君がこの世にいない未来

文字数 9,528文字

 消魂けたたましく鳴り響く劈く劈つんざくような警笛の轟音が薄暗に佇む地下鉄のホーム内に木霊した。

金切り音に引き寄せられるように彼女は停車するため減速を始めた列車が突き進むレールの先に吸い込まれた。

右肩から砂利の敷かれた地面に打ち付けられ、レールの上に仰向けに落ちた彼女の瞳は僕の姿を映していたように感じた。

彼女の定まることを忘れた遠い眼差しの奥底からは筆舌に尽くしがたい絶望と悲観の表情が入り混じったドス黒い影を見据えた。

死が目前に迫っている彼女の瞳を僕は声も上げることもできずに呆然と、ただ茫然と見つめることしかできなかった。

僕らの最初で最後の以心伝心。永遠にも感じられたその一瞬は迫りくる重苦しい鉄の塊な無慈悲な直進よってあっけなく引き裂かれ永遠の終わりを迎えた。

にちゃにちゃと軋んだ音を立てて停車した列車。乗車待ちをしていたホームの人々から絶叫は鼓膜をキリキリと震わせただけで、そこから生まれる感情は一切無かった。

僕は取り返しのつかない現実に打ちのめされ、暫くの間、只々呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。

その後の事は余りはっきりとは覚えていない。只思い出せるのは線路上で赤白い肉片をかき集める必死な駅員の姿と、仄かに漂う鼻を付く生臭い臭気だけだった。

その日から僕の時間を刻む歯車は動くことを完全に放棄した。


 瀬良友加里。僕が彼女とと出会ったのは高校一年生の春の事だった。

肩甲骨の下端くらいまである少し長めの髪を下げ、薄暗い赤色の広めの額縁の眼鏡を掛けた彼女は今どきの女子高生達とは違い、落ち着いた雰囲気を持ったクラスの中では地味な部類に入る少女であった。住田と瀬良、名前の五十音が近かった僕らは、お互い席が前後になった。

四月に行われたクラスでの自己紹介の時間の中で偶然にも少しマイナーなロックバンドがお互いに好きであるという事実が発覚した。

その事実が僕らを引き付けあう些細で運命的なきっかけになったのだ。

それからお互い機会をうかがいながら一日に一度は会話を交わすようになった。

言葉の交差は二言三言の短いものであったが、会話を続けるうちに、僕らは必然的に引き付けられていった。

それは今となれば在り来たりといわば在り来たりな話ではあった。しかし、社交性が人より少し欠如していて、青々とした不安定な日々を過ごす若すぎた僕らは運命的な出会いであると心の底から信じ切っていったのも無理はなかった。。この甘美で不安定な運命は僕らを暗澹とした破滅に向けて突き進んでいるとは気づきようもなかったのだ。

 頻繁に会話を交わすようになった僕らは、共に放課後も時間を過ごすことが多くなった

新譜を目当てに行ったレコードショップで思いがけず発掘した新しいバンド、人の役に立ってみたいと友加里が提案して行った初めての献血。沈みゆく夕日を二人で見た海沿いの公園。些細な彼女の新しい側面を知っていける日々に小さな幸せを感じるていた。

 そんな些細で幸せな日々はこれから先も細々と終わることがなく続いていくものだと思い込んでいた。そうだと信じていたかった。

そんな僕らの幸せは呆気なく終わりへと向かうこととなった。僕の両親の転勤が決まったのだ。二か月後には今いる神奈川から福井へ引っ込すことになり、帰るめどは今のところないというというあまりにも急で絶望的な話だった。一人でここに残りたいという僕の希望は両親によってあっさりと却下された。家族は常に一緒にいるもの、苦楽を過ごす時間を共にするのは当然のことだと父は言い放った。昔から心身ともに薄弱な母も僕を一人でいさせるのは嫌だと言って聞く耳を持ってくれなかった。急な転勤に両親も困惑していたのは痛いほどわかってはいたが僕にはどうすることもできなかったのだ。

運命というのは抗うことはできない残酷で痛烈なレールの上を進んで行くのだと友加里との思い出が音を立てて崩れ落ちるような虚無感を突き付けられた。

 翌日、帰りのホームで僕は友加里に親の転勤の事、もう今までの二人ではいられなくなることを打ち明けた。

友加里は激しく動揺した。突き付けられた運命は友加里にとってとても許容しがたい事実であったことは言うまでもなかった。

すぐに帰ってこれるのか?もう一緒に入られる時間は少ししかないのか?今までの時間はどうなってしまうのか?

