文字数 19,743文字

 女が急にふり向いたのをみて、椎名武生は手にもったタバコを危うく落っことすところだった。しかも、とても楽しそうに笑っている。人混みの中でようやく恋人を見つけたみたいに、両手をふって飛び跳ねそうな勢いだ。あの写真の笑顔とはずいぶんと違っていた。
 彼が足を止めて女を見ていると、すこし待ってから女の方から近づいてきた。顔は笑顔のままだ。場違いなぐらいの明るい笑顔だ。その笑顔が俺に向けられているとすれば人違いだろう。そう思った。
 後ろをふり返ってみる。女の笑顔に応える誰かがいないかを探して――。
「違ってたら、ゴメンなさいねー。――私になにかご用なの?」
 女は目の前で立ち止まり、満面の笑みを浮かべながら椎名を見上げていた。とっさのことで声もでない。タバコを吸うのも忘れてただ女を見つめているだけだった。じっさい女が自分に話しかけているのかどうかも、よくわかっていなかった。
「・・・・俺のことを知ってるのか?」
 ようやく武生が反応した。
「まあ、ね」しまった! と奈乃は思った。
 なにを言ってるの! 謎はだめよ、謎は!
 奈乃はあわてて笑顔をつくって、あやふやに返事をごまかした。
 武生はまじまじと女を見つめた。やはり知らない顔だ。絶対見おぼえのない顔だ。 それは間違いない。
「どこで俺を?」
「えーっと。昨日だったかなー。スクランブル交差点で見かけたと思うんだけどぉ」と奈乃はなんとかタメ口を維持した。そっちの方がよりバカっぽい娘に見えるんじゃないかと思ったのだ。本来ならばアニメキャラを演じたかったところだが、そこまで大胆にはできなかった。
 しかし、こうまで背が高いと、どうも苦手よね・・・・、と笑顔で男を見上げたまま、奈乃は考えていた。
 男の身長は優に百八十を超えている。私も女子の中ではけっして低い方ではなかったが、この人を見下ろした感じの威圧感がどうも好きになれなかった。もうそれだけで束縛されているような気分になってしまう。
 あー、早くこの男との話を終わらせたい、と奈乃は心から願っていた。
「いや。それよりも前に、俺を知っていたのかと思って・・・・」
 女はすこし大げさに首をふった。
「ぜーんぜん! あの時がはじめてよ」
「そう・・・・」
 武生は煙をすべて吐き出すぐらいの大きなため息をつくと、タバコを携帯灰皿に押しつけてポケットに入れた。
 こんなことになるとは思ってもいなかったので、武生はどうしたものかと迷っていた。なにかの取材を装ってインタビューをしようか、それとも正直にあの写真に写っていた笑顔について切り出そうか・・・・。
「いまから仕事?」
 そう訊くと、女はおかしそうに笑った。小さな歯がきれいに並んでいるのが見えた。
「まだ学生よ。大学の二年なの」
 ウソよ。でも、見える? そう見える? まだ十七だけど、そう見える?
「学生? この近くに?」
「学校はこの近くじゃないわ。教えないけど・・・・」
「じゃ、用事があったんだ」
「そう、用事があったの」
「これから?」
「そう、これから」
「昨日も?」
「そう、昨日も」
 ねえ、これってバカっぽくない? と奈乃は男に聞いてみたかった。
 オウム返しに質問に応える女なんて、脳みそツルツルのバカ女みたいじゃない?
 それとも、単に扱いやすい女だと思ってしまうだけなのだろうか・・・・。
 それだとまったく意味がない。
 奈乃はどうしたらいいのかまだ判断しかねていた。
「ちょっと時間とれないかな」
 男は申し訳なさそうにいった。
「時間? なんの時間?」
「キミと話をする時間をもらえないかなと思って。もちろんナンパじゃないし、なにかの勧誘でもないから安心してほしい。ほんのちょっと話を聞きたいだけだから――。ダメかな?」
「うーん」
 奈乃は本気で迷っていた。
 なんの話だろう?
 深入りしてはいけないのはわかっているが、ここで拒否してもこの男は納得しないだろう。よけいにしつこくつきまとわれそうな気がする。
 それだったら今、私の謎がこの男の中でたいして大きくなっていない今、すべてを終わらせておくに越したことはないのではないか、と奈乃は考えていた。
 じっさい私にとってこの男が無害なのはわかっているのだ。
 少しだけ。
 ほんの少しだけ――。
「いいわ」
 奈乃は携帯を取りだして時間を見た。
「十五分ぐらいなら・・・・」
「ありがとう、充分だよ。じゃ、俺の知ってる店でいいかな? 静かなところなんだ」
「任せるわ」
 そう言われて、男は公園通りの方角に向かった。女は斜めうしろに下がって、なにも言わずについてくる。
 最初からこの光景を見ている人がいれば、援助交際の交渉がめでたく成立したように見えるのだろうか、と椎名は想像していた。そう見られてもおかしくないぐらいの年齢差があった。俺が実際の年齢より若く見られ、彼女が少しマセて見えるのを考え合わせたとしても、人は決して似合いのカップルとは見ないだろう。そんなものだ。
「こうしていると、なんか俺って補導員に見えないか?」と言いながら椎名がふり向くと、奈乃はまじまじと彼の顔を見つめてから、ゆっくりと首をふった。
「とても補導員には見えないわ」と笑う。いまにも腕を組んできそうな笑顔だった。
「なんに見える?」
「カメラマン」
 武生は、まだ手にもったままだった三脚を見た。
「じゃ、これを持ってなかったら?」
 女はすこし考え込んだ。
 そして言った。
「刑事」
「うそだろ?」
「ウソ」
 彼はまた吹き出した。
 いったいこの娘はなにを考えているのだろう。
 会ったこともないのに満面の笑顔で近づいてくるし、いま会ったばかりなのに気安く話しているし、話がしたいというだけで簡単についてくるし――。
 カメラを持った奴に悪人はいないとでも思っているのだろうか。それとも、もともと世間に悪人はいないと信じ込んでいるおめでたい奴なのだろうか。
 わからない――。
 理解できない――。
 武生は後ろから誰かつけてこないかと、辺りをうかがってみた。
 それを見てまた女が笑った。
 なんか武生が考えていることを見透かされているような気がして、彼もバツが悪そうに笑った。

