第1話

文字数 109,821文字

題名 旅人からのメッセージ「棚田を訪れて」 氏名 倉持一治
はじめに
書店で立ち読みをしていると、偶然「日本の棚田百選」というタイトルに引きつけられ、衝動買いをしてしまった。アフリカツインを購入して、二年目のことだった。全国の林道を走り回っていた頃だった。
棚田に興味があったかどうかは定かではないが、分かっていることは「林道」に関心があったことだけは確かだ。ツーリングマップルを開けては、アフリカツインで走行できそうなルートを確認していた。「林道」イコール「棚田」の方程式は、成立しないのか?
そんな私が「棚田」目的に考えた初めてのルートが、石川県輪島市「白米千枚田」だった。理由は簡単で、バイク雑誌に「白米千枚田を走行するバイク」が載っていたからだった。棚田に興味があったのではなく、棚田のある風景を旅してみたかった?理由が定かではないが、とにかく私は「日本棚田百選」を衝動買いしてからは、「林道」から「棚田百選」の棚田を訪れる旅を続けた。

 も    く    じ
●その一「新潟から長野の棚田」を求めて (二〇〇三年六月七日~八日)
 ◆「留守原(るすばら)」新潟県十日町市、「花坂の棚田」柏崎市           「福島新田の棚田」長野県飯山市
●その二「長野県の棚田」を求めて (二〇〇三年六月二十一日~二十二日)      ◆原田沖、根越沖(ねごしおき)、慶師沖(けいしおき)、栃倉、大西、田沢沖     重太郎、姥捨(おばすて)、稲倉(いなぐら)、滝沢、姫子沢、宇坪入(うつぼいり)
●その三「伊豆半島の棚田」を求めて (二〇〇三年六月二十八日~二十九日)
 ◆「下ノ段棚田(しものだん)」伊豆市
●その四「栃木県の棚田」を求めて (二〇〇三年七月五日)
 ◆「石畑(いしばたけ)」茂木町、「国見」那須烏山市
●その五「四谷千枚田・よこね田んぼ」を求めて (二〇〇三年九月二十七日~二十八日)
 ◆「よこね田んぼ」長野県飯田市、「四谷千枚田」愛知県新城市
●その六「山形の棚田」を求めて (二〇〇三年十月十一日~十三日)   
 ◆「大蕨の棚田」山辺町、「くぬぎ平」朝日町、「四ヶ村」大蔵村
●その七「紀伊半島の棚田」を求めて (二〇〇三年十一月十七日~二十日)      ◆「丸山千枚田」熊野市、「蘭島(あらぎじま)」有田川町、             「下赤坂の棚田(しもあかさか)」大阪府
●その八「関西の棚田を求めて」 (二〇〇四年四月三〇日~五月四日 )       ◆「畑」滋賀県高島市、「日引(ひびき)」福井県高浜町、「毛原(けはら)」福知山市、  「西ヶ岡」「うへ山」兵庫県加美町、「横尾」鳥取県岩美町、「つく米(よね)」    鳥取県若桜町、「北庄(きたしょう)」岡山県久米南町、「小山」岡山県美咲町、    「岩座神(い さりがみ)」兵庫県多可町、「長谷(ながたに)」大阪府能勢町   
●その九「中国地方から九州の棚田(一)」を求めて(二〇〇四年七月二十二日~    ◆2「長谷」、2「北庄」、「神谷(かんだに)」島根県邑南町、「井仁」広島県安芸太田  「大井谷」島根県古賀町、「竹」福岡県東峰村、「尾戸の口(おどのくち)」「栃又」  「徳別当」高千穂の棚田、「美生(びしょう)」熊本県八代市          
●その十「北陸・中国地方の棚田」から、九州へ(二)二〇〇四年七月三十一日~    ◆「青鬼」長野県白馬、「長坂」富山県氷見、「白米の千枚田(しろよね)」石川県輪島  「室谷」島根県浜田市、「東後畑(ひがしうしろばた)」山口県長門市
●その十一「四国の棚田(一)」を求めて(二〇〇四年八月二十五日~         ◆「樫原(かしはら)」徳島県上勝町、「下影」徳島県三次市、「奥内」愛媛県松野町   「堂の坂(どうのさこ)」愛媛県西伊予市、「泉谷」愛媛県内子町、         「神在居(かんざいこ)」高知県ゆすはら町
●その十二「紀伊半島から九州の棚田(三)」を求めて 二〇〇四年九月十七日~    ◆2「丸山千枚田」、2「蘭島」、「白川」福岡県朝倉市、2「竹」、「広内・上原(ひろ  うちうえばる)」福岡県八女市、「葛籠(つづら)」福岡県うきは、「江里山」佐賀県  小城市、「蕨野」佐賀県唐津市、「幸田」鹿児島湧水町
