第21話 月影の舞台から落下
文字数 19,662文字
もうすぐフェアリッテの誕生日たる春の蝶が花と共に舞う日を迎える。しかし、今年は休日と被らなかったこともあり、ブルーメンブラット邸でパーティーを開くことはなく、のんびりとすごす予定らしい。
「……というのは建前で、」フィデリオが言う。「君に気を遣ったんだろう。どうせパーティーを開いても、誘っても、君は来れないから」
「そう」
「そう、じゃないだろう。フェアリッテも君もある程度は対話できたみたいだし、俺が下手に口出しするのもおかしな話だけど……本当はフェアリッテだって君にも祝ってほしかったはずだよ。早くけじめとやらをつけたらどうなの?」
「うるさいわね、いま考えてるわよ」
「いま考えるべきは課題のことなんだけど」
「はあ? 貴方が言いだしたんでしょ」
「提出と発表も近いのに、君がフェアリッテのことに気を取られて集中を乱しているようだから、すっきりするかと思って振ってあげただけさ」
「ああ言えばこう言う。フィデリオ、貴方、乳母に似てきたわね」
授業のない休日。私とフィデリオはいつものように、図書館三階の奥、天鵞絨 のカーテンに仕切られたテーブルにて、学期末試験の対策に勤しんでいた。平日と比べると図書館に来る人は少ないものの、試験前ということで同じように課題に取り組む生徒はちらほら見かける。春の経営学の課題もいよいよ大詰めで、“隣接する他の領地との諍いとして想定される問題とその解決策”は最終調整に入っていた。
私とフィデリオは向かい合わせになって座り、羊皮紙や著書や資料を広げ、睨めっこをしている。どうせ誰も見てはいないのだからとテーブルの下で足を組んだ私は、頬杖をついて羽根ペンを回した。最初は「行儀が悪い」と窘めたフィデリオも、休日で気が抜けているのか、背を丸め始めた。無意識のうちに足まで組んじゃって。ふん、と鼻で笑った私に、フィデリオは首を傾げた。
「続きだけど。漁業問題の解決にかける出費については、クシェルの助言もあって、俺のほうでも一から組み立て直したはずだよ。ここの目算どおり、五年目の冬の光の月を耐えれば、あとは利益のみ。マイナスを回収して逃げ切れる」
「四年目の時点で屋敷内の薪が足りないのよ。なるべく行き渡らせるために一年を通して節約しているのだけれど、まず五年目の冬の彩の月を乗り越えられないわ。その大きな原因は、夏の草の月に木を切るだけの人手が足りないから。夏は蓄えのために動けるように、事業に割く人員を減らすべきよ」
「薪割りくらい君がしたら?」
「いいわね。間違って貴方の頭までかち割ってしまおうかしら」
伯爵夫人になんてことをさせるの、という剣呑を視線に乗せる。お互いに課題に書けないようなことを提案するようになっては終わりだ。完全に集中が切れた。全部フィデリオのせい。
私が羽根ペンをテーブルに置くと、フィデリオは「休憩がてら話を戻す」と呟いた。
「それで、フェアリッテへのプレゼントはどうする?」
「…………」
「一人で送るのが気まずいなら、俺と連名にしてあげてもいいけど」
「…………」
「嘘だろう、君、自分の都合の悪いときに言葉を重ねて誤魔化すのが通じなくなったからって、だんまりを決めこもうって? 子供じゃないんだから」
「貴方と連名なんて嫌。貴方がフェアリッテに送ろうとしている髪飾り、よく似たものを彼女はすでに持っているんだもの」
「買う前に聞けてよかったけど、そういう情報は早く言ってくれない?」フィデリオは目を眇める。「俺だって、従姉妹の好みは知っていても、手持ちまでは完璧には把握してないんだからさ。そういうのは女の子同士のほうが詳しいだろう」
「それなら言うわ。貴方が髪飾りと悩んでいた香水だけれど、ラストノートにシダーウッドを含んでいたでしょう。シダーウッドは令嬢のあいだでは時代遅れの香りなんて言われているから、いくら男性からの人気が高いからって、やめておいたほうがいいわよ」
フィデリオは苛立ったように顔を顰めて「後出ししやがって……」とこぼした。私が舌を出してやると「行儀が悪い」とさらに眉を顰められる。
「貴方ってセンスは悪くないけどなんにもわかってない。令嬢にとって、装身具は一番お金をかけるべき品目よ。自分好みの品はとうに自分で揃えているわ。普段は選ばないもので自分にふさわしい品を贈られるほうが嬉しいのよ」
そういう意味では、去年の私の誕生日にフィデリオの贈ったブローチは、悪くなかった。ブローチに使われていた真珠と螺鈿は、西海岸では馴染み深いけれど、薔薇を模 ったものは私の手持ちにはほとんどないので、新鮮で真新しく思えた。繊細な金の葉をあしらっていたのも優美で、あのとき着ていたドレスにマッチしたことを不思議に思ったけれど、よくよく考えてみればなんてことはない、フィデリオは私の手持ちのドレスを考慮したうえで、あの贈り物を吟味したのだ。
「それに、フェアリッテはたぶん、たった一つの素敵なものと同じくらい、お揃いも好きよ。貴方の使っているものと同じハンカチをあげるだけでも喜ぶと思うわ」
経験上、フェアリッテは、容姿や能力を褒められるよりも、同じものを好きだと言ったときのほうが喜ぶのだ。襟の刺繍、デビュタントのドレス、それに、フレーゲルベア……なにかを共有することに意味を見出すのがフェアリッテだ。
「この歳にもなって、従兄弟が従姉妹に自分と同じハンカチを贈るのは、どうなんだろう。しかも、その従姉妹は王太子妃候補ときてる」でも、とフィデリオは小さく微笑んだ。「そうか、なら、君の髪を結わえているリボンの色違いなんかでもいいかもしれないね。学校にいるときも身につけられるだろう」
「それは私が嫌よ」私はフィデリオを睨みつける。「たとえ色違いだったとしても、同じものを身につけてしまったら、フェアリッテの金髪 と比べられるに決まっているもの」
「君の亜麻色の髪だって上品だと思うけど」
「それはジギタリウスにも言われたわ。私の髪は、イーリエンから伝わる白茶のようなのですって」
ジギタリウスの名前を出すと、フィデリオの微笑みは翳りを見せた。私が彼と関わるのを快く思っていないのだ。ボースハイトと手を組むことになったと言ったときからそれは顕著になっている。私が靡くとでも思っているのなら杞憂そのものなので、いちいち反応しないでほしい。
気を取り直したふうに、フィデリオは「とにかく、」と言った。
「フェアリッテへの贈り物は彼女の持っていないようなもので考えるとして……君の誕生日も近いだろう」
春の蝶が花と共に舞う日から七日後の、春の蝶が海を渡る日が、私の誕生日だ。フェアリッテの誕生日が近づくということは、私の誕生日も近づいているということだ。
去年はいろんな思惑こそあったものの、アウフムッシェル領の湖の畔に人を集め、ささやかなパーティーを開いたのだ。しかし、今年はそういう催しを開くつもりはないので、フィデリオに気にかけてもらう必要もない。
私は「それがどうしたの?」と尋ね返す。
「俺から君へのプレゼントだけど、渡せるのは少し後になると思う……もしかしたら、渡せないかもしれない」
「は?」私は首を傾げた。「好きにしたら」
フィデリオが気重に言うのが不思議だった。まるで私の機嫌を損ねてしまうのを恐れているかのようだった。
たしかに、
思い返すと、私ってなんて幼稚なのかしら。それだけ満たされていなかったということなのだが、ふと我に返ると愚かしさに鳥肌が立つ。救いようがないと言った、いつかのフィデリオの気持ちも、わかるというものだ。
なので、フィデリオがそのような態度を取る必要は皆無だ。どうぞお好きに、と私が返したのも、彼からの贈り物に興味がないからだった。私の好みも理解しているだろう彼のセンスは嫌いではないけれど、絶対に欲しいかと訊かれたらそうでもない。いっそ、どうでもいい。私だって彼の誕生日には贈り物をするけれど、それは惰性に近かった。辞めてもいいならもちろん辞める。同じ邸ですごしたから、なんとなく贈り合わなくちゃいけない気がしているだけで、成長したいまとなってはなんの気兼ねもいらないのだ。
私は淡々と返したのに、対するフィデリオの面持ちはどんどん深いものになっていく。意味不明だ。目の前の経営学の課題に向かうときよりもよっぽど真剣で深刻な様子。彼が私に言った、「いま考えるべきは課題のこと」という台詞を、彼は覚えているのだろうか。
そうだ。考えなければいけないことは別にある。
発表の近い経営学の課題。対策の追いつかない学年末試験。
完全無欠のディアナ・フォン・ミットライトを、どうやって崩すのか。
王太子妃を決めるために鎬を削る争いは、現状、ミットライトが優勢している。
月のひと・ディアナは、冬の学期末試験では次席だったものの、春の学期末試験では主席に返り咲いている。狩猟祭ではほとんど一人勝ちのような状態だ。学校外でも、神聖院への寄付や祈祷を欠かさず、小さな行事にも参加しており、聖女としての役割も果たしていた。文武両道、徳高望重。その隙のなさは満月さながらだ。
しかし、それはあくまで功績における評価であり、最も王太子妃の座に近いのはブルーメンブラットだとする見方が顕著になってきた。
花のひと・フェアリッテは、成績でこそディアナには及ばない。とはいえ、試験では学年で十位以内には入る才女であり、選択教養の縫術では最優秀評価 を落としたことがない。人当たりもよく、気さくで、誠実だ。そこにいるだけで安らぎの香りと幸福の気配がする。その爛漫に咲き誇る様は、社交界の花と言える。それらはフェアリッテを評価する際に欠かせないものだけれど、しかし、完全無欠のディアナを凌ぐほどの一番の強みは、殿下からの覚えがめでたいことだ。
否、そのような硬い表現は、二人のあいだにある和 らかさには似合わない——政略的な話は脇に置いた、純粋な
国の未来をかけた婚姻となるのだから、選ばれる令嬢にも格別の素養を求められる。しかし、候補者は軒並み優秀で、周囲からの期待も強く寄せられ、社交界でも評判の娘たちだ。いくら聳え立つ功績があろうとも、それは決め手にはならない。
仲睦まじい二人を見れば、形勢は変わっていく。当初はミットライトやボースハイトについていた家も、折を見てブルーメンブラットへと乗り換えることが増えた。フェアリッテへと向かう寵を信じた結果だ。殿下の傾きに後押しをされるように、ブルーメンブラットの勢力が増していく。
雪のひと・ガランサシャも、決して愚かではなかった。ゴシップのなさで圧倒的優勢に立つミットライトを地に落としつける心算でいたけれど、殿下とフェアリッテの仲を警戒しなかったわけではない。そもそもガランサシャは四年生で、王太子妃候補の中では一番と言っていいほど、社交センスと政治センスがある。形勢を見る目も情勢を読む頭脳も持っている。日ごろから攻撃的な発言の目立つ令嬢だが、ただそれだけの人間ではない。クシェルも評価していたように、統率者としての資質 はあった。けれど、社交人としての好意ならまだしも、恋愛感情としての好意を相手に抱かせるのは、計算や手腕では具合が悪かった。校内だけでなく夜会などでも殿下と接触する機会を作ったようだけれど、フェアリッテ以上に心を傾けられることはなかったらしい。ガランサシャは、汚れも穢れもない純真な顔で、「殿下って見る目がないのね」などと厚かましい発言をしていた。
とはいえ、雪月花の争いに決着がついたわけではない。
それぞれが着実に加点を伸ばしてゆく盤上を大きく覆すとしたら、誰かが減点を積むしかない。引きずり降ろされるしかないのだ。
