第1話

文字数 1,938文字

 享保の頃、春先の夕刻。
 芝口より江戸よりの日本橋は、徳川家康が東海道の駅路の始まりを定めたときよりの賑わいを見せていた。老舗の商舗や料理屋が軒を連ねる一角にその宿はあった。「文月」と銘打たれた看板を店先に掲げたこじんまりとした宿には、男が数人。武家風の出で立ちで旅支度のまま急ぎ足で駆け入って行く。
 その後に続くように、のんびりとした歩みで宿を見定めている男が一人。こちらも旅装束で土埃にまみれた様から、東海道を下ってきたのだと見て取れた。
 文月の囲い入れ(客引き)の下女は彼に目を付ける。先ほど入っていった客とはまた違う風体だが、腰に差した大小が取り合えず彼を士分だと告げていた。

「旦那さん、いかがですか?」
「あーいやあ。いかがと言われてもな。泊りは決めてあるというか‥‥‥」
「何です、もうお決まり? でも、どこに。ずっとふらふら歩いてたじゃないか」
 侍――井沢忠介はおし、の強い娘だと思った。まだ若いくせに、侍を恐れない。宿屋の囲い入れをしていればこうなるのだろう。ふんっ、と息を吐いて被っていた笠の裾を片手で上げて見せた。
「女、眼鏡屋を知らんか。右近という名だ」
「眼鏡‥‥‥? 眼鏡師の田崎右近先生なら、あの角奥だけどねえ。旦那が御用かい?」
 妙に怪し気な風体だとじろじろと上から下まで見る下女は遠慮がない。
「うちに用が無いならさっさと行っとくれよ」
 などと追い払うように言うのだから、井沢もむかっときた。
「失礼な小女だ」
 そう漏らすと、時間がもったいないとその場を後にする。夕闇が迫っていて、角奥の店は木戸の先にありそうだ。ここで木戸を閉じられては朝までさっきの文月とかいう、旅籠に引き返すのはどこかしゃくだった。
 足早にその場を去る井沢だが、一度だけ意味ありげに文月のほうを振り返る。あの下女には腹立たしいが、それ以上に駆け入った侍たちに興味があった。

「おい、いるのか?」
 出来るだけ奥間まで届くように声を上げる。井沢のよく通る低い声はこの店の奉公人に届いたらしい。
「へい、しばしお待ちを」
 と、返事と共に出てきたのは二十代を越えるかという、皺が良く顔に刻まれた若者だった。井沢は彼に見覚えがある。数年ぶりに見た弟弟子は、また老け込んだように見えた。
「お前、右近。なんだその様は?」
「様‥‥‥? 俺は変わらんぞ。たかだか四年ほどの別れでもう呆けたか」
「それは俺の言葉だ、右近。また老けた顔をしおって。眼鏡作りに精を出し過ぎだ」
「そうか? 気のせいだろ」
 そんなやり取りの合間に下男が持ってきた足洗いようの桶で、両脚を清めると、てぬぐいを奪う。
 井沢はどうなんだ、と言葉をかけた。
 芳しくない、そんな返事と共に店奥に案内される。離れに人の気配があったが、気にせずに井沢は案内されるまま客間に入った。
「黒田は、やはりなったか?」
「むう。そうだな。綱吉公からの下げ拝領された奥方様は、宜しくないそうだ」
「どう宜しくない?」
「九州は江戸より遠い外様の地。うらぶれた者も多い。葵の紋付もそれなりに力が無い。むしろ、嫌われるほどでな。贅沢が出来ん。そういうことだ」
「なるほどな。それでお前がここに、か」
 井沢はうなづく。二人が学んだ長崎での医学の恩師。その兄弟子が、黒田藩の御典医に上がっていた。 
 ただえさえ金策に喘いでいる外様なのに、将軍の娘は贅沢を望んでいる。金がいる。そいうことで黒田は揺れに揺れていた。
「あの文月は黒田の先代の殿様の御手付きがあったとの噂だがなあ? どうなんだ?」
「あったから、いまでも府内に入る前に下士が入るとも聞くがな」
「右近、さっきな。幾人か駆け入って行ったぞ、ここに来る前だ。」
「まあ、金策も大変だな。ご府内ならまだしも、黒田では――我らも何もできん。まあ、こっちにいても出来ることは少ないがな」
「たまさか。‥‥‥文月のいまの女将は、御用商人の廻船問屋、白船屋の出だそうだ」
 ぽつりと右近が漏らすのを井沢は聞き漏らさなかった。
「今度は舶来物でも手を出す気か? まあ、俺には関係ないが」
「しかし、眼鏡屋としてはあるだろう?」
「まあ、白船屋といえば福井からの産物を陸路も一手にな。水晶(レンズ)の加工も素晴らしいものがあの地は多い」
 そこでだ、と井沢は要件を切り出す。
「水晶の良い物をお前なら手にできる。白船屋に文月経由で黒田に伝手もできる。眼鏡を作るという理由ですべてが丸くいく」
「舶来のものは幕府の目も厳しいというのに‥‥‥」
「まあ、俺と兄弟子を救うと思ってだ」
「まずは黒田か。遠いな‥‥‥」
 こうして右近は白船屋の家人とともに福井を経て九州へと向かうことになる。
 贅沢な姫様のお眼鏡に叶う品を用意できるかどうか。
 不安な旅の始まりであった。
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