 奈乃は焦っていた。男の中で〈謎の女〉が芽生えつつある。どうして男はこうなのだろう。もう腹立たしさを通り越してあきれる思いだった。もっと言葉に気をつけなきゃいけない。でも、しゃべらなければまた謎だ。いったいどうしたものか・・・・。

 ◇

 椎名が選んだ店は、公園通りから小さな路地を入ったところにある『スワン』という名前の古い喫茶店で、外壁は焼きレンガ、窓は白枠という、スイスの高原にあるコテージをイメージしたようなつくりだった。
 ドアを開けると、カランカランと鐘の音がした。
 入って右側の壁沿いに四人掛けのテーブルが二つと、あとはカウンターに五脚のスツールがあるだけの小さな店だった。
 客は誰もいなかった。
 カウンターの一番奥の椅子に五十がらみの女性が腰掛けてテレビを見ていたが、二人を見ると「はい、いらっしゃい」と気だるそうに声をかけて、こめかみを押えながらカウンターのスツールから降りた。
 テレビは点けたままだった。
 テレビでは、元気な男が大きな声で腹の脂肪が落ちる健康器具の説明をしていた。
 椎名は奈乃に、店の一番奥にあるテーブルを勧めた。
「へえー」と店を見回しながら、奈乃が感心していた。
「なに? なにか問題でも?」
「ううん。そうじゃなくて・・・・」
 奈乃は男に顔を近づけて小声で言った。
「渋谷にまだこんな昭和みたいな店が残ってたのね。――昔からよく利用してるの?」
「昔からって、いったい俺のこといくつだと思ってんだ?」
「三十二」
 ピッタリだった。
 椎名はいつもラフな恰好をしていることもあって若く見られることの方が多く、昔から一発で年齢を当てられた経験が一度もなかった。
 女はなにごともなかったようにメニューを開いてのぞき込んでいたが、しばらくして「あっ!」と小さく叫んだ。
「ん? なに? なにか問題でも?」
「え? いえ、なんでもないです」
 危ない、危ない。
 男の中の袋をのぞいといてとぼけるのも難しいものよね、と奈乃は思った。
 もっと慎重に会話をしなくちゃ。
「名前は?」
「よしこ」
「よしこ?」
「そう。前島よしこ。平凡な名前でしょ」
 武生はほほ笑んだだけででとくになにも答えなかった。
 偽名だと疑っているのか? とも思ったが、奈乃はどうでも良かった。この男の疑問が解消されればもう会うこともないだろうし、偽名がとくに問題になるとも思えなかった。
 店主の女が、水をいれたコップおしぼりをテーブルに置いて、すぐにカウンターの中に戻っていった。
 その女性に向かって男がコーヒーを注文する。
 奈乃はレモンティーを注文した。
「キミは紅茶派なの?」
「そういうわけじゃないけど・・・・」
「そう。俺は本当は紅茶派なんだ。前はコーヒーが大好きだったんだけど、年くったのかなぁ。――そういうのって、まだわかんないでしょ」
「そういうのって?」
「年をとったら食の嗜好が変わるっていう感覚」
 奈乃は考えながら首をかしげた。
「だろうね。俺もちっともわかんなかったもん。じゃ、今度は俺の血液型当てられる? チャラいホストみたいな質問で悪いけど、すっごく興味あるんだ」
 ――ABね。
「うーん。O型?」
「ブー。ABだよ。そう見えないだろ」
「そうねぇ」
 奈乃は笑いをこらえていた。
「とてもそうは見えない」
「じゃ、星座は?」
 ――二月十日生まれだから、みずがめ座ね。
「えー、そんなのわかんなーい」
「だいたいでイイからさ」
「おとめ座」
「ブー、みずがめ座」
「そんなのわかるわけ・・・・」
 そこまで言ったところで、奈乃の笑顔が凍りついた。
 この男は、あの忌わしい

を隠しもっている。それが見えたのだ。まだ不確かだが、心のずっと奥の方にそれが潜んでいるのがわかる。
 奈乃は息をするのも忘れて、男をじっと見つめていた。
「え? どうしたの? なにか問題でも?」
「――え? いえ。なんでもないです」
 奈乃は小さな声でようやく応えて、コップの水を口に含んだ。
 この男は過去にあった暗い記憶を抱えている。
 私には到底想像もできないなにかを隠し持ってる。
 それはわかる。
 でも一体なに――?

 ◇

 人が持っている袋はさまざまだ。
 さきほどこの男から取りだしたように、新しい記憶とか、とりとめのない夢想の袋は比較的容易に取りだせる。いまの私にとっては、そんな心の表層に浮かんだ袋を取りだす行為なんて簡単なことだ。ひょいと、箱の中からヒヨコをつまみだすような素早さですませることができる。
 難しいのはその奥にひそんだ古い記憶や、けっして他人には見せたくない記憶の袋。
 それはいまでも、目をつむり、意識を集中させた上で、深呼吸を五回するぐらいの時間と、二リットルのペットボトルを唇で持ち上げるぐらいの力を要する。
 その苦労して手に入れた記憶の袋には、想像もつかないものを隠し持っている人が意外に多い。程度の差はあるが、ほとんどの人がなんらかの秘密の袋を持っているといってもいい。
 男の場合はたいてい

に関するものだが――朝だろうが、真っ昼間だろうが、満員電車の中だろうが、人と話している最中だろうが、常にエロ本まがいのことを考えているから驚きだ――、なかには強暴な感情の袋をいくつも持っている男もいる。
 そんな感情の袋の中で奈乃がいちばん驚いたのは、中学の時に社会を教えていた教師の袋だった。
 その先生はいつも笑顔を絶やしたことがなく、トイレで小便をしている時も笑っていた、と男子生徒が大笑いしていたぐらいだった。
 当然、授業中でも笑顔を欠かさない。まるで笑顔を絶やさないことで教科書にはない明るい社会を体現して見せている、とでもいうようにいつもニコニコしていた。
 しかし、それを学びとる生徒はあまりいなかった。
 ほとんどの生徒が、他の授業ではまじめな生徒までも、うしろの生徒と話し込んだり、あからさまに机に突っ伏して眠ったりと、しだいに増長してやりたい放題になっていった。
 ある日、いつも話し相手になっていたカオリが眠ってしまったこともあって、奈乃は退屈のあまり、その先生に〝さぐり〟をいれてみた。当時はまだ成功する確率も低く、それをするだけでぐったりと疲れてしまうこともあって、あまり実行することもなかったのだ。
 なにしろ、その力に気づいたのも生理がはじまった中一の夏からだったので、それからまだ一年も経っていなかったのだ。赤ん坊がようやくつかまり立ちできるようになった、ぐらいの力に等しい。
 そんな彼女が、その教師の心をちょっとのぞいてみただけで、あっさりと袋を五つも手に入れることができたことに自分でも驚いていた。
 こんなこと初めてだ。
 ベッドの下から千円札が五枚も出てきたような気分だった。
 彼女は口を隠してくすくすと笑った。先生の中には袋がいっぱい詰まっているのね、と言ってやりたかった。
 だが、口笛でも吹きたい気分で開けた袋の中身を見て、彼女は凍りついた。
 とても信じられないことだったが、先生から取り出した袋の中身はすべて、生徒一人ひとりに対して残虐行為を夢想する感情の袋ばかりだったのだ。

