主に向かって新しい歌を歌え(詩編96編より)

文字数 10,091文字

「この世の中は競争がすべてであり、負けると徐々に人生が詰んでいく」これを座右の銘に、人より努力して、学力を伸ばしてきた。偏差値トップ校でも模試の判定も悪くはない。真面目に宿題にも課題にも取り組み、評定も悪くはない。真面目に取り組んだ者には、報いがある。
 それは、公平で公正な試験という形で試され、皆にその結果を発表されるものだ。
「朝霧くん、どうだった番号合った?」
「あはは。ないみたいだね」
「えっ……うそだよね。朝霧くんあんなに頑張ってたのに……」
「うーん。まだ努力が足りなかったみたいだね。他の人の方もっと頑張ってたんだと思う。それより、伊藤さん合格おめでとう。学校は違うけどお互い頑張ろうね」
「うん。朝霧くんも……」
「それじゃまた」
「うん、また連絡してね」
「うっ、うん」
 やっぱりない、落ちているようだ。哀れみを投げかけられると、情けなさが胸にあふれ、自信は打ち砕かれ、自身の発言と座右の銘が脳みそを締め付け、春の雨と今まで発言が、釘のように記憶に刺さり、一生抜けない苦しみとなるような思いがした。学校が違うと二度と会うことはあるまい。

 そして、4月、公立トップ校を落ちて、偏差値二番手の私立高校にやってきた、青い海岸と白い砂浜に面しており、校舎は赤レンガで表面が覆わている洋館風で、内装は現代的で、校舎で過ごしたいという受験者がいるくらいにおしゃれだ。ただ、来たくてここに来たわけでない私にとって、目に見える光景がすべてが憎たらしく、公立より高い学費だから高いからこんなにも豪華な建築ができていると思うと、この校舎で過ごすことにも腹立たしく思えてくるのだった。さらに、院長の話す、宗教的きれいごとや、ありもしない寓話を無理矢理信じ込ませようとする、キリスト教主義の教育方針に、公立に行けばこんな馬鹿げたことを聞かずに済んだと思い、キリスト教がますます嫌いになった。
 宗教は自然科学が出来ない、非論理的人間がハマる麻薬みたいなものだ。入学式や礼拝で生徒や教員が「アーメン」「アーメン」いう姿も集団狂気にしか思えなかった。
 それから、少し時間がすぎ、1学期の後半になると、周りはすっかりキリ教に毒され始め、さらに部活に旅行だのデートだの校舎のおしゃれさに加え、キラキラまでし始めだした。

 7月の期末試験、トップ校の連中からバカにされるのとクラスでの立場が悪化するのだけは避けたいと、必死に勉強、暗記をして、主要科目では平均より良い点をとったと思える手応えがあった。
 最後の試験、キリ教のテスト用紙を受け取り「授業で習ったキリスト教や聖書について書け」というたった1行の問題文と残りはA4の白紙という問題用紙を見つめると、体に熱を帯びるのを感じ、頭を憤りのような感情が支配し、シャープペンシルを握りしめると、呪いの言葉があふれて、自動筆記装置のように、無心で指を動かした。
”キリスト教は、非科学的である、信じる人は非科学的で論理的な思考ができない。理由は、創世記において語る人の誕生は、突然変異がもたらす遺伝子変化による生命の進化にまったくの矛盾に満ちており、…………。さらに、世界の対立や戦争はほとんどが宗教のせいで発生している。自然科学と無宗教こそ真理であり、道である。最後に、イエスというただのおっさんの死に価値を見出すことが出来る人間は精神病である。”
 冷静さを取り戻すころには紙いっぱいに、黒々と、キリスト教批判が爆発していた。とっさに消しゴムに手を伸ばした。チャイムがなった。終わった。消せなかった。
「回答をやめて下さい。皆様お疲れ様でした。無事にテストが守られたことを感謝いたします」
 いつもの、キリ教教員片山先生のお決まりの善意あふれる挨拶だ。
「アーメン」
 生徒が無意識に反射的に、応答している様子に、内心嘲笑し、私はキリ教に毒されなかったという人とは違う特別だと思うと、少し晴れやかな心地がした。不安はあるが、主要科目ではないし、キリ教教員の片山も日ごろ「愛」といっているし、どうせ、落しはしないだろうと思うことにした。