彼女の抱いていた漠然とした不安に対する微かな希望は悲しいまでに全て叶わないことを伝えた。

昨日の事で心の整理がまだ付いていない僕も自暴自棄になっていた。

友加里は他人だ。家族じゃない。僕らの意思で苦楽を共にすることは叶わない。僕らは若すぎる。

僕は包み隠さずただただ事実を淡々と述べる心無い人形のように荒んだ胸中を彼女に打ち明けてしまった。

その時の変えようのない行く先を悟った彼女の瞳からは怒りと激情の光は消え、抗いを失った虚ろな眼へと色を失い、僕を映すことを諦めた。

この後の行く先を突き付けられた僕らはお互いの帰路に向かう列車を言葉もなく待ちつづけた。

これ以上悲しむ友加里を見たくない。皮肉なことに僕の願いは彼女を家に送り届ける前に叶えられた。

汽笛の轟音とともに友加里は列車に身を投げ、彼女は永遠に僕の前から姿を消した。


 その日から僕は外に出られなくなった。

四六時中頭の中に後悔と自責の念が呪いのように渦巻き、僕の日々をくすんだ灰白色の世界から外に出ることを許さなかった。 

殺した。僕が友加里を殺した。興味本位の列車を待つ人間たちの興味本位の晒し者にした。吐き気を催すグロテスクな見世物に仕立て上げた。数秒前で真面目で、人思いで、しかし少し神経質な幼気な彼女を、直視するのも躊躇う吐き気を催す無機質な肉の断片へと変えてしまった。そんな考えばかりが脳に固着し、食事をとっても吐き戻し、夜はやっと思いで眠っても甲高い汽笛の劈くような絶叫に直ぐに叩き起こされてしまうのだった。

 事の顛末を知り、変わり果てた息子の姿を見かねた両親により僕は学校の近くの精神科に通院することとなった。

大量の薬を処方され必要最低限の摂食、睡眠はできるまで回復したものの、やはり元凶である友加里の死からは目をそらすことは許されなかった。もっと時間をかけて話すべきだったかもしれない。しかしこのことをどう話せばよかったのか?僕らの日々は終わる。

それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。

 僕は二度目の通院の帰り、例の駅のホームで列車を待った。

昼時なので列車を待つ人の姿はまばらで漂々と肌寒い風が暗闇の先から吹き込み続けている。

抜け殻のようになった僕は重い頭を下げながら黄色の警告線を穴が開いたように見つめた。

 暫くするとホームに列車接近の無機質なアナウンスが響き渡った。あぁ、あの時いつものように彼女の手を握ることができたら。

彼女は此処にいた……。ふと脳内に救いの手が差し伸べられた。甘く、身を切り裂くようような悪魔の囁きだった。

 此処で飛び込めば一瞬でこの苦しみから解放される。友加里の気持ちが少し解ったような気がした。

「まもなく列車が到着いたします。黄色い線の内側でお待ちください。」

二度目の列車の到着をアナウンスが心身摩耗によりに過敏に研ぎ澄まされた鼓膜に突き刺さりバクバクと心臓が波打ち始めた。

遠くから接近する列車の影を見捉えた。

ゆっくり、ゆっくりと足元の黄線を跨ぎ、前かがみに身がまえた。

 その時、震える僕の手は攫む手の感触を感じた。

身体から力が抜けきっていた僕の身体はあっさりとホームの内側へと引き戻されてしまった。

何が起きたかわからずホーム上に立ちすくむ僕に声をかけたのはほかの誰でもない今、僕の震える手を引いた少女であった。

「大丈夫?あなた」

その少女は歳は同い年くらいに見える、どこか友加里に似た穏やかで懐かしい印象を抱かせる優しい瞳をしていた。

その瞳は一瞬の気の迷いから僕を救い出す天使のようにも、またもや苦しみを引き延ばす悪魔のようにも感じられた。

放心している僕にまた彼女は声をかけた。

「急にごめんなさい。放っておいたら怖いことになるんじゃないかと思って……私、あなたにはまだ死んでほしくないの。」

僕もこんな風にとっさに彼女の手を引くことができたら。友加里は死なずに済んだ。感極まった僕を彼女は優しく駅の外に連れ出した。絶望の中で死の淵から助けてく出してくれた人。僕ができなかったことを平然とやってのけた彼女。僕は彼女の事を詳しく知りたくなった。


 散歩をしている一人の老人の姿以外は無い駅の側の寂れた公園で平静を取り戻した僕は、彼女と一緒に近くのファミレスに入った。

着席後、二人ともドリンクバーを注文したが飲み物を取りに行く間もなく僕は重い口を開いた。

「なぜ……僕を助けたの。」

彼女ははっとした顔をした後、少し申し訳なさそうに言った。

「さっき言った通りで深い意味はないの。あなた凄く悩んでたように見えたから後ろから気になって見ていたの。そうしたら本当に飛び込みそうになったから焦っちゃって……ごめんなさい。私は結花。よろしくね。飲み物は何が飲みたい?」

「とりあえずありがとう。亮介。僕は瀬良亮介。よろしく。さっぱりしたい気分だからコーラが飲みたいな。」

結花は片手をあげると速足でドリンクサーバーのほうへ歩いて行ってしまった。それにしても不思議だ。彼女のような高校性くらいの少女がこんな真昼間に駅で何をしていたのか…。僕のように精神的に衰弱しているようにも見えないし、学校をサボっていると考えるのが妥当か。そもそも学校に行っていないのかもしれないしきっと何かわけがあるのだろう。細かい詮索はしないことにした。

まもなくするとコーラとメロンソーダを両手に持った結花が戻ってきた。そこからさっきまでの陰鬱な空気とは打って変わって他愛の無い会話を交わした。

 偶然にも僕の好きなバンドの趣味が一致し、二人の会話は思いの他花が咲いた。

音楽の事のみならず驚くように同じような趣味が多く、自身とどこか似た性格の彼女に僕は安直にも何か運命的なものを感じ始めていた。

幼少期に大きな事故に遭い母親の輸血で助かったことや、将来は歯科技工士を目指していること。彼女は僕に自分の話を包み隠さず教えてくれた。

彼女の壮絶な過去や希望のある未来。そんな人間味にあふれる彼女の話に僕はすっかり心をを奪われていた。

時折見せる幼気な面影を残した笑顔。

初めて友加里に会った時に感じたもの。いや、それよりも強く新鮮な胸が締め付けられるような感情が沸き上がった。

友加里が列車に飛び込んだ時に止まっていた時間がまたゆっくりと動き出したような気さえしたのだ。

話をすればするほど僕は結花に特別な感情を抱いていることをいやが上にも痛感させられていった。

 とうとう僕は彼女に自身の心の蟠りを打ち明けるに至ったのも当然のことだったのかもしれない。

「ところで亮介君は家の帰りだったの?何か思い詰めていたようだったけど……」

「つい先月、僕の彼女が……彼女の友加里があのホームで死んだんだ。」

「死んだって……まさか……」

結花は友加里の死が相当ショックだったのか顔から見る見るうちに血の気が引いていった。

彼女の真っ白な肌に輪をかけて顔面蒼白になった。確かにいきなり恋人の死を告白されたら取り乱すのにも無理はない。しかし彼女の取り乱しようは対人経験に乏しい僕でもわかるくらい異常なものであった。

 しばらくの間沈黙が続いた後、彼女は恐る恐る重々しい口を開いた。

「実は……私……未来から来たの。」

僕は彼女の唐突で余りに非現実的な告白に思わず飲んでいたコーラを吹き出してしまった。

てっきり彼女は友加里の旧友か知り合いであったことだろうと高を括っていたため、まさか自分が未来人です、とかいう激烈に斜め上な告白が飛び出してきたことに驚きを通り越して笑いが込み上げてしまったのだ。

