第1話

文字数 1,939文字

チリン、チリン。
「あっ!当たりかな」
釣り竿の先につけた鈴が鳴っている。この引きは大物か?ビビビビッと手ごたえを感じる。
ワクワクしてリールを巻くと、姿を現したのは立派な腹をしたフグだった。
フグは、みるみる腹を膨らませ、ぐっぐっと鳴き始めた。針を外そうとしたその時、
「おいっお前!」とフグが叫んだ。
美咲は驚き足元のバランスを崩した。
「フグが喋るなんて思ってなかっただろ。俺はな、マグロ漁師なんだよ。生まれ変わったらマグロになって、大海原で悠々と泳ぐのが夢だったのに、この前事故で脳死っていう中途半端な死に方しちまってさ、この有り様だ。おっ、そのシケた顔、疑ってやがるな。嘘だと思うなら、俺を海へ戻してしてみろ。そしたらもう一度釣れてやるから。だがな、そのまま堤防に置き去りにするのだけは勘弁してくれよ。干からびてカモメの餌食になるのはごめんだ」
美咲は、「べらぼーキモい!」とフグ毒並ならぬ醜い言葉を発して、お望み通りめいいっぱい遠くの海に投げた。
「釣れるわけないわ!2度と釣れない、あんなメタボで喋るフグなんて」
イソメ虫の餌をつけて、さっきより遠くに竿を投じた。
「おおー飛ばすねー」
一緒に釣りに来ていた料理人の夫が、ニヤリと笑う。夫は、釣れたアジやサバを、マイ包丁で華麗な手つきでさばいている。内臓や頭は海へ戻して魚の餌にする。家には生ゴミにならないし、酒好きにはたまらない刺身やナメロウ、フライ等の夫飯は絶品。
「それにしても、よくさばけるね。内臓とかダメだわ。ねえ、魚って針に掛かった瞬間、『しまったー』とか、『放してくれー』とか思うのかな」
さっきのフグの話はさすがに言えない。
「そう思うかも知れないね。それにしても、美咲は現役の外科医だろ?何で魚が怖くてさばけないの?」
「人と魚は違うのよ!」
夫は呆れ顔で苦笑いしている。
「おい、お前のウキ沈んでるぞ」
恐る恐るゆっくりとリールを巻くと、何とメタボのフグだった。
「さっきの?」
今度は私から話かけた。
「そうだよ。だから嘘でも幻でもないと言っただろ。あのさ…他でもない、お前に頼みがあるんだ。俺は、明日、お前に移植手術される大間という者だ」
「えっ?!大間大介さん!まさか」
「信じてもらえないなら何度でも海にリリースしてくれよ。何度でもお前の竿に食いついてやるぞ。頼む、話を聞いてくれ」
少し離れた所で魚をさばいている夫の様子をチラッと見て美咲は話を聞く事にした。
「明日、お前が、いや先生が執刀する俺は脳死ではない。ちゃんと意識があるし、話も聞こえている。俺は、脂肪肝だから肝臓はダメ、糖尿病だから腎臓も角膜もダメ、心臓の移植って言ってたよな。心臓を人にやったら俺は死ぬ。心臓には毛が生えてるし、ノミの心臓だから、移植が成功してもそいつは可哀想だ。それに…死ぬのは怖い!勘弁してくれ」
フグはさめざめと泣き出した。
「生まれ変わったらマグロになりたいんでしょ?チャンスじゃないの」
「お前、それでも医者か!助けてくれよー。3日後に必ず覚醒すると約束する」
「臓器移植を延期するわけにはいかないわよ。あなたは脳死判定通ってるのよ。ノミの心臓だろうが毛の生えた心臓でも待っている患者がいる。私にはどうする事もできない。それに、こんな話し誰も信じてくれないわよ」
「先生頼むよー。じゃあ、もう一回海にリリースして。また俺が釣れたら、どうか、どうか頼む」
フグの思いはどうやら本気らしい。美咲は、夫にちょっと別の所で釣ってくると伝え、竿を担いで早足で堤防を歩いた。テトラポットを飛び跳ねて岩場を登り、餌をつけずに遠くに竿を投げた。
チリン、チリン。ビビビビ。
嫌な予感。「ほらね」フグは得意そうな表情をみせた。

翌日、大間さんの病室を訪ねた。
「大間さん、わかりますか?」
声をかけ、触って刺激しても何の反応もない。やはり脳死。しかし、昨日のメタボなフグと大間さんの姿がどうしても重なってしまう。何度も頭の中から振り払おうとしてもダメだ。
「手術できない」
看護師に移植手術の延期を伝えた。看護師は後ろに倒れそうになりながら全身を震わせていた。
「患者が移植を待ってますよ!移植チームも待機しています。延期なんてできません」
美咲も負けじと啖呵を切った。
「私には、さばけないのよ!」

結局移植手術は延期となった。3日目の朝、大間大介さんは約束通り覚醒した。彼は、私の事は覚えていないようだった。レシピエント(臓器移植を待つ人)には期待させて悪かったが、大間さんも一つの大切な命。救えて良かった。

この週末、美咲は夫と釣りに出かけた。
チリン、チリン、ビビビビ。
「ん?」
竿を引き上げると、奥まで針を飲み込んだメタボなフグと目が合があった。お互い「あっ!」と叫んで頬を膨らませ吹き出した。
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