第2話

文字数 6,036文字

4

 最初は少し躊躇いながら向かった図書室だったが、徐々に慣れていき、気が付けば休み時間の度に図書館に行くようになった。
 休み時間の度に行くから、図書室にいる面々がほとんど変わらないことに気が付くのに、そう時間は掛からなかった。
 いつも居るのは、図書室を管理するおばさん、色々な本を読んでいる男の子、そして僕だった。時には他の生徒が来て、少し騒がしくなることもあるが、この面々だけのときは、カーテンの揺れる音やページを捲る音、鉛筆が白紙の上を走る音などしかせず、独特の心地よい静寂を生み出していた。

 通い始めて一週間くらい経ったころだろうか。いつものように心地よい静寂が包んでいる図書室で本を読んでいると、数人の生徒が騒がしく入ってきた。
「ここではなるべく静かにね~」
 カウンターの向こう側からおばさんの暢気な声が聞こえる。はーい、と元気な声で答えながら、入ってきた子供たちは本棚の奥へ消えていった。
 騒がしいことが特別嫌なわけではなかった。しかし、その騒がしさで、僕に友達がいないことや、孤独を感じていることが浮き彫りにされるから苦手だった。今も、気が付かない間に、本の上を走る目が止まっていた。自分の中にある孤独に目を向けているからだろう。
「騒がしいと集中できない?」
 突然声を掛けられて、体がびくりと震えた。目の前に座りながら本を読んでいた、いつもいる男の子が話し掛けてきて、思わぬ行動に驚く。自分の中の孤独に向けていた目が、対面に座っている男の子に向いた。
「え、うん」
 少ししどろもどろになりながら、なんとか相槌を引きずり出した。そういえば、いつもいると思っていたから注意して見ていなかった彼の顔を、ようやく初めてちゃんと見たことに気が付く。
「僕もあまり得意じゃないんだ」
 多分同じ学年くらいだと思うのだけれど、彼は随分大人びた印象を与える。物静かで、地に足が着いていて、そしてどこか余裕があるように見える。
「最近よく来てるよね」
「うん」
「本好きなの?」
「好きだよ」
「僕も本を読むのが好きなんだ」
 そうして彼は、
「四年三組の圭太っていうんだ」
 と名乗った。釣られて僕も
「四年一組の智也っていうんだ」
 と自己紹介する。
「智也君っていつも小説読んでるよね」
「変かな?」
「いや、珍しいだけで変じゃないよ」
 彼は笑って答える。色白で、少し髪が長い。世間一般が思い浮かべる、本好きの小学生の典型的な見た目だろう。
「よかった」
 思わず口から出た言葉に自分で驚いた。変であることを怖がっている自分を、改めてハッキリと認識する。
「圭太君はどんな本を読んでるの?」
 僕の質問に、彼はさっきまで読んでいた本の表紙を見せる。そこには、鳥の写真と共に、「野鳥の生態」というタイトルが付けられている。
「動物が好きなんだ」
 そういって彼は、他にも幾つかの本をランドセルから取り出して、僕に紹介してくれた。そのどれもが動物に関するもので、彼の動物好きが嘘ではないことが分かる。
「鳥が一番好きなの?」
 僕の質問に、彼はん~と唸って少し考え込む。
「どの動物も好きなんだけど、一番は猫が好きだね」
 彼は机の上に広げた本の中から一冊の本を選んだ。「小学生でもマンガで分かる!猫の生態!」という文字と共に、可愛らしいイラストが載っていた。そういえば、随分大人びた印象だから忘れていたが、圭太君も小学生なのだった。
「どうして猫が好きなの?」
「彼らは自由でしょ?」
 僕の質問に、彼は一瞬声のトーンを落とした答えた。自分でも気づいたのだろうか、途端に元のテンションに合わせて、猫の写真やイラストを見せてくれる。虫を追って飛んでいる猫、猫じゃらしで遊んでいる猫、どこかのベンチの上でふてぶてしく寝ている猫などが、写真やイラストで載っている。
 彼が見せる写真が皆野良猫なのと、彼がさっき言った、自由という言葉。その二つに関係はあるのだろうか。聞きたかったが、なぜかまだ触れてはいけないところなのではないかと思って、尋ねるのはやめた。
 気が付くと、さっきまでの騒がしい子供たちは消えていて、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。

5

 それから彼とは、図書室で会う度に話をするようになった。何故かは分からないが、彼と話をしていると、学校の中で浮いているとかそういうことがどうでもよくなる。それにお互い本好きということもあり、お互い親近感を抱いた僕らは、必然的に仲良くなった。
「今日放課後、公園に遊びにいかない?」
 彼と仲良くなり始めてから少し経った頃、そんな誘いを受け、とても驚いた。いくら仲良くなったとはいえ、僕らの友人という関係は、いまだ図書室から外に出したことがなかったからだ。
「最近、可愛い猫を見つけたんだ。公園にいつも居るんだ」
 正直僕は、彼の誘いを受けるか少し戸惑っていた。いや、そもそも誰かからの誘いを受けるということに対して、知らぬ間に抵抗感が生まれていたのだ。学校の中で浮いていると気づいてから、誰かと遊ぶことが途端に怖くなっていた。
 一瞬、違和感のないように圭太君の顔を見る。すると、彼の顔にもどこか不安の色が浮かんでいるのが分かった。
 多分彼は僕と一緒なんだ。彼の表情を見た瞬間に気づく。だから、僕らはこうして図書室にいるのだから。
「いいよ!下駄箱で集合ね!」
 彼が僕と一緒だと分かった瞬間に、僕は了承の返事をしていた。戸惑いも何もない即答だった。

