第1話
文字数 6,829文字
†
思わず、持ったままの携帯を強く握りしめている私がいた。
目の前にはゆかりさんが座っている。まだこちらには気が付いていない。私がここへ来るより前から彼女の意識は下を向いていて、ずっと手の中の画面へと向けられている。iPhoneだ。
この場所からは、ゆかりさんの横顔くらいしか表情は見えないけれど、微笑んでるのはわかった。
途端にぐらり、足元から世界が歪む。
錯覚だとはわかっていても、なかなかよくならない眩暈の様。ただ立っているだけで精一杯になる。
『どうして?』
普通に呼吸をしているのに、心臓がドクドクと速度を上げていくのがわかる。
頭と心のどちらだろう、私の奥深い部分が、必死でなにかを考えまいとしているのがわかってしまう。
楽しそうにしているゆかりさんが、すぐそこに居るというのに。
胸の奥が冷たく、重くなってゆく私。
この場から立ち去ることも、前に出て話しかける勇気も持てないままに。
過ぎゆく時間。近くにある、自販機の駆動音だけが、二人の間に響いている。
575/
そんなに気にしてはいなかった――
ゆかりさんとお付き合いするようになって、それが秘密の関係で、余程近しい人以外誰にも知らせてもいない。それでも二人は、恋人同士だった。
私にとってゆかりさんを好きだということに、後ろめたいことは何もない。今も胸を張って、この人を愛しています。そう言って回れるだけの強い想いがある。
だけれど世の理はそれをよしとはしていなくて、それはスキャンダルで。私もゆかりさんも、他の人の夢を担う仕事をしているから、公にするわけにはいかない。
『壊さない為に。2人のことは、極力内緒にしよう』
想いを告げた私の手を、ゆかりさんがとってくれたあの日。羽根が生えて飛んでいきそうな気持ちが本当にあるんだって、私は知った。幸せだった。叶うなら、私を知ってるすべての人に、ゆかりさんと付き合ってるんだぞって声高らかに広めて回りたい気持ちでいっぱいだった。
有難い事に仕事は毎日忙しくて、ふたりともがそうであるから、すれ違いがあったりプライベートで会える機会もそう多くはとれない。
おいそれ手を繋いで街中を歩くこともできないし、お互いがそれを覚悟していたから、普通のあるべきとされる世の中のカップルたちのようには出来なくても、やっていけている。
自分の持っている気持ちには、絶対の自信があった。
だけどどうしてだろう。ゆかりさんのことが大好きで、会うたびにもっともっとと好きになって、少し気難しい所も彼女なりのルールが色々あることも知覚して、全部をひっくるめて彼女を愛しく思っているのに。
そうやって2人を関係していくことに、いつしかささくれ立つような、細い針みたいなのを間に感じるようになった。
†
会えない日が続いて、電話も、メールのやりとりもしない日々が、しばらく続いていたある日。
『今度リリパの打ち合わせをするから』
都内某所。所属レコード会社であるビルに、私は予定よりもだいぶ早くに到着した。
前の仕事がスムーズに終わったからというのももちろんあるけれど、1番の理由、イベントでの楽曲打ち合わせもするという今日の会議には、あの人も来るのだと聞かされていたからだ。むしろ、早く来たくて収録を1発OKにやってのけてきたと言っていい。
私のドームツアーと入れ替わりでアルバム制作や夏ツアーのスケジュールが組まれたゆかりさんとは、完全にすれ違いの生活を送っていた。便利なもので、他の役者さんでもそうだけれど、直接会ってはいなくとも、今の時代ネットに繋げさえすれば、ブログを読んだりなどして、ある程度は相手の状況を知ることができる。しばらく会っていない人と直接会ったときにそれで話が弾んでお互いに「あれ?なんで知ってるの?」みたいな事もよくあったりする。けどゆかりさんの場合はというとそうはいかない。何日かに1回とだいぶ間が開くことが多く、しかもだいぶ遡っての日記をまとめて掲載する形をとっているからだ。
そのため、なかなか旬の情報というのが手に入らない。
