サンクト=ペテルブルクの少年

文字数 2,086文字

美しいこと、それは一回であること。生まれてから死ぬまでの一回、人はそれを見て一度だけ綺麗と云うのです、そして綺麗と云われた花は枯れるしかないのです。

 リビングの床から本が生えてきて、天まで昇ろうとはさらなる高みを目指して今まさに私の寝床をとびだし、この家の廊下を平面から侵食しようとしています。あるとき私は冬用のブーツを取り出そうと玄関にある靴箱を開きました。靴があるはずの場所には中学生のときに買った少女小説が平積みで敷き詰められておりました。私はここにきてようやくことの重大性に気がつくことができました。本当に必要なものが何か分かったからです。

 近所のホームセンターを徘徊しているとお店の中央にアクアリウムコーナーがありました。メダカやら金魚やらゆらゆらと泳ぎ、みな水槽のなかを行ったり来たりして、それはまるで人の歩幅のようでありました。行ったり来たり、同じ場所をまあるくまあるく、ぐるぐるして、いる、はずでした、そのはずでした。しかし、気づいたときには私は寒帯美少年の水槽の前にいたのです。

 寒帯美少年、それは寒帯にいるお魚サイズの美少年、北海やバルト海に生息する水族館の人気者、その中でも一際目を引いたのはサンクトペテルブルクの美少年でありました。美少年って10センチぐらいのものを想像していましたが、そのサンクトペテルブルクの美少年は全長1.5センチほどでおやつのカールぐらいの大きさでした。その美少年のまあ愛らしいこと。女の子と見間違えるほど美しい、長い髪、白い肌、うるうるとしたまあるい瞳、同世代の男の子と比較するとあまりに心許ないほそーい両腕を上下にパタパタ。すると、水槽の中を上下にプカプカ。するわけであります。

パタパタ。プカプカ。

 私はしばらくその場から動けませんでした。ボーッとしていたわけではありません。そのサンクトペテルブルクの美少年"レニくん"との生活を夢想していたのです。家に帰ったら、「レニくん……今日はお腹が痛いよ」とか「レニくん……今日は嫌なことがあったよ」とか、「レニくん……会社にね……おじさんがいてね…………しつこく連絡先を教えてくれっていってきてね……気持ち悪くて無視してるんだけど……こっちのことチラチラ見てきて目を合わせようとしてきてそのたびに私は死ねばいいのにじゃなくて死にたいと思うのね……それってなんか変だよね……」とかレニくんは何も言わずとも聞いてくれるはずです。

 それから、レニくんとの生活を日記にしたりして、「今日はレニくんの様子がおかしい」とか「レニくんに白いぶつぶつがてきてる」とかレニくんの体調不良を案じたりもするはず。レニくん!レニくんのレニはレーニングラードのレニなのよ、革命の街、世界初の鎌と槌を持った労働者階級の国。ペテルブルクから来た美少年、私の少年、それがレニくんなんだよ。

 そんなことを考えていると、水槽の横に飼育に関する記載がありました。

 水槽・フィルター・保温器具・ライト・底砂・ろ過材・カルキ抜き・水温計・エサなどエとセとラ。まずは熱帯淡水魚を飼育する上で必要なものを揃えましょう。寒帯美少年は寒帯海水魚の仲間です。飼育には人工海水の素が欠かせません。「ディープマリーンソルトサプリ」を使って綺麗な人工海水を作るのです。

 そして、何より寒帯美少年は一回性の生き物です。一回性。美少年とは自分が美少年であるという自意識がないから美少年でいられるのです。しかし、それは女性という存在によって死んでしまうのです。たとえば精通がそれです。この人に触れたい、触りたい、キスがしたい、そう思った美少年はその瞬間に死ぬのです。女性から美少年だと思われるのも良くありません。自分が女性から美少年として性愛の対象として見られている、そう気づいたときも美少年は死にます。みな誰かの少年でありたいのものです。いずれにせよ、美少年は繊細な生き物です。ちょっとしたらことで死にます。しかし、その儚さ、一回性に人は無限回の幻想を見出してしまうのです。

 読了。ふむふむ……やはり寒帯美少年ということで飼うことはメダカや金魚より難しく、水を海水にするために専用の塩を買わなければならないし、まあ何より初心者が手を出して良い代物ではないようだ。

 「レニくん。私はあなたを連れて帰ることは出来ないようです。甲斐性のない私をどうか許してやってください」

レニくんは私をじっと見つめていた。自分を置き去りにしてその場を離れようとする母親に縋るようなひどく怯えた目をしていた。

「レニくん…私といたらレニくんは美少年じゃなくなるんだよ……ああ本当に…私は……レニくん…実はね…私も昔は少女だったんだ…一回きりの少女だった……私が少女だったときにレニくんと出会っていたら…私はレニくんのことを大好きになって…ずっと一緒にいたいと思って…枯れても…腐っても…死んでも……ずっと一緒に生きていたいとそう思えたはずだよ…でも…私はもう少女じゃないんだ……もうそう云う生き方はできないんだ……ごめんね」

さよなら、レニくん。
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