第11話

文字数 10,545文字

圭介は船内には入らずに甲板から、崇子がいる今は小さくなってしまった港を見詰めていた。青が響子を連れて来てから急いで戻って行ったが、まだなんの連絡もない。何か連絡があったらすぐに知らせてくれると響子が言っていたので待っているのだが、もう随分と長い時間が経った気がしていた。圭介は崇子の事ばかりを考えていた。もしこのまま会えなくなってしまったら自分はどうなってしまうのだろうか、と不安が顔を俯けさせようとする。圭介は不安を振り払うように港を見詰め直した。

「崇子の事が心配ですか?」

 不意に掛けられた声は、耳ではなく頭の中に響いて来た物だった。体が勝手に反応して、圭介は自身の後方に視線を向けた。大きな長い物が闇の中を這って来る。いい加減、その姿にも慣れて来ていたので圭介は長い物が側まで来るのをじっとして待った。長い物は圭介の傍らまで来ると、立ち上がり鎌首をもたげて圭介の顔を見るように先端部分を向けて来た。

「B01さん。どうしたんですか?」

 圭介は口を動かして返事をした。B01の言葉が返って来る。

「私の質問の方が先ですよ。崇子さんの事、心配なのですか?」

 圭介は先ほど掛けられた言葉を思い出した。B01の姿を見たので、返事をするのを忘れていた。

「はい。お母さんだけ残して来ちゃったんです。青さんも行ってくれたけど、僕も戻りたいです」

 B01が触手を出した。ゆっくりだが圭介に向かって近付いて来たので圭介は思わず驚いて一歩後ろにさがってしまう。

「大丈夫です。動かないで」

 圭介が頷いてじっとしていると触手が唇に触れて来た。

「え? ちょっと、何?」

 思わず声を上げ、触手を避けるように体をずらしてしまう。

「大丈夫ですから。ちょっと、圭介君の体の中を見たいのですよ。今から口の中に入りますけど、ほんと、なんでもないですから。そうですね。横になってもらった方がいいですね。ささっ、寝て下さいな」

 圭介はB01の先端部分をじっと見詰めた。元より顔も何もないただのミミズのような姿。どんなに圭介が見詰めてもB01の表情などは分からない。表情からある程度の考えを読む、という人なら誰でも自然とやってしまう仕草なのだが、B01には通用しなかった。どうしていいか分からずに立ち竦んでいる圭介に更にB01が言う。

「圭介君は特別なのですよ。私は知っているのです。今はとある事情でその特別な所が使えないのです。圭介君は青さんみたいに強くなりたくはないのですか?」

 B01の言動が非常に怪しい物であると、人間を始めてから一日の圭介にも理解ができた。圭介はB01の先端部分から視線を外すと口を開いた。

「いや、あの、言っている事が、なんていうか、変です。僕には分からないです。だから、お母さんか三鷹さんに聞いてからじゃないと、ごめんなさい」

 圭介は必死に言葉を作った。これ以上ないという気遣いと拒絶を表したつもりだった。

「おやおや。今は三鷹さんも崇子さんも響子さんもここにはいないのです。あなたが自分の意志でどうにかしなきゃいけない状況なのですよ。考えて御覧なさい。ずっとずっとずうっと皆があなたと一緒にいる事はできませんのです。何時までも誰かがあなたを助けてくれるという事などないのですよ」

 圭介はB01に対して疑念を抱き、不安と恐怖を感じ、後ろに数歩さがった。

「あの、じゃあ、僕は嫌です。えっと、B01さんの言ってる通りにするのが嫌です」

 B01がじりじりと迫って来る。

「そうですか。では、無理やりしちゃいましょう。どうしますか? 皆様は、今、戦ってますよ。自分達に降り掛かる火の粉を払おうとしていらっしゃいます。原因は私ですけど、それは、もうどうしようもない事なのです。私にも意志がありますのです。私の意志を表明した時、皆様は協力すると言ってくれました。そして、その為に始まった闘争に果敢に挑んで行ってくれてますよ。圭介君。今度は暴力ですよ。私は、あなたを襲います。どうしますか? 抵抗してみますか?」