 青い空に白い入道雲が大きくなり始め、流れていく、試験勉強から解放され身が軽くなった定期考査後の昼休み、校内放送がのどかに呼び出しを告げた。
「1年A組、朝霧 一郎君、小出 直美さん、1年C組木村 健司君、1年D組鈴木 佳奈さん、進路指導室に来てください。片山先生がお呼びです」
 この呼び出しは、少しは予想はできていた。あの答案だと優しいと言われている片山先生でも落としただろう。再試験か簡単な救済課題の連絡だろう。
 進路指導室は、職員室の隣りにあり、教員が生徒を呼びつけるときによく使われるところで、進路指導室呼び出しはたいてい良い内容のことではない。
「失礼します」
「どうぞお入りください」
 進路指導室には、顔にシワをよせて、髪をつまみながら、悩んでいるような、片山先生が部屋の中を右に左に往復をしていた。
「朝霧君ですね。そこの椅子におすわりください。多分呼ばれた理由はわかると思いますが、いきなり単位を出さないなどの理不尽な処分はいたしません。安心してください。ただし、何も無しに、及第というわけにもいきません。本当は、どんな内容でも、及第点を差し上げたかったのですが、採点は公平を期すため宗教科主事の三田先生と一緒に行っていて、私の裁量だけではどうにもできなくてですね」
「はあ?」
「まあ。救済案の詳細はみなさんがそろってからお伝えしますので、少しお待ちください」
「ええ」
 数分後、他の落第メンバーもそろった。他のキリ教落第者の顔はどことなく暗く、同じ部屋にいると、活力を奪われそうな心地がした。
 いちおう同じクラスなので小出さんに挨拶的に会話を持ちかけた。
「小出さんもなんですよね。何かあったのですか?」
「何もありません」
「は?……」
「それよりも、私は、あなたがここにいることが不思議。無難に生きている平均的な人だと思っていました」
「えっ。いやぁ。テストで疲れていてちょっと魔が差して。変なことを書いてしまったんですよ」
「へえー書いても落ちるなら、書かなくて正解だったとおもいません?」
「えっ?書かなくて正解とは?」
「そんなことも分からないのですか。あなたも私も落第したのだから、私はないも書いていない分、無駄なことせずに済んだって話」
 この言葉が小出さんから発せられた瞬間、片山先生が肩をがっくり落としたように見えた。
 小出 直美、長身で大体のことはそつなくこなすし、女子からは眺める対象として人気だが、人形かロボットのような様子とこの世界が私を中心に回っているというような話しぶりに、実際は孤立しているようにみえる。
 片山先生は進路指導室をうろうろする歩みを止め、話しだした。
「ええと。皆さん。呼び出しの理由は皆さんお分かりだと思います。ここはキリスト教主義校ですので。キリスト教を学んで試験を合格し単位を取らないと卒業できません。もし、この教育方針が合わないとお思いの方は、転校という手もあります。皆さんの信仰の選択自由はなるべく保護したいので、その場合、私を含めた教職員はサポートしますが、どうします?」
 この手の教師が言う、学校を辞めてもいいですよ的選択は、「はい、辞めます」という返事は想定していないものだ。そして、そんな学校での教員の建前的発言は生徒もわかっている。ほんの少しの沈黙の間に、誰も辞めないということを暗に了解し、片山はまた話を続けだした。
「さて、正直、毎年、非常に宗教科教員泣かせの解答をする生徒がいます。その生徒を救済するために、毎年、補習や課題を提出しています。その補習や課題をこなせば、キリスト教の単位を差し上げます」
 まあ、予測の通りだ。問題は課題の内容だ。できれば、そこまで負担のない課題が良い。
「課題ですが。今年度より、教会音楽の専門家である安達先生が本学の音楽主事に赴任してくださいました。そしてですね。本学の聖歌隊である、”キルヘンコーア”を指導してくださっています。しかしですね。聖歌隊の隊員がですね。非常に少なく、混声合唱が成り立たなくなっています。そこでですね。宗教科主事の三田先生が一策を講じまして、皆さんが聖歌隊に入って賛美歌を歌っていただくことを救済の課題としたいとですね思いまして」
 もう一人いた、男子生徒が足を小刻みに動かしていたが、その振動数がじょじょに増えてきていたのを見てとれた。小出さん以外に呼びたされていたもう一人の女子生徒は、この提案を受け入れたのか、無表情で、首を上下に動かし、同意をしめしているようにも見えた。
「木村君は何か、意見などがありますか?」
 木村の明らかに不愉快そうな表情と貧乏揺すりを察して、片山先生が発問をした。
「どうして聖歌隊に入ことが補習の課題になるのか分からない。ただ、人が足りていないからでは、キリスト教学とどう関係があるのか説明になっていない。そんな納得のいかないことはできない」
「木村君。ええとですね。この学校のキリスト教教育の方針は、”聖書を中心として、イエス・キリストの行いを通して、人生を歩んでいく糧を伝える”ことです。そして、その聖書の中に、こんな記述があるので、ええと、あったあった(コロサイの信徒への手紙第3章16節)『知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい』ですので。キリスト教学と聖歌隊に入り賛美歌を歌うことは神に向かって歌を捧げることであり、キリスト教と関係大アリなんですよ」
「はあ。それで説明になってると思ってんのか。俺クリスチャンじゃないし、聖書に書いてるからと言って根拠にもなんにもなんねえよ」