そんな半笑いでテーブルに噴出したコーラをフロスで拭きとる僕を尻目に彼女は再び語りだした。

「信じられないと思うのも無理はないと思う。でもね、もう十五年後にはタイムトラベルは当たり前になっているの。」

「さらに信じられないことかもしれないけど…実は私あなたの一人娘なの。よく考えてみて。共通する趣味が多いこと、性格が似ていること、そしてあなたの危機を救ったこと。わたしが未来からパパを救いに来たと考えたら説明がつくんじゃない?」

僕は思わずテーブルを拭く手を止めた。僕の娘が父親である僕、そして彼女自身の存在を救いに過去に来た。そんな現実味は無い話に混乱しつつも、今までの会話を脳内で何度も反芻した。

好きなロックバンドの一致、似たような性格や考え方、あの時あの場に居合わせた偶然。考えれば考えるほど結花が僕の娘であるという理由に説明がついていく状況に思考が止まった。僕は彼女に問いかけた。

「母親の名前は?」

「友加里……住田友加里。」

何故だ?なぜ彼女のフルネームを知っている?ぼくは結花に友加里のフルネームを教えた覚えはない。。

彼女が未来人だということはまだ完全に信じ切ったわけではないが、僕はここで初めて彼女が友加里の死を知った時に取り乱した理由をようやく理解した。死んでいる……彼女の母親はもう既に死んでいたのだ。

事の重大性を理解した僕は彼女に疑問をぶつけてみた。

「君が僕の娘だというのはまだ嘘だと思ってる。でもそんな過去を変えることは許されてるのか?」

結花はゆっくりと語りだした。

「時間軸の移動の事はまだまだ発展したての分野の事だから謎が多いんだけど、私のいる未来では過去は必ず一つしかなくて〝もしも〟や〝あの時こうしていたら〟という分岐していた過去や未来が数存在しているとは一般的には考えられていないの。そもそも私がここにいるのは本当はパパを助けに来たわけじゃない。未来では時間旅行が流行ってて、私は両親の馴れ初めを見に来たの。でも私が時間旅行記の便に少し遅刻したせいで来る時間が少しずれてしまった。そこでパパとママの姿を見て、事前に調べてきた二人の思い出の場所をめぐっていたらたまたまパパの危機に直面した......私は居てもたってもいられなかった。」

結花はすすり泣きを始めた。そんな……愛する彼女だけではなく愛する娘まで僕は殺してしまった。こんなにも愛おしい未来と希望に満ち満ちた人生を。しかし何かがおかしい。母親は死んだ。だが娘は此処にいる。彼女の言う未来が不変であるなら友加里は死ななかったはずだ。そして結花は存在していない。頭を抱える僕を横目に目をはらした結花がつぶやいた。

「私はしてはいけないことをしてしまった…」

僕は彼女の眼を見て繰り返した。

「してはいけないこと……?」

彼女は僕の眼を見つめ返す。

「時間旅行をしても破ってはいけない言われているルールを一つ思い出したの。過去、未来の自分の両親や肉親には絶対に干渉してはいけないと聞いたことがある。それによって未来が変わってしまう可能性があるって考えている人達が一定数存在するの。でも実際に過去に干渉して未来を変えた例は観測されていないはず。でも私は未来を変えてしまったのかもしれない。でも列車に吸い込まれるパパを見て見ぬふりなんて私にはできなかった。」

僕は一息置いた後ゆっくりと問いかけた。

「“その未来は変えられる論”の人たちは歴史を変えられた人はどうなると考えているんだ?」

「どうなったかは聞いたことが無いの。その人の存在自体いなくなって私たちの記憶から抹消される。元からそんな人間自体居たこと事態が消えてしまから気づく気づかないの次元の話ではないって聞いたわ。」

僕は震える彼女の手をそっと握った。

「そんなことはあり得ない。もし仮に君が本当に僕と友加里の娘であるとしたら既に君は此処にいないはずだろ?きっとくる時間軸を間違えただけだよ。君は現に此処に存在している。大丈夫だよ。」