そのために有用なカードを持っているのは、盤上にいるディアナと、盤外にいる私だ。私たちは互いに弱みを握りあっている——ディアナは答案用紙の改竄を、私は前夜祭におけるタピスリの件を、突かれると痛い相手の腹を抱えている。どちらも証明の難しい事実だけれど、最悪、《真実の祝福》さえあれば明るみになるものだ。
しかし、いまのままではだめだ。弱みを握りあい、力関係の拮抗している現状では、膠着状態が続くだけ。となると、まずはディアナの完全無欠の化けの皮を剥がしてやるしかない。聖女だの月のひとだのと祭りあげられていても、どれほど神聖で清廉で全能であっても、ディアナ・フォン・ミットライトは、春の花が蕾から芽吹く日に生まれただけの貴族の娘であり、ただの人だ。運命を束ねる異能もなければ、祝福もない。
「——ごきげんよう、ディアナ」
その日は日差しが清らかで、スカートの裾を揺らす風も涼しかった。春の彩りに染まった中庭の、小さなガゼボの中、静かに本を読んでいるディアナに、私は声をかける。
柱に巻きつく緑と花が、ガゼボに落ちる青磁色の影が、小鳥たちの戯れが、私とディアナを外から隠す。ディアナの虹彩異色症 が瞬きもせずに私を見据えたことは誰も知らないのだ。読んでいた本をそのままに、月の煌めきのような淡い声で、「よい日和ですね、アウフムッシェル嬢」とディアナが返した。
私は許可も取らずに椅子を引く。ディアナの目の前に腰かけて、口を開く。
「今日は信者たちとは一緒じゃないのね」
「神聖院では多くの信奉者と見 えますが、学業に勤しむ時間、彼らがそばにいたことはありません」
「貴女の取り巻きのことよ。運命なんて信じてないくせに、都合のいいことは好きだから、思い出したように祈るだけ。助けてください、聖女さま、って」
「……彼らは私の学友です。そして、敬虔で真摯な方々ですよ。貴女が貴女の神を信じるように、彼らも彼らの神を信じているのです」
「その神が貴女なのだとしたら、彼らにはあるようね、人でなしを見る目が」
「私になにか御用でしょうか?」
多少なりとも警戒しているだろうに、それを微塵も表に出さない。全てを悟っているかのような清々しい笑みで、穏やかに問いかける。ひとによっては、ガゼボの奥から見える日差しさえも後光に見えるだろう。超人的な雰囲気。聖女の風格。
そこへ爪を立てるような気持ちで、私は目の前にいる。
「経営学の課題は順調?」
「ええ。最善は尽くしました」
「そう。楽しみね。無事に先生の手元へ届くといいわね」
私がそう言うと、ディアナは間を置いた。鳥の囀りが空気を切るように響く。
ディアナがタピスリを裂いたときもこんな気持ちだったのかしら。腹が立つのに愉快ね。どうやってずたずたにしてやろうかって企むのには高揚するわ。どのくらい爪を立てれば貴女はその化けの皮を剥がす? 完全無欠を脱ぎ捨てて、みんなに失望されるほど、みっともなく乱れてくれる? 引っ掻いてやるのにちょうどいい場所を探るように、私は会話を続ける。テーブルの上に肘をついて「あら、どうしたの? 聖女さまには冗談も通じない?」とディアナの顔を覗きこんだ。
煽ってみたものの、ディアナの笑顔の仮面は剝がれない。私だってぬるく笑ったまま、わざとらしく首を傾げた。
「……冗談というのは相手を楽しませるものですよ、アウフムッシェル嬢」
「たしかに笑えないものね。課題がどこかへ消えてしまったなんて、貴女の成績に、ひいては王太子妃候補としての立場に関わることだわ」
「脅しでしょうか」
「冗談よ。通じない相手には言っても無駄みたいだけど」私は口元へ手を遣る。「でも、貴女も笑っているところを見るに、本当は楽しんでいるのかしら。もっと面白いことを聞きたい?」
笑顔のディアナを皮肉るように、私はそう言った。ディアナの双眸が研ぎ澄まされていくのがわかった。
「ねえ、これもあくまで冗談なのだけれど、今度は白紙の答案に挿げ変えてやろうかしら。天下の聖女さまも、学年末試験で学年最下位にまで落ちては、さすがに面目が立たないでしょうね」
そこでディアナは表情を変えた。と言っても、優雅な笑みを深くしただけだ。恐ろしいほどに隙のない笑みを浮かべる。冗談には冗談で返すように、彼女は調子を明るくした。
「泥試合というわけですか。貴女も痛い目を見るでしょう。これ以上その名誉に傷をつけてどうするおつもりで?」
「賎民の子、緑の目をした悪女とまで言われた私に、これ以上落ちぶれる底があると思って? 残念だけれど、いつまでも綺麗な顔をしている貴女とは立っている土俵が違うのよ」
貴女だって、そうやって聖女として振舞っていられると思うな。前夜祭の夜に見せた異形をずっと隠していられると思うな。必ず暴き出してあげる。貴女の立っている盤上は、観衆も満員の晴れ舞台になるのよ。
「一人で沈んでゆくのは寂しいから、貴女も泥沼まで落としつけてあげる。ねえ、月のひと。お空の上から引きずり下ろされる気分はいかが?」
ディアナはようやっと笑みを無くす。
聖女と呼ぶには生々しく、人と呼ぶには神々しい、凄絶な無表情。私が爪を立てた隙間から、獰猛な異形が覗いている。琥珀色 と青灰色 の瞳は、影の差すガゼボの中でなによりも爛々と輝く。月虹のような髪が靡く様は、獣が毛を逆立ているのによく似ていた。
それでも、感情を露わにしないのはさすがだった。取り乱すどころか顔を顰めもしないのだ。瞬き一つ取っても、あるいは呼吸の仕方、目線の配りかたさえも、神秘的な品位と底知れぬ無垢を備えている。骨の髄まで聖女だった。ここまで侮辱されても崩れない、堅牢な胆力については、純粋に称賛する。私なら睨みつけながら頬を張るくらいは余裕でしたし、口汚く罵りもするはずだ。
彼女を月のひとと呼ぶのは、手の届かない高嶺の遥か先にいるような雰囲気を臨んだからかもしれない。浮世離れなどとは生温い、隔絶の壁を感じる。それが気位の高さからくるものなのか、はたまた別のものなのか、私にはわかりはしないけれど。
「……なるほど。私がブルーメンブラット嬢になにをしてもよいと、貴女は言うのですね。後夜祭で貴女が彼女を裏切ったのは、嘘というわけでもないのでしょう」
玲瓏な声からは温度が一切感じられなかった。慈悲の象徴であるような娘なのに、そんな彼女からは一片の心も滲まない。私を牽制するように、あるいは先制するように、容赦のない言葉を吐きつけている。
もちろん本当になにかしでかされては困るのだけれど、私は努めて笑みを深めた。
「やっぱり人でなし。貴女の言う敬虔で真摯なお友達にも見せてあげたいわね。きっと幻滅するでしょう、聖女はまやかしだったと」
そう言った私に、ディアナはなんの反応も示さない。なるほど、この口撃は効かないということだ。完全無欠を緩ませないくせに、聖女という肩書きには頓着しないらしい。面倒な女。
少し間をおいて、「頗 る理解できませんね、」とディアナが口を開く。
「貴女は何故そうまでして私の邪魔をなさるのですか? 私を蹴落としたところで、貴女が王太子妃になれるわけでもないでしょうに」
「必死な貴女と違って、王太子妃なんて微塵も興味ないわ。でも、貴女の思い通りに事が進むのは嫌。私、貴女が嫌いなの。これまでなんの不足もなかったかのような超然としたところが大嫌い」
「…………」
「幸せそうなひとが嫌いなのよ。私が《持たざる者》だからかしら。私とは違って素敵なものはなんでも持ってて、あとは捨てるだけのひとを見ると、潰してやりたくなる」私は肘をついた手に顎を乗せ、目を眇める。「そういう貴女は何故そうまでして王太子妃になりたいのかしら」
王太子妃になるのは自分だと宣うものの、ディアナの真意は見えてこない。フェアリッテのような恋心も、ガランサシャのような気心も感じられないのだ。
「何故とは……自ら名を挙げたわけではありませんが、私が選ばれたということは、そういうお導きだったのでしょう。ならば私はその運命を全うするだけです」
「いかにも聖女の言いそうなことね。台本でも読んでるの?」目を逸らさずに。「貴女がどうしてそれを望むのかを聞いているのよ。殿下のことが好き? 王妃のティアラをつけてみたい? それとも本当にミットライトや神聖院に推されただけで、使命を背負ったというだけで、そこまでできるのかしら」
「愛など、財など、地位や名誉など、自己の尊厳に比べれば瑣末なものですよ。貴女の目が晴れるときが来ますように」
他者からの愛も、自分だけのものも、瑕疵のない地位も脅かされない名誉もなかった、なにも持っていなかったわたしからしてみれば、なんと残酷で悪辣な言葉か。あまりに聖 らかで反吐が出る。
けれど、私は信じない。前夜祭の夜のディアナを思えば、いまの空虚などまやかしだ。たしかにノイモンド・フォン・シックザールは、ディアナは操り人形であると言っていたけれど——あ、そんな男もいたわね——たちまち私は口を開く。
「本当に責任感の強い方なのね。シックザール小公爵の言うとおりだわ」
私の言葉に、ディアナは目を丸める。
あまりに小さな挙動なので隙とも言い難いけれど、ディアナの驚いた様子は初めて見た。神聖の一片を落っことしてしまったような、歳相応にあどけない表情。
ディアナとシックザール卿は兄妹同然の関係であり、シックザール卿は私なんかに交渉をするほどディアナを気にかけており、おそらくだがディアナも彼に信頼を寄せている。だから、その信頼を揺さぶれば、少しは取り乱してくれるかと思ったのだけれど、思惑どおりだった。
少し間を置いてから、ディアナは「どうしてノイモンドが貴女と?」とこぼす。
「神聖院でたまたま会ったのよ。私の生家は定期的に祈祷に出かけるから」
「……何故、彼が貴女と私の話を」
「貴女と幼馴染だからでしょう?」
「それはそうですが……」
口ぶりは冷静だ。声は震えも掠れもなく透き通っている。しかし、普段の彼女からしてみれば、明らかに動揺していた。
ディアナは非常に頭の回る人間で、おまけに取り繕うのも上手だ。全科目で学年主席を維持するための日々の勉学と練習、休日は神聖院で奉仕活動、毎秒続く完全無欠の振る舞いなど、並大抵の労力では決して成し得ない。それらの膨大な事柄を冷静に処理できるために、彼女の人ならざる貫禄は醸し出される。
けれど、処理すべき情報があまりに多いとなると、そう簡単には捌ききれない。
たとえどれだけ崇高でも、所詮は彼女も人の子だから。
経営学の発表、学期末試験、邪魔な私に、不穏な疑惑——これだけ舌戦を仕掛けても、引き出せるのは困惑の一つのみとは、まったく骨が折れる。
でも、貴女が襤褸を出さないなら、襤褸が出るまで私は追いつめるだけ。
「あら、もうこんな時間」私はわざとらしく手を合わせる。「そろそろ失礼するわ。楽しい時間をありがとう」
春麗の空気に毒をばら撒くだけばら撒いて、私は席を立つ。そのあいだもずっとディアナの視線は感じていた。
私への忌々しさがいずれ綻びになることを願って。
「経営学の発表、お互いがんばりましょうね。それでは、よいお導きを」
経営学の課題発表の日は、叢雲を焦がす春雷が轟き、いつ雨が降るともしれぬ暗い空気で満ちていた。
私とフィデリオの発表は序盤も序盤、生徒全員が互いの出かたを探るような雰囲気の中でおこなわれた。今回の課題である“隣接する他の領地との諍いとして想定される問題とその解決策”は、領土の統治を令息が、家の内政を令嬢が担当する。塩害の対策に時間を費やすフィデリオを、私が必死にフォローする、という内容での計算になっている。数字上の穴はなく、家計はやや厳しくなるものの不可能ではない程度の圧迫の末、帳尻には文句のつけようのない利益が発生している。
二人一組で考えればまとまっているものの、まだ改善の余地はあるとして、経営学の教師は、フィデリオに最優秀評価 を、私に優秀評価 をつけた。改善すべきは私のほうというわけだ。私が鼻を鳴らしそうになったのを、フィデリオは咳払いの音で誤魔化した。
