設計された休憩スペースで打ち合わせをするのも、創作という活動で焦げ付いていく頭を空気の毛布で包み込むような感覚を得られると、那乃は感じた。一階で二人の女性が受付に並んで座って入り口を見ている。目の前はガラスで外が見え、無邪気に遊ぶ子どもより、この映画会社の前を忙しなく通り過ぎるサラリーマンが目立った。
「おうおう、那乃ちゃん」
笑顔で手を振り、資料を広げる様子を見ながら、永智の向かい側に那乃は座った。
「またまた、呑気に言いますね」
クスっと笑ってカバンを椅子に置き、中から取り出したのは、かなり前から使っているノートPCと、コンビニで買ったミルクティーのチルドカップ――さっきは店でコーヒーを飲んだクセに再度カフェインを求める自分の執着心に、今回は甘くした紅茶なのだから脳への燃料になるだろうと、那乃は自身で言い訳をかぶせた。
PCが立ち上がりWi-Fiも繋がってから、先日永智から送られたファイルを開く。彼が依頼してきたのは、ベテラン俳優も絡んだスポーツ映画だった。今をときめく若手の美人女優を主演に迎えて、ヒットは確実と言葉を添えていた。美しく輝く若者の汗を映像に落とし込むビジョンも簡単に仕上がり、那乃も肩の力を抜いて取り組んでみようと考えている。
「シンプルでいい企画じゃないですか。予算もそこまでかけないでやれそう」
那乃の素直な意見に、永智も相も変らぬ笑顔で頷く。
「会社としてはゴールデンウィークのラインナップがちょっと薄かったこともあってね、埋め合わせるには都合がいいんだ。主演についてはちょうど売り出したいと事務所から話があった女優だし、会社の草野球とのコラボレーションでそれなりに宣伝は捗りそうだから、無難な企画としてやっていけそうだな」
この業界に飛び込む前は「無難な企画」という言葉に拒否反応を示して、とがって印象を残す作品を撮りたいと思ったりもしただろうが、世間からの認知に神経を寄せている今の那乃は、そう考えていた過去の自分をダサいと笑う男となっていた。
「なんか不満はない?」
笑顔をやめて目尻と口角を少し落とし、永智は不安を示して聞いてきた。今度は那乃が笑顔を向ける。
「いえ、今のところは。まだ若造の監督がそう言っていいのかと思われるかも知れませんけど……分かり易い企画なんでね」
永智に恵比須顔が戻った。
「埋め合わせだとか、そういう流れ作業みたいな仕事を嫌がる監督もいるからね、丁寧にヒット作を撮ってくれる那乃ちゃんみたいな人、本当に助かるんだ。まあ、たかだか一般企業が片手間でやっている草野球を推すんだから、相手に文句を言わせないし、那乃ちゃんが好きなように撮影も動かせるよ」
根拠を持って褒めてくれる上、時には注文が多い他企業との連動でも融通が効くような状況にしてくれるあたりが、永智のプロデューサーとして優れた部分だと、多くの関係者が言っている。ゴールデンウィーク公開の映画の本数の話をさっきはしていたが、そういう調整はかなり苦労するものだろう。実際、来年のこの時期に四月くらいに公開予定で撮り始めるのはあまり余裕がないが、それでも永智が明確に企画を固めて相談してくれたので、予定は組みやすい。那乃も、その永智の姿勢によって求められていることは明確になり、且つ自分の意見もしっかり受け止めてもらえる状況となることから、仕事としても人としても気持ちがよいと好意的に捉えていた。

