第1話

文字数 14,352文字

   おじぎ草がやって来る
                             蘭野みゆう
 「また来た」
 僕ははるか前方からゆっくり近づいてくる影を見て呟いた。見通しのいい一本道の向こうからおじぎ草が左右に揺れながらやって来る。
 少し風が強いけど、あったかくて眠くなるような春の午後だ。こんな日に算数なんかやってられるか。分数の計算なんてちょろい、ちょろい。分母が違ったって簡単だ。僕なんかぱっとひらめく。それがどうしてもわかんない奴がいて、先生がちんたらちんたらそういう奴につきあってるから、やってられない。暇すぎて、耳掃除でもしたくなる。いや、いっそ布団にもぐって寝たくなる。
 今日はお腹が痛いと言って、学校を早引きした。まっすぐ家に帰っても誰もいないし、一人でテレビを見てもおもしろくない。漫画もゲームも、もういい加減飽きた。噛みすぎて味のなくなったガムみたいだ。ちょっと前まではおやつを食べるのも忘れて夢中になってたのに。お母さんが新しいのを買ってくれないせいだ。
 それで、僕はつま先で小石を蹴飛ばす。団地の中の公園で暇つぶし。ツツジの植え込みの陰にしゃがみ込んで、小枝で穴を掘ってアリの巣をつぶすのだ。もちろん、お腹なんか痛くない。痛いふりして給食を少ししか食べなかったから、かなり腹ぺこなだけだ。ああ、たこ焼き食いたい。大阪にいるお父さんが、お土産に買ってきてくれたやつ。こっちのよりでかかったし、中がとろっとしてすげえうまかった。あれ、また食いたいな。
 このところ、毎日雨が続いた。菜種梅雨っていうらしい。今日は久しぶりに晴れたけど、別にどうってことない。あ、アリが出てきた。黒い胴体に細い足を生やした変てこりんな生き物。どいつもこいつも成敗してくれる。僕は棒きれでアリを追い回し、片端からつぶしていった。つぶれたアリは何か白い液体を出して動かなくなった。
 「空は晴れても、心は闇よ」
 横浜の伯父さんがお酒を飲むと、よくこの台詞を言ってた。低学年のころ、それを覚えて親戚のおじさんやおばさんたちの前で言ってみせたら、みんな大笑いして喜んだ。大人を喜ばすのなんか簡単だ。
 「それはプライバシーの問題でしょ」とか「それって、自己責任だよね」とか聞きかじりの台詞を適当に言ってやればいいんだ。そうすると、大人は大口開けて手を叩いて喜ぶ。ちょろい、ちょろい。ええと、こういう時、何て言うんだっけ。慣用句習ったよな。そうだ。「朝飯前」だ。それから・・・ええと、「赤子の腕をひねるも同然」だっけ?赤子って、赤ちゃんのことだよな。赤ちゃんの腕なら僕にも簡単にひねれそうだ。神戸の叔母さんちにぶよぶよした赤子がいる。今度一回ひねってみたい。
 あ、おじぎ草が来た。ぼくは放り出していたランドセルを背負って、今学校から帰る途中ですという顔をして道に出た。すれ違いざま、案の定おじぎ草が立ち止まって丁寧におじぎした。ぼくは軽くおじぎを返す。もちろん、おじぎなんかしたいわけじゃないけど、おじぎ草がおじぎするのが面白いから、つられてやってるだけだ。おじぎ草は顔全体をくしゃくしゃにして笑う。て、いうか、もともとくしゃくしゃの顔なのかもしれない。だから、笑っていないおじぎ草を見たことがない。おじぎ草はいつもそんなふうに黙っておじぎする。
 オジギソウの観察をしたのは、去年、五年生の時だ。先生が教室にオジギソウを持ってきた。ピンクのボンボンみたいな花が咲いていた。
 「さあ、マジックショーの始まり始まり!」
 白衣を着た若山先生が一人で手を叩いて喜んでいた。若山先生は若作りのわかせんと言われていた。自分では二十九歳だと言ってるけど、本当は四十近いんじゃないかってみんな言ってた。小柄で童顔だから、確かに若く見える。今年もたぶん五年生のクラスで二十九歳だと言ってると思う。わかせんは男だ。男のくせに年をサバ読まなくてもいいのにな。バカじゃなかろうか。
 それでもって、わかせんがさんざもったいぶってから、オジギソウの葉っぱにちょこんと指を触れた。すると、あら、不思議。葉っぱがみるみる折りたたまれて、ついには一本の棒みたいになって、だらんと垂れ下がった。オジギソウの葉っぱは左右対称のブラインドみたいになっていて、それが先っぽに向かってすぼんでいく。それが一つの葉っぱから他の葉っぱへと伝染していくところがまた不思議だった。