それから何組かの発表が終わり、私たちと同じように評価され、そして、ベルトラント殿下の発表となる。
その立場上、ベルトラント殿下に与えられた課題は、普通の令息のそれとは違っていて、“隣接する他の領地との諍い”ではなく“隣接する他国との諍い”となっている。そして、そのペアとして組んだ令嬢は、王太子妃候補として名を挙げている、フェアリッテとディアナの両名だ。
ただの学校の課題に、わざわざ時の人のうちの二名を殿下と組ませたことには、もちろん目論見があるのだろう。殿下は、フェアリッテとディアナの一人ずつと課題に取り組み、それぞれの才覚や能力、知識、観点を以て、課題の解決策を導きだしていく。こんなの実質の政策声明みたいなものだ。発表された内容で、どちらがより王太子妃にふさわしいかを判断する。他の令息令嬢たちの発表よりもよっぽど重みがある。経営学の課題ではあるものの、最優秀評価 を取ることだけが目的ではない。
殿下、そして、フェアリッテとディアナが、教室の前に立つ。さきほどまでとは明らかに違う、糸をぴんと張ったような空気が漂っていた。経営学の教師も硬い面持ちになる。殿下は青い瞳で皆を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「僕の想定した最悪の諍いは、もちろん、国家戦争です」
誰もが予測していたような妥当な題材だった。我が国リーベはいくつかの国と近隣しており、長年親交を続けている国もあれば、時代によっては戦争をしていた国もある。そんななかでも特に戦事や外交において緊張感を保ってきた国が、南の国境を隔てるラムール、西の海を隔てた帝国、東の国境を隔てるフィリアだ。
具合のいいことに、その三つの国は、ちょうどブルーメンブラットとミットライトの領土に関わりがあった。南のラムールは、いまでこそ改善は修復されつつあるものの、過去数百年のうちに二度も戦争をしている。当時のブルーメンブラットはその最前線だった。また、東のフィリアは、地中海を隔てながらも一部の国境線に面した国で、大陸東西交易路 を通してミットライトと交流を続けてきた。物流だけでなく、信仰の輸入と輸出、それにおける信仰の摩擦など、複雑な問題が絡み合っている。
つまり、隣接する他国との諍いの解決策として鍵を握るのは、ブルーメンブラット、ミットライトの振る舞いかたなのだ。その問題を直接的に対処できる立場の者として、実現可能な解決策を提示することは、未来の君主の伴侶として、大勢からの信頼を得るということ。
フェアリッテは当然、対ラムールの解決策を考えてきただろうし、一方のディアナは、対フィリアの解決策を考えてきたはずだ。残る対帝国の解決策は宙に浮いた状態だが、西海岸領主 と繋がりのあるブルーメンブラットがやや優勢といったところか。
私は情報を整理しながら、発表に耳を傾ける。
「まず、ラムールとの関係ですが、皆さんもご存知のとおり、かつて刃を交えたものの、現在は落ち着いています」殿下は淀みなく告げる。「それは、防戦に努めたうえで両国の被害を最小限に抑えたこと、また、その後の円滑な国家交流に力を入れたことが挙げられます。ここ五十年は特に良好で、安定はしていますが、この先もそれが続くとは限りません。ラムール産の製品がリーベでは多く出回っており、特に文具雑貨や芸術分野については市場の三割を占めていて、これは自国産の四割という数字に迫るものです。他にも多種の原材や食料を輸入しており、万が一、その全てを失うとなると、リーベへの大きな打撃となります」
「そのためには、現在の交流体制では不十分です」後を引き継ぐように、フェアリッテが口を開く。「辺境ブルーメンブラットでは、長きに渡り、ラムールの貴族たちとも交流を持ってきました。遥々ラムールへ出向くことも、こちらが迎えることもあります。ラムールとリーベは文化が異なります。相手を理解し、こちらも理解してもらう……相互理解を深めることは、戦争の根を潰すことになります。そうして日頃から最善の策を打ち、それでも戦争になってしまう場合も、もちろんあるでしょう。かつての戦争では、ブルーメンブラットが総力を上げて国境を守りました。当時と比べれば、リーベもラムールも、武器や兵士の質、技術は上がっています。ブルーメンブラットが兵士の三割を持ち、残りの七割をリーベ全土から募る形で計算いたしました」
フェアリッテは、外交による未然策、万が一が起きたときの次善策を用意していた。他者への敬愛と尊重を大事にしているブルーメンブラットらしい内容だ。
実際、ブルーメンブラットは、国境線を隔てたラムールの貴族であるジャルダン家と交流を続けていて、そのジャルダン家を通し、ラムール王家とも間接的な繋がりを持っている。辺境の貴族ならではの動きであり、他の貴族にはなかなかできないことだった。
また、ブルーメンブラットにはかつて防戦をしたノウハウがあり、抱える騎士団も精鋭ばかりだ。王太子妃あるいは王妃となったフェアリッテならばブルーメンブラットの騎士たちを摩擦なく動かすことができる。
フェアリッテは現実的な解決策を提示すると同時に、リーベにとって利点となる事実を再確認させたのだ。
一通りフェアリッテが話したのち、経営学の教師が「よろしい」と頷く。
「講評は、ミットライト嬢との解決策含めて、全体でおこなうとしましょう」
「はい」ディアナが涼しげに微笑んで答える。「さて……ラムールと同じように国境を隔てる国の一つに、東のフィリアがあります。運命 を唯一神とするリーベやラムールと違い、フィリアは多神教です。万物の一つ一つにそれらを司る神がいて、人間のように性別もあります。リーベでは物語として嗜まれている文化ですが、フィリアでは信仰としての文化です。ブルーメンブラット嬢のおっしゃるように相互理解すべき問題ですね。信じるものは違えど、私たちは同じ人間ですから」
フェアリッテは穏やかに頷く。政敵を相手に気安く振る舞えるのはフェアリッテの美点だけれど、この場合はディアナが上手かった。内心ではどのように企んでいようと、ディアナは清廉で慈愛のある聖女の姿を取る。たとえばガランサシャのように、相手を侮辱したり皮肉ることはありえない。相手を認めて否定をせず、ただ穏やかにそこにある。自然や宇宙のように、人格を持たないのだ。概念としての聖女。
「しかし、大陸東西交易路 を通る国であるため、リーベはフィリアを介して世界中の物品を買い取ります。匙加減はフィリアの意思一つ。行商人をリーベまで通さないことも、特定の品をリーベへ渡さないことも、如何様 にもできます。事実、イーリエンの翡翠、アトフの美術工芸は、リーベまで届くことのほうが珍しいでしょう。そのような運命になることは悲劇ではありますが……フィリアとの火種はその事情が焦点になると、考えております」
「フィリアの軍事力はリーベには劣ります。けれど、僕たちは、物資の補給を断たれるという経済制裁を覚悟すべきでしょう」殿下がしかと告げる。「リーベが取るべき行動は、それに耐えうる自国生産の強化、また、フィリア以外の国々との連携だと考えます」
「大牧場を抱えるマイヤー領やアインホルン領には資金と人材を回し、供給力を高めます。兵士を募ることも重要ですが、武力の有利を逆に利用した無血での終戦を目指すことが狙いです。フィリアとの国境付近にいる民には各地の神聖院まで一時避難していただくことになるかと。また、ミットライトはシックザールと共に、他国の神聖院へも援助を行っておりますし、現地まで赴くこともあります。親交のあるリーベの危機を無下にはなさらないでしょう」いえ、とディアナが首を振る。「そのようなことを、運命 がお許しにはなりません」
ディアナは、国民を労わるよう内需と投資に重きを置いた対応、神聖院の繋がりを利用した救済措置を提示した。それに聖女という肩書きが説得力を持たせている。大して固執もしていないくせに、この女は自分の持つ性質を、よく理解している。
「講評についてですが、」殿下が手を挙げて言う。「先生さえよければ、ここにいる皆の意見も聞きたいと思っています」そして、私たちのほうを見遣った。「これはあくまで経営学の課題で、机上の空論で、実際には起こっていない出来事だ……けれど、それが現実に起こったとき、決断するのは未来の僕かもしれない。そして、その僕のそばにはきっと、未来の君たちがいる。君たちと議論したいと、僕は思うよ」
経営学の教師がかすかに微笑んで頷く。そして、教室を見回して、「未来の当主とその夫人に関わりのある議題です。皆さんで考えてみましょう」と声をかけた。
生徒は一様に顔を見合わせた。しかし、表情をほぐしてから、しかと手を挙げて発言する生徒が増えてくる。先陣を切ったのはアーノルドだった。
「僕は、ブルーメンブラット嬢の言う、徴兵の配分が気になりました。全体の三割もブルーメンブラットが負担するというのは荷が重いのではないかな?」
「もちろん、ギュンター家や、他の騎士団からの協力が得られれば、それ以上はありません」フェアリッテは答える。「しかし、ブルーメンブラット家は防衛の要たる自負と力があります。私が提示した数字にはなんの問題もありませんわ」
「前線へ行く兵士たちへの兵糧も大事になってくるな」と口を開いたのはアルヴィム・マイヤー卿だった。「僕はマイヤーの末弟だから、口を出せることは限られてくるけれど……そのような事態になったときは、当主たるお兄様も、自領の地代の値上げや、収穫した作物の上納を決断するだろうね」
「そうなると、領民の生活が苦しくなるわ」マイヤーに苦言を呈したのは、課題でペアをしていたグラーツだ。「それは何度も話し合って
「でも、それは、戦争のない背景が前提になる。柔軟に対応すべきだよ」
「そういうこともあって、ミットライト嬢の、マイヤーに援助をするという話に繋がるんじゃないかしら」ヴォルケンシュタインが顎に手を当てる。「どこにお金をかけるべきかということだと、私はラムールとの交渉費も気になります。現状はたしか、ブルーメンブラットが自費でおこなっているのではなくて? ジャルダン家を軸とした貴族間交流とはいえ、立派な国家交流でしょう? たとえば、王都の舞踏会場 や迎賓館を利用してもいいと思うの」
意見の交換は伝播し、令息令嬢は口々に議論を交わす。発表をした殿下へ質問し、その応答に対して、さらに話を展開させていく。現実的な会議の様相を呈しているものの、雰囲気は和やかだ。
その輪から離れた目で見てわかった。殿下の狙いはこれだったのね。
王太子妃をかけた争いのおかげで、経営学の課題は実質の政策声明の色を見せていた。最優秀評価 を取ることだけが目的ではなくなり、どちらがより王太子妃にふさわしいかを判断する材料になってしまう。その事態を防ぐために、殿下は生徒たちを巻きこみ、“経営学の課題”に戻してしまったのだ。どうせ課題を提出した時点で、教師は口に出さずとも、すでに生徒への評価をつけている。講評が有耶無耶になったところでどうなることもない。二人の王太子妃候補を白昼堂々と競わせるくらいなら、社交の場にしてしまおうと考えたわけだ。
殿下はフェアリッテと同じで、場を和やかにする手腕に長けている。経営学の課題発表は、特に荒れることもなく終わりそうだ。
私はちらりとディアナを見遣る——目が合ったような気がした。
ディアナはどこを見ているかわからない眼差しをしている。過去と未来を見据える目を持つだのと言われているけれど、そんなことはなくて、ただその視線に重力がないだけだ。空虚で感情が乗っていない。視線をくれたということは、私を警戒しているということだろうけれど。