撮影先でスタッフさんの口から名前をたまたま聞く機会があったりだとか、時には雑誌で知らない情報を得たりだとかしたりもして。…なんだか、私がものすごくゆかりさんファンで、みんなと同じ感じであるのが苦い。彼女なのに、彼女であるけれど、でもこうなのだ。
たぶんゆかりさんは、聞けばさらりと教えてくれるとは思うのだけれど、彼女だからっていつも聞いてかかっていいものなのだろうかと、そういうのって重い奴だって思われやしないかと思うと、変に遠慮を覚えたりしてしまっている私がいるわけで。
「おはようございまーす」
ロビーの受付辺りにいた方たちに挨拶をして、あちこちにアニメやアーティストのポスターが貼られている廊下を抜けて、奥の壁際に数機並んでいるエレベーターのボタンを押した。入れ物はすぐにやってきた。ひとりきりで乗り込む。
「……ツアー明けのスケジュール、聞いてみようかなぁ」
重力の移動を身体に感じながら、ずっとずっと考えている事を呟いてみた。実際に口にしてみることで、現実的なそこに発生するだろう問題とか、ゆかりさんのとるだろう行動予測などが具体的に思い浮かんでくる。
予定を聞くのも久しぶりなら。頑張ったご褒美休みのどこか1日くらいなら。今からお願いしておけば、私もスケジュール合わせてお休みとれるかもしれないし、お疲れ様のお祝いだったら、彼女の気が向いてくれればの話ではあるけれど、旅行とか誘ってみるのとかはどうだろう。うまく誘えたのなら、色よい返事がもらえたりとかってしないのかな。
扉上に表示される数字が数を増やしていくのをぼんやりと見つめながら、ゆかりさんと過ごすいつかの未来へいくつもの思いを馳せる。
目的の階へと進むのが、ひどくゆっくりに感じられた。
鞄から携帯を取り出して、サブ画面で時間を確認してみる。
「もう来てないかなぁ」
私の期待は膨らむ一方だ。
エレベーターの扉が開き始めただけで、笑みが零れだしてしまうくらいに。
/
――切欠は、たぶんとても些細なことだったと思う。
でも、綻びはいつでもすぐ側の、手の届くところにあったんだ。
†
フロアに降り立てまっすぐ進んだ先の、さらに廊下をはさんだその向こう
「ぁ」
だいぶ距離はあったけれど、すぐに彼女だってわかった。
ゆかりさんだ。
座っている姿が見えた瞬間、私はすぐに駆け寄りたい気持ちに急かされたけれど、会った時にいきなりハイテンションをぶつけられてもゆかりさんにどん引かれてしまいかねない。
だから逆に慎重な足取りでゆかりさんへと近づくことにした。
心の中では、さっきからむふふとスキップを踏んでいる。思い願いはしたけれど、ゆかりさんがこんなに早く来社しているとは思ってもいなかったから、今日という機会を指折り数えてきた気持ちが、ここにきて更に喜びを得た事で、今にも全身から溢れ出してしまいそうな位に浮足立ってしまっている。
一歩、一歩とゆかりさんの元へと近づきながら、そんな自分に『いいから落ち着け』と何度も言い聞かせる。ともすれば、『なんて声かけようか』と交わす第一声へと心はもうすでに楽しみを繋げている。
直接会うなんてほんと何日ぶりだろう。
ゆかりさんは私に驚いてくれるかな。可愛いあのハニカむ笑顔で迎えてくれるだろうか。ゆかりさんも私を見て喜んだりとかしてくれたらいいなぁ。
自販機と並ぶその場所へと近づきながら、あたりの様子を窺ってもみたのだけれど、あまり人の気配がしない。どうやらゆかりさんだけが、長椅子に座っているらしい。もしかしたら早く着いたはいいけれど、1人で先に会議室で待っておくのも心細いとかで、それで部屋の外のこの場所で時間を潰していたのかもしれない。
ゆかりさんは、こちらがこっそり覗いていることにはまだ気がついていない。
意識は自分の携帯電話へと向いているみたいだった。
/
[お疲れ様でした! 今日も暑かったですが、ゆかりさんは体調とか壊してないですか? 心配です]
[一日缶詰だよぅ; でもカレーパワーで今日も頑張ります! ゆかりさんもちゃんとごはん食べて……]
[~いいお店見つけたんです。ゆかりさんともいつか一緒に行きたいな]
