第1話

文字数 2,065文字

 私の世界は代わり映えしない。
 この閉じられた場所だけが、現実の私の全てであった。

 また一人ここからいなくなった。その席を埋めるように新しい住人が招かれた。
 定員が決まっていて予定調和の世界。
 そんな世界を私は生きている。



 今日もまた、母が外の世界から私を訪ねてくる。
 いつも明るく振舞う母。
 その笑顔が心からのそれでないことを、私は知っている。
 いつ気付いたかは定かではない。不思議な話である。私と母の接する場所なんて、ここ以外にないのだから。
 私はこの場所以外の母を知らない。
 
 母は私とは違う。
 毎日足しげくこの場所に通おうが、母はこの場所の住人ではない。
 それでいいのだ。それがいいのだ。

 私は母がこの場所から解放されることを望む。今でもそうだ。
 かつて一度だけ、私の本心を母に直接伝えた。その時初めて母の涙を見た。
 その後は、私は本心を口に出さなくなった。
 あの日以来、私と母の関係性は変わった。だが表面上は何も変わっていない。
 泣かせてしまった翌日、母は不気味なほどいつも通りだった。
 それが母の強さだと思う。だが私は弱くいてほしかった。
 その私の気持ちも、やはり母には伝えていない。
 もう泣かせてしまうのはこりごりだ。

 ガラクタの私は、時間を浪費してしまうときが多い。それが自然なくらいだ。
 私の景色は一日中変わらない。だがこんな私にも楽しみがある。
 本。それは私がこの場所から離れられる唯一の手段だった。私に残された最後の手段だった。
 たくさんの本が読みたい。私から母に伝えるたった一つのわがままだった。



 それは突然起きた。
 私の世界を鮮やかに変えた。何も起きるはずのない私の世界を。本以外に何も持たないはずの私の世界を。
 ひとりの少女が確かに変えた。

 少女の名前は本田(かえで)
 中学二年生。私と同い年。
 私にできた最初で最後の友達。 

 友達。思えばそう呼べる存在が私にはいなかった。

 それまでにだって、私の話し相手は何人かいた。
 薄く区切られただけの世界は簡単に行き来出来る。敷地内であれば、自由に移動できる時もある。この世界でも落ちこぼれの私には、それすらも満足にはできないのだが。
 それでもその時だけは、私の現実世界がほんの少しだけ拡大した。
 どうやら人見知りしないらしい私は、その時がチャンスとばかりにこの場所の住人たちに話しかけた。
 だがそれだけだ。

 私とその人たちは同じ場所で生きている。
 私とて境遇が同じ人々に特別な感情は感じる。
 だがそこまでである。

 友達。それは私の人生において交わらないはずだったもの。

 楓と友達になれたのは奇跡だ。常に絶望と添い寝している場所に現れた一筋の光だ。私がそんなポエムを口ずさむ程度に、楓との出会いは喜びで満ちていた。
 同い年の同性というだけで、運命を感じられた。希望なんて持つ権利がないはずの私でも、この時だけは素直に希望を信じられた。

 楓は私と違って、元々は外の世界の住人だった。
 私の隣に越してきた楓は、明日いなくなるような酷い顔をしていた。
 私の知らないタイプの絶望がそこにあった。その時の楓は絶望に染まりきっていた。
 この場所の住人の先輩として、私は楓に様々なアドバイスをした。
 その成果で、あれだけ暗闇の中にいた楓もだんだんと生気を取り戻した。
 私の人生が誰かの役に立った初めての出来事だった。
 私まで救われた気がした。

 この頃、私は楓を友達と自覚した。
 楓が「呼び捨てでいいよ。友達でしょ」と私に言ったのだ。私がその単語を聞いた初めての瞬間だった。
 楓の話の中には、本の中にしか存在しないはずの世界が広がっていた。友達、学校、授業、放課後、その全てが煌いていた。

 私にとっての救いは、楓のおかげで友達を体験できたことだった。



 私が楓と一緒に過ごせたのは3か月。
 結局、この場所に希望なんてものは存在しなかった。
 あれほど特別だった楓も、これまでの人々と同じ結末をたどった。
 また私だけが残された。私の場所からいなくなって、戻って来た人は誰一人としていない。
 ここはそういう場所なのだ。
 絶望に染まらないはずの私に、突如絶望が襲い始めた。



 楓との別れの後、私は楓との全てを一冊の本にしようと決めた。
 それまでの私は本を読む専門で、書いたことは一度だってなかった。
 だが私は楓との思い出を本の中で再現できた。
 本は私を裏切らなかった。本からの贈り物だった。驚くほどすんなりとその本は完成した。
 私が描く私だけの世界がそこにはあった。

 登場人物は私と楓だけ。
 舞台は楓が話した外の世界と本の中の世界を融合させた。
 今度は私が楓を招待する番。どんな時代、どんな場所だって自由自在。私と楓を遮るものは何もない。
 現実の重荷を外し、創造力の限界の向こう側を目指した。
 楓と一緒ならどこまでだって行けた。



 もうすぐ私もこの場所からいなくなる。
 楓のもとに行ける。
 母もやっと解放される。
 私はまだ誰にも読ませていないこの本を母に託した。

 私と楓がいた証、『夢想探検記』。
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