二人は確かな人の温かみを感じあった。これだけがここに二人が確かに存在しているというただ一つの証明だった。

結花は涙ながらに再び口を開いた。

「ありがとう。私は私の生きる未来に帰ってやるべきことをやる。そしてまた過去に行って自分の時間軸のパパとママに会ってみるね。本当にありがとう。」

結花は腫れた目でにっこりと笑みを浮かべた。

「ところで結花はいつ帰る予定なの?」

「明日の深夜零時。明日の一日はまだこっちにいれるよ。」

「じゃあ明日は一緒に出掛けよう。これもなんかの縁だしさ、ちょっと暗い世界の明るい一日にしようよ。」

結花と僕はその後五時間ほど楽しい会話を続けた後、帰路についた。結花は時間旅行客専用の宿泊先があるらしく、駅のホームで別れた。

 家に帰った僕は薄暗い部屋の中で結花との出会いを反芻した。心恋しい彼女とは明日でもう会えなくなる。僕行く未来に彼女はもう現れない。この先はまた地獄に戻るのだと考えた時、激しい耳鳴りと叩きつけられるような動悸に襲われた。

その日僕は規定量の三倍の睡眠薬をあおると強制的にこの暗い世界に一時的に別れを告げた。


 次の日は朝早くから結花と昨日の駅に待ち合わせ、僕と友加里の思い出の場所巡りが始まった。

始めは外から僕らの校舎を眺めに行った。平日であったため生徒たちがグラウンドで体育の授業を行っていたが初めて友加里と笑いあって見た、チューリップの花壇を校舎の脇から見ることができた。今はまだ寒さのため花は咲いていなかったが僕らはそんな禿げた花壇を笑いあってって眺めた。

 次はよく二人で新譜を買いに行ったレコードショップに行った。結花は十数年前の名盤が新譜で売っていることに興奮し、たくさんのCDを購入していたのが微笑ましかった。昨日ひいきにしているバンドの新譜が発売されたばかりだったので友加里にも聞かせてやりたかった。

その次は放課後よく行った献血ルームに足を運んだ。結花は

「未来人の血なんか輸血しても大丈夫かな?でも私O型だからみんな喜ぶよね。未来はまだ血液事業は発展してなくて~」

なんて呑気なことを言っていたが残念なことに僕が向精神薬を服薬していたため採血には至らず献血プランは没になった。

昼過ぎから入った、二人の聖地のファミレスにではさっきの新譜の話題や未来のちょっとしたネタバレ話、未来人とのジェネレーションギャップの話で花が咲き、店を後にしたころにはもう外は薄暗くなっていた。

 黄昏を追いかけるように最後に僕が行きたかったのは友加里と初めて遅い時間までデートをした海沿いの公園だった。

大きな橋とレンガ造りの倉庫の先から見える沈みゆく夕日は圧巻の一言に尽きた。

気づいたら僕と結花は手を繋ぎあっていた。僕の脆い心臓の鼓動はみるみる上昇していった。

「パパがさ、私がすごく小さいころによく連れてきてくれたんだよね。あの日も夕日がきれいだった……今日は本当に楽しかった。ありがとね。」

僕は夕日の明かりとは対照的に嬉しさと言いえぬ深い悲しみに包まれていった。

結花は僕を父だと思っている。いや、それは事実だ。でもこの世界の僕は彼女の父ではない。僕は一人の男として結花を愛してしまった。

結花は僕の未来にはいない。これでまた僕の恋は終わる。

僕の頬に一筋の涙が伝った。それを見た結花は少し驚いた顔をしたがすぐに穏やかな瞳で僕の涙を拭ってくれた。彼女の優しさは痛いほど夕日で過敏になった心に激痛を伴って染みわたった。

