第1話

文字数 1,991文字

 カンカンカンと鐘が鳴る。残り1周の合図だ。自ずとペースは上がり、集団がばらける。これで前を走るのはあと2人だ。
 バックストレートで一気にピッチを上げ、先頭に立つ。残り200mでさらにスピードアップし、後続を突き放した。コーナーの出口でチラリと振り返ると、既に十分な差がついていた。
「スエちゃん、ファイト!」
 観客席からチームメイトが声援を送る中、ホームストレートを駆け抜ける。そして人差し指を突き上げ、ゴール!
 その瞬間、右脇から黄色のユニフォームが飛び込んだ。

 橋北(すえ)は中学で陸上競技を始め、中長距離走を主戦場に県の同世代では常に上位争いをしてきた。高校は陸上の強豪校に進学し、1年生としては早々に主力メンバー入りに名乗りを上げた。しかし、レギュラー獲得を賭けた大会で2位に終わってしまった。外側から追いかける選手に気づかず、ゴール目前で差されたのだった。
(あとで顧問に怒られるだろうな)
 膝に手をつき陶は考えた。
(でも今日は油断していただけ。後ろにいることが分かっていれば最後に引き離せたはず)
 呼吸を整え、顔を上げてあたりを見回したが、勝者は既に姿を消していた。まるで仕事を終えた殺し屋だ。

 彼女にはすぐに再会できた。サブトラックでクールダウンのジョグをしていたのだ。
 陶はジョグで追いつき、声を掛けた。
「あなた、名前は?」
「私は水沢。水沢茶々」
 殺し屋というより英国のスパイみたいな自己紹介はともかく、中学では聞いたことの無い名前だった。
「高校で陸上始めたの?」
「うん。今まで短距離だったけど、先生に勧められて今日が初センゴ」
 陸上では往々にしてあるとは知っていても、高校から陸上を始めた人、しかも今日初めて1500mに出場した人に負けたのは陶にとってショックだった。
「次もセンゴ走るの?」
「うん、次はU-17」
 水沢の言うU-17とは17歳未満の県大会のことだ。上級生は出場できないので、陶にとっては水沢との再戦、そしてリベンジのチャンスだ。
「あたしも出る!」
 陶が前のめり気味に言うと、
「じゃあ、がんばろうね」
 と水沢は笑顔で手を差し出した。陶は面食らいつつも笑顔で手を握り返した。次は絶対に勝つ、と心に誓いながら。

「橋北。お前、早生まれだったな」
 U-17のエントリーを前に顧問が話しかけた。
「学年じゃなくて12月末の年齢が基準になるんだよ。橋北は早生まれで15歳だからU-16に出てもらうぞ。センゴは無いから1000mで」

 大会当日、陶は1000mのスタート地点である第3コーナーに待機していた。陶以外はほとんど中学生だが、レース前からキャーキャーと猿のようにうるさくてうんざりしていた。
「続いての種目はU-17女子1500m」
 会場アナウンスの後に選手が次々とトラックに現れた。スタート地点が第2コーナーなので、陶からはバックストレートの向こうに眺めることになる。横一列に並んだ選手の中で、黄色いユニフォームの水沢がキョロキョロと周りを見回していた。陶のことを探しているのだろうか。

「オン・ユア・マークス」の声で選手がスタートに着くと、観客席は静寂に包まれた。この一瞬の静けさは見ている側の陶の心すらヒリヒリさせた。
 雷管の乾いた爆発音と共に、選手は一斉に走りだした。観客は自校の選手に向けて大声で応援を始める。陶はスタンドの陰に隠れてレースを見守った。
 走者はバックストレートで集団を形成し、陶の目の前を通過した。水沢は後方に位置しつつも余裕はありそうだった。
 先頭は大集団のまま1周目を通過した。ラップが読み上げられるが、あまり速くない。集団には県トップの選手もいる。必ずどこかでペースアップがあるはずだ。
 だが、レースは動くことのないまま、2周目を通過した。水沢も集団での位置を変えることなくレースを進めていた。
 第4コーナーあたりで選手が一人飛び出した。スパートだ。他の選手が反応してペースを上げると、集団は縦長になった。ペースアップに遅れた選手の一人がつんのめったかに見えた瞬間、集団が一気に崩れ落ちた。転倒だ。観客席から悲鳴が上がる。陶は身を乗り出した。
 先頭走者が第1コーナーを通過すると、鐘の音がけたたましく鳴り響いた。転倒を免れた選手、復帰した選手が次々と追走し、縦一線に並んだ。その最後尾が水沢だったが、枝先の枯れ葉のように今にも離れ落ちそうだ。
 先頭は2位集団との差をさらに広げて陶の前を通過した。この選手なら優勝は堅いだろう。
 バックストレートを走る水沢は2位集団から離れず食らいついていたが、表情は苦しそうだ。だが、陶には分かる。陶を差し切った水沢のラストスパートなら、この集団のどの選手にも競り勝てる。あなたはこんなもんじゃないでしょ、と。
 陶はグランドに立ち、目いっぱい声を張り上げた。
「水沢さぁん!ファイト!ラスト、ファイトォ!」
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