 いつもであれば退屈な授業が、その日は楽しく過ごすことが出来た。放課後に誰かと遊ぶという約束のあることが、これほどまでに嬉しいものとは思っていなかった。
 僕は、帰りのホームルームが終わるのをウキウキとしながら待っていた。先生の話や他の生徒を聞き流しながら、ランドセルに入れる荷物を纏める。いつもであれば、だらだらと準備するとこだが、今日は違った。
 ホームルームが終わると、僕は教室から、初夏の風と一緒に飛び出した。優しい風に背中を押されるような気がした。
「行こうか!」
 圭太君はもう既に下駄箱で待っていて、僕を見つけた瞬間に少しだけ笑顔になる。その笑顔を見て、僕はようやくお互いのことを信じられる友達に出会えたような気がした。
 校舎の玄関を二人で出ると、夏の足音が聞こえる。まだ本格的には暑くならないだろうが、もうすぐそこに夏が居るんだということが分かる。
「最近はいつも放課後、公園に行ってミミと遊んでるんだ」
 門から出て、住宅街の中を一直線に伸びる道を歩きながら、圭太君はそんな話をした。
「ミミって?」
「公園にいる猫のこと。耳だけが黒くて人懐っこくて、可愛いよ」
「どうやって見つけたの?」
「放課後いつも公園を通るんだけど、そこでたまたま見つけたんだ」
 僕に聞きたかったことがあったのだろう、圭太君はそういえば、と話の流れを変えた。
「智也君はなんで小説が好きなの?」
 少しだけ頭を悩ませる。具体的に好きな理由は思い浮かばなかった。ただ、好きなものは好きなのだから。
「ん~、お母さんが仕事に関わってるからかな?」
「智也君のお母さん、小説書いてるの?」
 圭太君は驚いたのだろう。彼の純粋な瞳が、周りの光を吸い込むように見開かれている。
「書いてるのかな?あまり詳しくは知らないんだ」
 いいな~お母さんがそういう仕事してるのって、と彼は宙を見ながら呟いた。
「逆に圭太君の親はどういう仕事してるの?」
 尋ねると、圭太君は少し困った顔をした。
「ん~、あまりよく分からないんだよね~」
 しまった、と気が付いたときにはもう遅い。彼の搾り出した誤魔化しが、少しだけ空気を重くする。
もしかしたら、彼にも秘密にしたいことがあるのだろう。
「あ、もう着いた」
 少しの沈黙が漂ったが、気が付いたときにはもう目的の公園に辿り着いていた。少しだけ傾いてきた日が、公園の緑を照らしている。
 公園に入って五分ほど歩いて、遊歩道から伸びた狭い小道に僕らは入っていく。緑が生い茂っていて、少しだけ涼しくなったように感じた。そこの小道では、空から降ってくる太陽の光が若い緑色に染められる。
「ここのベンチの上にいつもいるんだ」
 ほら、と彼は指を差した。その先には、もう既に暑さに疲れたのか、猫がだらーんと体を伸ばして寝転がっている。圭太君の言うとおり、耳だけが黒色で、胴体の白色とのアンバランスさが目立つ。
 僕たちの歩みは、自然とその猫、ミミを驚かせないように、静かになっていく。正面から近づいているから気が付いてるはずなのだけれど、全く警戒することなく、尻尾をパタパタと揺らしている。
「ミミ~、今日も来たよ~」
 圭太君はいつもの大人びた口調に少しだけ暖かな優しさを込めてミミを呼ぶ。さっきまで目を閉じていたミミは呼ばれたことに気づいて、目を薄く開いた。が、すぐに再びまぶたを下ろした。
 それを見て圭太君はにこりと笑うと、ベンチの前にしゃがんだ。そして手を一度ミミの前に近づけてから、頭や体を撫でる。少しすると、ぐるぐる、ごろごろと、猫特有の喉を鳴らす音が聞こえた。
「智也君も撫でてみなよ」
 僕もベンチの前にしゃがむと、彼に習って、一度ミミの前に手を差し出す。くんくんと匂いを嗅ぐと、興味なさげに再び頭をもたげた。
 差し出した手をそのままミミの頭や体に持っていき撫でていく。ふわふわとした毛が、指の間を通り抜けていく。気が付くとぐるぐる、ごろごろと、喉を鳴らす音が手に伝わってきた。
「あったかいね」
 ふとついて出た感想に、圭太君は少し笑った。
「生きてるからね」
 その返しを聞いて、少し可笑しいなと思って僕も笑った。