 「わあ!」
 みんなびっくりして拍手喝采した。僕も初めて見たから、おもしろかった。
 「ほら、こんなふうにまるで気をつけしておじぎするみたいだから、オジギソウっていうんだよ。おもしろいだろ?」
 どんな仕組みでどうしておじぎをするのか、わかせんは何かしゃべったような気もするけど、それは全然覚えていない。
 それで、団地の道路であのお婆さんに会った時、おじぎ草みたいだと思った。小さくて細い身体は葉っぱを閉じたオジギソウそっくりだ。いつも白髪の頭に黒いカチューシャをして、リュックを背負い、杖をついている。脚が外側に湾曲しているから、ゆっくりひょこひょこ歩く。お母さんもこのお婆さんを知っていた。道で出会った人みんな、誰にでもおじぎするお婆さんで、このあたりでは有名らしい。八十はとっくに過ぎてると思うよって、お母さんが言ってた。
 僕は後ろを振り返った。相変わらずひょこひょことペンギンみたいに歩いて行くおじぎ草の小さな後ろ姿が見えた。
 「頭のおかしいオギギソウババア、早く死んじまえ!」
 そうつぶやいて、石を蹴る。石は道の反対側に跳んで花壇のコンクリートに当たって弾けた。
 おじぎ草の頭がおかしいと思ったのにはちゃんと理由がある。
 あれは、去年の秋ごろだったかな?僕は久しぶりにおじぎ草がやって来るのを見た。そんなにしょっちゅう会うわけじゃなかったけど、月に二、三度は出くわした。その時は友だちの伸也といっしょだった。僕は伸也におじぎ草のことを話した。
 「ああ、わかせんが持ってきたオジギソウ?あんなふうにおじぎするの?へえ。見てみてえ」
 伸也はこの団地じゃなくて、少し離れたところの一戸建てに住んでいた。伸也のお父さんは有名企業の部長で金持ちだから、こんな貧乏臭い団地じゃなくって、丸いドームの屋根のある大きな家に住んでる。ドームには天体観測用の望遠鏡がある。伸也のお父さんの趣味は天体観測なんだって。一度誘われて、月の表面を見せてもらった。髭を生やしたお父さんは得意そうにいろいろ説明してくれたけど、僕は正直大して興味がなかった。伸也も本当は興味ないけど、おもしろそうな振りをしてやってるんだと言っていた。まったく親の機嫌取るのも大変だ。
 で、何の話だったかというと、おじぎ草の頭だ。二人して見ていると、まだ遠くなのにおじぎ草がゆっくりとおじぎした。僕たちの方は見てないから、僕たちにおじぎしたんじゃないことはわかった。でも、他には誰もいない。
 「あれ?あの人、木におじぎしたよ」
 「ほんとだ。あ、またした。木に向かっておじぎしてる」
 僕たちは笑い出した。
 「ねえ、あの婆さん、頭おかしいよ」
 伸也が大声で言った。
 「しっ!こっちへ来たぞ」
 おじぎ草は杖をつきながら、ゆっくりやって来た。僕たちのすぐ前まで来ると、さっき木に向かっておじぎしたのとまったく同じように、にこにこと頭を下げた。僕と伸也はにやにやしながら軽く会釈した。
 それから僕たちはどちらからともなく走り出した。じゅうぶんな距離が開いてから、僕たちは立ち止まった。
 「やっぱり変だろ?」
 「うん、変だ。変な婆さん」
 「変な婆さん、変な婆さん・・・」
 僕たちは有名タレントの口振りをまねて踊った。
 それから、僕はおじぎ草に会うたびに、頭のおかしいババアというフレーズが浮かぶようになった。だって、おじぎ草ときたら、雑草や野良猫にまでおじぎしていたから。この前なんて、ツツジの植え込みの前でお辞儀して、何かブツブツ小声で独り言を言っていた。やっぱり、おかしいと思う。

 「浩平!」
 お母さんだ。声がとんがってる。
 「浩平!入るわよ」
 僕は慌てて漫画本を机の引き出しに放り込む。
 「返事ぐらいしなさいよ。何してたの?」
 「今、塾の宿題やるとこ」
 「そうなの。あんた、このところ塾の定期テストの成績下がってるじゃない。特に、漢字がだめね。漢字なんか覚えさえすれば満点なのに、なんでやらないの?あさってお父さんが帰ってきたら、たっぷりお説教してもらうわよ。約束破ってるのはあんたの方なんだからね。ちょっと、聞いてる?」
 僕のお腹の中でグラグラ湯がたぎりだした。
 「しょうがないじゃん。僕、お父さんみたいに頭良くないんだから」