人との巡り合いも含めた経験を重ねて、那乃の中で一つ、今後の目標と業界への提言が持論になったことがある。

――光合成で地球の酸素が保たれたり、勝つために見せた野球選手のプレーが姿まで美しいなら、人間の文化もそれに近づかなければならない。世界を動かすのは循環だ。

芸術は理解できる人でなければ理解できないと言う人が多い。しかし、心を動かすと定義される芸術であるならば、受け手の心を動かしたことで作り手が収入を得る循環を構築しなければならないと、那乃は考えるようになった。人と人とで結びつき、利益と富を構築していく「社会」を築いていくのならば、この循環に目線を向け、世間のニーズを充実させるからこそ、芸術は成長するはず――時には惨めな思いもしたペーペーから人気監督に成長した那乃は、世間からの評価も気にせず自分の意識にだけ没頭する芸術家気取りの監督仲間のことを、建造の意味すら失った廃れたビルと変わらぬ存在であり、「人という生物の亜流」とすら言える、蔑むべき者だと考えている。それこそ、酸素が必要な人間などの生物を生かせるように植物が光合成を行う循環に、社会と芸術の理想を求めなければならない――やけに大仰ではあるものの、ヒット作を生み出した那乃が研究して見つけた結論がこれだった。
家に帰って、今度は桃の香りを付けたという粉からドリップしたコーヒーを片手に資料を読む。独特の工夫を取り入れたコーヒーと合わせて真面目な仕事が動いている、極めて肩が軽い幸せを見出しながら、那乃のクリエイティブな頭はフル回転する。プロデューサーでありながら永智が脚本を書いてくれていて、修正も自由にして良いと言ってきた。
資料をめくると、出演予定のベテラン俳優の顔写真が目に入った。丈夫そうな肩幅が目立つ卵の形の凛々しい顔に、那乃はどこか見覚えがあった。遠い昔、テレビで少しだけ見たことがあるのではないか……うっすらと遠いそれをなかなか思い出せないが、深く考えることもなく、那乃は一旦眠りについた。

三日後、出演者との打ち合わせが実施された。那乃が到着した頃には、永智が主演女優やそのマネージャーと談笑していた。開放された空間で私的に永智と話していた先日とは打って変わって、今度は白い壁に囲まれた、一般的なイメージに沿った部屋での仕事となる。正方形の大きめな机も白い。
部屋に入ってきた那乃から見て左側にマネージャーと隣り合って話していた、丸顔童顔の女優は、ゆっくりと笑顔になって立ち上がり、那乃に腰を傾けた。座っていた時の印象よりも少し背は低かった。
「平本美恵です。今回はよろしくお願いいたします」
「ああ、どうも」と那乃も笑顔を作って頭を下げ、一番奥の席に座っていた永智の手前の、その女優とは向かい合う席に座った。やはり気持ち良い笑顔で永智が話し始める。
「あまり制作期間はないけど、予定のロケ地は決めていて、スケジュールも先方に抑えてもらっているんで、平本さんもやりやすいと思うよ」
「ええ。台本も読みまして、純真で一生懸命なキャラクターは私も分かり易かったです」
「僕からもいくつか質問していいかな?」
那乃が口を挟む。
「ええ。私も映画の現場についてお伺いしたいです。色々な方が関わっているから、新人としては余計なNGは出さないようにもしたいですし」
「変に気負いすぎなくていいよ」と言いつつ、真面目に取り組んでいることが伝わる言葉が、那乃を感心させた。
平本が演じるのは新人の記者で、若い社会人野球選手の取材が最初の仕事という設定なので、映画初出演となる彼女にも卵から孵った初々しさが重なってやらせやすいと永智から説明されている。那乃も、実際に今会ってみてもイメージ通りのキャスティングで、のんびりとした猫なで声の滑舌は悪くなく、単なる事務所からのゴリ押しで選ばれた訳でもないと納得した。売れ出した若手俳優にありがちな自分勝手な意見を述べて現場を困らせるタイプではなさそうだし、多少経験不足で覚束なくても映画のストーリーに沿った演技はしてくれるだろう。これで人気に火がつけば更なる活躍もしてくれるはずだから、那乃の濡れた手に粟が付くというものだ。永智の狙いの通り、楽な形でゴールデンウィークの注目作として売り出す方針に懸念がなくなった。
続けて、那乃の意見も踏まえて抑えたロケ地の一覧の資料も渡された。大宮の公園で試合を撮影したり、主人公の職場のオフィスはこの映画会社の近くにあるビルを使ったりする方針で、平本のスケジュールも余裕を持って組んでくれている。