 圭介の体は恐怖で震えだした。がちがちと上下の歯が音をたて始める。

「ど、どうして急に。何をするんですか?」

 B01の先端部分から数え切れないほどの触手が生えて来る。

「先ほども言いました。あなたの体の中を見たいのですよ」

 束になっていた触手が四つに分かれる。圭介の四肢を捉えようと伸びて来る。圭介は走り出そうとしたが、足が竦んで数歩しか進む事ができなかった。

「はい。捕まえました。ではでは、失礼しますよ。お口をあーんと開けて下さいな」

 圭介は奥歯がぎしりと音をたてるほどに口を強く閉ざした。

「だめですよ。口からじゃなきゃ鼻からになってしまいます。痛いのですよ?」

 妙に明るい口調。それが恐怖を更に増幅させる。圭介は鼻先に触れた触手の感触にひっと小さな悲鳴をあげた。

「ほらほら。痛くはないのですから。ちゃっちゃと済ませた方が圭介君も楽でしょう。もう。しょうがないのですね」

 触手が合わさって膜状になった。それが圭介の鼻と口を包むように被さって来た。息ができない、と思った時にはもう遅かった。圭介は手足をばたばたと動かして抵抗したが、徐々に意識が遠退いて行き、そのまま気を失ってしまった。

 気が付けば。圭介はどこだか分からない道の真ん中に立っていた。頭がぼんやりしていてどうしてこうなったのかが思い出せない。圭介は周囲を見回してみた。そこはちょうど分かれ道の分岐点で、目の前には二股に分かれた二本の道があった。右手の道に目をやると崇子と響子と三鷹が楽しそうに圭介の家の居間で話をしている姿がある。左手の方に視線を移すと、青と見た事のない女性が砂浜に座ってこっちを見ている。砂浜はすぐに海へと変わっていて、静かな潮騒の音が聞こえて来ていた。

「どうしますか? どっちに行っても圭介君は圭介君ですよ。あんまり悩む時間もないですのね。ささっ。決めちゃって下さいな」

 B01の声だった。圭介は途端に自分がどうなっていたのかを思い出した。

「これは、何なの? どうしてこんな事をするの?」

 圭介は声を張り上げた。返事を待たずにお母さんと叫んで崇子達のいる方へと足を動かし掛けた。崇子達は圭介の声に気が付いていない。圭介はそんな些細な事で足を止めてしまった。圭介はお母さん助けて、と何度も叫んだ。だが、崇子達は誰一人として圭介の言葉に反応はしなかった。

「なんで聞こえないの? B01さん。これは何?」

 圭介の言葉にB01の言葉が返って来る。

「返事がなければだめ? 相手が反応を示さなければ行けないの? 自分で決めた事ならそれでいいのですよ。私としては少しだけ寂しいですけど、それが今のあなたなのですよ。目が覚めて、自分の変化がすぐに分かります。でも迷う事はないのです。あなたは決めたのですから」

 圭介はB01の言葉を聞いて、砂浜の方を見た。青は何も考えていないような顔をしていたが、見た事のない女性の方は少しだけ寂しそうな顔をしているように見えた。圭介はその女性がB01かも知れない、となぜか思った。圭介は本当に自分が崇子達の所に行っていいのか? と思い崇子達の方を見てからもう一度青と女性の方に視線を向けた。青の表情が怒っているのか笑っているのかどちらか分からない顔になった。ゆっくりと青の左腕が伸びて崇子達がいる方向を指し示した。青の腕の動きにつられて圭介が視線を向けると景色とそこにいた人物が一変していて、港の光景が現れていた。

「お母さん、怪我をしてる……?」

 圭介の視線の先の光景は、青とショウに左右の両側から肩を貸され覚束ない足取りで歩いている崇子の姿になっていた。圭介は反射的に走り出していた。崇子の姿が見えている道の方へと、崇子の身だけを案じて必死に足を動かした。お母さん、大丈夫? と全身から声を出して叫ぶと、目を開けて、崇子達を見ていたはずなのに、また、目を開けた、という不思議な感覚があった。今まで見えていた光景が全て消えて、星の瞬く夜空が視界一杯に広がった。

「そっちに行ってしまいましたか。残念残念。青ちゃんが、いい仕事をしちゃったからですのね。まあまあ、私もそっちの方でいいと思ってますから。さーて。圭介君」

 B01の声が聞こえ、圭介は触手に引っ張られた。何時の間にか寝かされていたらしい体が起こされる。触手の拘束が解かれ、圭介は自分の足で甲板の上に立った。

「何? これ?」

 圭介は自分の体の全感覚と視界から見える自分の体の全部を見てそう声を上げていた。凄まじい勢いで襲って来た記憶の奔流が脳内をごちゃ混ぜにする。一瞬にして駆け抜けて行った記憶の流れが消えると、圭介は、全てを理解した。圭介はB01を見詰めた。B01が照れているのか身をくねくねとくねらせた。巨大なミミズに見えるB01がくねっている姿は酷くグロテスクだが、今の圭介にはそんな風には見えていなかった。