毎日のように私から送るメール。
だけど、だんだん書く内容がお決まりになっていく。
本当はもっと気のきいた言葉とかかけたいのに、なかなかうまくいかない。
最初の頃は、何も考えずに長文のメールとかも送っていたけれど、返ってくるきゅっとまとまった本文を見て、間にある時間を見て。いつもそれじゃ、読む側も大変じゃいけないよなって反省して、あんまりごちゃごちゃさせないようには努力するようにはなったのだけれど。
私の事ばかり書いても日記じゃないんだし、それじゃ自分の話ばっかりするみたいで、重たくなってしまう。それに今日何があった、なんてメールをされても
「ふーん、そう」
としか言いようがない。
かといって毎回疑問文や問いかけの入ったメールを送られても、ゆかりさんを困らせてしまうかもしれない。
「で?」
いつも、自分のブログですら書くのにもすっごく時間がかかって、内容にも「何を書けばいいかわかんない」と頭を悩ます彼女。
だから、メールして返ってくるのも必ずじゃなくて、時間とかの余裕と、返す言葉があった時だけ返ってくる、不定期返信。
私から送って、いつかそれに対しての返信の形でメールがくる。
これが私とゆかりさんのカタチ、そのうちのひとつにすぎない。
‐そう毎日送られても‐
‐似た内容なら送る意味ないんじゃ‐
‐義務で送ってるんじゃない。私がただしたいから‐
‐自己満足なのかな‐
‐返信が欲しいわけじゃない/本当にそう?携帯画面見るとさみしいくせに‐
‐元々が全然そんなメールやりとりするような仲じゃなかったから、今が特別すごいんだから‐
‐不満をぶつけたいわけじゃない。だけどなんか‐
‐これじゃまるで、メルマガみたい‐
画面を見つめる期待が苦しいから、あんなに毎日送り続けていたメールだったけれど、今は自重して、送らない日のほうが多くなりつつある。
メールボックスも、分けるのを、やめた。
気持ちを切り替えなきゃって思った。
ゆかりさんに他意はない。
そう、わかっているつもりだったんだ。
気持ちの中に、弱虫が住み着くようになっていた。自分で気がつかないフリを続けていた。
†
『ああ、そっか』
†
ゆかりさんは、自販機の側に並ぶ長椅子の端へ腰かけたまま、さっきからずっと携帯を操作している。
画面をじっと見ていたかと思えば、たまに同じ手で口元を押さえたり、頷いていたりするなどしてたりして、それからまたすぐに画面を触ったり。
軽快に動く指先は、何を思っているのだろう?
ゲームでもしているのだろうか。それともメールか何か?
語られる言葉がそこにあるのかと思い、私も自分の手の中にある携帯電話を開いて、画面を見てみた。
今の時間を確認して、閉じる。
鞄の中に入れようとして、いやいや違うだろうと、またすぐに手元へと戻した。
スタジオに居た間の着信の類はここへ来る道中で全部一度対応を済ませたから、新しいものは何も表示されていない。
メールもやっぱり着てはいなかった。
私は携帯を三度目に開くと、思いつき、親指でいくつかのボタンを操作してお気に入り登録しているフォルダ一覧を呼び出した。その中からとあるサイトを選んで、接続を開始する。それは役者友達の子から教えてもらって、私もつい最近利用を始めたサービスで。
自分専用のホームへ行くと、検索欄に直接アルファベットを打ち込んでいく。
すぐに、結果画面は表示された。
私が入力したアルファベットと同じそれと、続き何度も繰り返されるひとつの名前。
それを見て、弾みっぱなしだった私の心はやっと急制動がかかった。
すごく短いスパンで言葉のやりとりをしているのが、下に表示される更新時間からわかる。
――得意じゃないって、言ってたのに。
2人の仲がとてもいい事は、軽い調子でいくつも続くやりとりを見ただけで、すぐに伝わった。
――メールは、なかなか送ってくれないのに。
ゆかりさんが微笑んでいる理由が私の手元でも確認ができた。
ツイッター。
私もよく知るあの人と、ちいさな画面のその中で彼女は今も楽しそうに笑っている。
/
恋人ってなに?