――こちらも特に揉めずに進められそうだ。スケジュールが荒れると大変だからな……まあ気楽に、気を抜きながらやるか。

この仕事のあまりに順調な様子を少しだけなめてかかった那乃だったが、ガンとドアが開いて少し驚いた。
「ああ、林先生」
永智が飛び跳ねて頭を下げる。そんなプロデューサーとは違って、固そうな体が大きいその俳優は、腕を組んでもっとも扉に近い席にどっかり座った。
思わず鼻に皺を寄せてしまった那乃だが、目を通した資料に書かれていた、この男の素性をやっと思い出す。林浩ノ介――任侠映画や時代劇で貫禄だらけの演技をしていたスターではあるが、そのジャンルの人気や知名度が大きく落ちた現代ではすっかり、テレビ出演はご無沙汰となっている。そんな過去の人だから、那乃は彼の存在をあまり意識していなかったらしい。
「おうおう、打ち合わせはしっかり進んでいるんかい」
腕を組んだまま林は言う。順調な仕事に慢心も感じていた那乃にしてみれば、あからさまに偉そうな雰囲気を漂わせるこの一言に、脳内にビリっと騒ぐ不快感を拭えなかった。

――遅れてきても謝らない……時代遅れの勘違い大御所の典型だな。

こういう奴も丁寧にあしらうのがプロの映画監督の使命なのかと、少し自嘲もしながら挨拶をして見ることにした。
「この映画の監督させていただくことになりました、那乃俊哉です」
林は顎を上に向け、那乃を見下して言った。
「君のことはちょっと聞いているよ、最近調子に乗っているって大御所の間で有名だ」
腹を立てることしかできない言葉だった。ふと、永智が目で静止する気配を感じ、那乃は表情に苛立ちを見せないよう顔の筋肉を引っ張った。そんな様子を気にせず、林は顎に手を当て続ける。
「地味な映画をピシッと決めるために俺に声をかけたと、事務から聞いた。ホンもそこはしっかりしていたな。だがな、それ以上でも以下でもない。地味な企画だよ」

――この部屋に来て早々ここまで言って……何なんだこいつ。

驚くほどの嫌味に、那乃の手の震えが止まらなかった。マネージャーを連れずにここに来た大御所は、個人事務所で呑気に仕事を選んでいるようだから、那乃のような監督に対してはナメた態度を取ることしか頭に無いらしい。
この雰囲気に困惑して黙っていた平本が、そっと林へ目を向けた。林が気付いて眉を動かすと、声に張りを作って言った。また嫌味でも言うのかと身構えたが――
「君が主演だったね、よろしく」
那乃に対する態度とは違い、少し笑顔を見せ、首を前に傾けて優しいトーンで林は言った。同業者には甘いのか、はたまた若い女を手懐けたいのか……。ただ、相手に胡麻を擦って歩み寄ろうとはしていない。その突っぱねた態度も、一緒に仕事をしたいとは少しも思わせない。一瞬にして先が思いやられる状況に変わり、那乃は激しい怒りを抱えた。
今度は永智に目を向け、目尻を上に向けた。
「この前のスケジュールだけどな、休みもロクに入れずに関東近くで連日ロケなんて、何を考えているんだ!」
「ああ、それは……」と狼狽えた永智に構わず、話は続ける。
「俺がこの仕事を受けたのはな、この会社の先代社長に恩があるからだ。だからこそダメな部分にははっきり言わせてもらう。一般の野球チームとも組むんだろう? 適当に詰め込んだ日程で試合を一回やろうだなんて、撮れ高を稼げなくて粘ることがあれば先方は困るんだぞ。そこの監督が雑にやりたいなら話は別だが」
「一応調整はできて――」
「どうせ宣伝になるからと無理を言っていてゴリ推したんだろう? 普通ならこんなスケジュールで撮らせないぞ。俺の経験から言ってな――」
林の重い言葉の押しつけは、その後も1時間は続いた。