そりゃあ、あれだけ警戒心を煽ったんだものね。私としては、緊張のあまりに発表の途中で言葉を噛んでしまうくらいは期待していたのに。あれだけプレッシャーを与えても事もなげに終わらせてしまうなんて、本当に人間じゃないみたい。
その顔をじっと見つめて、はたと気づく。
月のように青白い顔。
ディアナは色白の部類だ。今日の天気は悪いし、日差しがないせいで、誰しもが影を落としている。けれど、今日のディアナは異常だ。人間じゃないみたいに、死人みたいに、土気た顔で立っている。
誰も気にしていないみたいだから、私の気のせいかとも思ったけれど、見れば見るほど彼女は真っ青だった。目元には薄 っすらと隈も現れている。神経を摺 り減らしたような、窶 れた姿。完全無欠の、隙があった。
「しかし、ブルーメンブラット嬢の示した策には、穴があると思います」
そこで、やや棘のある声で響いた意見が、私の耳朶を打つ。
議論が白熱していたらしい。どの令息令嬢も真面目な顔をして言い合っている。殿下が発言のしやすい空気を作ったことが悪いほうに転じていた。先の発言をしたのは、ミットライト派閥の令息であるカミル・エルマン卿だ。
「特に開戦時の予算の組み立てが甘い。ミットライト嬢は過去の歴史を鑑みたうえで、実際の戦術も組み立てているぞ」
「相手がどうでるかなんてわかりっこないんだ、所詮は学生である俺たちの考えだろう。型に嵌める必要なんてない。それを言うなら、ミットライト嬢の、神聖院を利用する策だって、俺は疑問だな」
「利用だなんて!」
「弱きを助けるのは当然のことよ。戦時ならば現実的な選択だわ」
「シックザールがミットライト嬢を支持しているからといって、そこまでしてくれる謂 れはないんじゃない?」
「そもそもの認識のずれがありますね。神聖院とミットライト嬢は切っても切れない関係ですよ。運命 の御心があるのだから」
いよいよフェアリッテとディアナの名前が議論に上がるようになってきた。こうなってしまえば、もう止まらない。
「それに引き換え、ブルーメンブラット嬢は」
「なにが言いたいんだ」
「有事の際にはブルーメンブラットの騎士が出るとのことでしたが、それは不可能でしょう? 王妃ブルーメンブラット嬢が辺境伯領主と同じ権限を持てるとは思えません」エルマンは皮肉るように言葉を続ける。「そもそも、ブルーメンブラット嬢が他家の子息と婚姻を結ばなければ、ブルーメンブラットには後継がいないのですよ。ブルーメンブラット嬢が王妃になった時点で、現当主の辺境伯の代でブルーメンブラットは潰えると、まず想定が立つのではないですか?」
支持をする家の令嬢に倣う——ボースハイト派閥の貴族の態度が一様に攻撃的であるように、ブルーメンブラット派閥の貴族の態度も一様に大らかだ。時の人の立ち振る舞いを尊重する。そのため、何事にも静観し、冷静であるディアナを支持するミットライト派閥の貴族たちは、基本的には静かな気質だ。
しかし、議論が白熱しすぎてしまった。ブルーメンブラットの優勢により焦っていた。気が立つだけの環境が整ってしまっていた。
はじめに「なんですって!?」と声を荒げたのはヴォルケンシュタインだった。これ以上はよくないと、経営学の教師が「やめなさい」と叱声を上げる。ディアナも聖女として見過ごせなかったようで、舵を取るためにすかさず「エルマン卿、」と口を開いた。
「貴族の婚姻という、家の事情にまつわる話を持ち出すのは無粋というものですよ」
「そもそも、ブルーメンブラット嬢がそうだと言うなら、男児のいるボースハイト家以外は後継問題を抱えることになるだろう!」
「後継についてはその家が考えることであり、他家が口を出していいものではないわ」
エルマンを責める空気になったとき、ディアナが再び告げる。
「エルマン卿が、この国の未来を真剣に考えたことも、可能性の話をしたことも理解しています。ブルーメンブラットを思う心だってあったことでしょう。しかし、伝えかたを考えるべきでしたね」慈悲深く微笑んで、ディアナは続ける。「これはあくまで経営学の課題です。一度冷静になりましょう」
息をつくような間。空気の弛緩するような瞬き。遠雷の響く静けさがあった。
けれど、その最中 で、組むようにして整えていた手をギュッと握りしめるフェアリッテがいた。熱風のような議論にも、皮肉るような意見にも、毅然として淑に対処していたというのに、フェアリッテは、たったいま許しがたいものを見たという顔で、その唇を震わせていた。
「ええ、経営学の課題ですもの」
フェアリッテがこぼれるように言う。静寂に落とされた声を辿るように、みんながフェアリッテへと視線を遣る。それを堂々と迎え討った、花咲く瞳はまっすぐだった。
「貴重なご意見と思います。ミットライト嬢の言うとおり、私たちを慮る心があったのならありがたいことですね。けれど、僭越ながら、申し上げます」
フェアリッテは花のひとだ。雪のように冷たくも、月のように導きもしない。いつも華やかに咲いている。強 かな萼 に凛とした茎を持って、一輪、まっすぐに。
「プリマヴィーラがいます。彼女も父の娘ですもの。ブルーメンブラットが後継に困ることはありません。それなのに、何故、そんな話をなさるの?」
エルマン卿が息を呑み、腰を引く。彼だけではない、熱を上げていた者は皆、水を打たれたような顔をした。
私は私で、突然名前を出されたことに困惑していた。たしかに、たしかに世間では、私はブルーメンブラットの私生児で、アウフムッシェルの姓を名乗っていてもフェアリッテとは腹違いの姉妹で、けれど、事実はそうでないことを、私もフェアリッテも理解している。だからこそ、私は先の話題が出たとき、私自身が侮辱されたとは微塵も感じなかった。
あれは侮辱だった。
フェアリッテではなく、私を侮辱していた——プリマヴィーラ・アウフムッシェルはブルーメンブラットの娘ではないと、婉曲的に侮辱していた。怒るべき、ことだったのだ。
しかし、エルマンにその意図があったわけではないのだろう。フェアリッテに指摘された彼は慌てて口を開く。
「いえ、その、プリマヴィーラ嬢はアウフムッシェルの姓を名乗られているので、ブルーメンブラットの後継にまつわる問題には関係がないものと思っていました」
「たしかにアウフムッシェルを名乗ってはいますが、後継問題に関しては血が全てであり、名を変えたところで無意味だと、わからないわけではないでしょう? 当主の座をかけて争った結果、その血族の全員が死んでしまった悲劇は、この歴史上に数多く存在しますもの」
「それは……そうですが……」
エルマンに私を蔑ろにする意図があったわけではない。まず、侮辱しようとしたのであれば、私ではなくフェアリッテだ。政敵の令嬢を彼は口撃した。
けれど、そこに思想が滲む。
エルマンは無意識下に私を侮っていた。完璧な娘であるフェアリッテの瑕疵を見つけられず、精々私を槍玉に上げるしかなかったのかもしれない。もしくは、フェアリッテを手酷く裏切った私を責める意図があったのかもしれない。はたまた、声にはせずとも、入学してからなにかとゴシップの多い私を、心の中で蔑んでいたのかもしれない。フェアリッテは、自分への口撃の中で、そういった彼の意識を悟ってしまったのだ。
フェアリッテが柔く唇を噛むのを見たエルマンは「す、すみません」と告げる。
そこを突くようにもう一人の声が上がる。
「謝るのは……プリマヴィーラ嬢に対してではないのですか」
カトリナだった。
それがあまりに意外で、私は目を瞠る。
この状況で声を上げるならブルーメンブラット派閥の者であるはずだ。しかし、同じミットライト派閥の人間から叱責が飛んできたということで、エルマンは困惑してしまった。目を白黒させて、どこか落ち着かない様子のカトリナを見つめている。
ふと、カトリナが私を見遣る。
そこには、ありとあらゆる感情があるような気がした。口にはし難い、なにかに喩 えようとしてもどれもふさわしくない、私がこれまでに見たことのない感情。エルマンではなく彼女のほうが、私にその言葉を言ったような気がした。
フェアリッテがその一連の様子を眺めたあと、ディアナに向き直った。
「ミットライト嬢のことは尊敬しております」フェアリッテはまっすぐに告げる。「この場を収めてくださってありがとうございました。けれど、貴族の礼節を説くことと……私やエルマン卿を気遣ってくださることと同じように、彼女のことも考えていただきたかったわ」
——そこには、思想が滲むのだ。
いつものディアナなら、絶対にない失態だった。ディアナは非常に頭の回る人間で、おまけに取り繕うのも上手だ。清廉で慈愛のある聖女の姿を取る。自然や宇宙のように、人格を持たず、ただただ神聖で慈悲深い。けれど、所詮は彼女も人の子だから、処理すべきことが重なると、捌ききれない。
欠けのない満月が、隙のない才媛が、完全無欠の聖女が、やっと、襤褸を出した。
罅 が入ったのはディアナなのに、フェアリッテが傷ついたような顔をするから、それでもディアナは隙のない笑みを湛えているから、この場は異様な空気に包まれる。
「……あの、」
と、そこで、おずおずと手が上がる。
パトリツィアだった。
フェアリッテや、ディアナや、他の大勢の視線を受けて、パトリツィアの上がる手の指先は、どんどん力をなくしていく。緩く結われたくすんだ涅色髪 がふわりと毛立ったのは、湿気のせいではなく、恐縮してしまったせいだろう。
口を開いて、逡巡、パトリツィアは意を決したように、フェアリッテに尋ねる。
「フェアリッテ嬢は、プリマヴィーラ嬢のことを、いまでも姉妹だと思ってらっしゃるのですね」
パトリツィアは、私の本当の出自も、去年の春の出来事も、その真相と結末も知らない。尋ねた文字どおりの意味で姉妹と思っているかどうかを聞いたわけではない。ただ、後夜祭の裏切りがあっても、健気に縋りつくのを私にあしらわれたとしても、関係なく私を庇う発言をしたフェアリッテに、そのように問うただけだ。
経営学の議題にはなんの関係もない話で、最早、議論や意見でさえない。ただ、聞かずにはいられなかったという純粋な疑問。
フェアリッテはぱちくりと目を瞬かせてから、「ふふっ」と笑った。花のように。
「私たち、生まれてはじめて姉妹喧嘩をしているのよ」
「えっ?」
「笑っちゃうくらいに下手でしょう? やったことがないから、仲直りの方法も手探りだけど、それだけよ。私たちは、いつも、想っているわ」
——その後、経営学の教師による講評を終え、授業は終了となった。
ディアナはすぐに、その場にいた全員の前で、私やフェアリッテに謝罪をした。賢いやりかただ。下手に白を切るよりも、素直に謝ってしまったほうが、悪感情は抱かれない。異様な空気も霧散していた。けれど、誰も口にはせずとも、理解していたはずだ。フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットの正当性を。ディアナ・フォン・ミットライトの不当性を。
「ミットライト嬢」
教室から生徒が出てゆくなかで、フィデリオがディアナに声をかけた。
先刻のこともあり、その声を聞きつけた者は、一触即発の空気を感じ取る。
数多の視線に見守られながら、ディアナは「なんでしょう」とフィデリオへ答える。蒼褪めた顔のまま静かに微笑む。フィデリオは蜂蜜色の瞳を一度瞬かせ、息をついてからしかと告げる。
「学年末試験の成績で勝負をしませんか?」
視界の端で、ギュンターが唖然とする。フェアリッテは瞠目し、カトリナとパトリツィアがその身を強張らせた。ヴォルケンシュタインがはっと息を呑み、口元を両手で押さえたのも見えた。私も足を止めてしまった。この男、なにを言っているんだ?