 「そういうことじゃないでしょ。やればできる頭なのに、やらないでいるから下がるんでしょ!国語と算数の点数、十点上げるって約束で、新しい自転車買ってあげたんだから。約束守らないと、取り上げるよ」
 「何だよ!算数は上がったじゃないか!」
 僕のお腹の中で瞬く間に湯が煮詰まった。
 「だから、国語も頑張ってって言ってるの!やれば、で・・・」
 お母さんの言葉はそこで切れた。僕が机の上のテキストやら筆箱やらを両手で一気に払い落としたからだ。
 「何よ、いきなり」
 僕は机の上に落ちずに残っていた消しゴムを投げ飛ばした。
 「浩平ったら!・・・わかった、あんたも疲れてるんだ。ごめんね。ママいろいろ言い過ぎたね。あんたのためと思って・・・」
 「るせえんだよ!」
 お腹の中で湯が蒸発して腹が焦げた。その夜、僕は塾を休んだ。
大人はみんな、口を開けば「やれば、できる、やれば、できる」って言う。そのくせ、自分のことは「やってもできなかった」って、平気で言うんだ。うちのお母さんだって、若い時はピアニストになりたかったんだけど、なれなかった。代わりに僕にピアノを習わせたけど、僕は指が思うように動かないのにむかついて、二か月も通わないでやめた。ほんとはやってもできないことだらけなのに、大人はバカの一つ覚えみたいに「やれば、できる」って子どもに言うんだ。自分のことは棚に上げてさ。これって、詐欺だ。ヤレヤレ詐欺だ。
 でも、僕はバカだと思われたくない。だって、僕はいろんな本を読むのは好きだし、歴史上の事件や人物のこともよく知ってる方だ。たとえば、「生麦生米生卵」っていう早口言葉が出てきたら、三回唱えた後で生麦事件について一気にしゃべることができる。生麦事件というのは、江戸時代の末期に生麦村という所で、薩摩藩士がイギリス人を斬り殺した事件だ。その結果、薩摩とイギリスが戦争することになった。
 すると、先生は「すごい!よく知ってるねえ」と感心する。何かでファーブルの話になったら、ジャン・アンリ・ファーブルとフルネームが口をついて出てくるし、畑にうずくまって虫を観察していたら、警察官に不審者と思われたエピソードなんかもすぐ頭に浮かぶ。そういうのをみんなしゃべろうとすると、口の方が追いつかなくて、すごく早口になる。あんまり早くて、何言ってるかわかんないって時々言われる。頭の回転に口が追いつかないんだ。
 まあ、上を見ればきりがないけど、下を見てもきりがない。だから、落ち込んだ時は下を見るに限る。クラスの青山君や代田さんだ。なにせ、青山君ときたら、すんごく太っていて動作がのろいだけじゃなくて、頭の動きまでのろいんだ。この前も先生に「今のアメリカ大統領は何という人ですか」って質問されてずうっと黙ってた。わかんないなら、せめて「わかりません」て、言えばいいのにさ。バカみたい。
 代田さんは痩せた女の子だけど、時々わけのわからないことを言って、泣きわめく。この前も林間学校の班分けで急にパニくって、わめき出した。すぐ人にちょっかい出すし、あれじゃ、嫌われてもしょうがないよ。協調性ってやつがないんだ。あの人たちに比べれば、ちょっとぐらい成績が落ちても、僕の方がずっとましだと思う。間違いない。
 今日は塾で国語の勉強をした。少人数制の進学塾だ。四人クラスだけど、今日は一人休んで三人だった。先生は年齢不詳のおばさん。たぶん、四十ぐらいはいってると思うけど、日によって三十ぐらいに見える時がある。伸也がズバリ「先生、何歳?」って聞いたことがあった。あちゃ!僕はすぐに伸也を牽制した。
 「女性にそういうこと聞いちゃ失礼だよ」
 先生は笑って答えた。
 「おや、まあ。気を遣ってくれてありがと。ほんとのこと言うと、三百二十五歳なんだ」
 「嘘だあ!」
 三人が口をそろえた。
 「じゃあ、三百をとって、ただの二十五歳」
 「もっと、嘘だあ」
 「あはは、今みたいのを四字熟語で異口同音って言うんだよ」
 「知ってるよ!学校で習ったもん」
 得意げに言ったのはやっぱり伸也だ。僕だって知ってらあ。でも、伸也の後だから、わざと言わないのだ。二番煎じは味が落ちる。
 「へえ、偉いね。じゃあ、五十歩百歩って知ってる?」
 「知ってる、知ってる!」
 僕は大声で言った。今度は負けてたまるか!