付き合う事の意味はどうすれば証明できるの?
私だけの好きじゃ成立しない。逆でもやっぱり成立は出来ない。
理から外れていても、互いが想い合っていれば間違いなんてない。
強くいられるはずだった。なのに。
いつも他の人といて楽しげな貴女を知っている。
そんな時、私はわからなくなってしまう。
こんな気持ち、告げたら終わり。そんな事だけわかってる。
黒い気持ちが纏わりついて、息が苦しくなってゆく。
いっそのこと、取り返しのつかない程なにもかもを壊してしまえたらいいのに。
愛しい気持ちが空回りして、私自身を傷つけてゆく。
エゴかもしれない。それでも、私は貴女を手放せない。
哀しい顔をさせたいわけじゃない。
†
「ゆかりさん、おはようございます」
「おー。おはよう。早いね」
「ゆかりさんのが先に来てたじゃないですか」
「これの前スタジオだったんだけど、結構早くに終わっちゃったから。外も暑いしまっすぐ来た」
「ほんとに。暑いですよね」
私を見上げたゆかりさんは、ふわりとやわらかい笑顔をくれた。
少しだけ待ってと、言って携帯の画面を忙しく操作するゆかりさんを、はいと返事し後ろを向いて大人しく待つ。
「ほい。お待たせ。も、行く?」
「そうですね。入っておきましょうか」
手に持ったままだった携帯を今度こそ鞄の中へと入れる。電源はすでにオフにしていた。
「奈々ちゃん」
「はい?」
久しぶりに名を呼ばれ、それに笑顔で振り向いた。
少しだけ緊張した。
「なんですか、ゆかりさん」
声、堅くなってなかったかな。自分では、ちゃんとできたつもりだけれど。
聞き返した私にゆかりさんは何故か言葉を途切れさせる。
「いやぁ」
「はい」
私を見て、笑顔なまま。何も言わずにスッと立ち上がると、ててっとすぐ隣にやってくる。
「んもう、なんですか」
「ううん、呼んでみただけ」
ニヤッとした顔は、まるでこちらの反応を楽しんでいるかのよう。
たぶん、ほんとにその通りなんだろうけれど、
「えー? じゃぁなんで含み笑顔なんですか」
わかっていてもあえて、それに乗っかる。
「ゆかりの口からなんて言えない」
「ちょ?! なぁんですかそれー! 気になるじゃないですか!」
いつもに似た、だけどそれが楽しいお決まり的なやりとりを楽しむみたいに。
「水樹さーん、社内ではあんまりはしゃがないでくださーい。周りの迷惑ですし」
「ひどっ。なら何なのか教えてくださいよー」
手のひらを返してくるゆかりさんと、それでも食い下がる私の構図はいつも通りのふたり。
「しつこかー。ほら、もうちょい頑張れば結構いい時間だし。ゆかり打ち合わせに行かなくちゃ」
「一緒の打ち合わせじゃないですか! それに頑張ればって……もぉー」
「ほら、行こう奈々ちゃん」
「わかりましたよぉ」
手を差し伸べると、それに自然と重ねてくれる。
ここまでくるのにも、結構な時間がかかった動作だけれど、今じゃ何の疑いもなく信用してくれていることがうれしくて。
そして今は、残酷にも思える。
「ゆかりさん。大好きです」
「うっせ」
三嶋さんがやってくるその瞬間まで、ゆかりさんは繋いだ手を離さないままでいてくれた。
それだけでいい。
心から、そう思えた。
/
あの時。
ゆかりさんのことを見ていたら、探していた何かに辿り着けた気がした。
‐いなくても‐
‐貴女の世界は‐
‐回るんだ‐
そんな当たり前のことに、実際目の当たりにするまで気付くことも出来なかった。
同時に、ゆかりさんには知られるわけにはいかないと思った。
寂しいです、なんて言えない。
自分ばかりだ。
‐あの人は、甘える顔も知ってるの?