「全部思い出した。圭介君の記憶もあなたと同じ自分の事も」

 圭介の言葉にB01が応じる。

「そうですか。気分はどうなのです?」

 圭介は顔を歪めて笑った。

「どちらかと言えばいいかな。でも、圭介君の記憶を辿ると悲しくなる。崇子さんは、本当に幸せなんだろうか……」

 B01が首を傾げるように先端部分を傾けた。

「崇子さんの事、嫌いですか?」

 圭介は小さく首を左右に振った。

「好きだよ。僕を大切にしてくれるし、ああ、でも僕の記憶を消したのは崇子さんだった。変な機械を付けられたんだ。あのさ、B01。君は考え違いをしてる。僕は望んで記憶を消してもらったんだ。そうすれば僕は圭介君としてだけ、生きられるから」

 B01が先端部分を頷くように動かした。

「そうなのですよ。考え違いではありません。ちゃんと知ってました。それでも、あなたを戻したのは、その先にある物を知らせたかったからなのです」

 圭介は言葉を紡いだ。

「その先にある物?」

 B01が言う。

「圭介君と同化して行くあなたです。あなたは今圭介君の記憶も持っている。それと同時にあなたでもある。その方が崇子さんは幸せじゃないですか?」

 圭介は笑顔になった。

「最初からあなたに相談すればよかったんだね……。確かにこの方がいい。でも、あの時は怖かった。人の中に入る事が。それに青みたいになってしまうんじゃないかって思った」

 B01が言葉を作った。

「あの子は……。あの子には悪い事をしてしまいました。私が怒りに我を忘れた時、あの子がそれを止めてくれたのです。だけど、あの子は一度も私を責めては来ないのです。と言ってもほとんど話もしていないのですけれどね。あの子に会ったら、一度ちゃんと話をしたいです」

 圭介はB01に言葉を返そうとしたが、不意に響子の声が聞こえて来ので言葉を出す機会を失った。

「あ~あ。なんていう結末かしら。ミミズちゃん、あんた、こうなるって分かってたんでしょ。だから、私の言葉に乗ったのね。嫌ねー。私の崇子姉独り占め作戦が台無しだわ」

 圭介が視線を巡らせると何時の間に来たのか甲板の上に響子の姿があった。船の黒色に溶け込むような黒い繋ぎを着ていたが、栗色の髪はそのままだったので、そこだけが妙に浮いて見えた。

「響ちゃん。久し振り。全く響ちゃんは変わらないな。いや、前より露骨になった? ちゃんと覚えてるんだよ。駐車場の事とか」

 響子がにやーといやらしく笑った。

「その名前の呼び方。懐かしいわね。でも。あなたは圭介じゃない。あなたに圭介と同じように私の名前を呼んで欲しくないわ」

 つんっと響子が顔を横に向ける。圭介は小さく溜息をついた。

「ごめんね。圭介君の体、僕が使ってるから。響子さんって呼ぶなら許してくれる?」

 響子が前髪をかき上げた。ずんずんと圭介に向かって近付いて来ると圭介の額にでこぴんを決めた。

「いっ」

 でこぴんを食らって圭介が小さく呻く。響子が口を開いた。

「そこでそう言うか~。そもそも呼び方云々の問題じゃないわ。そこはあなたが圭介の中にいるのがって意味でしょ。まあ、崇子姉が望んでやった事だと思えば許すも許さないもないけど。それに元々あんたの事なんて私はなんとも思ってないし。別にどうでもいい事なのよ、ほんとはね」