 一つ目の袋には、眠っている安藤の(彼は授業がはじまる前からいつも寝ていたので、先生は顔も知らなかったと思うが)、その髪をつかんで、何度もなんども机に頭を叩きつけるシーンが入っていた。
 鼻がつぶれ、歯が抜け落ちてもやめない。安藤は次第に血だらけの物体と化していく――。
 二つ目の袋には、授業中にもかかわらずマニキュアを塗るミカの指先を、ペンチで一本ずつ潰していくシーン。
 彼女は頭をのけぞらせて白目を剥いていた。
 三つ目。
 おしゃべりをやめない大村サトルの口の中に、先生がはき古した健康サンダルのまま足を突っ込むシーン。
「どうだぁ? さっきトイレにいってきたばかりなんだよぉー」と先生が叫ぶ。
 それに対して、
「ぐっぷぷ・・・・」とだけしか応えることができない大村サトルの姿。
 奈乃はまだ持っていた残りの袋を捨てた。
 そんな光景を夢想している男なんていままで見たこともなかったし、第一それは

を教えている先生なのだ。すでにこれまでにもいろんな人たちの心をのぞいてきたことによって人間不信は経験済みのつもりだったが、それはこれまでのと比べてもダイナマイト級だった。
 先生はいつものように、いつもの笑顔で授業を進めていたが、いまはもう紙みたいに薄っぺらな笑顔を顔に貼りつけただけにしか見えなかった。奈乃ははじめて先生の笑顔の本当の意味を知った。
 以来、社会の授業で真剣な表情をかたときも崩さずに話を聞いていたのは奈乃ぐらいのものだったろう。
 おかげで彼女が残虐行為の餌食にされることは一度もなかったはずだ。たとえ夢想にしかすぎないとしても、頭をかち割られるのはあまり気持ちいいものではない。

 しかし、その先生でもまだマシな方なのだというのをずいぶんと後になってから知った。世の中にはとんでもなく暴力的な夢想を抱え込んでいる連中がたくさんいるのだ。
 老若男女に関係なく、すれ違う人をいちいち殴りたおしている男。
 すれ違う男の鼻の穴に箸を突っ込む女。
 そんな狂気じみた夢想をいくつも見てしまうと、じっさいに起った凶悪事件なんて、ほんの氷山の一角のような気がしてくる。
 よくこれで社会の均衡が保たれているものだと感心する。
 もっとも、夢想したものを体内にため込むことができるからこそ、社会の平和は維持されているのかもしれない、と奈乃はそう思うことにしていた。

 だが世の中にはそんな荒んだ夢想の袋よりも、もっと深刻で、おぞましい袋が存在する。心に深い傷を負わせた、けっして思い出したくない暗い記憶の袋。
 奈乃はそれを昔から〈黒い袋〉と呼んでいた。
 それはペンキの黒色みたいな単純な黒ではなく、近くで見るとじつにさまざまな色が混じり合っているが、遠目で見ると黒いという、なんとも不快な色をした袋だった。
 彼女がはじめて黒い袋を見つけたのは――

 ◇

「・・・・ね、聞いてる?」
「え? あ、ごめんなさい。――なんでしたっけ?」
「いや、渋谷にはよく来るのかなと思って」
「そうでもないかな」
 武生はタバコを取り出してから、火を点ける前に奈乃に訊いた。
「いい?」
 奈乃が肯くと、武生はゆっくりとタバコに火を点けた。
「ゴメンね、すぐに済ませるからさ」
 武生は火がついたタバコをくわえながら、ジャケットの内ポケットから奈乃が写っている写真三枚を取り出した。
 昨夜のうちに、自宅のプリンターで、はがきサイズにプリントアウトしておいたのだ。
 写真が大きくなった分、写っている奈乃の様子もよくわかった。
「この写真について訊きたいだけなんだ」
 奈乃は身体をのり出してその写真を見てみた。
 昨日男が撮っていた写真だ。
 そこに自分が写っているのもすぐにわかった。
 奈乃は男を見た。
「で?」
「この時、どうして俺を見てたのかと思ってさ」
 確かに見てる。――でも、返事は慎重に、慎重に、と奈乃。
「別に意識してなかったけど・・・・」
「そう? じゃ、これは?」
 そういいながら、武生は写真をもう一枚だした。
 みると、さっきの写真よりも奈乃がもっとカメラに近づいている写真だった。
 たしかに見ている。
 軽くほほ笑んでもいる。
 奈乃は舌打ちしたい気分だった。
「・・・・そうかしら?」
「ああ、確かに俺を見ている。憶えてないのかい?」
「うーん」
 奈乃はこめかみをさすりながらうなった。
「・・・・うーん」
 武生はなにも言わずに奈乃を見ていた。
「わかったわ。正直に言うけど、あなた、私の知っている人にソックリだったの。彼もカメラマンなんだけど、あなたがあそこで写真を撮っているのを見て、彼を思い出してたの。いま頃なにしてるのかなーって」
「それだけ?」
「それだけよ」
 武生は、タバコのフィルターを強く噛みながら、どうもしっくりこないなぁ、と考えていた。そんな親しげな視線じゃなく、もっとイジワルな、あからさまに人を見下すような目だったのだ。
「その彼って、元彼?」
「ううん。ただの知り合い。どうして? なにか問題でも?」
「プッ」と椎名が吹きだした。「イヤイヤ、そういうわけじゃないんだけど・・・・」
 おそらくそのカメラマンは元彼で、あまりいい別れ方をしなかったのだろう、と椎名。そう考えると、あの視線も、あの笑顔とは言い切れない歪んだ笑顔も、すべて納得いくような気がした。
 武生はタバコをもみ消した。
「なるほどね」と意味深に椎名は笑った。
 男がなんとか納得したように見えたので、奈乃はホッとしてニッコリとほほ笑んだ。
 そうよ。なにも問題なんかないじゃない。
 ――でも、なに? あの黒い袋。ちっとも取れやしない。
 さっきからなんどか椎名の心の中から取りだそうと試みているのだが、表面がブヨブヨしていて、ちっともうまくいかないのだ。空気が半分抜けた風船のような感じだ。
 いまの奈乃は自分が疑われていることよりも、その袋の存在の方がずっと気になっていた。