「はぁ……この学校は入学パンフレットなどにもキリスト教教育を全員必修で行うことが学校の特色と書いてあり、それを承知して入学したはずなので、この件に関してキリスト教徒でないは通用しません」
「はあ。何だそれは。ふざけるな」
 木村は眉間にシワをよせ、片山先生をにらみつけていた。それに対して、片山先生は少し語気を結論を強めて、要求だけを言った。
「ともかく、キリ教の単位が欲しいのなら、聖歌隊に入ってください」
「チッ……入るだけで良いんだな?」
「ええ。できれば歌ってほしいのですが、まずは、そこからでかまいません」
 片山先生と木村との、やり取りを眺めていると、片山先生に同情し、木村とは絶対に関わりなくたくないと思わされた、子守りと反抗期の親に楯突く子供である。思ったことを、ただ吐き出し、教員にも食って掛かる、空気の読めないひねくれた狂犬のそれだ。黙っていて、もっと身のしょし方を知っていたなら、黙っていても女子に声をかけてもらえそうな、目鼻立ちのよい美形なビジュアルなのに、惜しいことだ。
「他の方は何かご意見はありませんか?」
 小出さん以外に呼びたされていたもう一人の女子生徒が小さく手を上げていた。
「はいどうぞ。鈴木さん」
「私は、家が、仏教の住職で、私の信仰も仏教なので、答案を書けなかっただけです。採点に納得いきません」
「先程も言いましたが、残念ながら、キリスト教徒でないというのは考慮できなくてですね。採点に関しては、三田先生が宗教を理由に解答ができないような内容ではないということで特別な配慮なされず、及第点になりませんでした。ご家族の方と相談して、聖歌隊に参加可能であれば、参加してください」
「たぶん、家族は良いと言うと思うのですが、私の中で、仏教徒がキリスト教について答えることに納得と整理が出来ていなくて」
「そうですね。なら、これも神の導きかもしれません、歌を通して気持ちの整理ができるかも知れません。歌えない曲なども考慮しますので、聖歌隊に入って、この学校を卒業して欲しいです」
 鈴木さんが完全に参加に納得したような様子ではない、片山先生と目を合わせるの避けている、さらに言葉が続くことはなかった、片山先生の神の導きという曖昧な理由づけとキリスト教的な良心的説得つまり善意の押し付けによって、もう黙るしかないのかもしれない。
 課題は面倒で時間も取られそうだが、いくら反抗しても、課題内容の変更もないようで無駄と悟ったのか、後の二人は、片山の意見募集に対して質問をする気はなくなっていた。
 条件闘争をしても、若手の片山先生に言っても、宗教科主事の三田の指示であるなら、三田に訴えない限り条件は変わらないのだ。しかも、三田は頭が固く、キリストに対してド真面目ド忠実であろうとすることで有名で、生徒の何もかもを疑っていようで、生徒の意見や発案は全てキリスト的でないと却下する、文化祭企画も三田のせいでなかなか許可されず、イエス以外に何も興味のない目が死んだような先生とのうわさされ、多くの生徒から疎まれている。
 事実上、私たちにはキリ教の単位をとり卒業するためには選択肢はなかったのだ。
「では皆さん、入隊届に、学年出席番号、氏名などの必要事項を書いて下さい」
 片山はすべて手はず通り進んでいることに、嬉しそうに、全員分の入隊届をファイルから取り出し、その場で書くように指示した。優しそうに見えて、業務を的確にこなす、三田の弟子にも見えた。
 小出さんはスラスラと、木村は読めない雑字で、鈴木さんは丁寧に、私は他の人が書いているのをうかがいながら、入隊届の空欄を埋めていった。
「皆さん書きましたね。では回収します。ちなみに、聖歌隊の顧問は安達先生、副顧問は私です。練習は月曜・水曜・金曜日の放課後です。安達先生が来られないときなどは、私が来ますので、よろしくお願いします。では、水曜日の放課後に、学院礼拝堂に集まってください。あと、理由なく休むことが多い場合は救済できないで留年となるので、ちゃんと来てくださいね」
 片山先生は、入隊届を回収すると、そそくさと、進路指導室を去って行った。
「くそっ。あいつは何なんだ。みんな行くのか?」木村がキレ気味に話しかけた。
「行くに決まってんでしょ。留年する気?」小出さんはにらみながら返事をした。
「私も、行こうとは思います」鈴木さんが小出さんに被せるように目立たない応答をした。
「行くけど、サボれるだけサボると思う」最後に私も答えた。
「なぁ。お前ら、頭つかえよ、全員休めば、全員留年させるわけにはいかないから別の課題になるだろ?こんな面倒で時間が取られる課題やってられかよ」木村が一見魅力的な提案をした。たしかに、救済課題にしては、負担が大きい。
「あなただけ、そうすれば?私はそんな不安要素のあるリスクを背負うのは嫌。ヒマじゃないので、じゃ、さようなら、また水曜日に」小出さんが侮蔑するような口調で言葉を吐き捨ててから、進路指導室を後にした。
「わ、わたしも、失礼します」鈴木さんもその直後にこの息が詰まる空間を飛び出して行った。
木村がぶつぶつと文句を言っているところで、気づかれないように。
「じゃ、まだ昼ごはん食べてないから」
 小さくあいさつだけして、進路指導室から逃げたした。
 鈴木さんの理由は同情できるが、やはり、普通は落とさない、キリ教を落とすだけの人たちである。残念というよりも、言葉の剣をいつも振り回しているような連中である。どうして、期末試験のキリ教で、冷静に、イエスとキリスト教を褒め称える内容を書かなかったのか、過去の自分をうらみたくなる。自分もこの変人の群れの一員になってしまったと不安になるが、私は彼らとは異なり最低限度の常識はあると声を大にして言いたいと思う。

