第4話

文字数 1,657文字

 今さらだが、最初にあの青年とタクシーに乗っておけば良かった、と静子は思った。それが確実だったのだ。
「ううん、今からでも遅くないわ。車が通りかかってくれないかしら」
 と呟いたちょうどそのとき、後ろから車の音が近づいてきた。振り向くと、闇の中、近づいてくるのはバスだった。
 行き先はどこかしら?
 バスの行き先表示を見ようとしたが、暗くてよく見えない。バスはみるみる近づいてくる。かなりのスピードを出しているようだ。
 もういい、どこだって。これ以上、歩かなくてすむのなら。
 そう思って、バスに向かって手を振った。だがバスはスピードを緩めず、静子の横を通り過ぎていく。
「あ……待ってっ」
 叫んで、バスを追いかけようとした。だがそのとき、バスの窓に信じられないものを見て、静子の足が止まった。
 バスの中には、職場の面々がいた。課長、主任、その他いつも向かい合って一緒に仕事をしている人たち。みんな、今日の飲み会にいた人たちだ。高谷と花嫁もいる。
 それがまるで、慰安旅行のように揃ってバスに乗り、談笑しているのだ。
「みんな……」
 叫ぼうとして、愕然とした。上げた手が固まった。
 よく見ると、みんなは頭がざっくりと割れ、そこから血を流していた。
「きゃあああっ」
 静子は悲鳴を上げた。その拍子にバッグを落としてしまった。ガシャンと音がする。
 立ちすくんでいる間に、バスの姿は小さくなって消えた。呆然とそれを見送っていた。

 辺りは再び、静寂に包まれた。
 どのくらい経ったのか。腰をかがめて、バッグを拾った。
「……今のは、夢だわ」
 そうだ、幻を見たのだ。考えてみれば、こんな時間にバスが走っているわけがない。まして、それに職場の人たちが乗っているなんて。頭から血を流して。 
 静子は歩き出した。寒い、早く帰りたいな、と思った。

 しばらくするとまた、後ろから車の音が近づいてきた。さっきより小さな音だ。今度こそタクシーかもしれない。期待をこめて振り向いた。
 暗闇の奥から近づいてくる小さな車体。上部には、電灯がついている。
「タクシーだわ! 良かった」
 急いで手を振った。キキィと音を立てて、車が横で止まった。窓ガラスがするすると降りて、中から運転手が声をかける。
「お客さん、どちらまでですか?」
「あの、××までお願いしたいんですが」
「××ー? だめだめ、遠すぎるよ」
「え?」
 それだけ言うと、運転手はさっさと車を発進させて行ってしまった。
「あ、待って……」
 あっという間に、車は闇に消えた。またも静子は取り残された。
 そんな……遠すぎる? 近すぎるじゃなくて? もしかして私、ずっと反対方向に歩いてきてしまったのかしら。
 そんなはずはないわ。静子は首を振った。ずっと同じ方向に向かって歩いてきたのだ。
 辺りを見回した。いつの間にか街灯は消え、辺りは真っ暗になっていた。
「……私は一体、どこを歩いてるの⁉ 私は、早く家に帰りたいのよぉー」
 思わず叫んで、静子はその場に蹲(うずくま)ってしまった。
 足がじんじんと痛い。冷たい風が吹きぬけていく。
 そのまま、しばらくそうしていた。一体、歩き出してからどのくらい経ったのだろう。いい加減、空が白んできてもいいのではないか。だがずっと、周囲は真暗闇に包まれている。
「……こうしていても仕方ない。とにかく、歩こう……」
 静子は再び歩き出した。
 カッカッカッ。前へ、前へ。何かに押されるようにして、前へ。
 単調に足を進めているうちに、気分が落ち着いてきた。
 さっきのタクシーの運転手は、きっと新米なんだ。そうだ、そうに違いない。この辺の地名がわからないんだ。
 気を紛らわすために、静子は、さっきのロングコートの女のことを考えた。たしかに自分は、彼女をどこかで見たような気がする。
「あ」
 思い出した。あれは数ヶ月前のこと、通りすがりの交番に貼られていたポスターだ。女は、夫とその浮気相手を殺したとして、指名手配されていた。浮気の現場にのりこんで、隠し持っていた包丁で二人をめった刺しにしたらしい。

 
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