了
思わず、持ったままの携帯を強く握りしめている私がいた。
目の前にはゆかりさんが座っている。まだこちらには気が付いていない。私がここへ来るより前から彼女の意識は下を向いていて、ずっと手の中の画面へと向けられている。iPhoneだ。
この場所からは、ゆかりさんの横顔くらいしか表情は見えないけれど、微笑んでるのはわかった。
途端にぐらり、足元から世界が歪む。
錯覚だとはわかっていても、なかなかよくならない眩暈の様。ただ立っているだけで精一杯になる。
『どうして?』
普通に呼吸をしているのに、心臓がドクドクと速度を上げていくのがわかる。
頭と心のどちらだろう、私の奥深い部分が、必死でなにかを考えまいとしているのがわかってしまう。
楽しそうにしているゆかりさんが、すぐそこに居るというのに。
胸の奥が冷たく、重くなってゆく私。
この場から立ち去ることも、前に出て話しかける勇気も持てないままに。
過ぎゆく時間。近くにある、自販機の駆動音だけが、二人の間に響いている。
575/
そんなに気にしてはいなかった――
ゆかりさんとお付き合いするようになって、それが秘密の関係で、余程近しい人以外誰にも知らせてもいない。それでも二人は、恋人同士だった。
私にとってゆかりさんを好きだということに、後ろめたいことは何もない。今も胸を張って、この人を愛しています。そう言って回れるだけの強い想いがある。
だけれど世の理はそれをよしとはしていなくて、それはスキャンダルで。私もゆかりさんも、他の人の夢を担う仕事をしているから、公にするわけにはいかない。
『壊さない為に。2人のことは、極力内緒にしよう』
想いを告げた私の手を、ゆかりさんがとってくれたあの日。羽根が生えて飛んでいきそうな気持ちが本当にあるんだって、私は知った。幸せだった。叶うなら、私を知ってるすべての人に、ゆかりさんと付き合ってるんだぞって声高らかに広めて回りたい気持ちでいっぱいだった。
有難い事に仕事は毎日忙しくて、ふたりともがそうであるから、すれ違いがあったりプライベートで会える機会もそう多くはとれない。
おいそれ手を繋いで街中を歩くこともできないし、お互いがそれを覚悟していたから、普通のあるべきとされる世の中のカップルたちのようには出来なくても、やっていけている。
自分の持っている気持ちには、絶対の自信があった。
だけどどうしてだろう。ゆかりさんのことが大好きで、会うたびにもっともっとと好きになって、少し気難しい所も彼女なりのルールが色々あることも知覚して、全部をひっくるめて彼女を愛しく思っているのに。
そうやって2人を関係していくことに、いつしかささくれ立つような、細い針みたいなのを間に感じるようになった。
†
会えない日が続いて、電話も、メールのやりとりもしない日々が、しばらく続いていたある日。
『今度リリパの打ち合わせをするから』
都内某所。所属レコード会社であるビルに、私は予定よりもだいぶ早くに到着した。
前の仕事がスムーズに終わったからというのももちろんあるけれど、1番の理由、イベントでの楽曲打ち合わせもするという今日の会議には、あの人も来るのだと聞かされていたからだ。むしろ、早く来たくて収録を1発OKにやってのけてきたと言っていい。
私のドームツアーと入れ替わりでアルバム制作や夏ツアーのスケジュールが組まれたゆかりさんとは、完全にすれ違いの生活を送っていた。便利なもので、他の役者さんでもそうだけれど、直接会ってはいなくとも、今の時代ネットに繋げさえすれば、ブログを読んだりなどして、ある程度は相手の状況を知ることができる。しばらく会っていない人と直接会ったときにそれで話が弾んでお互いに「あれ?なんで知ってるの?」みたいな事もよくあったりする。けどゆかりさんの場合はというとそうはいかない。何日かに1回とだいぶ間が開くことが多く、しかもだいぶ遡っての日記をまとめて掲載する形をとっているからだ。
そのため、なかなか旬の情報というのが手に入らない。
撮影先でスタッフさんの口から名前をたまたま聞く機会があったりだとか、時には雑誌で知らない情報を得たりだとかしたりもして。…なんだか、私がものすごくゆかりさんファンで、みんなと同じ感じであるのが苦い。彼女なのに、彼女であるけれど、でもこうなのだ。