 水曜の放課後は、普段何もしていないので、けっこう早くやってきた。学院礼拝堂に行く道は、校門の横からのびる道に入り、その道には、けやきの木が並んでいて、夏には緑が鮮やかで、木陰が夏の厳しい直射日光を和らげてくれてありがたい。歩いていると、看板が立っていて見てみると、『「神の園の香柏も、これと競うことはできない。もみの木もその枝葉に及ばない。けやきもその枝と比べられない。神の園のすべての木も、その麗しきこと、これに比すべきものはない。」(《口語訳》エゼキエル書31章8節)』と書いてある。『この先礼拝堂』とでも書いて有るかと思ったら、ここにも聖書が登場してきて、ある意味ここが学院であることを思い知らされた。校内を歩くだけで聖書を口に突っ込まれ、「美味しいです」と言うまで、聖書を口に押し込まれる拷問のようなものだ。
 礼拝堂も、校舎と同様外装は赤レンガで覆われており、群青色のステンドグラスが扉の上に飾られている。扉は木製で黒色をしており、重く開けるときにずっしり腕にくる。中に入ると、木製で明るく、質素な十字架が中心に掲げられている。少し中に入って、振り返ると、扉付近の上階には、パイプオルガンが設置されていて無数の銀色のパイプが天井に向かって伸びていた。パイプオルガンの構造には心惹かれるものがあり、一定の比率に、左右対象に並んだ銀のパイプは、目にしっくりくる美しさ、そこに施された木彫り装飾は優しく全体を調和させているようにみえる。
 扉とオルガンを眺めていると、礼拝堂の前の方から、透き通るまっすぐな女性の声がしてきた。
「もしかしてキリ教補習組の1年生ちゃん?」
「ええ。補習で来ました」
「ようこそ。顧問から聞いていますよ。立ってるのも疲れるでしょ、前の方に座って待っててください」
「ええ、ありがとうございます」
「あっ。自己紹介をしないと誰だかわかんないよね。私は2年F組八尋のぞみです。この部の部長をしてます。いや聖歌隊ですので。隊長かな。1人しかいないので。部長もなにもないのだけどね」
「えっ? たしかにそうですね」
「そうそう、名前を聞いてなかった、名前は?」
「一郎です。朝霧一郎です」
「朝霧くんは、この入隊届で、1年A組かな。そういえば、他の人はどうしたんですか? 一緒じゃないよね?」
「ええ。そのうち来るかもしれません」
「”そのうち”と”かも”いうのが釈然としないですけど待ちますか」
「説明で色々ありまして。来ると断言できなくてですね」
「今日の練習は顧問が来るので、声を顧問にみてもらってパート分けをしたいので来て欲しいんだけどね。やっと混声合唱ができるかもって期待してたんだけどな」
「パートって、バイトか何かで奉仕活動とかするんですか?」
「ぷっははははーキミは馬鹿だなーいや、中学で合唱とかやらなかったの?ソプラノととかアルトとかテナーとかバスとか聞いたことない?」
「ああ、そうでしたね。”パート”って単語が音楽での文脈とまったく結びつかなくて。中学、荒れてて男子はだれも歌を歌わないので合唱や音楽の授業が成り立たなくて」
「どこの中学?」
「北森中です」
「あそこ毎日窓ガラスが割れるって有名やもんねー」
 ちょとした世間話をしていると、扉の開く重い音がして、片山先生が入ってきて、礼拝堂を見渡した。
「八尋さん、入隊予定の残りの3人は来てないようですね。体育館と間違えたのですかね。体育館を見てきましょうかね。その間に、八尋さん、朝霧君に聖歌隊のことなどを色々説明をお願いします」
 片山先生が礼拝堂を出ようと扉の方に歩みを進めようとした時に、残りの3人が礼拝堂に入ってきた。小出さん鈴木さんはの並びはどうにか普通の空気が流れているが、木村・小出間は冷戦のような一触即発の状況に見えた。
「ちょうどいいところに来ましたね。3人を探しに行こうとしていたところでした」
 片山先生は胸をなでおろし嬉しそうに話しかけ、すかさず、八尋部長が3人を誘導しようとする。
「皆さん。ようこそ。遠慮しないで、前にすわってください。私は、この聖歌隊の部長の八尋のぞみです。よろしくお願いします」
「私は小出 直美。よろしく」
「……木村 健司」
「鈴木 佳奈。1年D組です。よろしくお願いします」