 B01の触手が響子の右手に触れた。

「素直じゃないですよ。響ちゃん。私、先ほど圭介君の記憶を見てしまったのです。言葉にするのが憚られるような事、二人でしてた仲じゃないですか。きゃっ。恥ずかしい」

 この声は圭介の脳内にも届いていた。

「ああ。思い出せるよ。そういえば、二人で屋敷の屋根裏部屋にこもって変な事したよね。あれって」

 響子がきぃーっと奇声を上げた。

「やめ。やめい。なんかすんごく恥ずかしい事を言われてる気がするわ」

 響子が不意に言葉を切った。圭介の顔を見詰めて来る。真面目な顔になった響子の顔を圭介もじっと見詰めた。懐かしい、と圭介は思ってしまった。

「ふん。どうでもいい事で、変になってしまったわ。あんたはこれから死ぬまで圭介として生きるのよね?」

 圭介はうん、と言って頷いた。響子がにこりと微笑んだ。

「いいわ。あんたは圭介。それ以上でもそれ以下でもない。崇子姉を泣かせるような事絶対にしないでね」

 圭介は笑顔で頷いた。響子がびくんと体を振るわせた。

「あんたさ、やばいくらいに崇子姉に似て来たわね。ちょっと私とこっちに来なさいよ」

 響子が強引に腕をとろうとして来る。圭介は、素早くそれをかわした。自分の身のこなしに驚いてしまう。

「凄い。僕ってこんな風に動けるんだ」

 B01の声が響く。

「そうですよ。それが本来のあなたです。青ちゃんくらいには動けますよ」

 そうなんだ、と圭介が思いつつ自分の体を見ていると地獄の釜の中から響いて来るような迫力のある声が聞こえて来る。

「け~い~す~け~。何を避けているのかしら? あんた、しばらく会わなかったからって昔の関係が変わったとか思ってないわよねぇ?」

 圭介は心臓がどくんと大きく脈を打つのを感じた。蛇に睨まれた蛙よろしく、体が硬直してしまう。

「いっ、き、きょ、響ちゃん?」

 圭介の脳裏を響子に蹂躙されていた日々の記憶が走馬灯のように駆け抜けた。

「思い出したわね。うひうひ。ほんっとに崇子姉に似てるのねー。うひひ。あ~。しょうがないな~。一緒にお風呂でも入っか~」

 変な笑い声を入れつつ歌うように言いながらがしっと響子が腕を掴んで来た。圭介は先ほどのようにかわす事ができなかった。

「い、いや、響ちゃん。お互いもう子供じゃないから」

 響子が腕をぐいんと引っ張る。

「そうね。いえ、むしろ、だからね。あんた、性転換手術に興味ない? え? ある? そうよね~」

 響子が船内に入る入り口目指して歩き出す。なぜか、いや、幼い頃にそう調教されてしまっていた圭介はぐいぐいと引かれながらも抵抗ができない。圭介はB01に助けを求めたが、B01は、仲良くていいですね、などとのんきな返事をよこして来る。いよいよ、船内に、となった時、入り口の扉が開いて黒スーツの男が出て来た。

「響子お嬢様。崇子さんから連絡です。青さんとショウザスナイパーという名の男と一緒にボートで、こちらに向かっているとの事です」

 響子が腕の拘束を解き、ぱんっと両手を打ち鳴らした。

「イヤァー! イエスイエス! さっすが崇子姉。ちゃんと生きていたのね。どのくらいで到着するの?」

 黒スーツの男が腕時計を見た。

「こちらの船足もあります。三十分くらいでしょうか」

 響子が黒スーツの男に噛み付いた。噛み付いたとは、突っ掛かるように振舞った訳ではなく、読んで字の如し、右肩の部分に飛び掛って噛み付いていた。

「ふにゃろはみゃなにゃい」

 普段からこのような行動を見ているのであろう黒スーツの男が諦観した顔をして口を動かした。

「響子お嬢様。何を言っているのか分かりません。申し訳ありませんが、お口を離して下さい」

 響子が黒スーツから離れる。何もなかったような自然な様子で平然と言う。

「船を止めなさい。ここで待ちます」

 黒スーツの男がはい、と返事をした。響子が満足そうに頷く。

「よろしい。周囲の監視はちゃんとね」

 言い終えると行っていいという事を示すように手を振って黒スーツに退出を促す。黒スーツが、では、と行って船の中に戻って行く。圭介はじりじりと響子から距離を取り始める。この隙を見逃さない手はないと思った。一緒に中に入ったら何をされるか分かった物ではないのだ。