 ◇

 以前もそんな黒い袋を見たことがあった。
 そう。奈乃がはじめて黒い袋を見つけたのは、中学校の時の女の校長先生だった。
 そのときは人の心の中から袋を取り出したりせずに、気ままに心の中をのぞくだけで済ませていた時期だったが、彼女が校長の心の中をふとのぞいたときに、それまで見たことのなかった黒い袋に気づいた。
 それまでにも校長先生の心の中をなんどかのぞいてみたことがあったが、表面に密集した新しい記憶の袋に邪魔されて、ずっと見えなかったのだ。
 記憶の袋は、新しいものほど透明度が高く、心の表層に漂っている。本人がその記憶を思い返さないとそのまま消えてなくなってしまうが、くり返し思い返すと徐々に白濁化していき、いずれ白い球体になって、心の壁面に整然と収まっていく。ちょうどトウモロコシの実みたいに――。
 校長の心の中はいつのぞいて見ても、新しい記憶の透明な袋でおおわれていた。密集していたといってもいい。それぐらい考えることが多いのか、あらゆることに気を配っているからなのか、漂っている袋の数が普通の人の三倍はあった。
 たまに取り出して見ても、枯れかけた花壇の花をみて『水をやらなくては・・・・』とか、トイレを見て洋式に変更する見積書を思い出すといったとりとめのないものが多くて、校長も大変な仕事だと思ったものだった。

 そんなある日、その日は雨が降っていたために体育館で行われた朝礼で、校長の話が終わり、交通指導部長の長い話が続いていたときだった。
 雨が体育館の屋根を叩く単調な音と、梅雨どきのジメっとした空気の、その暑くもなく、寒くもないどうにも微妙な空気。奈乃も立ったままウトウトしてしまうような時間だった。
 ふと校長をみると、彼女も立ったままウトウトしていた。眼が完全に閉じられることはなかったが、半開きで、身体もゆっくりと前後に揺れていた。
 あの校長までも眠くなってしまうような話を、延々とする交通指導部長の話ってなに? と思うと、奈乃はおかしくて口を押さえながら笑ってしまった。
 そこで、そんな校長先生ってなにを考えているんだろうと思って、心の中をのぞいた時に、黒い袋の存在に気づいたのだ。おそらく、校長も半分眠っていてなにも考えていなかったために、いつも密集している透明な袋が少なかったせいだろうと思った。
「なに? あれ」
「ん? なに?」前にいた佐々木ナオミがふり向いた。「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
 奈乃はあわてて口を押さえ、ダメよ、声にだしちゃ! と自分を叱った。
 ――それにしても、なに? いまの。あんなの、はじめて見た。
 奈乃は眼を閉じて、意識を校長の心の中に集中してみた。
 ――ある。確かにある。なんともとらえにくい黒い袋がみえる。
 そうしてもっと意識を集中してよくのぞいてみたとき、奈乃は叫びだしそうになる口をあわてて押えた。
 校長の場合、本来なら白濁して壁に収まっていく記憶の袋が、すべて真っ黒に変色していたのだ。それはもう

といってもいい状態だった。
 奈乃は大きく眼を見開いて校長を見る。
 校長はなにも変わりなく、あいかわらず半睡状態で、身体を前後にゆっくりと揺らしている。
 なに?
 どうしたの?
 こんなことってあるの?
 まだ、それほど多くの人の心をのぞいてきたわけではなかったが、そんな色をした袋を見たのははじめてだったし、それも密集した状態であったことに、彼女は目まいがしそうだった。
 奈乃はもう一度意識を集中して、その密集した黒い袋のひとつに、想像の指先で触れてみた。
 ――硬い。
 コールタールが固まってしまったみたいで、岩のようだ。
 ビクともしない。
 そんな中で、たまに表面がやわらかい黒い袋が存在することもわかった。
 なんだかブヨブヨしている。
 何らかの理由で白濁した袋にはなれずに、そのまま腐敗して黒くなってしまったのだろうか・・・・。
 奈乃は朝礼の間中、そのやわらかい黒い袋を取り出そうとなんども挑戦してみたが、うまくいかなかった。表面がブヨブヨで、いまにも破れてしまいそうで、うまくつかむことができないのだ。
 結局その黒い袋は、その日の朝礼の間に取りだすことはできなかった。