たぶんゆかりさんは、聞けばさらりと教えてくれるとは思うのだけれど、彼女だからっていつも聞いてかかっていいものなのだろうかと、そういうのって重い奴だって思われやしないかと思うと、変に遠慮を覚えたりしてしまっている私がいるわけで。
「おはようございまーす」
ロビーの受付辺りにいた方たちに挨拶をして、あちこちにアニメやアーティストのポスターが貼られている廊下を抜けて、奥の壁際に数機並んでいるエレベーターのボタンを押した。入れ物はすぐにやってきた。ひとりきりで乗り込む。
「……ツアー明けのスケジュール、聞いてみようかなぁ」
重力の移動を身体に感じながら、ずっとずっと考えている事を呟いてみた。実際に口にしてみることで、現実的なそこに発生するだろう問題とか、ゆかりさんのとるだろう行動予測などが具体的に思い浮かんでくる。
予定を聞くのも久しぶりなら。頑張ったご褒美休みのどこか1日くらいなら。今からお願いしておけば、私もスケジュール合わせてお休みとれるかもしれないし、お疲れ様のお祝いだったら、彼女の気が向いてくれればの話ではあるけれど、旅行とか誘ってみるのとかはどうだろう。うまく誘えたのなら、色よい返事がもらえたりとかってしないのかな。
扉上に表示される数字が数を増やしていくのをぼんやりと見つめながら、ゆかりさんと過ごすいつかの未来へいくつもの思いを馳せる。
目的の階へと進むのが、ひどくゆっくりに感じられた。
鞄から携帯を取り出して、サブ画面で時間を確認してみる。
「もう来てないかなぁ」
私の期待は膨らむ一方だ。
エレベーターの扉が開き始めただけで、笑みが零れだしてしまうくらいに。
/
――切欠は、たぶんとても些細なことだったと思う。
でも、綻びはいつでもすぐ側の、手の届くところにあったんだ。
†
フロアに降り立てまっすぐ進んだ先の、さらに廊下をはさんだその向こう
「ぁ」
だいぶ距離はあったけれど、すぐに彼女だってわかった。
ゆかりさんだ。
座っている姿が見えた瞬間、私はすぐに駆け寄りたい気持ちに急かされたけれど、会った時にいきなりハイテンションをぶつけられてもゆかりさんにどん引かれてしまいかねない。
だから逆に慎重な足取りでゆかりさんへと近づくことにした。
心の中では、さっきからむふふとスキップを踏んでいる。思い願いはしたけれど、ゆかりさんがこんなに早く来社しているとは思ってもいなかったから、今日という機会を指折り数えてきた気持ちが、ここにきて更に喜びを得た事で、今にも全身から溢れ出してしまいそうな位に浮足立ってしまっている。
一歩、一歩とゆかりさんの元へと近づきながら、そんな自分に『いいから落ち着け』と何度も言い聞かせる。ともすれば、『なんて声かけようか』と交わす第一声へと心はもうすでに楽しみを繋げている。
直接会うなんてほんと何日ぶりだろう。
ゆかりさんは私に驚いてくれるかな。可愛いあのハニカむ笑顔で迎えてくれるだろうか。ゆかりさんも私を見て喜んだりとかしてくれたらいいなぁ。
自販機と並ぶその場所へと近づきながら、あたりの様子を窺ってもみたのだけれど、あまり人の気配がしない。どうやらゆかりさんだけが、長椅子に座っているらしい。もしかしたら早く着いたはいいけれど、1人で先に会議室で待っておくのも心細いとかで、それで部屋の外のこの場所で時間を潰していたのかもしれない。
ゆかりさんは、こちらがこっそり覗いていることにはまだ気がついていない。
意識は自分の携帯電話へと向いているみたいだった。
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[お疲れ様でした! 今日も暑かったですが、ゆかりさんは体調とか壊してないですか? 心配です]
[一日缶詰だよぅ; でもカレーパワーで今日も頑張ります! ゆかりさんもちゃんとごはん食べて……]
[~いいお店見つけたんです。ゆかりさんともいつか一緒に行きたいな]
毎日のように私から送るメール。
だけど、だんだん書く内容がお決まりになっていく。