「圭介。どこに行くの?」

 船の入り口の方に顔を向けたまま響子が言う。響子の背中が、あんた逃げたら分かってるわね、と語っているように見えた。

「え? ああ。B01が一人になっちゃうから。僕も一緒にいてあげようと思って。ほら、久し振りの再会だし」

 響子がぐりんっと体を勢いよく回して振り向いて来た。

「素敵な言い訳だこと。そんな物で逃げられると思ってるのかしらね」

 ふふふと響子が笑う。

「お笑い種だわ。あんた、まだちゃんと全部を思い出してないのね。甘過ぎる、大甘過ぎるわ。ミラクルベリーを食べた後のような甘さだわ」

 圭介がミラクルベリー? と首を傾げたが、響子は構わずに言葉を続けた。

「どうしてくれようかしら。どうせなら崇子姉には絶対にできない事をやってみたいわね。崇子姉似の顔が痛みと快楽の狭間で切なく歪む顔とか、うひひひひ」

 圭介は背筋にぞくりと悪寒を感じた。響子は、うひひひと笑いつつ表情をころころと変えながら妄想世界の住人になっていた。圭介はここを逃したらだめだ、と瞬時に判断すると一目散に駆け出した。圭介がかなりの距離を稼いでから、響子の絶叫が聞こえて来た。

「圭介~!! どこさ行った~」

 圭介は船の先端に行くと砲塔の上に隠れた。はっはっはっはっ、と獲物追跡中の野獣のような呼吸音とすたすたすたすたという軽快な足音が近付いて来る。圭介が身を硬くしてじっとしていると周囲を賑わせていた呼吸音と足音は徐々に遠ざかって行った。圭介は伏せながら周囲に目を配る。近くに響子の姿がないと確認すると砲塔の上に座った。安堵の息をつきながら空を見上げる。それから、海に視線を落とす。星空とは違って光一つない海の光景は、まるで黒い大きな穴のように見えた。一人でぽつんとして海を見ていると、不安が胸の奥から染み出るように広がって来た。圭介は、自分が全てを知ってしまっていると崇子が知ったらどう思うか、と考え始めていた。自分は崇子の事が好きだが、もちろん、これは圭介の記憶の影響が大部分なのだろうが、圭介の体に入ると決めた時、あの時の崇子の悲しそうな様子を思うと、自分、B01と同族である自分も決して崇子の事が嫌いではないのだ、と思う。圭介は深い溜息をついた。これからどうすればいいのか。崇子に会ったら、どういう態度をとればいいのか。圭介は立ち上がった。視線を空に向ける。暗闇の支配する海とは違って、決して多くはないが、明るい星が瞬いていた。

「すぐに話そう。それで、崇子さん、いや、お母さんがどうしたいかを聞こう。それで、僕がどうするかを決める。そうだよ。それでいいんだ」

 圭介は砲塔から飛び降りようとした。少し晴れた気分になっていたのがよくなかった。すっかりと自分の身に迫っていた脅威を忘れていた。圭介の視界の隅で黒い何かが動いた気がした。はっと思った時には既に遅し。闇に紛れていた響子がぬっと姿を現した。

「そんな所にいたとは盲点だった。でも、やっぱり甘いわね。カルピス原液直飲みくらい甘いわ」

 圭介は高鬼の逃げる側の子供のような気持になって砲塔の中心に移動した。

「逃がさないー。うひひひひー」

 響子が瞳を爛々と輝かせて砲塔をよじ登ろうとして来る。曲面で作られている砲塔なので少しも登れずに響子はずるずると滑り落ちる。そんな事しなくても、裏側に手摺が取り付けられているのだが、いくらお人よしの圭介でも襲って来る獣に世話を焼く事はできなかった。

「響子お嬢様~。どこです~? 崇子さんのボートがつきますよ~」

 三鷹の声が聞こえて来た。圭介は響子の耳がまるで犬か猫のように指向性を持って動くのを見た気がした。

「おっしゃー。三鷹!! でかした!」

 響子が猛ダッシュで走り去って行く。圭介は胸を撫でおろし、深く呼吸をしてから響子の後を追った。船尾に行くと崇子が船の上に登って来る所だった。圭介は三鷹、響子が崇子を出迎える中、一番後ろに立ってその様子を見詰めていた。崇子が甲板の上に立つと、続いて青とショウが船の上に姿を見せる。崇子は抱き付いてくる響子の頭を撫でながら三鷹の掛けて来る言葉に答えていた。崇子の視線が何かを探すように動いていた。圭介は自分の姿を探していると感じたが、崇子の側に走って行く事ができなかった。

