第1話

文字数 1,773文字

 絨毯フロアはヒールが埋もれて歩きづらい。中途半端にグニャリと沈む感覚が、バランスを狂わせる。

 エレベーターを降りると、視界にビル街が飛び込んでくる。どの方向を見ても、オフィスビルしか見えないガラス張りの廊下。
 会議室が並ぶ五階。薄く差し込む日差しが、やんわりとフロアを照らす。

 終業三十分前。本日、最後の仕事だ。
 使用済の会議室を簡単に片付け、鍵を閉める。
 一部屋目、二部屋目、サクサクとテーブルの上のごみを払い、備品が揃っているか確認する。
 三部屋目。あれ? ドアが少し開いている? 
 ドアの隙間から、スルリと煙草の匂いが抜け出してくる。……禁煙でしょ。吸ってるの誰よ?
 消臭スプレー取りに戻るの、面倒くさいな。イラつきながら、こっそり中の様子を伺う。

 正面に大きな窓。左手の壁にはスクリーン。スクリーンと直角に置かれた会議用テーブル。テーブルを挟むように置かれた椅子。
 奥側の椅子が一脚、窓側に向けられている。もたれて座るのは、ライトグレーのスーツの男。
 背中しか見えないけれど、彼が誰なのか、すぐにわかった。営業部の河野さんだ。
 こんなところで煙草を吸うような人だったかしら。興味本位で覗いていると、河野さんがスッと立ち上がった。そのまま、まっすぐ窓際まで歩いていくとピタリと止まった。

 窓枠に置かれた、正方形の小さなガラスの鉢。ニョキッと生えた茎の先には、ハート形の葉っぱがいくつも茂っている。
 ウンベラータ。以前、寿退社した女性社員が会社に贈ったものだ。

 河野さんの口元から煙草が離れる。煙草は人差し指と中指に挟まれたまま、ウンベラータに近付いていく。ジュッと葉を焦がす音がした。じんわり、じんわり、葉に黒い穴が広がっていく。

 どれくらい経っただろう。やっと、河野さんが葉から煙草を離した。
 煙草の先は、赤く火がついたまま。
 一枚だけ、みすぼらしく、虫食いのような大きな穴が開いたウンベラータ。

「ウンベラータの葉は、薄く傷みやすいです。穴が開いてしまうと元に戻りません。傷んだ箇所が広がるだけなので、取り除いてください」
 ウンベラータを購入した時の店員の声が脳裏によみがえる。どうせ退社してしまう自分は世話をしないからと、聞き流していたはずなのに、わりと鮮明に覚えているものだ。

 入社して二年での退社はさすがにバツが悪く、何か贈り物でもと考えていた時に「観葉植物は?」と提案してくれたのは河野さんだった。自分では思いつかなかったし、なかなかセンスが良い。その案を採用することにした。
 さらに河野さんは、私が大きなサイズの観葉植物を買うと思ったのか「荷物持ちをする」とまで申し出てくれた。いないよりはいるほうが良いかと思ったので、一緒に会社近くの花屋まで買いに行った。

「これ、葉っぱがハートだ!」
 店内を見渡して、たまたま目に入ったのがウンベラータのハート形の葉だった。
 見たままを口に出しただけだったのだが、河野さんは「自分が気に入ったなら、それを贈るのが一番良いよ」と言った。
 予算内であれば、どれでも構わなかったので、そのまま小型サイズのウンベラータにした。

 当時、私が在籍していたのは総務課で、九割が女性社員だった。
 彼氏ができたと言えば、お局世代からは睨まれ、少し上の先輩からは相手がどんな人なのかと根掘り葉掘り詮索され、同世代からは「彼氏の友達紹介して!」コールの嵐で、とても厄介なことは、同期の様子から学習していた。
 だから交際している人がいることは、ずっと隠していた。

 退職の理由も「家族のことで色々あって」とぼかして伝えた。
 実際に当時、お腹の中に子供を身ごもっていたので「家族のこと」という理由は嘘ではない。いわゆるデキ婚というやつである。

 娘が成長した今、時間に余裕ができたので、パートとして再雇用してもらった。
 苗字が変わっているので、結婚したことを察した人はいても、まさかそれがあのタイミングだったと勘づく人はいないだろう。とても近しい人を除けば。

「傷んだ葉も落とせば、また新芽が出てきますよ」
 店員の声が、再度、頭の中に響く。
 それなら、まぁいいか。そっとドアから離れる。

 そろそろ終業時間だ。
 絨毯のフロアでは、せっかくのヒールの音が響かない。早くエントランスを抜けて、アスファルトの上を歩きたいと思った。
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