本当はもっと気のきいた言葉とかかけたいのに、なかなかうまくいかない。
最初の頃は、何も考えずに長文のメールとかも送っていたけれど、返ってくるきゅっとまとまった本文を見て、間にある時間を見て。いつもそれじゃ、読む側も大変じゃいけないよなって反省して、あんまりごちゃごちゃさせないようには努力するようにはなったのだけれど。
私の事ばかり書いても日記じゃないんだし、それじゃ自分の話ばっかりするみたいで、重たくなってしまう。それに今日何があった、なんてメールをされても
「ふーん、そう」
としか言いようがない。
かといって毎回疑問文や問いかけの入ったメールを送られても、ゆかりさんを困らせてしまうかもしれない。
「で?」
いつも、自分のブログですら書くのにもすっごく時間がかかって、内容にも「何を書けばいいかわかんない」と頭を悩ます彼女。
だから、メールして返ってくるのも必ずじゃなくて、時間とかの余裕と、返す言葉があった時だけ返ってくる、不定期返信。
私から送って、いつかそれに対しての返信の形でメールがくる。
これが私とゆかりさんのカタチ、そのうちのひとつにすぎない。
‐そう毎日送られても‐
‐似た内容なら送る意味ないんじゃ‐
‐義務で送ってるんじゃない。私がただしたいから‐
‐自己満足なのかな‐
‐返信が欲しいわけじゃない/本当にそう?携帯画面見るとさみしいくせに‐
‐元々が全然そんなメールやりとりするような仲じゃなかったから、今が特別すごいんだから‐
‐不満をぶつけたいわけじゃない。だけどなんか‐
‐これじゃまるで、メルマガみたい‐
画面を見つめる期待が苦しいから、あんなに毎日送り続けていたメールだったけれど、今は自重して、送らない日のほうが多くなりつつある。
メールボックスも、分けるのを、やめた。
気持ちを切り替えなきゃって思った。
ゆかりさんに他意はない。
そう、わかっているつもりだったんだ。
気持ちの中に、弱虫が住み着くようになっていた。自分で気がつかないフリを続けていた。
†
『ああ、そっか』
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ゆかりさんは、自販機の側に並ぶ長椅子の端へ腰かけたまま、さっきからずっと携帯を操作している。
画面をじっと見ていたかと思えば、たまに同じ手で口元を押さえたり、頷いていたりするなどしてたりして、それからまたすぐに画面を触ったり。
軽快に動く指先は、何を思っているのだろう?
ゲームでもしているのだろうか。それともメールか何か?
語られる言葉がそこにあるのかと思い、私も自分の手の中にある携帯電話を開いて、画面を見てみた。
今の時間を確認して、閉じる。
鞄の中に入れようとして、いやいや違うだろうと、またすぐに手元へと戻した。
スタジオに居た間の着信の類はここへ来る道中で全部一度対応を済ませたから、新しいものは何も表示されていない。
メールもやっぱり着てはいなかった。
私は携帯を三度目に開くと、思いつき、親指でいくつかのボタンを操作してお気に入り登録しているフォルダ一覧を呼び出した。その中からとあるサイトを選んで、接続を開始する。それは役者友達の子から教えてもらって、私もつい最近利用を始めたサービスで。
自分専用のホームへ行くと、検索欄に直接アルファベットを打ち込んでいく。
すぐに、結果画面は表示された。
私が入力したアルファベットと同じそれと、続き何度も繰り返されるひとつの名前。
それを見て、弾みっぱなしだった私の心はやっと急制動がかかった。
すごく短いスパンで言葉のやりとりをしているのが、下に表示される更新時間からわかる。
――得意じゃないって、言ってたのに。
2人の仲がとてもいい事は、軽い調子でいくつも続くやりとりを見ただけで、すぐに伝わった。
――メールは、なかなか送ってくれないのに。
ゆかりさんが微笑んでいる理由が私の手元でも確認ができた。
ツイッター。
私もよく知るあの人と、ちいさな画面のその中で彼女は今も楽しそうに笑っている。
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恋人ってなに?