 「ええと、五十歩逃げた人も百歩逃げた人もおんなじだってことでしょ?」
 「そう!中国の昔の話で、五十歩逃げた兵士が百歩逃げた兵士を臆病だと言って笑ったんだよね。でも、二人とも逃げたことには変わりないよね?そこから・・・」
 「目くそ鼻くそを笑う!」
 「おお!それ、先生が今言おうとしたのに、よくわかったね」
 伸也が得意そうに鼻の穴を膨らませた。嫌な奴!国語が得意だからって、すぐ出しゃばるんだから。算数は僕の方ができるぞ。もう一人の女の子はできなくはないけど、自分からはあまりしゃべらない。
 「朋香ちゃん、ほかにどんな四字熟語知ってる?」
 「ええと、何だっけ。習ったんだけど忘れちゃった」
 朋香はでかい目をぱちくりしている。
 「絶体絶命!」
 伸也が口を出す。僕だって。
 「一石二鳥!」
 朋香がぱっとひらめいた顔をした。
 「用意周到!」
 「お、朋香ちゃん、よく思い出したね」
 この前授業でやったばかりなんだから、思い出さない方がおかしいんだ。
 それから、説明文の読解をやって、最後に漢字の読み書きテストになった。伸也は一発で全問正解。朋香も一個間違っただけでクリア。僕は・・・僕は漢字が苦手だ。伸也みたいにすぐ覚えられないし、覚えたと思っても、すぐ忘れる。
 「浩平くん、自分のペースでじっくりやればいいんだからね」
 先生はそんなふうに言うけど、それってただの慰めだ。かえって傷つく。
 「もう、嫌になる。読むのはいいんだけど、書くのがなあ。伸也ってなんでそんなに書けるわけ?頭おかしいんじゃないの?みんなひらがなで書くことにすればいいじゃん。あれ?この字、なんかおかしいな。ああ、もうやだ!」
 だんだんいらいらしてきた。
 「焦らなくていいんだから、一つ一つ確実に。誰だって、初めから全部書ける人はいないんだよ。千個書ける人だって、始めの一つから覚えたんだから」
 「それはそうだけど!でも、すぐ覚えちゃう人となかなか覚えられない人がいるじゃん。僕は覚えられない方だから、バカに見えるかもしれないけど、僕、ほんとはそんなにバカじゃないからね」
 僕はむかついてムキになっていた。
 「あんた、何言ってるの!バカに見えるなんて言ってないでしょ!」
 やっと全問正解して授業が終わった。僕が帰ろうとすると、先生が呼び止めた。
 「あのね、浩平君、ちょっと話があるんだ」
 先生はにこにこしているけど、大人が「話がある」って言う時は、たいていよくないことが多いということを僕は経験から知っている。
 「あのさ、先生思うんだけど、浩平君はいろんなことをよく知っていて、頭の回転が速いし、よくできる子だなあって思ってるよ。ほんとだよ。でもねえ、今日の漢字みたいにちょっと苦手なことがあったり、わかんなかったりすると、すぐ感情的になって放り出したくなるでしょ?うまくできない自分は許せないと思ってるんじゃない?」
 先生が僕の目をじっと見るから、仕方なくうなずいた。そう言われると、確かに当たってるような気もする。
 「でもね、よく聞いてほしいんだけど、何て言うかなあ。漢字が書けなくても、難しい問題がすぐに解けなくても、浩平くんは浩平くんに変わりなくて、それだけでじゅうぶんなんだと先生は思うよ。わかる?だから、漢字がなかなか覚えられない自分を許せないみたいな考え方はやめようよ。それと、反射的にすぐ答えが出てこないといらいらするってことない?でも、わからないことは悪いことじゃないんだよ。わからないことに耐えて、じっくり考える、そういうことが大事だと思うの。考えて考えてやっとわかったっていう時の方が嬉しくない?だから、すぐできない時も、いらいらしないで、そういう自分も受け入れてほしいな。そのことをちょっと話しておきたかったんだ」
 「・・・」
 今度は先生の言いいたいことがよくわからなかった。でも、先生が僕のことをバカだと思ってないことはわかった。僕は珍しく何も言い返さず、うなずいただけだった。
 それから、一週間ぐらいして、お父さんが突然大阪から帰ってきた。ずっと単身赴任してて、普通はお正月と夏休みぐらいしか帰ってこないのに。あ、そうか。もうすぐゴールデンウィークだった。わお!ディズニーシーへ連れてってもらえるかも・・・
