第1話

文字数 2,609文字

日中、痛覚が繋がってなかった。
 何を見ても、何を触っても、何も浮かばない自分がいる。
 あ、猫は見ててかわいかったかも。

 でもそれ以外は、何も感じていない自分があるっていう自覚だけ。

 自分のどうしようもなさとかは全部誰かのせいにして、責任から逃れたいな。
 
 そう思って町を散歩していた時、わたしの目の前を群れの狼たちが過ぎていった。

 怖くなって物陰に隠れた。そして彼らを見た。 

 そっと観察すると、それは群れではなく、一匹が寄り集まり各々のしたいことをしていただけだった。

 ある狼は、やせっぽちで小さく、夢中で羽虫を食べている。

 ある狼は、口角をあげたまま目を鈍く光らせ、前の狼が羊を見つけるのを待っているようだった。

 その中に一際大きな狼がいた。太い前足に見える爪は石を割り、牙は太陽をも砕いてしまうかのように鋭かった。日差しを編み込んだ毛並みは風に揺れており、一本一本が銀でできているようだった。
 

 わたしは何を思ったか、あの一番大きな狼を捕まえて毛皮を作ろうと思った。

 練習として、孤立したいかにもか弱そうな狼を狙った。
 
 小さな彼は賢く、わたしが撒いた毒餌や罠を簡単にかぎ分けた。

 しかし、彼は群から離れすぎたようだった。

 銃弾を何発か打ち込むと、あっさり倒れる。

 他の狼は、自らの身を案じたのか、こちらには近づいてこなかった。

 それを確認すると、まだ脈打つ彼の喉を切った。そのとき人間の赤ん坊のようなあどけない声をあげた。

 どす黒い血が流れた。わたしは廃れた家の窓枠に彼をくくりつけ血を抜き、革をなめした。

 それからは簡単だった。いくら殺しても彼らは自分の子供でもない限り、追いかけてくることは少なかった。
 仮に追いかけてきても簡単に罠にかかった。そうして殺した。
 

 ずいぶんと狼の数が減った。わたしはそれがとても良いことだと思えた。彼らは革になり、剥製になり、絨毯になり、コートになった。それらを売って羊と土地を買い、羊飼いを雇った。何人か雇った羊飼いのうちの一人と私は恋に落ちた。その人は抱き締めるといつも林檎の森の香りがした。静かな目で微笑む様子を見ていると、とても落ち着いた。
 
 わたしが話すのに夢中で食べ物をテーブルにこぼして気付かなかったとき、優しい笑みのまま何も言わず穏やかに拭き取ってくれていたのを見て、わたしはこの人と一緒になるんだなと思った。

 毎日、とても楽しかった。
 

 狼が減った代わりに町にキツネが増えた。キツネたちは病気を運んだが、羊を狩ることはなかった。

 ある雨あがりの朝、町外れを歩いているとキツネが八匹、ただ喉元を食い千切られ死んでいた。

 あの狼たちが面白がってやったのかもしれない。

 そうして足でキツネの死骸を蹴るとその中に古い羊の骨が転がっているのを見つけた。

 ああ、あいつか。あの大きな狼か。

 わたしはそのまま、狼の足跡を辿った。

 その足跡は何匹かの群れのようだった。数が多い時には、それぞれ孤立していたくせに数が減ると団結するか。そう思った。

 最初に殺した一匹が、ひどく可哀想に思えてきた。わたしは腹が立って仕方がなかった。あの狼どもは根絶やしにしてやることに決めた。

 
 濡れた花と果実の香りの森の中を進んだ。森を抜けて小高い緑の丘に出ると、水溜まりができた中央あたりに一匹の狼と何匹もの羊がいた。羊の足跡はなかったはずなので、仲間が集めたか、そこにいた羊飼いを殺したか、あるいは両方かと思った。

 わたしは肩から下げていた銃のレバーをゆっくり、静かに引いて周りに注意しながら近付いた。風上のあの狼は私に気づいていないようだった。向こうから吹く風にのって微かに林檎と血のにおいがした。

 すぐにあの人のことを思った。

 
 瞬間、狼はこちらに気づいた。

 目が合ったわたしは狼に銃口を向けた。狼はこちらを睨み付けて動かなかった。
 わたしたちは目を合わせたまま、距離を保った。歩幅にして四十歩くらい。今ならなんとか当てられる。おそらく一発でも外せば、こちらが死ぬ。

 お前を殺す。


 覚悟を決めたときだった。狼が吠えた。わたしは狼が顎をあげたのを見逃さなかった。
 
 引き金を引いたあと、向こうから強い風が吹いてきた。

 思わず目を細めた。

 周りを見ると狼は居なかった。しかし、さきほどよりも強く、血と林檎の香りがした。

 立ち上がって散った羊たちの影に狼が隠れていないか、目で追った。しかし、あの狼を含め、一匹もいなかった。弾丸一発だけじゃあの狼はきっと殺せない。

 そうしてあの水溜まりを見ると、あの人が血まみれになって倒れているのを見つけた。
 
 わたしは急いで駆け寄った。浅い呼吸の体のどこに傷があるかを探した。

 右胸が破られていた。

 必死に押さえつけて、ずいぶんわたしは泣いたけど血は止まらなかった。

 腕のなかで、微かな声で「ごめんね」と聴こえた。

 そんなことないよって言ったけど、聴こえてたのかわからない。

 息を引き取ったあともそばにいた。

 雷が鳴って雨が振りだした。血で染まった指の間から胸の傷跡が見えた。

 噛み傷ではなかった。


 一発分の銃創だった。

 途端に、誰かに撃たれて元々そこにいたのをあの狼が守っていたのかと考えた。
 狼が突然いなくなったことや、ここに羊たちがいる不自然さを考えていると、少しずつ一つのあたたかな何物かがわたしの胸のうちにできあがっていくのを感じた。

 それはわたし自身の悲しみだった。その人の動かなくなった体と雨の冷たさが輪郭をなぞり、ほのあたたかいそのふくらみが少しずつわかりかけてきていた。
 そしてわたしはその人の顔についた雨粒を拭おうとした。わたしの布がその人の顔に届こうとしたところ、何かが変わったように思えた。
 するとわたしの腕の中の冷たい体は、幾つかの林檎の花に変わっていた。
 雨は止み、水溜まりを赤く染めていた血は水面を漂う花びらとなっていた。
 
 わたしは、あの人の香りがする花びらを掬いあげようとしてゆっくりと水溜まりまで這っていった。

 

 

 

 水溜まりに、大きな狼の頭が映った。

 
 
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