第1話
文字数 1,263文字
「逃げなさい」
母の声が今も鼓膜に蘇る。
日々悩みごとは変わるというが、八年前のわたしは父の家庭内暴力がまさにそれだった。
絶対暴君。
男尊女卑。
そんな古くさい名目で日常的に家庭内暴力は行われ、母やわたしは肉体的にも精神的にも追い詰められていた。
「やめてください、お父さん。アキを殴らないで!」
その日もわたしが父の虐待を受けていると、いつものように母が割っていった。
「うるせえ! 自分の娘に教育して何が悪いんだ」
「許してあげてください。わたしの方から叱っておきますから――きゃあ!」
今度は止めに入った母に馬乗りになり父は手を上げた。
中間管理職。
貞淑な妻。
思春期の娘。
そんな理由が父をどう追い詰めたというのだろう。
「そもそもお前のしつけがなってないんじゃないか」
普段より強い酒を飲んだのだろうか、父の暴力はいつにも増してひどかった。
――アキちゃんのお母さん、きれいね。
その日の夕方、当時中学生だったわたしの三者面談があったため、おしゃれをしていた母。
先生に褒められわたしも鼻が高かった。
しかし、久しぶりの化粧も整えた髪型も、父の支配のもとでは見るも無惨に飲み込まれ、美しい母は悲鳴の中に消えてしまった。
「アキ。ここから逃げなさい、お願い!」
頭から血を流した母はわたしに手を伸ばし助けを請うような目で言った。
お母さんを助けなきゃ!
そう思ったが、意識とは相反してわたしの足はすぐに家を飛び出し、地面を蹴っていた。
生物としての本能が駆り立てていたのだと思う。
ここから逃げなきゃ。
どこから?
何から?
それはこの平穏を知らぬ家庭からか、父の暴力からか、はたまた母の助けを乞うような瞳からか。
わからない。
わからなかったが、これがわたしの見た母の最期だった。
そして、八年後の今日。
わたしは出所する父を出迎えるため、刑務所の重い扉の前に立っている。
約束の時間まであと5分。
久しぶりの父との再会に緊張しているのか、体は火照り、脈拍も少しだけ早い。
あの日、なぜわたしが母の前から逃げ出したのか、今ならわかる。
それは父への殺意だ。
母がわたしに助けを求めた瞳の奥に、父へ向かう明確な殺意を見てしまったのだ。
「アキ、お父さんを殺してちょうだい」
甘くて優しい匂いがする母。
小花のような笑顔が可愛い母。
お料理上手な母。
わたしの大好きな母親の中に黒々と燃え盛る憎悪の念を見つけてしまい、わたしは逃げ出したのだ。
理想の母親像が壊れてゆく――。
時々考えることがある。
あのとき、母の父に対する殺意から、目を逸らさずにいたらどうなっただろう、と。
今頃、母と二人、母子水入らず笑顔の絶えない日々を送っていただろうか。
いや、それはありえない。
だって、わたしはもうひとつ見つけてしまったのだから。
母と同様、わたしが父へ抱いた黒い塊に。
刑務所の扉が細く開かれた。
わたしは今、母の遺言を実行する。
隠したナイフの準備はできている。
さあ。とびっきりの笑顔で出迎えよう。
「お帰りなさい、お父さん」
母の声が今も鼓膜に蘇る。
日々悩みごとは変わるというが、八年前のわたしは父の家庭内暴力がまさにそれだった。
絶対暴君。
男尊女卑。
そんな古くさい名目で日常的に家庭内暴力は行われ、母やわたしは肉体的にも精神的にも追い詰められていた。
「やめてください、お父さん。アキを殴らないで!」
その日もわたしが父の虐待を受けていると、いつものように母が割っていった。
「うるせえ! 自分の娘に教育して何が悪いんだ」
「許してあげてください。わたしの方から叱っておきますから――きゃあ!」
今度は止めに入った母に馬乗りになり父は手を上げた。
中間管理職。
貞淑な妻。
思春期の娘。
そんな理由が父をどう追い詰めたというのだろう。
「そもそもお前のしつけがなってないんじゃないか」
普段より強い酒を飲んだのだろうか、父の暴力はいつにも増してひどかった。
――アキちゃんのお母さん、きれいね。
その日の夕方、当時中学生だったわたしの三者面談があったため、おしゃれをしていた母。
先生に褒められわたしも鼻が高かった。
しかし、久しぶりの化粧も整えた髪型も、父の支配のもとでは見るも無惨に飲み込まれ、美しい母は悲鳴の中に消えてしまった。
「アキ。ここから逃げなさい、お願い!」
頭から血を流した母はわたしに手を伸ばし助けを請うような目で言った。
お母さんを助けなきゃ!
そう思ったが、意識とは相反してわたしの足はすぐに家を飛び出し、地面を蹴っていた。
生物としての本能が駆り立てていたのだと思う。
ここから逃げなきゃ。
どこから?
何から?
それはこの平穏を知らぬ家庭からか、父の暴力からか、はたまた母の助けを乞うような瞳からか。
わからない。
わからなかったが、これがわたしの見た母の最期だった。
そして、八年後の今日。
わたしは出所する父を出迎えるため、刑務所の重い扉の前に立っている。
約束の時間まであと5分。
久しぶりの父との再会に緊張しているのか、体は火照り、脈拍も少しだけ早い。
あの日、なぜわたしが母の前から逃げ出したのか、今ならわかる。
それは父への殺意だ。
母がわたしに助けを求めた瞳の奥に、父へ向かう明確な殺意を見てしまったのだ。
「アキ、お父さんを殺してちょうだい」
甘くて優しい匂いがする母。
小花のような笑顔が可愛い母。
お料理上手な母。
わたしの大好きな母親の中に黒々と燃え盛る憎悪の念を見つけてしまい、わたしは逃げ出したのだ。
理想の母親像が壊れてゆく――。
時々考えることがある。
あのとき、母の父に対する殺意から、目を逸らさずにいたらどうなっただろう、と。
今頃、母と二人、母子水入らず笑顔の絶えない日々を送っていただろうか。
いや、それはありえない。
だって、わたしはもうひとつ見つけてしまったのだから。
母と同様、わたしが父へ抱いた黒い塊に。
刑務所の扉が細く開かれた。
わたしは今、母の遺言を実行する。
隠したナイフの準備はできている。
さあ。とびっきりの笑顔で出迎えよう。
「お帰りなさい、お父さん」