 と、期待した僕が甘かった。ディズニーシーを持ち出す前に、猛烈な夫婦喧嘩が始まった。どうして連絡もしないで急に帰ってきたのかとお母さんが聞いた。それはもう僕がそばで聞いていただけでも三回目ぐらいの質問で、お父さんはそのたびに答えをはぐらかしていた。今度もお父さんは返事の代わりにビールを飲んだだけだった。その飲み方がいつものお父さんじゃなかった。いつもはもっとゆっくり飲んで、「おう!」とか「う~ん」とか嬉しそうに声をあげるのに、今日はガブガブ一気飲みして、苦しそうに顔をしかめた。
 「ねえ、何かあったの?ねえ」
 お母さんがしつこく聞いた時、僕はまずいなあと思ったんだ。そしたら、やっぱり・・・
 「そうだよ。何かあったんだよ。だから、急に帰ってきたんだ。わりいか?」
 お父さんの目が血走っていて怖かった。夕食を食べ始めたばかりだったけど、さすがの僕も食べるどころじゃなくなった。
 「悪いなんて言ってないでしょ!心配してるだけなのに、そんな言い方しなくたって・・・」
 お母さんは今にも泣きそうな顔で怒った。
 「会社やめたからな」
 「え?」
 「だから、辞表を叩きつけてやったんだよ!あのたこ焼き所長に!」
 「たこ焼き?」
 僕は場違いにもあのうまかったたこ焼きの味を思い出してしまった。
 「つるっぱげのてっぺんにちょこっと毛が張りついてるのが、ソースのかかったたこ焼きみてえなんだよ」
 お父さんは僕に向かって説明した。
 「そ、そうなんだ」
 僕は引きつりながら笑った。お母さんの顔にもちょっとだけ緊張が緩んだ感じがあったけど、その後すぐに猛烈な言い合いになった。
 「そんな、あたしに相談もなくやめたなんて、これからどうするのよ!浩平だってこれからどんどん教育費がかかるのに、いったい、どうしてそんな馬鹿なまねができたわけ!だいたい、あなたは何でも自分勝手で、後先考えず決めちゃうんだから。新婚旅行の時だって、あたしは沖縄に行きたかったのに、なんで勝手に北海道にしたの?あなたは湿原に興味があったらしいけど、あたしは湿原なんかどうでもよくて、沖縄の砂浜でのんびりしたかったのに。車を選ぶ時だって・・・」
 「うるさい!昔のどうでもいいことをつべこべ言うな!」
 「どうでもいいですって?どうでもよくないわよ。あなたがそうやって大事なことをあたしに相談しなかったことの過去の例を・・・」
 「やかましい!おまえに相談したって、ろくなことを言わないのがわかってるからだ。男の職場の辛さなんかおまえにわかるもんか!週三日のパートぐらいで、あとは三食昼寝付きの主婦になんか・・・」
 「何ですって?」
 お母さんの顔がさっと白くなった。それから、筋肉が引きつって妖怪砂かけババアみたいな顔になった。お父さんの四角い顔は真っ赤でこっちはゆでだこだ。
 僕はそろそろと自分の部屋に退散した。お父さんが単身赴任する前も時々夫婦喧嘩はあったけど、今日みたいにひどくなかった。ディズニーシーの夢も消えて、ただ空腹感だけが残った。そうだ、コンビニで天むすと肉まんとジュース買ってこよう。あと、横浜の伯父さんちで食べた杏仁豆腐が食べたい。つるんと喉を通る時の香りと甘みが何とも言えない。でも、あれはこの辺のコンビニでは手に入らないのだ。僕は財布を握りしめて玄関へ行った。靴に片足を突っ込んだ時、お父さんの怒鳴り声とお母さんの派手な泣き声が聞こえてきた。

 今にも雨が降りそうな午後、僕はいつもの公園脇で土を掘っていた。また、仮病を使って学校を早退した。合唱コンのうざい歌なんか歌ってられるか。今日はお母さんが休みの日だから帰ったらいるかもしれない。またお酒を飲んでるかもしれない。あの夫婦喧嘩以来、お母さんはよく昼間から缶入りチューハイを飲んでいた。コンビニで雑誌の立ち読みがしたいけど、この時間だとやばい。結局、なんとなくこの場所に来てしまう。
 それにしても、ここって、いつも静かだ。子どもは学校に行ってる時間だから、いなくて当然だけど、どうして団地の他の大人が道を歩いてたりしないんだろう?おじぎ草を除いて。
 ゴールデンウィークは全然ゴールデンじゃなかった。お父さんは残務整理とかでまた大阪に行っちゃったし、お母さんは実家に帰ると言って、ばたばた荷造りを始めた。僕はお母さんについていくしかなかった。お母さんの実家は岩手県の山の中で何にもない所だ。最近になってやっとコンビニが一つできたけど、狭いし、なんとなく田舎くさい。雑誌や漫画も好みのがなくてがっかりだった。