6

 それから僕らは、放課後決まって公園に行ってミミと会うようになった。時には居ないこともあったが、ほとんどの場合、ミミはいつもベンチの上で寝転がっていた。
 最初はベンチの前にしゃがみながらミミを撫でて、二人で今日あったことを話していたが、気が付いたらミミを間に挟んで、ベンチの上に座るようになった。小道の正面には公園の池があって、ベンチに座って見ると、生い茂った緑がフレームのように囲って、自然に写真のように池が写る。その光景もまた、僕にとっては段々と愛おしいものになっていった。
 そしてそれと同時に、圭太君と仲良くなり、彼の性格がなんとなく分かるようになっていた。
 彼は大人びているが、一方で子供の持つ純粋さも確かに持ち合わせていた。だからこそだろう、学校で浮いてしまっているのは。もし本当に大人のような心なのであれば、きっと子供だらけの場所で馴染めなくても気にしないだろう。しかし圭太君はまだ小学生で、馴染めないことを気にするくらいには純粋だった。
 それに気づいてから、明らかに彼との間にあった壁が取り払われたが、一方で、彼のことを“学校に馴染めない異端児”として捉え、今までに比べて見下してしまっている心もある。見下しても、僕と同じ線上にいるのだけれど。
 他人を見下すことで仲良くなることが出来た、ということに、僕は少しだけ罪悪感を感じていた。

 圭太君と仲良くなってから、僕は退屈で暇を潰すことがなくなった。中休みや昼休みになると、すぐに教室を出て図書室へ向かう習慣が出来ていた。
 彼とはどんな話をしていても楽しかった。今日の授業の話、読んだ本の話、昨日見たテレビの話。
 しかし一方で、これだけ仲良く話せているのも、僕が彼のことを心のどこかで見下し始めているからなのでは、という不安感と罪悪感も徐々に大きくなっていた。その黒い感情は、始めこそ僕だけが持っているものだと思っていた。だが良くないことに、相手もそういった感情を持っているのではないか、僕のことを見下しているのではないかと、そう思うようになっていたのだ。
 彼と話すのが楽しい一方で、関係を深めるにつれて彼のことを信用できなくなっていくというジレンマに、僕は段々と苦しめられるようになった。
 更にもう一つ良くない変化が生まれていた。それは、僕と圭太君との関係が、他の人から見てどう写っているのかという疑問だった。
 彼のことを“見下す”、あるいは僕と同類と捉えることで成り立つ関係性は、いってしまえば傷の舐めあい、あるいは孤独の埋めあいとしか思われないのではないか。そういった、負の見られ方をしているのではないかと、段々と思い込むようになっていた。
 当然、誰かにそんなことを言われたわけではない。しかし、徐々にその疑惑は僕の中で大きくなっていくのであった。
「最近、圭太君と仲良いのね」
 そんな二つの負の感情に囚われつつあったある日、図書室のおばさんに僕は声を掛けられた。相変わらずファイルや本を抱え廊下を歩いているふくよかな彼女は、僕に太陽のような笑顔を向けてくる。
「なんか私嬉しいな、二人が仲良くなったの」
 歩きながら、ふと彼女はそんなことを言った。心に少しだけ痛みが走る。
 そんな僕に気づいてるのかは分からないが、彼女はそのまま話を続ける。
「圭太君、最近明るくなったのよ。前に比べてよく笑うようになったし」
「ずっと前から来てるの?」
「二年生の頃からかな。いつも本読んでて、それはそれで楽しそうだったけど、ちょっと寂しそうだったな」
 僕にまだ何人も友達がいて、クラスでも中心としていられたとき、彼はもう既に一人だったのだ。そう分かると、また見下してしまっているような気がして、再び罪悪感に苛まれる。
「智也君は本読むのが好きなんだね」
 僕の持っている小説を見て、彼女はそう笑う。最近は図書室にあるものよりも、自分で家から持ってきた本を読むことが多かった。
「うん、あまり内容は分かってないけどね」
 自虐的に言うと、彼女はふわりと笑う。廊下の窓から入ってきた風が、彼女の肩に掛かるくらいの長さの髪を揺らした。
「いいのよ、自分が楽しければ」
 そう笑いながら彼女は言った。
 多分何でもない一言で、他の人にとっては他愛の無いものかもしれない。だけれど、僕にとってはとても重要で、まさに衝撃的な言葉だった。
 世間から外れてはいけない、普通でなければならないと思い込んでいた僕にとって、自分が楽しければ良いという、ある意味身勝手な考え方は、当たり前でありながらも新鮮なものだったのだ。
「そっか」
 しかし残念なことに、僕にはまだ、それを言い表せるほどの言葉のストックは無かった。だから、僕の口から出てきたのは随分と淡白な相槌だけでしかない。しかし、心の奥底には、自分が楽しければ良いという、言われてみれば至極当然な、しかし、忘れていた事柄が、深く根付いたのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み