ディアナも不思議そうに首を傾げる。派閥争いが始まってからずっと学年主席の座を競ってきた二人だが、フィデリオがここまで直接的に勝負を仕掛けたことはない。そうやって目立つことすら嫌いなはずだ。しかし、ディアナを見据えるフィデリオは真剣だった。その顔をつい先日も見たのを、私は思い出す。
「俺が勝ったら、返してほしいものがある」
「……というのは建前で、」フィデリオが言う。「君に気を遣ったんだろう。どうせパーティーを開いても、誘っても、君は来れないから」
「そう」
「そう、じゃないだろう。フェアリッテも君もある程度は対話できたみたいだし、俺が下手に口出しするのもおかしな話だけど……本当はフェアリッテだって君にも祝ってほしかったはずだよ。早くけじめとやらをつけたらどうなの?」
「うるさいわね、いま考えてるわよ」
「いま考えるべきは課題のことなんだけど」
「はあ? 貴方が言いだしたんでしょ」
「提出と発表も近いのに、君がフェアリッテのことに気を取られて集中を乱しているようだから、すっきりするかと思って振ってあげただけさ」
「ああ言えばこう言う。フィデリオ、貴方、乳母に似てきたわね」
授業のない休日。私とフィデリオはいつものように、図書館三階の奥、
私とフィデリオは向かい合わせになって座り、羊皮紙や著書や資料を広げ、睨めっこをしている。どうせ誰も見てはいないのだからとテーブルの下で足を組んだ私は、頬杖をついて羽根ペンを回した。最初は「行儀が悪い」と窘めたフィデリオも、休日で気が抜けているのか、背を丸め始めた。無意識のうちに足まで組んじゃって。ふん、と鼻で笑った私に、フィデリオは首を傾げた。
「続きだけど。漁業問題の解決にかける出費については、クシェルの助言もあって、俺のほうでも一から組み立て直したはずだよ。ここの目算どおり、五年目の冬の光の月を耐えれば、あとは利益のみ。マイナスを回収して逃げ切れる」
「四年目の時点で屋敷内の薪が足りないのよ。なるべく行き渡らせるために一年を通して節約しているのだけれど、まず五年目の冬の彩の月を乗り越えられないわ。その大きな原因は、夏の草の月に木を切るだけの人手が足りないから。夏は蓄えのために動けるように、事業に割く人員を減らすべきよ」
「薪割りくらい君がしたら?」
「いいわね。間違って貴方の頭までかち割ってしまおうかしら」
伯爵夫人になんてことをさせるの、という剣呑を視線に乗せる。お互いに課題に書けないようなことを提案するようになっては終わりだ。完全に集中が切れた。全部フィデリオのせい。
私が羽根ペンをテーブルに置くと、フィデリオは「休憩がてら話を戻す」と呟いた。
「それで、フェアリッテへのプレゼントはどうする?」
「…………」
「一人で送るのが気まずいなら、俺と連名にしてあげてもいいけど」
「…………」
「嘘だろう、君、自分の都合の悪いときに言葉を重ねて誤魔化すのが通じなくなったからって、だんまりを決めこもうって? 子供じゃないんだから」
「貴方と連名なんて嫌。貴方がフェアリッテに送ろうとしている髪飾り、よく似たものを彼女はすでに持っているんだもの」
「買う前に聞けてよかったけど、そういう情報は早く言ってくれない?」フィデリオは目を眇める。「俺だって、従姉妹の好みは知っていても、手持ちまでは完璧には把握してないんだからさ。そういうのは女の子同士のほうが詳しいだろう」
「それなら言うわ。貴方が髪飾りと悩んでいた香水だけれど、ラストノートにシダーウッドを含んでいたでしょう。シダーウッドは令嬢のあいだでは時代遅れの香りなんて言われているから、いくら男性からの人気が高いからって、やめておいたほうがいいわよ」
フィデリオは苛立ったように顔を顰めて「後出ししやがって……」とこぼした。私が舌を出してやると「行儀が悪い」とさらに眉を顰められる。
「貴方ってセンスは悪くないけどなんにもわかってない。令嬢にとって、装身具は一番お金をかけるべき品目よ。自分好みの品はとうに自分で揃えているわ。普段は選ばないもので自分にふさわしい品を贈られるほうが嬉しいのよ」
そういう意味では、去年の私の誕生日にフィデリオの贈ったブローチは、悪くなかった。ブローチに使われていた真珠と螺鈿は、西海岸では馴染み深いけれど、薔薇を
「それに、フェアリッテはたぶん、たった一つの素敵なものと同じくらい、お揃いも好きよ。貴方の使っているものと同じハンカチをあげるだけでも喜ぶと思うわ」
経験上、フェアリッテは、容姿や能力を褒められるよりも、同じものを好きだと言ったときのほうが喜ぶのだ。襟の刺繍、デビュタントのドレス、それに、フレーゲルベア……なにかを共有することに意味を見出すのがフェアリッテだ。
「この歳にもなって、従兄弟が従姉妹に自分と同じハンカチを贈るのは、どうなんだろう。しかも、その従姉妹は王太子妃候補ときてる」でも、とフィデリオは小さく微笑んだ。「そうか、なら、君の髪を結わえているリボンの色違いなんかでもいいかもしれないね。学校にいるときも身につけられるだろう」
「それは私が嫌よ」私はフィデリオを睨みつける。「たとえ色違いだったとしても、同じものを身につけてしまったら、フェアリッテの
「君の亜麻色の髪だって上品だと思うけど」
「それはジギタリウスにも言われたわ。私の髪は、イーリエンから伝わる白茶のようなのですって」
ジギタリウスの名前を出すと、フィデリオの微笑みは翳りを見せた。私が彼と関わるのを快く思っていないのだ。ボースハイトと手を組むことになったと言ったときからそれは顕著になっている。私が靡くとでも思っているのなら杞憂そのものなので、いちいち反応しないでほしい。
気を取り直したふうに、フィデリオは「とにかく、」と言った。
「フェアリッテへの贈り物は彼女の持っていないようなもので考えるとして……君の誕生日も近いだろう」
春の蝶が花と共に舞う日から七日後の、春の蝶が海を渡る日が、私の誕生日だ。フェアリッテの誕生日が近づくということは、私の誕生日も近づいているということだ。
去年はいろんな思惑こそあったものの、アウフムッシェル領の湖の畔に人を集め、ささやかなパーティーを開いたのだ。しかし、今年はそういう催しを開くつもりはないので、フィデリオに気にかけてもらう必要もない。
私は「それがどうしたの?」と尋ね返す。
「俺から君へのプレゼントだけど、渡せるのは少し後になると思う……もしかしたら、渡せないかもしれない」
「は?」私は首を傾げた。「好きにしたら」
フィデリオが気重に言うのが不思議だった。まるで私の機嫌を損ねてしまうのを恐れているかのようだった。
たしかに、
一周目
の私なら不機嫌になったかもしれない。毎年、私の誕生日には、アウフムッシェル夫妻、フィデリオ、乳母から一つずついただいている。方々から祝いの言葉と贈り物の届くフェアリッテと比べて苛立って、だから、自分の取り分
の一つが減ってしまったとあれば、フィデリオに怒鳴りつけるくらいはしただろう。思い返すと、私ってなんて幼稚なのかしら。それだけ満たされていなかったということなのだが、ふと我に返ると愚かしさに鳥肌が立つ。救いようがないと言った、いつかのフィデリオの気持ちも、わかるというものだ。
なので、フィデリオがそのような態度を取る必要は皆無だ。どうぞお好きに、と私が返したのも、彼からの贈り物に興味がないからだった。私の好みも理解しているだろう彼のセンスは嫌いではないけれど、絶対に欲しいかと訊かれたらそうでもない。いっそ、どうでもいい。私だって彼の誕生日には贈り物をするけれど、それは惰性に近かった。辞めてもいいならもちろん辞める。同じ邸ですごしたから、なんとなく贈り合わなくちゃいけない気がしているだけで、成長したいまとなってはなんの気兼ねもいらないのだ。
私は淡々と返したのに、対するフィデリオの面持ちはどんどん深いものになっていく。意味不明だ。目の前の経営学の課題に向かうときよりもよっぽど真剣で深刻な様子。彼が私に言った、「いま考えるべきは課題のこと」という台詞を、彼は覚えているのだろうか。
そうだ。考えなければいけないことは別にある。
発表の近い経営学の課題。対策の追いつかない学年末試験。
完全無欠のディアナ・フォン・ミットライトを、どうやって崩すのか。
王太子妃を決めるために鎬を削る争いは、現状、ミットライトが優勢している。
月のひと・ディアナは、冬の学期末試験では次席だったものの、春の学期末試験では主席に返り咲いている。狩猟祭ではほとんど一人勝ちのような状態だ。学校外でも、神聖院への寄付や祈祷を欠かさず、小さな行事にも参加しており、聖女としての役割も果たしていた。文武両道、徳高望重。その隙のなさは満月さながらだ。
しかし、それはあくまで功績における評価であり、最も王太子妃の座に近いのはブルーメンブラットだとする見方が顕著になってきた。
花のひと・フェアリッテは、成績でこそディアナには及ばない。とはいえ、試験では学年で十位以内には入る才女であり、選択教養の縫術では
否、そのような硬い表現は、二人のあいだにある
心
が、フェアリッテとのあいだに見えるのだ。国の未来をかけた婚姻となるのだから、選ばれる令嬢にも格別の素養を求められる。しかし、候補者は軒並み優秀で、周囲からの期待も強く寄せられ、社交界でも評判の娘たちだ。いくら聳え立つ功績があろうとも、それは決め手にはならない。
仲睦まじい二人を見れば、形勢は変わっていく。当初はミットライトやボースハイトについていた家も、折を見てブルーメンブラットへと乗り換えることが増えた。フェアリッテへと向かう寵を信じた結果だ。殿下の傾きに後押しをされるように、ブルーメンブラットの勢力が増していく。
雪のひと・ガランサシャも、決して愚かではなかった。ゴシップのなさで圧倒的優勢に立つミットライトを地に落としつける心算でいたけれど、殿下とフェアリッテの仲を警戒しなかったわけではない。そもそもガランサシャは四年生で、王太子妃候補の中では一番と言っていいほど、社交センスと政治センスがある。形勢を見る目も情勢を読む頭脳も持っている。日ごろから攻撃的な発言の目立つ令嬢だが、ただそれだけの人間ではない。クシェルも評価していたように、統率者としての
とはいえ、雪月花の争いに決着がついたわけではない。
それぞれが着実に加点を伸ばしてゆく盤上を大きく覆すとしたら、誰かが減点を積むしかない。引きずり降ろされるしかないのだ。
そのために有用なカードを持っているのは、盤上にいるディアナと、盤外にいる私だ。私たちは互いに弱みを握りあっている——ディアナは答案用紙の改竄を、私は前夜祭におけるタピスリの件を、突かれると痛い相手の腹を抱えている。どちらも証明の難しい事実だけれど、最悪、《真実の祝福》さえあれば明るみになるものだ。
