第1話

文字数 3,249文字

子供が3人いるからベテラン母。そんなことはない。
母親業が長いから育児上手。そんなこともない。

産休と育休を取得し、3人の子供たちが0歳児からずっと働いている。

1日の1/3を仕事で費やすわけだから、いい悪いは別として、子供たちと接する時間は物理的に少ない。でもその分、接する時間の密度を濃くしようと努めてきた。それが、フルタイムワーママができる精一杯のことだと思ったから。

それでも、いつだって罪悪感のようなものは抱えているし、ふとしたときに負い目を感じることもある。



一昨日の夜から、末っ子(中学生)の様子がヘンだなと気になっていた。

ご飯をあまり食べないし、なんといっても口数が少ない。いつもは機関銃のようにしゃべり続けている末っ子が、話しかけても気乗りしない様子。笑顔もない。

「学校でなにかあった?」と聞いても、「別に。なにもない」と言う。

--- いや、なにもないわけないよね?

気になって、末っ子のクラスメートのお母さんにLINEで聞いてみたが、学校では特に変わった様子はなかったみたいよ、と返事が来た。

いつものように部活も行ったみたいだし、どうしたのかなと思い、もう1度聞いてみる。

「期末テストの結果が悪かったから・・・」

--- え、期末の点数?そんなに落ち込むほどは悪くなかったよね?(注)我が家では、平均点が取れていれば、それは十分良い点数です。

「平均点取れてたよね?大丈夫、大丈夫。そんなに落ち込むことないよ。次、また頑張ろう」

末っ子のキャラ的に、テストの点数で落ち込むようなタイプではないと思い、わたしはあっけらかんとそう言った。励ましたつもりだった。

家族や親せきを含めた周囲の人から、末っ子は、典型的な【ザ・末っ子】タイプだと言われる。

甘え上手でマイペース、好奇心旺盛のムードメーカーで、細かいことをあまり気にしない。まぁ、末っ子だから仕方ないよね、とみんなが許してしまうような得な性格の持ち主だ。

一晩寝たら大丈夫だろうと、わたしは楽観的だった。



次の日の朝。末っ子が学校を休みたいと言いだした。ガサツなわたしは、

「テストの点数、まだ気にしてるの?終わったことは仕方ないよ。気にしなくていいよ」

と声をかけたが、末っ子は不満そう。

どうしても朝早く出社しないといけなかったので、ここで揉めたらややこしいと思い、体調は悪くなさそうだけど休ませることにした(この対応が正しいかどうかは、いまだに分からない)。

とことんガサツなわたしは、きっと疲れて学校を休みたいだけなんだと思い、通勤中は仕事の締め切りのことばかりを考えていた。

翻訳業は、常に締め切りとの闘いである。締切日までに成果物を完成させる、それが最優先。手掛けている翻訳の締切日が、末っ子が学校を休んだその日だったので、翻訳の納品を優先させた。末っ子は家でのんびりしてるだろうと、のんきに考えていた。

納品を済ませ、晴れ晴れした気持ちで家に帰ると、末っ子は朝よりは幾分マシな感じ。次の日の学校の準備をしてから寝たので、明日は大丈夫だろうと思っていた。



ところが今朝起きたら、末っ子はまたも学校に行きたくないと言う。

--- え、テストの点数のことだけで、そんなに落ち込む?

テストで赤点をとっても落ち込まなかった図太いわたしには、テストの点数が学校を休みたいと思う理由になるのがイマイチよく分からないし、なんといっても、ムードメーカーでいつも楽観的な末っ子が、そんな一面を持っていた事実が信じがたい。