「行かなくていいのですか? 崇子さん、探してますよ」

 B01の声が聞こえて来た。その声に答えようとしたが、その前に崇子が自分の姿に気付いてしまった。

「圭介。会いたかった」

 三鷹にも響子にも向けられない声と表情。自分だけに向けられている絶対的な信頼と親愛。圭介は心と体が温かくなるのを感じた。

「お母さん」

 圭介はそう言ってからゆっくりと足を出した。一歩二歩と崇子の側に近付いて行く。三鷹が道を開けるように少し脇にどいてくれる。響子が何かを含んでいるような笑みを見せたが、何もせずに道を開けてくれた。崇子が歩み寄って来る。圭介は崇子から漂って来る血の匂いを嗅いだ。

「お母さん、怪我してる?」

 崇子が少し驚いた顔になった。

「ちょっとだけよ。もう平気。青が治療してくれたの」

 崇子が間近まで来る。圭介の顔をじっと見詰めて来る。圭介は崇子の顔を下から見上げながら口を動かした。

「お母さん。無事でよかった。ありがとう。B01の為に。それで、あの、話が」

 圭介の言葉はそこで止められた。崇子が全身を包むように抱き締めて来た。

「圭介」

 圭介は崇子の温もりに包まれながら、心まで溶けてしまいそうな幸福感に包まれながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「お母さん。ごめんなさい。僕、記憶を取り戻したんだ。だから、僕は……」

 涙が溢れ出た。途中からは言葉にならない。崇子の反応、もしも拒絶するような仕草をされたら、と考えただけで圭介は何もできなくなった。崇子の体がびくっと反応した。ゆっくりと崇子が圭介から身を離す。圭介の顔をじっと見詰めて来る。圭介は怖くて崇子の顔を見る事ができなかった。泣きながら顔を俯けた。

「圭介。記憶って、どういう事?」

 圭介は話そうとしたが、言葉が出て来なかった。

「記憶は記憶だ。全てを取り戻した、という事だよ。私達は、使っている体の持ち主の記憶を知ってしまう。脳死していても記憶は残っているからな。私達は体の持ち主の人格の影響を受けるんだ。悪い事じゃない。むしろいい事だ。過去の圭介もちゃんといるという事だからな」

 青の声だった。崇子がもう一度強く抱き締めて来た。

「青。知っていたのか?」

 青の声が応じる。

「さあな。だが、望むと望まざるとに関わらずいずれそうなるのでは、とは思っていた。B01もいるし、そこのお嬢様もいるからな」

 圭介は、額に何か液体が触れるのを感じた。顔を上げると崇子が泣いていた。

「謝るのはお母さんの方だ。圭介、ごめんね。それに、B02。ごめんなさい。あなた達には辛い思いをさせてしまった」

 圭介は触れれば壊れてしまうような繊細なガラス細工を触るような心地でそっと崇子を抱き締め返した。

「お母さん。そんな事言わないで。僕は本当の圭介君じゃないけど、それでもお母さんの事、お母さんだと思ってる。そう、思いたいんだ」

 崇子が消え入るような声でありがとう、と呟いた。

「おーう。なんて感動的な瞬間なんだ。ここまで崇子さんを連れて来た甲斐があった。なあ、青。この感動を二人で分かち合おう。さあ、君も私の胸に飛び込んで来てくれ」 

 どんな光景が展開されたのかは見えなかったが、すぐにぐへ、オーマイガー、というショウの悲鳴が聞こえて来た。それからどのくらいの時間崇子と抱き締め合っていたのだろうか。

「崇子姉。そろそろ中に入ろう」

 響子の声がして崇子がそっと体を離した。

「圭介。ごめんね。お母さんはもう少し働いて来る」

 圭介はうん、と笑顔で頷いた。崇子達が船内に入って行く。圭介は一緒には行かず、少し離れた所にいたB01の側に行った。

「僕は拒絶されなかったよ」

 B01の先端がこくこくと頷くように動いた。

「そうですね。でも、そんな事は分かりきっていた事なのですよ。崇子さんはあなたを蘇らせる時に全ての覚悟をしていたのですよ」

 圭介は空を見上げながら言葉を出した。

「お母さんって凄いよね。強いし優しいし。だけど、僕は何もできない。お母さんに迷惑を掛けてばっかりだ」

 B01の触手が、優しく圭介の頭を撫でた。

「いいじゃないですか。きっと崇子さんはそういう事も幸せに感じているのですよ。それにあなたはちゃんと成長してますよ。ささ、私達も船の中に入りましょう」

 圭介はうん、と頷いて先を行き始めたB01に続いた。

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