●その十三「四国の棚田(二)」を求めて (二〇〇九年八月六日~九日)       ◆2「よこね田んぼ」、「中山千枚田」香川県小豆島
●その十四「花坂の棚田」を求めて (二〇〇九年九月七日)
 ◆5「花坂の棚田」新潟県
●その十五「九州の棚田(六)」を求めて(二〇〇九年九月十八日~二十三日)     ◆2「蕨野」佐賀県、2「江里山」佐賀県、2「葛籠(つづら)」福岡県、       2「広内・上原」福岡県、「石垣の村」宮崎県日之影村、              「乙大木(おつおおきだに)」兵庫県作用町
●その十六「九州の棚田(八)」を求めて(二〇一〇年四月三十日~五月五日)     ◆2「大井谷」島根県、3「蕨野」佐賀県、「大浦」佐賀県唐津、3「浜野浦」佐賀県
  3「土谷」長崎県、2「室谷」島根県、「都川」島根県浜田市、2「横尾」鳥取県   2「うへ山」兵庫県、2「西ヶ岡」兵庫県
●その十七「大蕨の棚田(四)」を求めて (二〇一〇年九月二十六)
 ◆4「大蕨の棚田」、4「くぬぎ平の棚田」
●その十八「九州へ」 (二〇一六年五月五日~二十六日)
 □五月七日(土)2◆東後畑(ひがしうしろばた)山口県
 □五月十二日(木)◆「坂本の棚田」宮崎県日南市
 □五月十四日(土)◆5「土谷の棚田」長崎県、5「浜野浦の棚田」佐賀県
 □五月十七日(火)◆6「土谷の棚田」長崎県、6「浜野浦の棚田」佐賀県
 □五月十八日(水)◆7「浜野浦の棚田」佐賀県
 □五月二十一日(土)熊本震災、◆3「東後畑(ひがしうしろばた)」山口県
 □五月二十三日(月)◆6「白米千枚田」石川県
 □五月二十四日(火)◆7「白米千枚田」石川県
 お  わ  り  に

記号●題名 □日程のポイント ◆主な棚田の地名、場所 ☆感想
●その一「新潟から長野の棚田」を求めて (二〇〇三年六月七日~八日)
□六月七日(土)◆「留守原(るすばら)」新潟県十日町市、「花坂の棚田」柏崎市
午前七時過ぎ、棚田を求めてスタート・・・・。国道五十号線から、赤城の麓を走り抜け「赤城インター」から関越道にはいる。朝から単車が多く、なぜか心がうきうき・・?朝食は五十号沿いのマックで済ませてあるので、イライラすることもなかった・・・?
高速道に入り赤城高原パーキングで小休止、単車だらけでアフリカツインのパーキングがない?なぜか、さらに心がうきうき・・?ベンチで横になった後、再び関越道を走る。関越トンネルを抜けると、「塩沢・石打インター」で下りる。下りたところでセローと一緒に走ることになる。
国道に出ても一緒になった。私は「松之山」目指して走行しているが、セローも同じ方向らしい。もしかしたら、私と同じ「棚田」の写真を撮りに行くのか?私は、「松之山町」ではなく「高柳町」が目的地だった。
私は途中から国道三五三号線をはずれ、国道四〇五号線に入った。松之山町にはいるのなら、国道三五三号線がベストなのだが、棚田の写真を撮るため国道四〇五号線から松之山に入った。国道とは言っても、かなり狭い国道で、ほとんど車は走っていない。峠を下ると、お目当ての棚田(留守原)があった。去年の秋(二〇〇二年九月十日)に訪れたときには、アマチュアカメラマンがいたが、今回は私だけだった。
ポイントは、茅葺きの農作業小屋と一本の杉の木だった。数枚の写真を撮った。残念ながら、今回は三枚の棚田が休耕田となっていた。私が立ち去ろうとすると、二台の車が入ってきた。車から降りて、棚田を見ると
「何だよ、三枚も今年は休耕田になっているぞ、これじゃ撮っても意味がないから違う場所に行くか・・・。」
と言い、すぐに行ってしまった。もう片方の人は、三脚を出していた。
私はバイクに戻ると、峠をゆっくり下った。ポイントを探しながら下っていると、右側で、スケッチをしている老人がいた。バイクでその場所に行くと、ちょうどおにぎりを出して食べ始めるところだった。私は、去年この場所からは写真を撮っていなかった。ただ下ってしまったので、分からなかったのだ。でも、今回は二人の老人がいたので分かったのだ。