 どれ程この公園にいたかは思い出せない。僕らは沈みゆく夕日をもの惜しげにいつまでも見送った。

それから休み休み歩いて午後二十三時五十分頃に僕らが出合い、そして別れるホームに到着した。

「かなりギリギリになっちゃったね。今日は本当にありがとう。」

結花は零時初の未来便に乗って帰る。僕は二十三時五十五分の帰路の列車に乗り込む予定だった。

苦しい時間は長く楽しい時間はすぐに終わる。しかし、時の流れが決して止まることはない。

これからまた苦しい時間が始まり、友加里も結花にも二度と会えない灰白質の世界へ戻らなければならない。

「うん。僕も楽しかった。結花も頑張れよ。元気でね。」

お互い涙ぐみながら僕らは固い握手を交わした。

その時耳元で列車接近のアナウンスが鳴る。僕の心臓がドクンと音を立てた。

「まもなく列車が到着いたします。黄色い線の内側でお待ちください。」

 僕も此処で飛び込めばこの苦しみから……これからの苦しみ全てから解放される。あの日の友加里の気持ちが完全に解った気がした。

一時の絶望へ打ちひしがれて死にたいんじゃない。これからの苦しみを味わいたくないんだ。

この思い出を糧にこれからを歩みだそうとしている彼女には僕の気持ちは伝わっていないようだ。

ありがとう結花。僕は君がいない世界で生きる意味がない。生きるのが怖い。

消魂しく鳴り響く劈くような警笛の轟音が薄暗に佇む地下鉄のホーム内に木霊した。

金切り音に引き寄せられるように僕は停車するため減速を始めた列車が突き進むレールの先に吸い込まれた。

左肩から砂利の敷かれた地面に打ち付けられ、レールの上に仰向けに落ちた。

薄暗いホームを切り裂くような汽笛の絶叫に絆される中、走馬灯が駆け巡った。

その走馬灯の中では何かと陰影の多かった幼少期の侘しい思い出、愛憎を煮詰めた友加里と過ごした色鮮やかな日々、僕に死に駆りたてた最愛の娘、結花との刹那で耽美な二日間。

 その時、ある違和感に気づいた。結花は事故のため輸血を受けていた。母親から輸血を受けて助かった。結花はO型。O型の人間はO型のからしか血を貰うことができない。友加里は…A型だった。

「血液型も同じなんてやっぱり私たち似た者同士だね。」

献血ルームで言い放った友加里の言葉が何度も脳内を駆け巡る。何故…何故今まで気づくことができなかったのか。スミダユカリはこの世に一人だけとは限らない。結花は、僕の娘の結花はこの列車に引き裂かれた友加里との子ではなかったのかもしれない。僕はあの日

結花に手を引かれずとも飛び込むことを躊躇い生き延びた。そして大人になってから別のスミダユカリと結婚して結花をもうけた。

死の淵で高速に思考を続ける脳とは対照的に列車はこちらへ鎌を引きずる死神の如くゆっくりと重々しい足取りで接近してきていた。

僕はやりきれない思いで結花を見ようとした。眼球の動きはこんなにも遅いものであったのか。

衝突の直前、結花と目が合った。結花の表情はあの日の僕と同じ顔をしていた。

時は残酷にも突き進む。時の流れは巻き戻すことはできない。死人は過去には戻れない。皮肉にも友加里の言葉が何度も何度も脳内を支配した。私たち似た者同士だね私たち似た者同士だね私たち似た者同士だね

 鈍い金切り音とともにレールに千切り飛ばされ、線路上に落ちた僕の頭部は迸る鮮血とともに横たわった。

薄らいゆく意識の中でホームに目をやると結花の姿は跡形もなく消えていた。

心恋しい彼女の体温は嘘であったかのようだ。過去は必ず一つしかない。結花という存在はこの世から、そして未来からも完全に消えてしまった。

結花は不幸にも自らの手によって自分自身の存在そのものを根本から消し去ってしまったのだ。

 後悔の念の中で消えゆく視界の中で、僕の瞳が最後に映したものは愛しの結花や友加里の影でもなく、ホームの人々の嫌悪の眼差しと好機に笑うスマホから向けられた、点滅するシャッターの無機質な閃光のみであった。

 絶望に染まり切った今生の落涙は、赤黒く微かに残った頭髪の間から滝のように流れ出す鮮血に嘲笑うように洗い流され、誰にも気づかれることはなかった。

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