しかし、いまのままではだめだ。弱みを握りあい、力関係の拮抗している現状では、膠着状態が続くだけ。となると、まずはディアナの完全無欠の化けの皮を剥がしてやるしかない。聖女だの月のひとだのと祭りあげられていても、どれほど神聖で清廉で全能であっても、ディアナ・フォン・ミットライトは、春の花が蕾から芽吹く日に生まれただけの貴族の娘であり、ただの人だ。運命を束ねる異能もなければ、祝福もない。
「——ごきげんよう、ディアナ」
その日は日差しが清らかで、スカートの裾を揺らす風も涼しかった。春の彩りに染まった中庭の、小さなガゼボの中、静かに本を読んでいるディアナに、私は声をかける。
柱に巻きつく緑と花が、ガゼボに落ちる青磁色の影が、小鳥たちの戯れが、私とディアナを外から隠す。ディアナの
私は許可も取らずに椅子を引く。ディアナの目の前に腰かけて、口を開く。
「今日は信者たちとは一緒じゃないのね」
「神聖院では多くの信奉者と
「貴女の取り巻きのことよ。運命なんて信じてないくせに、都合のいいことは好きだから、思い出したように祈るだけ。助けてください、聖女さま、って」
「……彼らは私の学友です。そして、敬虔で真摯な方々ですよ。貴女が貴女の神を信じるように、彼らも彼らの神を信じているのです」
「その神が貴女なのだとしたら、彼らにはあるようね、人でなしを見る目が」
「私になにか御用でしょうか?」
多少なりとも警戒しているだろうに、それを微塵も表に出さない。全てを悟っているかのような清々しい笑みで、穏やかに問いかける。ひとによっては、ガゼボの奥から見える日差しさえも後光に見えるだろう。超人的な雰囲気。聖女の風格。
そこへ爪を立てるような気持ちで、私は目の前にいる。
「経営学の課題は順調?」
「ええ。最善は尽くしました」
「そう。楽しみね。無事に先生の手元へ届くといいわね」
私がそう言うと、ディアナは間を置いた。鳥の囀りが空気を切るように響く。
ディアナがタピスリを裂いたときもこんな気持ちだったのかしら。腹が立つのに愉快ね。どうやってずたずたにしてやろうかって企むのには高揚するわ。どのくらい爪を立てれば貴女はその化けの皮を剥がす? 完全無欠を脱ぎ捨てて、みんなに失望されるほど、みっともなく乱れてくれる? 引っ掻いてやるのにちょうどいい場所を探るように、私は会話を続ける。テーブルの上に肘をついて「あら、どうしたの? 聖女さまには冗談も通じない?」とディアナの顔を覗きこんだ。
煽ってみたものの、ディアナの笑顔の仮面は剝がれない。私だってぬるく笑ったまま、わざとらしく首を傾げた。
「……冗談というのは相手を楽しませるものですよ、アウフムッシェル嬢」
「たしかに笑えないものね。課題がどこかへ消えてしまったなんて、貴女の成績に、ひいては王太子妃候補としての立場に関わることだわ」
「脅しでしょうか」
「冗談よ。通じない相手には言っても無駄みたいだけど」私は口元へ手を遣る。「でも、貴女も笑っているところを見るに、本当は楽しんでいるのかしら。もっと面白いことを聞きたい?」
笑顔のディアナを皮肉るように、私はそう言った。ディアナの双眸が研ぎ澄まされていくのがわかった。
「ねえ、これもあくまで冗談なのだけれど、今度は白紙の答案に挿げ変えてやろうかしら。天下の聖女さまも、学年末試験で学年最下位にまで落ちては、さすがに面目が立たないでしょうね」
そこでディアナは表情を変えた。と言っても、優雅な笑みを深くしただけだ。恐ろしいほどに隙のない笑みを浮かべる。冗談には冗談で返すように、彼女は調子を明るくした。
「泥試合というわけですか。貴女も痛い目を見るでしょう。これ以上その名誉に傷をつけてどうするおつもりで?」
「賎民の子、緑の目をした悪女とまで言われた私に、これ以上落ちぶれる底があると思って? 残念だけれど、いつまでも綺麗な顔をしている貴女とは立っている土俵が違うのよ」
貴女だって、そうやって聖女として振舞っていられると思うな。前夜祭の夜に見せた異形をずっと隠していられると思うな。必ず暴き出してあげる。貴女の立っている盤上は、観衆も満員の晴れ舞台になるのよ。
「一人で沈んでゆくのは寂しいから、貴女も泥沼まで落としつけてあげる。ねえ、月のひと。お空の上から引きずり下ろされる気分はいかが?」
ディアナはようやっと笑みを無くす。
聖女と呼ぶには生々しく、人と呼ぶには神々しい、凄絶な無表情。私が爪を立てた隙間から、獰猛な異形が覗いている。
それでも、感情を露わにしないのはさすがだった。取り乱すどころか顔を顰めもしないのだ。瞬き一つ取っても、あるいは呼吸の仕方、目線の配りかたさえも、神秘的な品位と底知れぬ無垢を備えている。骨の髄まで聖女だった。ここまで侮辱されても崩れない、堅牢な胆力については、純粋に称賛する。私なら睨みつけながら頬を張るくらいは余裕でしたし、口汚く罵りもするはずだ。
彼女を月のひとと呼ぶのは、手の届かない高嶺の遥か先にいるような雰囲気を臨んだからかもしれない。浮世離れなどとは生温い、隔絶の壁を感じる。それが気位の高さからくるものなのか、はたまた別のものなのか、私にはわかりはしないけれど。
「……なるほど。私がブルーメンブラット嬢になにをしてもよいと、貴女は言うのですね。後夜祭で貴女が彼女を裏切ったのは、嘘というわけでもないのでしょう」
玲瓏な声からは温度が一切感じられなかった。慈悲の象徴であるような娘なのに、そんな彼女からは一片の心も滲まない。私を牽制するように、あるいは先制するように、容赦のない言葉を吐きつけている。
もちろん本当になにかしでかされては困るのだけれど、私は努めて笑みを深めた。
「やっぱり人でなし。貴女の言う敬虔で真摯なお友達にも見せてあげたいわね。きっと幻滅するでしょう、聖女はまやかしだったと」
そう言った私に、ディアナはなんの反応も示さない。なるほど、この口撃は効かないということだ。完全無欠を緩ませないくせに、聖女という肩書きには頓着しないらしい。面倒な女。
少し間をおいて、「
「貴女は何故そうまでして私の邪魔をなさるのですか? 私を蹴落としたところで、貴女が王太子妃になれるわけでもないでしょうに」
「必死な貴女と違って、王太子妃なんて微塵も興味ないわ。でも、貴女の思い通りに事が進むのは嫌。私、貴女が嫌いなの。これまでなんの不足もなかったかのような超然としたところが大嫌い」
「…………」
「幸せそうなひとが嫌いなのよ。私が《持たざる者》だからかしら。私とは違って素敵なものはなんでも持ってて、あとは捨てるだけのひとを見ると、潰してやりたくなる」私は肘をついた手に顎を乗せ、目を眇める。「そういう貴女は何故そうまでして王太子妃になりたいのかしら」
王太子妃になるのは自分だと宣うものの、ディアナの真意は見えてこない。フェアリッテのような恋心も、ガランサシャのような気心も感じられないのだ。
「何故とは……自ら名を挙げたわけではありませんが、私が選ばれたということは、そういうお導きだったのでしょう。ならば私はその運命を全うするだけです」
「いかにも聖女の言いそうなことね。台本でも読んでるの?」目を逸らさずに。「貴女がどうしてそれを望むのかを聞いているのよ。殿下のことが好き? 王妃のティアラをつけてみたい? それとも本当にミットライトや神聖院に推されただけで、使命を背負ったというだけで、そこまでできるのかしら」
「愛など、財など、地位や名誉など、自己の尊厳に比べれば瑣末なものですよ。貴女の目が晴れるときが来ますように」
他者からの愛も、自分だけのものも、瑕疵のない地位も脅かされない名誉もなかった、なにも持っていなかったわたしからしてみれば、なんと残酷で悪辣な言葉か。あまりに
けれど、私は信じない。前夜祭の夜のディアナを思えば、いまの空虚などまやかしだ。たしかにノイモンド・フォン・シックザールは、ディアナは操り人形であると言っていたけれど——あ、そんな男もいたわね——たちまち私は口を開く。
「本当に責任感の強い方なのね。シックザール小公爵の言うとおりだわ」
私の言葉に、ディアナは目を丸める。
あまりに小さな挙動なので隙とも言い難いけれど、ディアナの驚いた様子は初めて見た。神聖の一片を落っことしてしまったような、歳相応にあどけない表情。
ディアナとシックザール卿は兄妹同然の関係であり、シックザール卿は私なんかに交渉をするほどディアナを気にかけており、おそらくだがディアナも彼に信頼を寄せている。だから、その信頼を揺さぶれば、少しは取り乱してくれるかと思ったのだけれど、思惑どおりだった。
少し間を置いてから、ディアナは「どうしてノイモンドが貴女と?」とこぼす。
「神聖院でたまたま会ったのよ。私の生家は定期的に祈祷に出かけるから」
「……何故、彼が貴女と私の話を」
「貴女と幼馴染だからでしょう?」
「それはそうですが……」
口ぶりは冷静だ。声は震えも掠れもなく透き通っている。しかし、普段の彼女からしてみれば、明らかに動揺していた。
ディアナは非常に頭の回る人間で、おまけに取り繕うのも上手だ。全科目で学年主席を維持するための日々の勉学と練習、休日は神聖院で奉仕活動、毎秒続く完全無欠の振る舞いなど、並大抵の労力では決して成し得ない。それらの膨大な事柄を冷静に処理できるために、彼女の人ならざる貫禄は醸し出される。
けれど、処理すべき情報があまりに多いとなると、そう簡単には捌ききれない。
たとえどれだけ崇高でも、所詮は彼女も人の子だから。
経営学の発表、学期末試験、邪魔な私に、不穏な疑惑——これだけ舌戦を仕掛けても、引き出せるのは困惑の一つのみとは、まったく骨が折れる。
でも、貴女が襤褸を出さないなら、襤褸が出るまで私は追いつめるだけ。
「あら、もうこんな時間」私はわざとらしく手を合わせる。「そろそろ失礼するわ。楽しい時間をありがとう」
春麗の空気に毒をばら撒くだけばら撒いて、私は席を立つ。そのあいだもずっとディアナの視線は感じていた。
私への忌々しさがいずれ綻びになることを願って。
「経営学の発表、お互いがんばりましょうね。それでは、よいお導きを」
経営学の課題発表の日は、叢雲を焦がす春雷が轟き、いつ雨が降るともしれぬ暗い空気で満ちていた。
私とフィデリオの発表は序盤も序盤、生徒全員が互いの出かたを探るような雰囲気の中でおこなわれた。今回の課題である“隣接する他の領地との諍いとして想定される問題とその解決策”は、領土の統治を令息が、家の内政を令嬢が担当する。塩害の対策に時間を費やすフィデリオを、私が必死にフォローする、という内容での計算になっている。数字上の穴はなく、家計はやや厳しくなるものの不可能ではない程度の圧迫の末、帳尻には文句のつけようのない利益が発生している。