会社近くの中華系居酒屋で、永智の苦笑いが止まらない。紹興酒を注ぐ手が止まらない那乃は、ジッと永智を睨んだ。
「何なんだあいつ、あそこまで傲慢だとは聞いていないですよ」
「そうは言ってもねぇ、野球経験者ってのもあって、あの人じゃないとどうしようもない役なのは、那乃ちゃんも分かるだろう?」
確かに、厳しくも優しい雑誌編集者というキャラクターにはピッタリだろう。それがなおさら、良い雰囲気と気楽な姿勢で撮りたかった那乃の意志に水を差した。
「まあ、今更降ろせないでしょうし、永智さんもやんや言われたのは同じだから、なんとかやりますよ」
よく考えたら、ベテランプロデューサーとしてまた苦労が増えるし、プライドにも傷を入れられて、永智だって疲れているはずだった。那乃だけが文句を言っているのは申し訳ないと反省する。
「悪いねぇ……スケジュールは、那乃ちゃんも林先生もやりやすいように組み直すから」
「お願いします」
「野球経験もある人らしいからね、自分にちょっとピリッとするのはしょうがないかな」
那乃が顔を上げる。
「野球経験って、そんなに本格的だったんですか?」
「らしいよ。スライダーが鋭いピッチャーだったって社内で話が回っていたな。高校の時にちょっと話題になったけど、怪我が原因でやめたらしい」
まあありがちな話かと思いながら、アルコールで薄れ始めた那乃の意識は、林をギャフンと言わせるための材料集めに向かい始めていた。

クランクインから冬の晴天に迎えられた。大宮の河原の公園に集まった選手たちの笑顔が、メガホンを片手にした那乃の気持ちを高めてくれる。本来はもう少し後、平本らが働くオフィスの撮影で初日としていたが、先日の林からの指摘で計画を見直した永智が野球チームと話し合ったところ、練習の日程を踏まえて前倒しての撮影を相談されたため、平本のスケジュールも開けてもらって撮影開始となった。

――あの話も手に入れたことだし、林の奴も嫌味が言えないようにしてやろう。

これからの撮影は長い。嫌な空気を吹き飛ばし、稼げる映画を効率的に撮っていけばいい――那乃の意識が完全に、これからの撮影に向かっていった。
サングラスで日差しを遮っている那乃は、選手に向かって語りかける。
「それでは、本日は練習のシーンから撮影しますので、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
気持ちのいい挨拶が全員から届き、那乃もさらに気持ちがよくなった。

涼しい中で投げ続ける青年をじっくり見つめ、記者はメモを取る――平本はこのシーンでも丁寧に役作りを行って来た。那乃の意図にも合った演技であり、指導も楽だった。
投げ続けるその選手は、少し目尻が上がった厳しい表情が魅力的で、その容姿だけで人気が得られそうだと那乃にも思わせた。話題性もあるだろうし、このチームの監督からピッチャーとしての能力もかなり高いと聞いている。学生時代にドラフトは来なかったのだろうか。
「全力で投げてもらえる?」
那乃から飛んだ指示に「はい!」と答え、そのピッチャーは胸の前に両手を置く。左手のグラブに隠していたボールを思いっきり、ネットの方へ投げ飛ばすと、右肩に手を置いてそのまま動かなくなった。

――思ったより迫力がないな……。

「もう一回、いける?」
少し目を細めた後、ピッチャーは言葉に従い、構え直して投げつけた。フォーク気味なのか、ネットの手前で球は落ちる。那乃が求めていた光景よりは物足りなかったが、編集でもどうにかなるくらいの画にはなった。

――まあいい。イメージカットに使えそうな画も十分に撮れた。試合のシーンも撮り溜めてしまおう。

先日の林の嫌味から解放され、那乃の気分も乗って撮影は快調に進む。前倒しされたスケジュールを逆に利用して映像を溜めておきたかった。
那乃が選手たちに立ち位置などを指示し、次の場面のセッティングをしていると、土手の上に見覚えのある大柄な影が目に入った。

――来たな。

永智が調べていた情報を聞いていた那乃は、林の来訪にも屈することがない安堵で、久しぶりに他人を蔑む期待を持ってしまった。

林との初対面の後、イライラしながら飲んだ次の日。永智が持って来たのは、かなり古い地方誌だった。

――ダイヤモンドの輝きは、ガラスのように割れた!