 お母さんは爺ちゃんと婆ちゃんにお父さんの悪口を朝から晩まで毎日しゃべった。悪口を袋に詰めたら、3トントラック十台分くらいはあったと思う。そして、朝から缶チューハイを飲んでた。酔っぱらったお母さんは別人みたいにだらしなくて嫌いだ。これじゃ、ますますお父さんに嫌われちゃうよ。
 「あいつ、友人と二人で事業を起こすんだって。ねえ、浩平どう思う?いくら、所長と衝突したからって、そのたんびにやめてどうするのさ?あのね、あんたのお父さん、そうやってやめたの二度目だからね。二度あることは三度あるって諺、あんたも知ってんでしょ?何が起業家になるよ、産業廃棄物の処理?そんなの、うまくいくわけないじゃない。人のこと、バカにするくせに、自分こそ世間知らずのバカじゃない。自分が廃棄物になるのがオチだわ。浩平!あんた、お父さんみたいなバカになるんじゃないよ!お母さんあんただけが頼りなんだから・・・」
 お母さんが酒臭い息を吐いて、僕の肩を引き寄せた。僕はお母さんじゃないただの酒飲み女を突き飛ばして逃げた。
 それでもって、学校では担任の先生がゴールデンウィークをどんなふうに過ごしたか一人ひとり前に出て発表させた。どうして、そんなプライベートなことをみんなの前で言わなきゃならないんだ?伸也の奴は一家で沖縄に行ったんだそうだ。沖縄の海はきれいだったそうだ。沖縄料理の何とかもうまかったそうだ。ああ、そうかい、そうかい。よかったな!あののろまの青山君でさえ、北海道の旭山動物園へ行って、楽しかったとかほざいたし、代田さんだって水族館に連れて行ってもらった。海外旅行へ行った奴だっていた。中には特別どこも行ってない子もいたけど、そいつらだってお父さんと近所の公園でサッカーをして遊んだとか、お母さんとデパートへ買い物に行ったとか、ああそう、よかったねって言ってやりたいよ。僕だってお母さんと田舎へ行って、酔っぱらったお母さんの話を聞いて、とっても楽しかったよ。さすがに、そうは言わなかったけどね。
 ふと顔をあげると、目の前の道端に猫がいた。大きな黒猫で、片目がつぶれたように閉じている。開いている方の目は黄色く光っていた。毛並みが悪くて汚い。野良猫だ。猫はふてぶてしくじっとこっちを見つめている。まるでガンつけてるみたいだ。僕は無性にむかついた。僕は持っていた棒で猫の頭を軽く叩いた。すぐ逃げると思ったら、猫は恐ろしげに口を広げて、「シャー、シャー」と変な音を出した。尖った牙がむき出しになった。僕はちょっとひるんだけど、急にわけのわからない怒りにかられた。
 「おまえなんか、ちっとも怖くねえぞ!」
 僕は持っていた棒を猫の頭めがけて思いきり振り下ろした。短いけれど太い棒が猫の頭をとらえた。
 「ンッギャー」
 猫は頭を引っ込めて退散しようと方向転換した。僕は棒を持って追いかけようとした。すると、目の前に立ちはだかった者がいた。
 おじぎ草だった。おじぎ草はおじぎをする代わりに、持っていた杖を振り上げた。あっと思う間もなく、それは僕の左の肩口にバシリと振り下ろされた。僕は驚いておじぎ草を見た。おじぎ草は目を見開いて怖い顔をしていた。今までに見たことのない厳しい顔だった。が、その顔は次の瞬間にはもういつもの温和で皺くちゃの顔に戻っていた。
 「八つ当たりする卑怯もんだと、おまえのことを言っとったぞ。あの猫がな」
 笑いながらそう言うと、いつものように丁寧におじぎして、行ってしまった。僕はぽかんとしておじぎ草の後ろ姿を眺めた。おじぎ草の声を聞いたのは初めてだった。低いしゃがれ声だった。肩口に残る痛みの余韻がなかったら、何が起こったかわからないままだっただろう。あの猫が何て言ったって?おじぎ草がしゃべったのは僕の知らない別の言葉のような気がした。
 僕はそれからも相変わらず時々あの公園脇でアリを殺していた。いつの間にかそばにおじぎ草がいて、杖で打たれるんじゃないかと思ったけど、それから、しばらくおじぎ草を目にすることはなかった。
 大阪から戻ってきたお父さんは何か考え込むようなふうで、以前みたいに僕に話しかけてくれなかった。
 「あ、あつつつ!」