二人一組で考えればまとまっているものの、まだ改善の余地はあるとして、経営学の教師は、フィデリオに
それから何組かの発表が終わり、私たちと同じように評価され、そして、ベルトラント殿下の発表となる。
その立場上、ベルトラント殿下に与えられた課題は、普通の令息のそれとは違っていて、“隣接する他の領地との諍い”ではなく“隣接する他国との諍い”となっている。そして、そのペアとして組んだ令嬢は、王太子妃候補として名を挙げている、フェアリッテとディアナの両名だ。
ただの学校の課題に、わざわざ時の人のうちの二名を殿下と組ませたことには、もちろん目論見があるのだろう。殿下は、フェアリッテとディアナの一人ずつと課題に取り組み、それぞれの才覚や能力、知識、観点を以て、課題の解決策を導きだしていく。こんなの実質の政策声明みたいなものだ。発表された内容で、どちらがより王太子妃にふさわしいかを判断する。他の令息令嬢たちの発表よりもよっぽど重みがある。経営学の課題ではあるものの、
殿下、そして、フェアリッテとディアナが、教室の前に立つ。さきほどまでとは明らかに違う、糸をぴんと張ったような空気が漂っていた。経営学の教師も硬い面持ちになる。殿下は青い瞳で皆を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「僕の想定した最悪の諍いは、もちろん、国家戦争です」
誰もが予測していたような妥当な題材だった。我が国リーベはいくつかの国と近隣しており、長年親交を続けている国もあれば、時代によっては戦争をしていた国もある。そんななかでも特に戦事や外交において緊張感を保ってきた国が、南の国境を隔てるラムール、西の海を隔てた帝国、東の国境を隔てるフィリアだ。
具合のいいことに、その三つの国は、ちょうどブルーメンブラットとミットライトの領土に関わりがあった。南のラムールは、いまでこそ改善は修復されつつあるものの、過去数百年のうちに二度も戦争をしている。当時のブルーメンブラットはその最前線だった。また、東のフィリアは、地中海を隔てながらも一部の国境線に面した国で、
つまり、隣接する他国との諍いの解決策として鍵を握るのは、ブルーメンブラット、ミットライトの振る舞いかたなのだ。その問題を直接的に対処できる立場の者として、実現可能な解決策を提示することは、未来の君主の伴侶として、大勢からの信頼を得るということ。
フェアリッテは当然、対ラムールの解決策を考えてきただろうし、一方のディアナは、対フィリアの解決策を考えてきたはずだ。残る対帝国の解決策は宙に浮いた状態だが、
私は情報を整理しながら、発表に耳を傾ける。
「まず、ラムールとの関係ですが、皆さんもご存知のとおり、かつて刃を交えたものの、現在は落ち着いています」殿下は淀みなく告げる。「それは、防戦に努めたうえで両国の被害を最小限に抑えたこと、また、その後の円滑な国家交流に力を入れたことが挙げられます。ここ五十年は特に良好で、安定はしていますが、この先もそれが続くとは限りません。ラムール産の製品がリーベでは多く出回っており、特に文具雑貨や芸術分野については市場の三割を占めていて、これは自国産の四割という数字に迫るものです。他にも多種の原材や食料を輸入しており、万が一、その全てを失うとなると、リーベへの大きな打撃となります」
「そのためには、現在の交流体制では不十分です」後を引き継ぐように、フェアリッテが口を開く。「辺境ブルーメンブラットでは、長きに渡り、ラムールの貴族たちとも交流を持ってきました。遥々ラムールへ出向くことも、こちらが迎えることもあります。ラムールとリーベは文化が異なります。相手を理解し、こちらも理解してもらう……相互理解を深めることは、戦争の根を潰すことになります。そうして日頃から最善の策を打ち、それでも戦争になってしまう場合も、もちろんあるでしょう。かつての戦争では、ブルーメンブラットが総力を上げて国境を守りました。当時と比べれば、リーベもラムールも、武器や兵士の質、技術は上がっています。ブルーメンブラットが兵士の三割を持ち、残りの七割をリーベ全土から募る形で計算いたしました」
フェアリッテは、外交による未然策、万が一が起きたときの次善策を用意していた。他者への敬愛と尊重を大事にしているブルーメンブラットらしい内容だ。
実際、ブルーメンブラットは、国境線を隔てたラムールの貴族であるジャルダン家と交流を続けていて、そのジャルダン家を通し、ラムール王家とも間接的な繋がりを持っている。辺境の貴族ならではの動きであり、他の貴族にはなかなかできないことだった。
また、ブルーメンブラットにはかつて防戦をしたノウハウがあり、抱える騎士団も精鋭ばかりだ。王太子妃あるいは王妃となったフェアリッテならばブルーメンブラットの騎士たちを摩擦なく動かすことができる。
フェアリッテは現実的な解決策を提示すると同時に、リーベにとって利点となる事実を再確認させたのだ。
一通りフェアリッテが話したのち、経営学の教師が「よろしい」と頷く。
「講評は、ミットライト嬢との解決策含めて、全体でおこなうとしましょう」
「はい」ディアナが涼しげに微笑んで答える。「さて……ラムールと同じように国境を隔てる国の一つに、東のフィリアがあります。
フェアリッテは穏やかに頷く。政敵を相手に気安く振る舞えるのはフェアリッテの美点だけれど、この場合はディアナが上手かった。内心ではどのように企んでいようと、ディアナは清廉で慈愛のある聖女の姿を取る。たとえばガランサシャのように、相手を侮辱したり皮肉ることはありえない。相手を認めて否定をせず、ただ穏やかにそこにある。自然や宇宙のように、人格を持たないのだ。概念としての聖女。
「しかし、
「フィリアの軍事力はリーベには劣ります。けれど、僕たちは、物資の補給を断たれるという経済制裁を覚悟すべきでしょう」殿下がしかと告げる。「リーベが取るべき行動は、それに耐えうる自国生産の強化、また、フィリア以外の国々との連携だと考えます」
「大牧場を抱えるマイヤー領やアインホルン領には資金と人材を回し、供給力を高めます。兵士を募ることも重要ですが、武力の有利を逆に利用した無血での終戦を目指すことが狙いです。フィリアとの国境付近にいる民には各地の神聖院まで一時避難していただくことになるかと。また、ミットライトはシックザールと共に、他国の神聖院へも援助を行っておりますし、現地まで赴くこともあります。親交のあるリーベの危機を無下にはなさらないでしょう」いえ、とディアナが首を振る。「そのようなことを、
ディアナは、国民を労わるよう内需と投資に重きを置いた対応、神聖院の繋がりを利用した救済措置を提示した。それに聖女という肩書きが説得力を持たせている。大して固執もしていないくせに、この女は自分の持つ性質を、よく理解している。
「講評についてですが、」殿下が手を挙げて言う。「先生さえよければ、ここにいる皆の意見も聞きたいと思っています」そして、私たちのほうを見遣った。「これはあくまで経営学の課題で、机上の空論で、実際には起こっていない出来事だ……けれど、それが現実に起こったとき、決断するのは未来の僕かもしれない。そして、その僕のそばにはきっと、未来の君たちがいる。君たちと議論したいと、僕は思うよ」
経営学の教師がかすかに微笑んで頷く。そして、教室を見回して、「未来の当主とその夫人に関わりのある議題です。皆さんで考えてみましょう」と声をかけた。
生徒は一様に顔を見合わせた。しかし、表情をほぐしてから、しかと手を挙げて発言する生徒が増えてくる。先陣を切ったのはアーノルドだった。
「僕は、ブルーメンブラット嬢の言う、徴兵の配分が気になりました。全体の三割もブルーメンブラットが負担するというのは荷が重いのではないかな?」
「もちろん、ギュンター家や、他の騎士団からの協力が得られれば、それ以上はありません」フェアリッテは答える。「しかし、ブルーメンブラット家は防衛の要たる自負と力があります。私が提示した数字にはなんの問題もありませんわ」
「前線へ行く兵士たちへの兵糧も大事になってくるな」と口を開いたのはアルヴィム・マイヤー卿だった。「僕はマイヤーの末弟だから、口を出せることは限られてくるけれど……そのような事態になったときは、当主たるお兄様も、自領の地代の値上げや、収穫した作物の上納を決断するだろうね」
「そうなると、領民の生活が苦しくなるわ」マイヤーに苦言を呈したのは、課題でペアをしていたグラーツだ。「それは何度も話し合って
なし
にしたじゃない」「でも、それは、戦争のない背景が前提になる。柔軟に対応すべきだよ」
「そういうこともあって、ミットライト嬢の、マイヤーに援助をするという話に繋がるんじゃないかしら」ヴォルケンシュタインが顎に手を当てる。「どこにお金をかけるべきかということだと、私はラムールとの交渉費も気になります。現状はたしか、ブルーメンブラットが自費でおこなっているのではなくて? ジャルダン家を軸とした貴族間交流とはいえ、立派な国家交流でしょう? たとえば、王都の
意見の交換は伝播し、令息令嬢は口々に議論を交わす。発表をした殿下へ質問し、その応答に対して、さらに話を展開させていく。現実的な会議の様相を呈しているものの、雰囲気は和やかだ。
その輪から離れた目で見てわかった。殿下の狙いはこれだったのね。
王太子妃をかけた争いのおかげで、経営学の課題は実質の政策声明の色を見せていた。
殿下はフェアリッテと同じで、場を和やかにする手腕に長けている。経営学の課題発表は、特に荒れることもなく終わりそうだ。
私はちらりとディアナを見遣る——目が合ったような気がした。
ディアナはどこを見ているかわからない眼差しをしている。過去と未来を見据える目を持つだのと言われているけれど、そんなことはなくて、ただその視線に重力がないだけだ。空虚で感情が乗っていない。視線をくれたということは、私を警戒しているということだろうけれど。
そりゃあ、あれだけ警戒心を煽ったんだものね。私としては、緊張のあまりに発表の途中で言葉を噛んでしまうくらいは期待していたのに。あれだけプレッシャーを与えても事もなげに終わらせてしまうなんて、本当に人間じゃないみたい。
その顔をじっと見つめて、はたと気づく。
月のように青白い顔。
ディアナは色白の部類だ。今日の天気は悪いし、日差しがないせいで、誰しもが影を落としている。けれど、今日のディアナは異常だ。人間じゃないみたいに、死人みたいに、土気た顔で立っている。