やたらおセンチな見出しが昭和臭いこの新聞に載った写真は、まだ細い体を前に倒し、印刷の薄さもあってなのか、目が霞んで悲しさを絞り出されたような、ユニフォーム姿の若き日の林だった。4つのベースを例えたダイヤモンドと、怪我をしやすいエースピッチャーを表現するのによく使われるガラスを重ねたこの文章はやけに遠回りで、野球を知らないと言葉遣いの面白さに気づけないかも知れない。
「高校時代にイケメンピッチャーとして話題になったこともあるんだけど、家業の手伝いをしていた時、肩を壊したらしんだ。それで地区大会でボロ負け、プロのスカウトにそっぽを向かれて、野球人生は終わったって書いてある」
口をすぼめて言う永智を余所に、那乃は眉毛を斜めにしてこの記事をずっと眺めていた。自分たちにカッコつけておいて本人にはこのような情けない過去があったことから、あの嫌味な態度は挫折した過去の悔しさを野球の映画を撮ろうとしている自分たちにぶつけているのではないか――その状況は、那乃に掴み所のない不快感を与えた。遠い過去を単に仕事で知り合った自分にぶつけられても、やっかみにもならない理不尽に過ぎない。挫折の後でその整った容姿を俳優として生かして富を得たのだし、今更激しい感情を掻きたてているのであれば、あまりに幼稚だとも思った。

――この記事の話を武器にして、嫌味をたっぷり言ってやろうか。

厚いコートを着ながら構えた那乃は、長袖のTシャツだけ羽織った姿が季節に合ってもいない林の様子をジロッと睨んだ。そんな彼のことは気にせず、林はゆっくり土手を降りてくる。
「林先生、お早目の到着で――」
「おい、あのピッチャーと話をさせろ」
開口一番に、林は平本の前で投げ続けていた選手を指差した。「はあ」と言葉が続かなかった那乃を気にせず、林はその選手に向かっていく。
「君、名前は?」
「津々木浩です」
相変わらず気持ちの良い声で津々木は応える。林が眉間に皺を寄せ始めた。

――何をするつもりだ?

怪しい緊張を抱えながら那乃は見つめたが、林の口元には笑みが出来ていた。
「ちょっと、投げすぎなんじゃないか」
「はい?」と驚いた声を出した津々木だが、那乃には妙に嬉しそうな様子になっていると見えた。かまわず林は続ける。
「この映画のプロデューサーが、君のことをストレートの威力が凄いピッチャーだと言っていた。でもな、リリースの時に肩を少しかばっているのは、さっきから見ていても感じたよ。まあ、たかだか俺みたいな俳優に言われても困るだろうけど」
柔らかい声で話す林の思わぬ発言に、那乃は非常に驚いた。津々木は下を向き、応えないでいる。眉間の皺を無くし、林は軽く津々木の肩を叩いた。
「人生は楽しかしないぜ。好きでもない苦労しなきゃ社会のためにならないって言うけれど、それはちゃんとした目標が固まった上で言われなきゃ自分のためにならない。それこそ今の時代は、多様性だとか職業選択とか言って、俺みたいな年寄りのキツイ言葉を時代遅れだのパワハラだのと扱う奴が多いんだ。だったらなおのこと、楽をしながら自分のためになることをやるのがいいって、そう考えたっていいかもな」
話を続ける林の様子を見て、嫌味に溢れていた那乃の頭は、真っ白に塗られていくように大きな変化を起こしていた。
津々木は俯いたままだったが、やがて少しずつ、涙の粒が地面に落ちていった。
「……人の期待に応えろって、そこだけ意識してもダメでした」
顔を上げない津々木の様子も、林は優しさに溢れた笑顔で見ていた。そのまま津々木は続けた。
「一昨年、大卒でドラフト指名されなかった時、自分は役に立たない人間なのかって思いました。だから、そこから見返すためにこの会社のこのチームで、子どもに野球を広める活動をしたかったんです。アマチュアとか社会人とか、野球はそれぞれの立場やリーグとかで分断が激しい分野でもあるから、やれることやりたいって思いました」
「それはいい志だ」
林は天を仰いだ。
「俺もプロ野球を目指していたんだ。遠い昔だけどな」
顔を上げた津々木の目が開く。林は続けた。
「スカウトは実力より容姿でプロ入りを目指さないかと言っていた。若かったし、メディアに出て野球をするならそういうものかって思ったけど、肩を壊して注目されなくなったら冷たいものだった。そこから俳優になったら厳しい舞台監督にしごかれて、また世界の見方は変わったんだよ。縁あって劇団に入っても、演技力を度外視されているのではと思ったこともあったけど、容姿や年齢に合った役をもらって適当な気持ちでやったらボコボコに怒られた。……自分をどれだけ二枚目だと思っているんだろうな」
不器用に林は笑った。
「だからな、君が野球に本気で取り組みたいなら、自己管理もしながら自分で道を切り広げて欲しい。信頼できる人に従ってもいいだろう。野球の発展に繋がることをしたいなら、体のことを科学の力を借りて研究するのも君がやるべきことだ」
そこまで言った林を見て、那乃は思わず津々木に駆け寄った。
「今日の撮影は終わりにしよう。もう一度、監督や会社と話し合ってくれ」
「え?」と津々木声を出す。那乃は笑顔を向けた。
「ちょっと過密にスケジュールを組んでいたから、色々な画を撮らせてもらったまま試合までやるのは大変だろう。林先生が気付くくらいだし、ちょっとはのんびりしてから、今回の映画から野球を発展させることを考えたっていい」
那乃は初めて林の名前を呼んだ。永智にちなんで先生だのと言ってしまったのは、彼が自分に嫌味から入ってきた意味に共感し、反省したからでもあった。

