めだか

文字数 2,746文字

 私は、ある済んだ池のほとりの小さな岩を見つけて静かに座っていた。
 太陽が空の真ん中から下がり始めてすぐに、明るいそよ風が川岸の乾いたすすきを薙いでいた。湖の中で、小海老や目高が死に物狂いで追いかけっこをしているのがありありと見えた。
 私はその湖中に一石を投じた。ただ厭いたのかもしれない。今では見れぬ喧騒を他所から眺めているのを。
 水の中の生物たちはにわかに鬼ごっこを止めて、清水の中の岩翳に隠れる。彼らのあの、強打の息遣い、生死を分ける空腹のぐうという音が、染みるように聞こえてくるようであった。
 しかし彼らはまたすぐに遊びはじめて、危険があったことすらその刹那には忘れてしまう。
 私はただ、何かを知っているような面構えで俯瞰して、それを見るのみではあるけれども、時々その「鬼ごっこ」に交じりたい、心からともに遊んでみたいという気持ちが、冷え切った内面に影を落とすことがあったことも否定はできない。
 私は諦めてしまったのかもしれない。ただその湖の水面を眺めて孤独を感じた。それでも悔しい気持ちから、交じりたくても交れない自分がいることを自覚したある種の哀しみが襲ってくるのだけれども、それを表には出さず、できるだけ静かに、固い意地を張って、自分は一人が好きだからと言い聞かせるのみなのであった。
 先刻まで秋晴れの空に負けぬくらいの静けさを保っていたその水溜まりには、放り込んだ石を中心としてゆっくりと波紋が広がり、それに驚いた湖中の皆が私を見てくれて、注目を集めているようで嬉しいと感じることも有るけれど、それはただの勘違いだった。皆は自分の身の安全と心地よさだけを考えた。注視するのは私ではなく、その石なのである。水中から地上は、見えづらいのかも知れない。
 それでもその中に、或る一匹の可愛らしい目高が私の方へ泳いできた。息苦しそうに水面からこうべを上げて、あっぷあっぷ。その息遣いが、耳元で囁くように聞こえてくる。私がそれの近くへ手を遣るとそれは、小さな湖よりも、私の右の掌に創られたもっともっと大きな水溜まりの中へ、元気そうに泳いできた。
 私はそれが寄ってきてくれてこの上なく嬉しかった。それだけで、何か認められた気がした。私は、心地よさの中に安心したようだった。
 しかしながら、つかの間にそれは湖中へ跳ねて、帰って行ってしまった。今度は両方の掌をできる限り広げ、最大限の大きな水溜まりを水面に確保した。日が暮れるまで、それの帰ってくるのを待った。
 途中、何匹かの目高が私の両方の掌中に入ってきては、それらが私の求めるあの、澄んだ目をしたそれではないと分かっていたから、追い返した。それが何度も続いた。時には、幾匹かが一緒になって入ってきて、日光浴がてら少し泡をぶくぶくとさせて帰ることも有った。
 私は、待った。
 待ち続けた。
 不思議と待つのは苦では無かった。ただ時間だけが過ぎていった。ただ風だけが、そよいでいった。
 するとやっと彼女は、帰ってきた。
 彼女の右の胸鰭には、鮮やかなきみどり色をした、小さな藻がくっついていた。彼女は丁度犬が体に付いた水を取るような形で体をぶるぶるくねらせて、その藻を私の掌の中に置いた。彼女はその上で、一息ついた様に休んだ。
 私は、彼女が少し微笑んだような気がした。私はまた、彼女とともに水をすくって、両掌に水溜まりを作り、目の前にあるその小さな水の中で彼女を眺めた。今度は彼女は何処に行ってしまいそうでもなかった。ただ落ち着いて、その水溜まりの中で静かに瞳を輝かせていた。
 私は、その水溜まりを頬の近くに持ってきた。彼女の声を聴きたかったからである。
 私は、幸福であった。こんなにも仕合せな自分が居てもいいのかと、問うた。私は少し、彼女と戯れた。言葉が分からなくとも、心は十分に通い合っている気がした。私は彼女を、どうにか独り占めにできないものかと考えた。彼女の精神を、すべて知ってしまいたい気がした。これからの人生を、ずっとともに経験していきたい気がした。彼女の、その穢れの無い美しさを、私だけのものにできないものかと、悶々した。しかし今だけは、私は彼女を独り占めにできている。その長い人生の中の、一時的な心地よさの中で私は、自然に眠ってしまっていた。
 気が付くと私は、大の字になって、岩上に寝転がっているばかり。淡い紫の舌をのぞかせた宵の口が、あんぐりとすべてを呑み込もうと躍起になっている所であった。
 私は狼狽した。彼女は何処だろう。あたりを探し回った。湖中にも片足を突っ込んで、それを何のお構いなしにかきまぜた。
 何処にも、彼女は居なかった。
 直立して、水面を手で仰いだ拍子に、私の左手の指に、乾ききらない藻が巻き付いているのを見た。
 私は彼女が湖中に飛び込んだのと同様、別れは突然やってくるのもだと。彼女は自分に厭いて、岩翳の家に帰って行ってしまったのだと、そう自分に言い聞かせて、彼女がそうしたいのであれば、私はそれに沿うのが一番だと、いろいろな理由(それは現実では言い訳と言うのかもしれない)を模索して安心した。
 私は古びた自転車を漕いで部屋に帰った。彼女が家に帰ったのと同様、私も家に帰って何が悪い。私を置いて彼女は何処へ行ってしまったのか。気持ちを抑えながら畳敷きの万年床と、積読してある本の散乱した汚い四畳半へ私は帰った。
 家に帰って顔を洗っていたら、何かがぺたりと落ちる音がした。
 鈍い音であった。今まで聞いたこともないような、余りにも物質的で、ただの肉塊がそこに落ちたときの現実的なそれよりも、ずっとずっしりとした鈍い音が、私の心を襲った。
 見ると、それは、彼女であった。
 既に、息途絶えていた。
 私は、眠っているあいだ、胸の上で固く結んだ掌をほどいてしまっていたらしい。彼女が起きた時には、その小さな水溜まりの水がこぼれて乾くのとあわせて、彼女も私の胸の上で、その湿り気が、現実が、そして生が乾くのを待っていたようだ。
 私はあえぎながら洗面所に水を溜めて彼女を浸けてやった。心配になった。認めたくはなかった。彼女はその気になれば湖中に跳ねて帰れたはずであるのに、死に際も、私の胸の上にいたという事実を、私は信じたくはなかった。
 私は洗面所の水をぐるぐる掻き回して、流れを作り、彼女を泳がせてあげた。そこに浮かぶそれは、もう既に私の掌中に入ってきてくれた時の面影も、鮮やかさも、持ち合わせては居なかった。
 そこには、ただ残酷な肉塊が、流れにからだを任せているだけだった。
 私の左手には、彼女の呉れた小さな藻が、乾ききらずにへばりついているのみであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み