 この前は指先に煙草を挟んだまま、銅像みたいになっていて、慌てて煙草を灰皿に捨てていた。灰皿は吸い殻の山で、空気が悪い。お母さんがいれば、ベランダに追い出されるところだ。お母さんは実家に帰ったまま、まだ戻らない。もう五日になる。お父さんは料理をしないから、いつもコンビニ弁当かおにぎりだ。天むすも肉まんももう飽きた。
 「ねえ、夕食何食べるの?」
 僕は寝っ転がって天井を見ているお父さんに話しかけた。お父さんは返事をしない。壊れたマネキンみたいな虚ろな目を天井に向けているだけ。僕は何だか不安になった。お父さん、ほんとに壊れちゃったのかな?思わず目を覗き込んだ時、お父さんがぎょろりと目を動かして僕を見た。
 「浩平、お父さんと一緒に旅に出るか?」
 「旅?」
 「うん。大きなキャンピングカーを借りて、いろんなところへ行くんだ」
 「へえ。ディズニーシーへも行く?」
 「行くさ。どこでも浩平の行きたいところに行ける」
 「ほんと?」
 僕は嬉しい反面、変な気がした。お父さんの様子がちっとも嬉しそうじゃなくって、反対にひどく沈んでいたから。仕事をしないでそんな旅に出ていいのかと思ったけど、それは聞いてはいけない気がした。
 翌日になって、お母さんが帰ってきた。土曜日の夕方だった。お父さんは入れ替わるように出かけて行った。
 「浩平、会うといつもおじぎしてくるお婆さん知ってるでしょ?」
 お母さんは荷物を置くなり、そう尋ねた。
 「知ってるよ」
 「亡くなったんですって」
 お母さんが目を大きくして言った。僕も一瞬目が大きくなった。
 「今、そこで横井さんの奥さんに聞いたんだけど、お風呂に入ってて浴槽で眠るように亡くなってたそうよ。大往生ねえ。九十三歳だったんだって。かなりお年だとは思ってたけど、九十三とはねえ」
 その日のお母さんは酔っぱらい女じゃなくなっていた。僕は一度だけ杖で打たれた時のおじぎ草の厳しい顔を思い出した。杖で打たれたことはお母さんにはもちろん伸也にも話してなかった。
 「あした、団地の集会所で告別式があるんだって」
 お母さんは荷物を片づけながら、お婆さんのことばかり話した。お父さんのことは何も話さない。もうどうでもいいのだろうか。
 「誰にでも丁寧におじぎして、印象に残るお婆さんだったわねえ」
 その夜、雷が鳴って雨が激しく降った。お父さんは帰って来なかった。

 「僕も行く」
 翌日、そう言うと、お母さんはびっくりして「ほんとに?」と言ったけど、すぐ嬉しそうな笑顔になった。お母さんのそんな笑顔は久しぶりだ。
 集会室は団地の人たちがけっこう来ているみたいだった。正面に祭壇が作ってあって、額に入ったお婆さんの写真が飾られている。少し若い頃のみたいで、それほどしわくちゃじゃなくて、優しい綺麗な笑顔だ。お坊さんがお経を唱えている間暇だったので、人数を数えた。僕たちを入れて四十五人ぐらいだった。読経が終わると、一人のお爺さんが挨拶を始めた。
 「このたびはお忙しい中、母、徳永きよのためにこんなに多くの方にお集まりいただきまして、まことにありがとうございます」
 「お母さん、あの人、旦那さんじゃないんだ」
 お母さんの袖を引っ張ってそう言うと、お母さんは右手の人差し指を口の前に持っていった。
 「おかげさまで母はこの団地で九十三歳という天寿を全うすることができました。大往生です。本当に幸せだったと思います。若い頃からよく挨拶する人で、挨拶おばさんなんて言われてましたけど、年取ってからは、木や花にも挨拶するようになって、わたしゃ、こりゃあ相当ぼけてきたなあと思ってましたんですが、そのことを母に言ったら、『ばってん、柳の木の方からあたしに挨拶しよるけん、挨拶せんわけにもいかんばい』ちゅうて真面目に言いよるもんで、わたしも、ぼけとるのか何なのかよくわかりませんでした。でも、皆さん、母のおじぎに気持ちよく返してくださったようで、息子としてはたいへんありがたく感謝している次第でございます。最後は湯船の中で気持ちよさそうに眠るがごとくでして・・・本当に、こんなとこで眠らんと、ちゃんと布団に寝んさいよと声かけたほどでして・・・年を取ってからも、できることは自分でみんなしてましたし、リュックを背負って団地のスーパーに買い物に出かけるのが楽しみだったようで、ほんとに最期の最期まで誰の世話にもならず、悠々と・・・逝きました・・・これも、皆さまに温かく見守られていたからだと、心から感謝しております。・・・本当に皆さん、ありがとうございました」