誰も気にしていないみたいだから、私の気のせいかとも思ったけれど、見れば見るほど彼女は真っ青だった。目元には
「しかし、ブルーメンブラット嬢の示した策には、穴があると思います」
そこで、やや棘のある声で響いた意見が、私の耳朶を打つ。
議論が白熱していたらしい。どの令息令嬢も真面目な顔をして言い合っている。殿下が発言のしやすい空気を作ったことが悪いほうに転じていた。先の発言をしたのは、ミットライト派閥の令息であるカミル・エルマン卿だ。
「特に開戦時の予算の組み立てが甘い。ミットライト嬢は過去の歴史を鑑みたうえで、実際の戦術も組み立てているぞ」
「相手がどうでるかなんてわかりっこないんだ、所詮は学生である俺たちの考えだろう。型に嵌める必要なんてない。それを言うなら、ミットライト嬢の、神聖院を利用する策だって、俺は疑問だな」
「利用だなんて!」
「弱きを助けるのは当然のことよ。戦時ならば現実的な選択だわ」
「シックザールがミットライト嬢を支持しているからといって、そこまでしてくれる
「そもそもの認識のずれがありますね。神聖院とミットライト嬢は切っても切れない関係ですよ。
いよいよフェアリッテとディアナの名前が議論に上がるようになってきた。こうなってしまえば、もう止まらない。
「それに引き換え、ブルーメンブラット嬢は」
「なにが言いたいんだ」
「有事の際にはブルーメンブラットの騎士が出るとのことでしたが、それは不可能でしょう? 王妃ブルーメンブラット嬢が辺境伯領主と同じ権限を持てるとは思えません」エルマンは皮肉るように言葉を続ける。「そもそも、ブルーメンブラット嬢が他家の子息と婚姻を結ばなければ、ブルーメンブラットには後継がいないのですよ。ブルーメンブラット嬢が王妃になった時点で、現当主の辺境伯の代でブルーメンブラットは潰えると、まず想定が立つのではないですか?」
支持をする家の令嬢に倣う——ボースハイト派閥の貴族の態度が一様に攻撃的であるように、ブルーメンブラット派閥の貴族の態度も一様に大らかだ。時の人の立ち振る舞いを尊重する。そのため、何事にも静観し、冷静であるディアナを支持するミットライト派閥の貴族たちは、基本的には静かな気質だ。
しかし、議論が白熱しすぎてしまった。ブルーメンブラットの優勢により焦っていた。気が立つだけの環境が整ってしまっていた。
はじめに「なんですって!?」と声を荒げたのはヴォルケンシュタインだった。これ以上はよくないと、経営学の教師が「やめなさい」と叱声を上げる。ディアナも聖女として見過ごせなかったようで、舵を取るためにすかさず「エルマン卿、」と口を開いた。
「貴族の婚姻という、家の事情にまつわる話を持ち出すのは無粋というものですよ」
「そもそも、ブルーメンブラット嬢がそうだと言うなら、男児のいるボースハイト家以外は後継問題を抱えることになるだろう!」
「後継についてはその家が考えることであり、他家が口を出していいものではないわ」
エルマンを責める空気になったとき、ディアナが再び告げる。
「エルマン卿が、この国の未来を真剣に考えたことも、可能性の話をしたことも理解しています。ブルーメンブラットを思う心だってあったことでしょう。しかし、伝えかたを考えるべきでしたね」慈悲深く微笑んで、ディアナは続ける。「これはあくまで経営学の課題です。一度冷静になりましょう」
息をつくような間。空気の弛緩するような瞬き。遠雷の響く静けさがあった。
けれど、その
「ええ、経営学の課題ですもの」
フェアリッテがこぼれるように言う。静寂に落とされた声を辿るように、みんながフェアリッテへと視線を遣る。それを堂々と迎え討った、花咲く瞳はまっすぐだった。
「貴重なご意見と思います。ミットライト嬢の言うとおり、私たちを慮る心があったのならありがたいことですね。けれど、僭越ながら、申し上げます」
フェアリッテは花のひとだ。雪のように冷たくも、月のように導きもしない。いつも華やかに咲いている。
「プリマヴィーラがいます。彼女も父の娘ですもの。ブルーメンブラットが後継に困ることはありません。それなのに、何故、そんな話をなさるの?」
エルマン卿が息を呑み、腰を引く。彼だけではない、熱を上げていた者は皆、水を打たれたような顔をした。
私は私で、突然名前を出されたことに困惑していた。たしかに、たしかに世間では、私はブルーメンブラットの私生児で、アウフムッシェルの姓を名乗っていてもフェアリッテとは腹違いの姉妹で、けれど、事実はそうでないことを、私もフェアリッテも理解している。だからこそ、私は先の話題が出たとき、私自身が侮辱されたとは微塵も感じなかった。
あれは侮辱だった。
フェアリッテではなく、私を侮辱していた——プリマヴィーラ・アウフムッシェルはブルーメンブラットの娘ではないと、婉曲的に侮辱していた。怒るべき、ことだったのだ。
しかし、エルマンにその意図があったわけではないのだろう。フェアリッテに指摘された彼は慌てて口を開く。
「いえ、その、プリマヴィーラ嬢はアウフムッシェルの姓を名乗られているので、ブルーメンブラットの後継にまつわる問題には関係がないものと思っていました」
「たしかにアウフムッシェルを名乗ってはいますが、後継問題に関しては血が全てであり、名を変えたところで無意味だと、わからないわけではないでしょう? 当主の座をかけて争った結果、その血族の全員が死んでしまった悲劇は、この歴史上に数多く存在しますもの」
「それは……そうですが……」
エルマンに私を蔑ろにする意図があったわけではない。まず、侮辱しようとしたのであれば、私ではなくフェアリッテだ。政敵の令嬢を彼は口撃した。
けれど、そこに思想が滲む。
エルマンは無意識下に私を侮っていた。完璧な娘であるフェアリッテの瑕疵を見つけられず、精々私を槍玉に上げるしかなかったのかもしれない。もしくは、フェアリッテを手酷く裏切った私を責める意図があったのかもしれない。はたまた、声にはせずとも、入学してからなにかとゴシップの多い私を、心の中で蔑んでいたのかもしれない。フェアリッテは、自分への口撃の中で、そういった彼の意識を悟ってしまったのだ。
フェアリッテが柔く唇を噛むのを見たエルマンは「す、すみません」と告げる。
そこを突くようにもう一人の声が上がる。
「謝るのは……プリマヴィーラ嬢に対してではないのですか」
カトリナだった。
それがあまりに意外で、私は目を瞠る。
この状況で声を上げるならブルーメンブラット派閥の者であるはずだ。しかし、同じミットライト派閥の人間から叱責が飛んできたということで、エルマンは困惑してしまった。目を白黒させて、どこか落ち着かない様子のカトリナを見つめている。
ふと、カトリナが私を見遣る。
そこには、ありとあらゆる感情があるような気がした。口にはし難い、なにかに
フェアリッテがその一連の様子を眺めたあと、ディアナに向き直った。
「ミットライト嬢のことは尊敬しております」フェアリッテはまっすぐに告げる。「この場を収めてくださってありがとうございました。けれど、貴族の礼節を説くことと……私やエルマン卿を気遣ってくださることと同じように、彼女のことも考えていただきたかったわ」
——そこには、思想が滲むのだ。
いつものディアナなら、絶対にない失態だった。ディアナは非常に頭の回る人間で、おまけに取り繕うのも上手だ。清廉で慈愛のある聖女の姿を取る。自然や宇宙のように、人格を持たず、ただただ神聖で慈悲深い。けれど、所詮は彼女も人の子だから、処理すべきことが重なると、捌ききれない。
欠けのない満月が、隙のない才媛が、完全無欠の聖女が、やっと、襤褸を出した。
「……あの、」
と、そこで、おずおずと手が上がる。
パトリツィアだった。
フェアリッテや、ディアナや、他の大勢の視線を受けて、パトリツィアの上がる手の指先は、どんどん力をなくしていく。緩く結われたくすんだ
口を開いて、逡巡、パトリツィアは意を決したように、フェアリッテに尋ねる。
「フェアリッテ嬢は、プリマヴィーラ嬢のことを、いまでも姉妹だと思ってらっしゃるのですね」
パトリツィアは、私の本当の出自も、去年の春の出来事も、その真相と結末も知らない。尋ねた文字どおりの意味で姉妹と思っているかどうかを聞いたわけではない。ただ、後夜祭の裏切りがあっても、健気に縋りつくのを私にあしらわれたとしても、関係なく私を庇う発言をしたフェアリッテに、そのように問うただけだ。
経営学の議題にはなんの関係もない話で、最早、議論や意見でさえない。ただ、聞かずにはいられなかったという純粋な疑問。
フェアリッテはぱちくりと目を瞬かせてから、「ふふっ」と笑った。花のように。
「私たち、生まれてはじめて姉妹喧嘩をしているのよ」
「えっ?」
「笑っちゃうくらいに下手でしょう? やったことがないから、仲直りの方法も手探りだけど、それだけよ。私たちは、いつも、想っているわ」
——その後、経営学の教師による講評を終え、授業は終了となった。
ディアナはすぐに、その場にいた全員の前で、私やフェアリッテに謝罪をした。賢いやりかただ。下手に白を切るよりも、素直に謝ってしまったほうが、悪感情は抱かれない。異様な空気も霧散していた。けれど、誰も口にはせずとも、理解していたはずだ。フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットの正当性を。ディアナ・フォン・ミットライトの不当性を。
「ミットライト嬢」
教室から生徒が出てゆくなかで、フィデリオがディアナに声をかけた。
先刻のこともあり、その声を聞きつけた者は、一触即発の空気を感じ取る。
数多の視線に見守られながら、ディアナは「なんでしょう」とフィデリオへ答える。蒼褪めた顔のまま静かに微笑む。フィデリオは蜂蜜色の瞳を一度瞬かせ、息をついてからしかと告げる。
「学年末試験の成績で勝負をしませんか?」
視界の端で、ギュンターが唖然とする。フェアリッテは瞠目し、カトリナとパトリツィアがその身を強張らせた。ヴォルケンシュタインがはっと息を呑み、口元を両手で押さえたのも見えた。私も足を止めてしまった。この男、なにを言っているんだ?
ディアナも不思議そうに首を傾げる。派閥争いが始まってからずっと学年主席の座を競ってきた二人だが、フィデリオがここまで直接的に勝負を仕掛けたことはない。そうやって目立つことすら嫌いなはずだ。しかし、ディアナを見据えるフィデリオは真剣だった。その顔をつい先日も見たのを、私は思い出す。
「俺が勝ったら、返してほしいものがある」