--- これはわたしが思っているより深刻かもしれない。ちゃんと話を聞いてみないと。

そう思い、学校に欠席の連絡を入れる。会社にも連絡し、リモートワークの開始時間を数時間ずらしてもらった。

「今日の仕事は午後からにしてもらったから、話してくれる?詳しく聞きたいな」

末っ子は突然泣き出した。文字通りワーンワーンと泣き出した。

「そっかそっか。お話、ちゃんと聞いてもらいたかったよね。ごめんね、昨日聞いてあげられなくて。」

ギュッと抱きしめると、肩が上下に揺れるほど、ヒックヒックとわたしの腕の中で泣いている。わたしのブラウスが涙の粒で濡れていく。

--- そうか、こうやって、自分の悔しさや悲しさを受け止めてもらいたかったんだね。これが必要だったのね。ごめんね、ごめんね。

心の中でそう言いながら、その気持ちを手のひらにのせて背中をさすり続けた。気持ちが落ち着くまでじっと待つ。

「あのね、理科の点数が悪くてショックだった。勉強したのに全然できなかったから」

鼻をグスグスいわせ、下を向いたままポツリポツリと話し出した。

「そっか、悔しかったんだ。勉強したのにできなかったら、悔しいよね。テストが返ってきてから、間違ったところやり直した?」

「ううん、まだ。だって、悲しくて見返したくないもん」

「そうだよね、ショックだよね。でも、お母さんと一緒だったら見直しできるかもしれないよ。一緒にやってみる?お母さんも理科は苦手だから、教科書とノートを見ながらだけど。どこをどう間違えたのか、一緒に考えてみようよ」

そう声をかけると、真っ赤になった目をグイッと拭い、末っ子は理科のテスト問題と解答用紙、教科書とノートをリビングのテーブルの上に置いた。

向かい合わせに座り、点数を見る。うん、ドンピシャで平均点。うっかり「平均点だからいいんじゃない?」なんて言いそうになるのをグッとこらえる。

今回のことで、末っ子は思っていたほど楽観的な性格ではないのを知ったばかりではないか。四半世紀近くも親をやっているというのに、まったく分かっていないダメな母である。

間違った箇所と、あてずっぽうで正解だった箇所を、一緒にやり直した。教科書とノートを広げ、どうしてこの答えが間違っていたのか、どうすれば解けるのか、額を寄せ合って考える。

「そっか、こう考えればよかったのか」
「あっ、これ、先生が授業中に大事って言ってたところだ」
「計算間違えてる、もったいない」
「教科書に書いてあることの応用問題だ」
「難しいと思ってたけど、説明聞いたら分かった」

約2時間、ひざを突き合わせて見直しをするうち、少しずつ笑顔が戻っていった。1つ、また1つと、分かる箇所が増えるたびに、口数も多くなっていく。

見直しが終わった。

「間違ったところを、どうして間違ったのか考えてやり直す。それを続ければ少しずつ力がつくよ。間違ったところを間違ったままにしない。これが大事だよ」

「うん、分かった」

「お母さんと、また一緒にやり直ししようか。どんな勉強しているのか、お母さんも知りたいから」

わたしが言い終わる前に、末っ子は制服に着替え始めている。

「今から行ったら、4時間目に間に合うかな」

いつもの笑顔がそこにあった。

「え?あ、うんうん、間に合うよ。車で送っていってあげる」



学校の近くに車を停める。末っ子は、校門に向かってまっすぐな道を歩き始めた。

入学したころは背中を覆いつくすように大きかった通学用リュックが、今では背中にちょうどいい大きさだ。

あぁ、あんなに大きかったリュックがフィットするくらいに、背が伸びたのか。

そんなことも今まで気がつかなかったのか、わたしは。毎日なにを見てるんだ。ちゃんと見とけよ。3人の子の母親業、何年やってるのよ。まったく、情けないわ。

いくつになったって、子供は親に話を聞いてもらいたいときがある。親の背丈を越して一人前に成長したように見えても、それでも親を求めてくれるときがある。

そのサインを見逃すな。
そのタイミングを逃しちゃいけない。

だって、あっという間に大きくなって離れて行っちゃうんだよ、子供は。突然飛び立っていくんだよ、親の元から。

校門をくぐる直前に末っ子がくるりと振り返った。頭の上でブンブンと大きく手を振っている。

多分、笑っているんだろう。
きっと、笑っている。

急いでわたしも手を振り返して、末っ子の顔を見ようと目をこらす。でも、末っ子の姿は端のほうからジワリと滲み、校門のなかへと溶けていった。
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