 白髪のお爺さんが頭を下げると、拍手が起こり、それはなかなか鳴りやまなかった。
 「徳永さん、きよさんはほんと、気持ちのいい人だったよ」
 前の方のおばさんがそう言葉をかけた。
 「そうだよ。いつもにこにこ挨拶してくれてさ」
 別のおばさんが言った。
 「もっともっと長生きしてほしかったよなあ」
 僕の前にいる禿頭のおじさんが大きな声で言った。
 「きよさん、ありがとう!」
 「ありがとう!」
 「ほんとにありがとう。お疲れ様だったねえ」
 誰ともなく声があがって、またパチパチとゆっくり拍手が起こった。見ると、お坊さんがうなずきながら、大きく両手を打ち合わせていた。それに和すようにみんながいっせいに両手を打ち鳴らし、会場は大きな拍手に包まれた。お母さんも僕も拍手した。殺風景な部屋に何かあったかいものが充満している。白髪頭の息子さんが、ポケットからハンカチを出して目に押し当てている。
 それから、一人ひとりが前に出ていって、指で何かつまんでは放した。お焼香というのだそうだ。僕は初めてそれをやった。
 終わって家に帰る時、お母さんが独り言のように言った。
 「挨拶一つで、あんなに慕われて、惜しまれるものかしらねえ・・・」
 その夜、お父さんが帰ってきた。久しぶりに三人で夕食を食べた。お母さんはおじぎ草の告別式のことを話した。
 「ほんと、しみじみしたいい告別式だったわ。よその家のお婆さんなのに、涙が止まらなくて、こんなの初めて」
 「ほう、そんなお婆さんがいたのか」
 お父さんはおじぎ草に会ったことがない。
 「おじぎ草って言うんだ」
 僕はわかせんの授業で本物のオジギソウに触ってみた話をした。それから、あのお婆さんを見て、秘かに命名したことを語って聞かせると、二人とも身を乗り出した。
 「へえ、それはおもしろいわ。よく思いついたわね」
 「なるほど、うまいネーミングだな」
 二人に褒められて、大阪のたこ焼きの後に、横浜の杏仁豆腐を食べた時みたいな気持ちになった。でも、おじぎ草に杖で打たれたことは言わなかった。自分の悪さをわざわざ自分でばらすこともないと思ったせいもあるけど、本当は違うような気がする。あのことは僕とおじぎ草二人だけの大事な秘密で、まだ誰にも話せない。あんなに厳しい目をしたおじぎ草を見たのは最初で最後だった。その時おじぎ草が僕に言った言葉も覚えているけれど、僕はそのことに納得していない。
 「八つ当たりする卑怯もんだと言っとったぞ、あの猫がな」
 今まで誰からもそんなことを言われたことはなかった。卑怯もん?僕のプライドはそんな非難を許さない。八つ当たりはそうかもしれない。そのことで、怒られた、非難されたということは、わかるし、猫をいじめた僕が悪いのは納得できるけど。卑怯もんって言い過ぎじゃない?しかも、猫なんかに言われたくない。でも、なんだか、引っかかる。それだけじゃない気がして。でも、それ以上は今の僕にはわからない。
 その夜、お父さんとお母さんは遅くまで何か話していた。今度はお父さんの怒鳴り声もお母さんの泣き声も聞こえなかった。
 僕はおじぎ草のことを思いながら眠りについた。夢の中でおじぎ草がやって来るのを見つけたら、自分の方から駆けていくつもりだった。そして、おじぎ草にオジギソウのことを話してあげようと思った。ついでに、ジャン・アンリ・ファーブルのエピソードも。
 そこまで考えたら、今まで僕が殺したアリたちのことを思い出した。ずいぶん大勢のアリを殺してしまった。告別式をしよう。アリたちの。公園の土でお焼香だ。そしたら、きっと、おじぎ草もぶらりとやって来て、お焼香してくれるにちがいない。僕はふわふわしてきた意識に身を任せて目を閉じた。
 あ、おじぎ草がやってくる。
 柔らかそうな柳の葉陰からおじぎ草がひょこひょここちらへやって来る。僕の目の中で、おじぎ草は優しく微笑み、丁寧にお辞儀をした。それから、それから・・・その姿は、淡く霞んだ光の中に溶けて見えなくなった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み