 その日以降、校長を見かけるたびに心の中をのぞいてみるのだが、以前のようにとりとめのない透明の袋に邪魔されて、あの黒い壁を確認することすらできないでいた。
 結局、そのまま時間だけが過ぎていき、再度その黒い袋が確認できたのは、それからちょうど一週間後のことだった。
 その日も朝礼で、校長のいつものとりとめのない話が終わり、生徒指導部長が学生に向けた注意事項を話している時だった。
 校長の心を探ってみると、校長は自分の話が終わった直後だったためか、いつもの透明の袋がなくてスッキリしていた。まさに空っぽという表現が近い。自分の役目が終わって放心状態にいるのだろうか。そんな感じだった。
 だから黒い壁はすぐに見つかった。
 奈乃は想像の指先であのやわらかい黒い袋を探す。
 それはそれほど苦労することなく見つかった。
 一週間前のと同じものなのかどうかはわからないが、彼女はその袋に意識を集中してみた。なんだか今回はうまくいきそうな気がする。
 校長を見てみる。別に変化は見られない。身体の前で手を組んで、演壇の足元あたりをぼんやりと眺めている。
 奈乃は、空気が半分抜けた風船をくぼみから剥がすような要領で、四隅を少しずつ持ち上げて土台から外れるようにしていった。
 そうすると、ほんの少しずつだが、土台から外れてくる感触があった。
 一、二、三、四と、頭の中で数をかぞえながら四隅を順番にかるく持ち上げていく。
 一、二、三、四――。
 一、二、三、四――。
 一、二、三、四――。
 そうすると、不意にスッポリと外れた。
 どこかに癒着していたわけではなかったので、面白いぐらいきれいに外れたのだ。奈乃はその外れ方にビックリした。そして、歓声を上げたいぐらいに歓んだ。
 どう? ウマいでしょ! と周囲の友だちに自慢したくて仕方なかったが、もちろん、彼女は黙っていた。
 奈乃はその黒い袋を、左の手の平にのせてみた。
 大きさはピンポン玉ぐらいだ。球体がだらしなく潰れて、鏡餅のような形状になっていた。
 手に入れるのに苦労した分、頬ずりしたいような気分だった。近くでみると、表面は単調な黒ではなく、ある部分に茶色も見えるし、赤色も緑色も見える。そういったさまざまな色が混ざり合った黒、といった感じだった。
 最初はあとでコッソリ開けるつもりだったが、こう生徒指導部長の話が長いと、もう我慢できなくなってきた。もしかすると、ふつうの袋と違って、新鮮な空気に触れると蒸発してしまうのではないか、と心配にもなってきた。
 生徒指導部長は、カバンにつけるアクセサリーについての注意をしている。大きいのはダメだとか、こどもっぽいのは恥ずかしいとか――。いつもの話しだ。
 奈乃は黒い袋をもう一度見つめてみた。あい変らず表面がブヨブヨと揺れている。いったいこれには校長のなにが詰まっているのだろう。それとも、これは記憶じゃないのか? なにかいままで見たこともない、もの凄いモノが入っているのだろうか・・・・。
 もう我慢できない! と奈乃は思った。
 そうして彼女は、左手にのせた黒い袋を、想像の右手でパンッと叩いて潰してみた。その瞬間、彼女は気を失って、その場に倒れこんでしまった。

 ◇

「――で?」
 見ると、男がテーブルに両肘をついて奈乃を見ていた。もうタバコは吸ってなかった。
「は?」
「え? 聞いてなかったの?」
「あ、ごめんなさい。――なんですか?」
「だからモデルだよ、モデル」
「モデル? はい。モデルがなんですか?」
「え?」
 男は身を乗り出すようにして奈乃をみた。
「もしかして、最初っから聞いてなかったの?」
「え? いえ。最初っからって言われても・・・・」
 奈乃はあいまいに首をかしげた。
「ごめんなさい。ちょっと考え事をしてたから・・・・」
「いや、まあ、いいけどさ。――で、どう?」
「どうって?」
「モデルやってみない?」
「モデルって、私が?」
「そう。まだ何かってわけじゃないんだけど、なんか仕事が入った時に、声をかけてもいいかなと思って。ま、売れないカメラマンだから、あんまり期待はできないだろうけど――」
 いつの間にか奈乃の前にレモンティーが置かれていた。白いティーポットとカップソーサー、それに輪切りにされたレモンがお皿に二枚のっていた。
「どう?」
 ミルクも砂糖もいれないコーヒーをすすりながら武生が訊いた。
「どうって、モデルのこと?」
 奈乃はティーポットからカップに紅茶を注ぎ、そこへレモンを一切れ入れてから軽くかき混ぜた。
「それはお断りします」
「え? ダメかな」
「うん。ダメ。興味ないし」
「どうして?」
「どうしても」
「じゃ、せめて連絡先だけでも・・・・」
 それが嫌なのよ、と奈乃は言いたかったが、言葉にはせずにただ首をふっただけだった。
「わかった。じゃ、これが俺の連絡先だから、気が向いたら連絡してきてよ」
 男がテーブルに置いた名刺を見てみると、フリーのカメラマンで、名前は椎名武生となっていた。
「ふーん。祐天寺に住んでるんですか?」
「知ってるの?」
「知らないけど・・・・」
「――そう。ま、渋谷から近いし、いいとこだよ」
 武生はそういい残してトイレに立った。
 名刺をひっくり返してみたが白紙だった。
 もう一度、表を見てみる。
 住所はマンションの五階になっていた。
 それにしてもあの男の黒い袋はあまりにも

だ。ちょっとの刺激でもすぐに破れてしまいそうな気がする。
 どうしたものか、と奈乃は頭を悩ませていた。

 ◇

 そう、あの校長の黒い袋も、ちょうどこんな感じだった。
 あの時、朝礼でとつぜん倒れてしまったあの時、私は保健室で眼を覚ましたのだ。状況を把握するまでにずいぶんと時間がかかってしまったのをいまでも憶えている。
 それでしだいに状況が把握できてきた時、私は思い出したのだ。
 あの校長から取りだした黒い袋をつぶした瞬間に、眼の前に広がった光景を――。
 校長の幼い頃の、なんとも不快な記憶の情景を――。
 その時私は理解したのだ。
 黒い袋というのは、本人にとっては不快きわまりない記憶で、二度と思い出したくない

だったのだ。
 校長の不快な記憶は、こんな感じだった。

 ●

 ジャ、ジャ、ジャと、なにかをこする音が聞こえる。
 どこかの家の台所にいるようだ。
 視線が音がする方向をみる。
 カラフルなプラスチックの玉のれんが見える。
 その先は廊下か?
 視線が音がする方へと移動する。
 ジャ、ジャ、ジャ・・・・。
 カラフルなのれんをくぐる。
 その先はやはり廊下だ。
 その廊下のつきあたりには玄関が見える。
 音がさっきよりも大きく聞こえる。
 右側のドアを見る。
 白い小さな手が、ドアのノブをつかむ。
 ・・・・開く。
 ――トイレだ。
 中には誰もいない。
 ドアを閉めてその奥へと進む。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 音がだんだんと大きくなる。
 視線は先へと進む。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 ガラスがはまったサッシのドアが開いている。
 風呂場のようだ。
 音はそこからしている。
 視線が風呂場をのぞきこむ。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 女がかがみこんで、
 大きなタワシで
 風呂場の床をみがいている後姿が見えた。
 服のままシャワーを浴びたみたいに
 背中に汗をびっしょりかいていて、
 Tシャツがぴったりと張りついていた。
 そこまで来ても、
 女はふり向かない。
 一所懸命力を込めて、
 風呂場のタイルの床を磨いている。
 「ママ・・・・」
 視線が声をかけた。
 女はふり向かない。
 一心不乱に床を磨いている。
 「ママ・・・・」
 もう一度、視線は声をかける。
 女はふり向かない。
 身体を移動させながら、
 大きなタワシで床を磨いている。
 「ママ・・・・」
 「何よっ!」
 女はふり向きもせずに、
 すでに怒っていた。
 そして手の動きを止めずに
 「ママが――、
  何を――、
  しているのか――、
  わからないのっ!」
と息も切れ切れに、非難がましく言った。
 「お風呂場を、お掃除してる」
 「じゃ――、
  話し――、
  かけないでっ!
  もうちょっとだからっ!」
 「――でも、ママ」
 「なによっ!」
 女はタワシを風呂場の床に叩きつけてから、
 立ち上がって幼い校長を睨みつけた。
 母親は頬がこけるほどに痩せていて、
 大きくギラついた目の下に
 薄黒い