「さて、今日はですね。まず、皆さんの声の高さに合わせて、高い方から低い方に順にソプラノ、アルト、テノール、バスのパート分けをします。これを顧問の安達先生が来たら1人ずつ順番に行います」
「ねえ。パートわけって。このメンバーで混声合唱する気なの?」小出さんが噛みつき出した。
「できれば、皆さんの音の高さがどうなるかでバランスにもよると思いますが、せっかくなので混声合唱がしたいです」
「無理にきまってんだろ。俺はこいつらと本当は歌も歌いたくないんだ。単位のために来てるだけだ。斉唱で同じもん歌うのが関の山」木村のやっかいなスイッチが入ったようだ。あと、木村から同じパートをみんなで歌う音楽用語の斉唱という言葉が発されたのも驚きだ。
「今までは一人で独唱か、学院の卒業生と一緒にしか歌える状況ではなかったので、みなさんと歌えるなら斉唱でも単位ためでも何でもかまいません」
 八尋さんの木村に対しての誠実な返事に対して、鈴木さんと小出さんが続けた。
「ああ、ですから。入学式の賛美のときに、聖歌隊は年配の方がたくさん前に出て歌っていたのですね。吹奏楽部と雰囲気が違って、聖歌隊は部活でなくて、先生と地域の人でやってるのだと思いましたから」
「そう。あの入学式の賛美は歌の出来栄えは良いとしても、違和感があった」
「合唱が成り立つだけでも、ありがたいことなのですが、いつか私たちの合唱をしたくて……」
 八尋部長は遠慮なくしながら言葉を選んでいることがわかる返事だった。木村は、足を大きくゆすり、にらみ、不機嫌そうな様子ではあるが、黙っていた。木村なりの最大限の譲歩なのかもしれない。
 「聖歌隊で合唱をしよう」とはすすんでは言わないものの、八尋先輩に対して、少しくらいなら協力してもいいかもしれないという、場の流れになってきていたようにも思える。ささいな事で、すぐに、爆発炎上崩壊はしそうではあるが。
 すこし、礼拝堂の張り詰めた空気がやわらぎだしたとき、また、扉が開く重い音がした。ラフな格好シャツとジーンズを着た、ベテラン教師っぽくみえる、おじさんが礼拝堂に入ってきた。
「ようこそ、みなさん。歓迎します。私は今年度から音楽主事、この学院での音楽に関することのもろもろをやっている、安達と言います。よろしくお願いします」
「……よろしく、お願いします」単語の区切りよくハキハキ発音する、安達先生の発言のあと、キリ教補習1年たちはおそるおそる返事をした。
「八尋さん、体操発声はしました?」
「いえ、まだです」
「では、体操発声から初めましょう。みなさん、他の人に当たらないように広がってください」
「体操って。運動するわけじゃないのにそんなもんいるのか」木村がぼやいた。
「君、歌や合唱はスポーツだよ。全身の筋肉を緩やかにそして精密に制御しないといい歌は歌えないものです」
 ラジオ体操の激しい動きをはぶいて、体の力を抜き、伸ばすこと重きをおいた体操が安達先生が皆の前にたち説明をしながら一通り行われた。八尋部長と小出さんの柔軟体操は、きれいな動きで見た目も美しさがあった。鈴木さんはぎこちない動作ではあるものの真面目にとりくんでいる。木村は、タルそうにダラダラしながら、形だけは真似していた。私は、体はかたくうまく動かないが、やる気は木村よりあるようにみえるようにした。
 続いて、発声だ。礼拝堂にあるピアノの前に半円を描くように集まるように安達先生が指示をした。これも、安達先生がそれぞれの子音の発声方法や音階跳躍の意味を説明しながら1つずつ、丁寧に、テンポよくすすんでいった。木村や小出が何か言ってくるかと思っていたが、理路整然と次々とすべきこと的確に指示され、合理的に進められると、何も言わずに、それなりにやっていくようだ。
「Sの子音は舌の先を上の歯のすこし奥において空いた隙間に息を吹き込むと発音できます。Sの子音が響くと倍音が響きがおいしいのです」
「プスーー」
 Sの子音、Fの子音、Vの子音の発音は、中学校英語でまともに発音をしたら、笑われる状況で気にもしたことがなく。悲しい空気漏れみたいな音がしていた。
「発声も終わりましたので、今度はみなさんの声をチェックしたいので。女声から呼んでいきますので、呼ばれたら、隣りの控室にきてください」

