第1話

文字数 1,053文字

 怖いからついてきてほしい、と彼女は言った。その気持ちはよくわかる。深夜24時50分。しんと静まった暗闇は何もかも飲み込んでしまいそうな不気味さがあり、成人男性である僕でさえ、少し恐怖心を抱いた。左手に冷たさを感じ、おもわず肩を震わせる。目線をやると、彼女の手が僕の手に触れていた。そっと手を握り返す。自分はもう少し冷たい人間だと思っていたのに。
 人気のない散歩道に入ってしばらくすると、嫌な雰囲気を感じた。住宅街はとっくに抜けていて、建物の明かりが遠くの方で光っている。着いた。ゆっくりと、彼女の方へ向き直る。目線を向けても目と目が合うことはない。本当のことをいうと、目の前の人間を本当に彼女と呼んでいいのかどうかもわからない。履いているスカートと、小柄な体型から勝手に女性だと僕が判断しただけだ。
 幽霊は、脅かしたり怖がらせたりすることはできるが、魂に干渉することはできない。祖母が教えてくれたことだ。だから僕は彼女を恐れたりはしない。そう言いたいところだが、さすがにこの暗闇の中に立たれると、些か気味が悪い。
 彼女は中々消えなかった。成仏するまで待つ必要はない。僕は死神でも、僧侶でもないのだ。彼女に行くべき道を案内したり、供養したりする義務はない。それでも、震える小さな手のひらの感触を思うと、立ち去ることが出来なかった。
 何か言葉をかけるべきなのかと思い、試しにお疲れさまですと言ってみる。彼女は違うとでも言うように、控えめに手を横に振った。反対の手は、依然僕の手を掴んだままだ。幽霊でも温もりを感じるのだろうか。彼女の手も僕の手も酷く冷たかった。
 不意に、遠くでマンションの明かりが消えた。おやすみなさい。何気なく、言葉が口をついで出る。掴まれた手がゆっくりと解かれた。目の前が水彩絵の具のように滲んで、彼女と景色が混ざっていく。おやすみなさい。そんな単純な言葉で、と思ったときにはすでに彼女は消えていた。
 最期の瞬間について考える。誰かの温もりを感じながら、おやすみと言われ、永遠の眠りにつく。フィクションの世界ではありふれたエンディングかもしれないが、現実でそんなきれいな最期を迎えられる人はどれくらいいるのだろうか。そう考えると、少し虚しくなる。
 気が付いたら、家に着いていた。ふらふらと歩いて、部屋に入る。ベッドに沈み込むと、天井から小さな手が伸びてきた。手の甲に温もりを感じ、驚くのと同時に急な眠気に襲われる。瞼を閉じると、すぐに暗闇が僕を飲み込んでいった。それでは、おやすみなさい。
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