ができていた。
 肩で大きく息をしている。
 いまの奈乃から見てもとても怖くて
 悪い夢に出てきそうな形相だった。
 「・・・・だって。
  だって、ママ。
  お風呂のお掃除、
  朝もしてたじゃない」
 「朝もしてたわ!
  だから何!
  まだ汚れてるから、
  磨いてるんでしょ!」
 「だって、ママ、
  昨日もなんども磨いてたし・・・・」
 「そうだよ!
  汚れてるんだから仕方ないでしょうっ!
  まだこれからトイレも!
  床も!
  台所も!
  洗濯も!」
 と泡だらけの指を折りながら、
 ヒステリックに説明する。
 「ママはやらなくちゃいけないことがいっぱいあるの!」
 「でも、でも・・・・」
 校長の眼に涙があふれてくる。
 その時、パンッ! と音がしたかと思うと、
 急に真っ暗になった。
 「泣くんじゃないっ!」
 母親の叫ぶ声だけが聞こえた。
 そうすると、校長は本格的に泣き始めた。
 パンッ!
 「泣くなっ!」
 泣くのを必死にこらえて
 涙目で母親を見上げる。
 「いいかっ!」
 母親は校長を睨みつけながら、
 鼻先にひとさし指を突きつけてきた。
 「そんな文句を言う時間があったら、
  さっさと勉強しなさいっ!
  宿題は済んだのっ!
  明日の用意はできたのっ!」
 視線が首をふった。
 「すぐにかかりなさいっ!」
 そう叫ぶと、
 母親は再びしゃがみこんで、
 風呂場の床磨きを再開した。

 校長の記憶はそこまでだった。
 奈乃はショックを受けていた。
 いつもにこやかな校長に、そんな記憶があったなんて・・・・。
 人の記憶というものは、のぞいてみないと本当にわからないものなのね、と奈乃は改めて考えていた。
 その校長の黒い袋のショックから立ち直るのにずいぶんと時間を必要としてしまったが、後日、奈乃は校長から、もう一度、別の袋を取り出すことに挑戦してみた。
 なにしろ、そんな袋をもった人は他にはいなかったし、他の黒い袋がどうなっているのか、その興味を抑えることができなかったのだ。
 そうして手に入れた校長先生の他の黒い袋はこんな感じだった。

 ●

 また風呂場だ。
 以前、母親が一所懸命床を磨いていた、
 あの風呂場だ。
 息苦しいぐらいに
 もうもうと湯気が立ち込めている。
 校長は裸みたいだったが、
 母親は服を着ていた。
 赤いTシャツにデニムのスカート。
 あの掃除をしていたときと同じ服装だ。
 母親は力を込めてタオルを泡立てていた。
 額に汗が浮きあがり、
 歯を食いしばって
 タオルを両手でこすり合わせている。
 眼は怒ったように、
 その増えつつある泡を凝視していた。
 やがて、
 泡に満足すると、
 校長をにらみつけながら、
 少し前にでてくるようにと
 怖い眼で指示をする。
 そして床を磨くのと同じ要領で、
 力を込めて校長を洗い出す。
 右腕からはじまって
 指の一本一本までていねいに。
 顔も、
 髪も、
 その泡立てたタオルで、
 一緒に洗っていた。
 そうやって全身くまなく洗う母親は、
 少しも娘を見ていなかった。
 まるで汚れてしまった人形を、
 乱暴に洗っているような感じだった。
 そのときの校長が何才なのかわからなかったが、
 曇った鏡にちょっと映った姿は、
 幼児には見えなかった。
 小学五年生ぐらいだろうか。
 とても暗い顔をしている。
 母親にされるがままに、
 まるで糸の切れた人形にように
 がくんがくんと身体が揺れていた。
 母親が、
 校長の顔まで
 その泡がついたタオルでごしごし洗ってしまったせいで、
 眼をきつく閉じてしまったらしく、
 校長の記憶が真っ暗になってしまった。
 しかし、
 記憶は続いている。
 しばらくの間、
 タオルで校長の身体をこする音だけが
 聞こえていた。
 ゴッ、ゴッ、ゴッ。
 おそらく校長の身体は
 全身真っ赤になっているのでは、
 と思うようなこすり方だった。
 いま校長は、
 猛烈な痛みにじっと耐えているのだ。
 ゴッ、ゴッ、ゴッ。
 それからも
 しばらく身体をこする音がつづいていたが、
 やがてその音も終わり、
 タオルをすすぐ音が聞こえていた。
 何度も何度もお湯を代えて
 タオルを洗っている。
 その間中、娘は放ったらかしだ。
 なにも声をかけない。
 無言で、
 なんどもタオルを洗っている。
 そもそもこの記憶がはじまってから、
 母親は一度も声を発していなかった。
 ずっと無言だ。
 校長もそうだ。
 なにも話さないし、
 抗議もしない。
 母親にされるがままになっている。
 それは記憶の欠落とは思えない。
 こんな母親だったら
 私も一言もことばを発せられないだろう、
 と奈乃は思った。