 歌を歌ったり、楽器を演奏したり、音楽や芸術することは極論をすると時間のムダである。ただ、私たちがここにそろい、いやいやながらも歌を歌おうとしていることは本当に不思議なことだ。神の導きか、いや、留年したくないだけだろうか。ただ、私はここに立っている。
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登場人物紹介

朝霧 一郎(あさぎり いちろう)

テナー。1年A組。偏差値トップ校の公立に落ちて、このキリスト教主義校に入学した。自然科学と理性の信奉者で、宗教も占いも信じない、大嫌い。

小出 直美(こいで なおみ)

ソプラノ。1年A組。何も希望も感想も思いつかない。答えのきまった答案に解答はできるが、自分で思い考えると言われると何も書けなかった。

木村 健司(きむら けんじ)

バス。1年C組。抜群の記憶力と優秀な成績。しかし、思ったことをそのまま言ってしまう、そして、思ったこともそのまま書いてしまう。よって様々なところでトラブルを起こしがち。

鈴木 佳奈(すずき かな)

アルト。1年D組。家が寺の住職で悩みながら答案を書いた。あまりに真面目過ぎてテキトウに合わせた答案を書けなかった。しかし、当然ながら補習対象となってしまった。

八尋 のぞみ(やひろ のぞみ)

ソプラノ。2年F組。聖歌隊部長。

片山 和夫(かたやま かずお)

キリスト教担当教員。教師歴の浅い若手教員。

安達 清治(あだち せいじ)

音楽主事。オルガニスト。

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