――俺は、林先生のような真っ直ぐさもないままに本当に調子に乗っていた。

無理なスケジュールを組み、疲労も考慮せず予定を組んだ自分と、すぐに異常に気付き、アドバイスした林とで、那乃は人としての格に月と鼈との差があるようだと感じた。

スケジュールの大幅な遅れにより、撮影は全く進まずに年を越し、遂に映画制作は中止となった。つぼみは花を開く季節になり、津々木が務める会社は健康のための野球を提唱して注目を浴び、その際に那乃が撮った映像も資料として活用された。
永智はというと、映画の頓挫で慌てに慌てた上、結局はゴールデンウィークの商機を逃し、役職も降格となった。
「那乃のやつ、許さんぞ!」
……と例の大宮のグラウンドに向かって叫ぶ永智の様子を、草野球チームは風物詩のように見ていたそうだ。

そろそろ暑くなりそうな時期に、軽井沢のログハウスで過ごすのは気持ちがよい。海が広がる場所だと、その壮大さに心まで飛んでいきそうになるが、緑に染まり始めた山に囲まれると、地に足を着けた命に守られているような気持ちになる。
祖父が持っていたという別荘のベランダに置かれた木製ベンチで甘いグァテマラの香りを漂わせていた那乃だが、ふと誰かが手を振って走ってきた。
「平本さんじゃないか」
那乃の元まで木製の階段を上がってくると、平本は息を切らせながらニコニコと笑みを見せる。
「この近くでグラビア撮影をやるって林先生に言ったら、会ってやれって。噂好きの情報網が役者にあって、那乃さんは有名人なんですって」
お節介を焼かれた恥ずかしさを隠しながら、那乃はまず頭を下げた。
「あの映画の件は申し訳なかった。せっかくの仕事だったのに頓挫して……」
「いいんですよ。おかげであの野球チームとコラボして、応援団長もやらせてもらえて……あ、そうだ」
平本が腰のポシェットから封筒を取り出し、差し出した。那乃は目尻を落として覗き込む。
「林先生、実家はお米の農家だったけど、自分じゃ続けられないって親戚に譲ったら、その人は結構大きな会社にしたらしいですよ」
青空の下に広がる田んぼの写真――封筒に貼られたそれを見て、笑ってはいけないのだろうと思いつつ、那乃はクスッと笑ってしまった。イケメンピッチャーと持て囃されながら大きな俵に肩を蝕まれて生きる、後の映画スターとはとても思えない光景だっただろう。
「米券でお米を買って、元気に仕事は続けろって言っていました。自分は家業を手伝ったことも後悔はしていない。たまには仕事で逃げてもいいなって」
少し悲しそうにも思える平本の笑顔が、妙に那乃を安心させた。映画を撮ろうとしたこと自体は、津々木が映像も活用してくれたことで無駄にはならなかったため、那乃が干されることはなさそうで、オファーが無くならなかったことについては、映画業界に対して感謝もしている。
そして、少しだけの決意が浮かぶ。

――新米監督が、俺が星になるには早いさ。

涼しい風に煽られた流れで、那乃は西を見る。明日また昇るであろう夕日が、緑の山へと消えようとしていた。

おわり
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