 ようやくタオルをすすぐことが終わっても、
 記憶は終わらなかった。
 かすかだが、
 なにか音が聞こえる。
 ――ジ、ジ、ジ。
 ――ジ、ジ、ジ。
 なんの音だろう。
 奈乃が聞いたことのない音だった。
 ――ジ、ジ、ジ。
 「――ママ」
 ――ジ、ジ、ジ。
 「――ママ」
 ――ジ、ジ、ジ。
 「――ママ。眼が痛いの」
 ――ジ、ジ、ジ。
 「眼がすごく痛いの。拭いて、ママ」
 ――ジ、ジ、ジ。
 「ねえ、ママ」
 ――ジ、ジッ・・・・。
 不意に視界が明るくなった。
 まだぼんやりとした画像だが、
 よく見ると、
 母親が手にタオルをもち、
 怖い顔をして娘をにらみつけていた。
 「ありがとう。ママ――」
 娘が礼をいうと、
 母親はタオルを放りだして、
 作業をつづけた。
 見ると、
 母親は娘の左腕をつかみ、
 カミソリをつかって
 毛を剃っていた。
 床屋で使っている、
 歯がむき出しのやつだ。
 ――ジ、ジ、ジ。
 ――ジ、ジ、ジ、と、
 手慣れた感じで素早く剃っていく。
 母親は
 娘の全身の毛を剃っているようだった。
 腕や脚だけでなく、
 胸も、
 腹も、
 背中も、
 尻も――。
 娘の身体の向きを変えながら、
 規則正しく毛を剃っていく。
 ――ジ、ジ、ジ。
 ――ジ、ジ、ジ。
 ――ジ、ジッ・・・・。
 「もうっ!」
 母親がいきなり怒鳴った。
 「なんで動くのっ!」
 そう叫びながら娘の尻を叩く。
 何度も何度も――。
 母親を見ると、
 手が血と石鹸の泡で
 ピンク色に染まっていた。
 「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
 娘はなんども謝っていた。
 「ごめんなさいっ! ママ、許して」
 それでも母親が叩く手を止めない。
 叩くことで
 血を止めようとするみたいに、
 なんども娘の出血した尻を叩いていた。
 「ごめんなさい、ママ!
  ごめんなさい、ママ!
  痛い! 許して、ママ! ごめんなさい――」

 校長の記憶はそこで終わっていた。
 そのとき中学三年生だった奈乃は、それまでついたことがないぐらい長いため息をついた。とてもやりきれなかったのだ。
 校長の幼いころの記憶もそうだし、そんな記憶に支配された先生の心の壁に、彼女の胸も押しつぶされてしまいそうな気がした。
 自分のこの〝さぐり〟の能力でなんとかできないものかと考えてみたが、どれだけ考えてみても、この能力を持っていない人と同じように、彼女もあまりにも無力だった。
 校長が自殺したのは、それから三ヶ月後のことだ。
 自宅の風呂場で、全身をカミソリで傷つけた状態で発見された。
 あまりにも凄惨な現場だったために、当初は変質者による猟奇殺人が疑われたが、どう調べてみても独身の校長の部屋には外部から侵入された形跡がなく、部屋もまったく荒らされていなかったので、結局自殺という判断がくだされた。
 しかし、自分の力だけで、あそこまで肉体を傷つけることができるのか? と警察内でも自殺がずっと疑問視されていると噂になっていた。それほとひどい切り傷だったらしい。

 奈乃は校長の自殺の原因を知っていた。
 校長が自殺する二週間前に、一年生の女子生徒のことで怒鳴り込んできた母親がいて、その時から校長の様子が明らかにおかしくなっていったのだ。
 奈乃は、早速校長の心の中をのぞいてみた。
 すると、以前は密集して黒い壁状態になっていた袋が、その壁から離れて校長の心の中に漂いだしていた。そしてシャボン玉のようにいろんな場所で袋がはじける。そのたびに校長はガクンと身体を震わせていた。

 「すべてはお前が悪いんじゃーっ!」と叫びながら、
 校長の父親らしい男に殴りかかっていく母親。
 「お前がっ!
  お前がっ!
  お前がっ!
  お前がっ!」
 と何度も叫びながら
 ボコボコに殴られても
 されるがままになっている父親――。

 トイレをすませて、
 ドアを開けると母親が立っていて、
 校長を引っ張り出すように外へ出すと、
 すぐにトイレの掃除を荒々しくはじめる――。

 手を洗い過ぎて指先が裂けてしまったのか、
 洗面所が血だらけになっていても
 まだ手を洗っている母親の後姿――。

 平手ではなく、
 コブシで、
 それも本気で顔を殴ろうとしている
 鬼のような母親の形相――。

「ふむむーっ」と、
 校長の首を絞める母親の顔が目の前に迫る。
 でも、
 校長も抵抗する様子もなく、
 覚悟をしているみたいに
 ゆっくりと眼を閉じていく――。

 そんな記憶が、袋がはじけるたびに見えるのだ。見ているだけの奈乃でもおかしくなってしまいそうだった。
 少しでも楽になるならと、校長の心の中で漂う黒い袋を取り出そうと試みてみたがダメだった。すべてがまさしくシャボン玉のように

で、触れた瞬間にはじけてしまい、それがまた校長の忌まわしい記憶の再生に拍車をかけることになってしまって、結局奈乃はなす術もなく、ひとり苦しむ校長をただ見守ることしかできないでいた。
 それからまもなく校長が自殺したことで、奈乃はひどく後悔した。そんなことならもっと自分になにかできたのではないかと思った。
 そう。どれだけ大変でも、シャボン玉のように

でも、慎重にやれば校長の心の中から黒い袋を外に誘導する事ができたのでは、と・・・・。

 後日、彼女は、体育館で教頭が校長の死を全校生徒に向って報告している時に、壁ぎわに立ってうつむいていた年配の刑事から、まだ真新しい記憶の袋を取り出してみた。
 刑事の記憶の袋は、浴槽にもたれて全裸で床に坐っている血だらけの校長の姿からはじまっていた。
 刑事もよほどショックを受けたのだろう。
 その凝視は二十秒ほどつづき、次にたるんだ腹に眼を向けて、そこにぱっくりと開いた傷口をしばらく見ていた。
 その傷口に向けて刑事がゆっくりと近づいていく。
 一度、床を見る。
 風呂場の床だ。
 大量の血が校長から流れ出ているのがわかる。
 刑事はその中でも汚れていない場所を選んで近づいていく。
 また校長を見る。
 今度はたるんだ乳房をみる。
 そこにもぱっくりと口がひらいた傷口がある。
 見ようによっては
 笑っているような形をしている。
 そこにもっと近づいていく。
 まだ渇いていない傷口に、
 さらに近づいてみる。
 もう五センチぐらいの距離だ。
 そこで止まってしばらく動かない。
 傷口の黄色い脂肪と、
 赤い筋肉をじっと観察している。
 そういう性癖のもち主かと思うほど、
 その見方は執拗だった。