付き合う事の意味はどうすれば証明できるの?
私だけの好きじゃ成立しない。逆でもやっぱり成立は出来ない。
理から外れていても、互いが想い合っていれば間違いなんてない。
強くいられるはずだった。なのに。
いつも他の人といて楽しげな貴女を知っている。
そんな時、私はわからなくなってしまう。
こんな気持ち、告げたら終わり。そんな事だけわかってる。
黒い気持ちが纏わりついて、息が苦しくなってゆく。
いっそのこと、取り返しのつかない程なにもかもを壊してしまえたらいいのに。
愛しい気持ちが空回りして、私自身を傷つけてゆく。
エゴかもしれない。それでも、私は貴女を手放せない。
哀しい顔をさせたいわけじゃない。
†
「ゆかりさん、おはようございます」
「おー。おはよう。早いね」
「ゆかりさんのが先に来てたじゃないですか」
「これの前スタジオだったんだけど、結構早くに終わっちゃったから。外も暑いしまっすぐ来た」
「ほんとに。暑いですよね」
私を見上げたゆかりさんは、ふわりとやわらかい笑顔をくれた。
少しだけ待ってと、言って携帯の画面を忙しく操作するゆかりさんを、はいと返事し後ろを向いて大人しく待つ。
「ほい。お待たせ。も、行く?」
「そうですね。入っておきましょうか」
手に持ったままだった携帯を今度こそ鞄の中へと入れる。電源はすでにオフにしていた。
「奈々ちゃん」
「はい?」
久しぶりに名を呼ばれ、それに笑顔で振り向いた。
少しだけ緊張した。
「なんですか、ゆかりさん」
声、堅くなってなかったかな。自分では、ちゃんとできたつもりだけれど。
聞き返した私にゆかりさんは何故か言葉を途切れさせる。
「いやぁ」
「はい」
私を見て、笑顔なまま。何も言わずにスッと立ち上がると、ててっとすぐ隣にやってくる。
「んもう、なんですか」
「ううん、呼んでみただけ」
ニヤッとした顔は、まるでこちらの反応を楽しんでいるかのよう。
たぶん、ほんとにその通りなんだろうけれど、
「えー? じゃぁなんで含み笑顔なんですか」
わかっていてもあえて、それに乗っかる。
「ゆかりの口からなんて言えない」
「ちょ?! なぁんですかそれー! 気になるじゃないですか!」
いつもに似た、だけどそれが楽しいお決まり的なやりとりを楽しむみたいに。
「水樹さーん、社内ではあんまりはしゃがないでくださーい。周りの迷惑ですし」
「ひどっ。なら何なのか教えてくださいよー」
手のひらを返してくるゆかりさんと、それでも食い下がる私の構図はいつも通りのふたり。
「しつこかー。ほら、もうちょい頑張れば結構いい時間だし。ゆかり打ち合わせに行かなくちゃ」
「一緒の打ち合わせじゃないですか! それに頑張ればって……もぉー」
「ほら、行こう奈々ちゃん」
「わかりましたよぉ」
手を差し伸べると、それに自然と重ねてくれる。
ここまでくるのにも、結構な時間がかかった動作だけれど、今じゃ何の疑いもなく信用してくれていることがうれしくて。
そして今は、残酷にも思える。
「ゆかりさん。大好きです」
「うっせ」
三嶋さんがやってくるその瞬間まで、ゆかりさんは繋いだ手を離さないままでいてくれた。
それだけでいい。
心から、そう思えた。
/
あの時。
ゆかりさんのことを見ていたら、探していた何かに辿り着けた気がした。
‐いなくても‐
‐貴女の世界は‐
‐回るんだ‐
そんな当たり前のことに、実際目の当たりにするまで気付くことも出来なかった。
同時に、ゆかりさんには知られるわけにはいかないと思った。
寂しいです、なんて言えない。
自分ばかりだ。
‐あの人は、甘える顔も知ってるの?
了