 やがて刑事の視線は傷口を離れ、
 校長の白い肌を見る。
 乳房から上にあがって、脇、肩、首へと、
 これも舐めまわすように見ている。
 そこで奈乃は、刑事の視線の意図するものに気づいた。
 ――体毛が一切ないのだ。
 頭髪はそのままだったが、
 身体中の毛がきれいに、
 それも念入りに剃られていたのだ。
 「おいっ!」
 と刑事が誰かを呼んだところで、
 その記憶の袋は終わっていた。

 奈乃はいまでも考えている。
 私になにかできることはなかったのかと――。

 ◇

 男がトイレから戻ってきて、席についた。そしてコーヒーを飲み干す。
「それじゃ――」と席を立とうとしたのを、奈乃が止めた。
「ごめんなさい。わたしまだ紅茶が残ってる」
「あ、そう――」
 男が席に坐りなおした。
「じゃ、俺もまだいるよ。とくに忙しいわけじゃないし――」
 奈乃はティーポットに残っていた紅茶をすべて自分のカップに注いだ。
 これを飲み干すまでに男から黒い袋を取り出さなければ、と奈乃は考えていた。でないとこの男もまたあの校長の二の舞になりかねないのだ。
 この男がそうなったところでとくに問題があるわけじゃなかったが、あの時よりもはるかに能力が上がっているはずだし、いまならなんとかできることなのかどうかを確認したい、という思いの方が強い。なにしろこの黒い袋をもつ人間に会うのもあの校長以来なのだ。
 彼女は眼を閉じて深呼吸をした。
 そうして気分を落ちつけていき、まわりから男を包み込むようにして袋をさぐる。
 ――ある。確かにある。それに三つも――。
 大きさが多少違うが、黒い色をした袋が男の心の中で漂っているのが見える。
 いま男がどうしているのかわからなかったが、もう構ってはいられなかった。
 時間がないのだ。
 彼女は息をゆっくりと整えていき、男の心の中の黒い袋をそっとつまんだ。
 いいわ。いいわ。そのままそーっと・・・・。
「でもさ、さっき・・・・」と椎名がしゃべるのと同時に、ぱふぅと男の中で黒い袋が割れてしまったのがわかる。
 その途端、奈乃の中で強烈なイメージが広がった。予想もしていなかった強烈なイメージが・・・・。

 ●

 赤ん坊が泣いている。
 火がついたように、
 けたたましく泣いている。
 夜だ。
 男が時計を見る。
 3:32。
 横に寝ている人を見る。
 長い髪だけしか見えないが、
 起きない。
 起きる様子もない。
 あい変らず赤ん坊がけたたましく泣いている。
 男が起き上がり、
 ベッドの縁に腰掛けたようだ。
 しばらくそのままじっとしている。
 眼を閉じているようだ。
 そんな夜とは違う暗闇の中で、
 赤ん坊の泣き声だけが聞こえている。
 男が足元側に置かれたベビーベッドを見る。
 白木の柵のかわいいベビーベッドだ。
 赤ん坊は見えないが、
 シーツが動いているのがわかる。
 月の青白い光が窓から射していて、
 部屋全体が澄んだ湖の底にいるように
 青く光っていた。

 男が立ち上がって、
 ベビーベッドまでゆっくりと歩いて行く。
 床には使い終わって丸められた紙おむつが転がっていた。
 一個や二個じゃない。
 少なくとも二〇個近い紙おむつが
 そのまま床に放置されていた。
 もう一度、
 隣に寝ている人を見る。
 動かない。
 男はシーツをのけて赤ん坊を見る。
 赤ん坊は真っ赤な顔をして泣いている。
 シーツがめくられたのも気づかないようだ。
 きつく眼を閉じて、
 大きく口を開いて
 男を強く非難しているように見える。
 男はそんな赤ん坊をじっと見下ろしている。
 手は出さない。
 あくまでも
 じっと見下ろしている。
 大きく開いた口を
 まるで別の生き物でも見るように
 じっと見ている。
 不意に男がその赤ん坊の口の中に指を入れた。
 舌をつまもうとしているようだ。
 しかし、
 口はまだ小さいし、
 舌が滑るのかうまくつかめない。
 赤ん坊の泣き声がくぐもっていたが、
 そのまま泣き続けていた。

 男は赤ん坊を抱き上げる。
 右手を頭の下、
 左手を腰の下という
 まるで神様にみつぎ物を差しだすような
 奇妙な抱き上げ方だ。
 その奇妙な持ち上げ方が不満なのかどうかはわからないが、
 赤ん坊は少しも泣き止まない。
 空中で小さな手足をバタバタさせながら
 大声で泣き叫んでいる。
 すこしも治まらない。
 結局、
 男は赤ん坊を一度も抱きかかえることなく、
 両手で上に高く持ちあげた格好のまま、
 床の上に赤ん坊を投げ落とした――。

「いやーーーっ!」
 奈乃が叫んだ。
 そして男をにらむ。
「なんてことするのーっ!」
 椎名は口を開いたまま呆然としていた。
 それは奈乃に非難されたからなのか、それともいま彼女が見た記憶と同じものを見たからなのかはわからなかった。
 見ていると、椎名の鼻からゆっくりと鼻血がでてきた。それにも気づかないぐらい、椎名は放心していた。

 奈乃は店を走り出た。ガランガランとうるさいぐらいにドアベルが鳴った。
 もうなにも構っていられなかった。
 彼女は走りながら泣いていた。
 赤ちゃんの為に――。
 無抵抗でなにもできなかった赤ちゃんの為に・・・・。
 奈乃はあてもなく街を歩いていた。
 しきりに涙が出てきた。
 あの赤ちゃんはどうなってしまったのだろう。
 あの男は、赤ちゃんにあんなことをするまでに追い詰められていたのだろうか。
 いまさらそこまではわからなかったが、あとふたつ見えた黒い袋のことを思うと気が重かった。
 そう。他の袋にもなにか忌まわしい記憶がつまっているのだ。
 あの男の、決して他人には見せたくない心の闇の記憶が・・・・。忌まわしい過去の記憶のかたまりが・・・・。
 もしかすると、と思ったところで、奈乃は強く頭をふって考えることを止めにした。
 想像したところで、どうしようもないではないか。
 そう。やっぱり、世の中には知らないでいいことの方が多いのだ。
 奈乃はそう思うことで、先ほどの黒い袋の記憶を、心のずっと奥底に閉じ込めておくことにした。
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