写真を撮り終えると、去年訪れた場所を国道沿いに訪れた。あくまでも、今回は「高柳町の棚田」なので、去年のように時間をかけずに撮った。
途中昼食をとり再び「高柳町」目指して走ると、「民家と花」の美しさに立ち止まってしまった。バイクを止めカメラを片手に歩いていると、一人の老人が近づいてきたので、私は
「こんにちは」
と、挨拶をした。挨拶をすると、老人はいろいろと私に話しかけてきた。私も、老人の質問に答えた。老人の話だと、古い家がどんどん無くなって、茅葺き屋根の家はもうほとんど残っていないと言うことだった。
高柳町には着いたのだが、どこに棚田があるか分からないので、観光マップを探した。やっとの事で観光マップを探したが、観光マップには、棚田以外に「茅葺き屋根」の文字が多くあった。
私は、「茅葺き屋根」の文字に誘われるように、何カ所かの茅葺き屋根を見に行った。この茅葺き屋根は田圃とうまくマッチしていて、非常にすばらしい景色を見せてくれた。私は棚田を探しに来たが、茅葺き屋根もいいなとカメラのシャッターを切った。(かやぶきの里)
県道十二号線から県道七十八号線に入り、大野を目指した。次の棚田が三か所目の棚田になる。交通量の少ない県道を抜け、農道にはいる。軽トラックが通れるくらいの農道だった。ちょっとフレンデイで走れと言われたら、ためらってしまうような狭く、谷川に切れている農道だった。最後まで行くと、軽トラックがおいてあった。どうやらここで行き止まりらしい。
バイクを止め後ろを振り返ると、そこにはすばらしい棚田が広がっていた。私は、しばらくその棚田の風景に見とれていた。「今回の棚田の中では、一番の棚田ではないだろうか・・・。」私は、そう思った。「花坂の棚田」
棚田を後に、国道三五三号線を「柏崎」目指して走った。できたら、夕陽が見たいと思っていた。天気はまあまあだから、夕陽は可能であると思った。柏崎市内に入る前に、ロードマップで適当な場所を探した。「鯨波海岸」が適当な場所と思い、鯨波海岸に向かった。
海岸にはすぐに着いてしまった。時計を見ると午後五時半だった。太陽が沈むまでにまだ時間があると思い、適当な宿を探し始めた。できたら、窓から夕陽が見えたら・・・、それに温泉も・・・・。そんなことを思って探していたら、「笠島」「米山」「柿崎」と過ぎてしまった。ガソリンも残り少なくなり、辺りも暗くなってしまった。とりあえず、スタンドが閉まってしまわないうちに、タンクを満タンにした。それから再び宿探し、最終的には、民宿になった。
□六月八日(日)光が原高原牧場、関田峠、◆「福島新田の棚田」長野県飯山市
朝から、物音がうるさかった。夕べの宿の話だと、「フィッシング大会」が上下浜であると言うことだった。だから、朝から会場に向かったのだろう。時計を見ると、午前四時だった。私は、再び床についた。
リリリーン、朝は電話の音で目が覚めた。受話器を取ると
「朝食の用意ができています。」
と、女将さんの元気な声が聞こえた。私は、すぐ下におりた。そこには、一人前の朝食の用意がしてあった。
朝食が済みちょっと横になると、本日の日程を確認して宿を出た。ぴったり、午前八時だった。せっかくだからと思い海岸線ばかり走っていたら、上越市に着いたのは午前九時過ぎだった。これは、想定外の時間だった。
国道一八号バイパスを走り、寺町の信号機を左折して県道九十五号線へと向かった。県道が見つからず少し時間をオーバーしてしまったが、県道が分かるとあとはすばらしいコーナーと景色が待っていた。
対向車も少なく、すばらしいコーナーリングを楽しんだ後に待っていたのは、「光が原高原牧場」だった。私が創造していた牧場より、景色が良かった。観光客も、ゼロに近かった。そのすばらしい牧場を後に、さらに高度を増しながらコーナーを攻めていくと、回りに残雪が見え始めた。
関田峠は「峠の茶屋」があるだけで、これといった物がなかったが、登山客が多かった。道路沿いには、登山客の車がたくさん駐車していた。私もバイクを止めようと思ったが、場所が狭かったのでそのまま通り過ぎた。
急な峠を下ると、左側に展望台があった。私は、その展望台のところでバイクを止めた。展望台から眺めると、「飯山市内」が見えた。私は、展望台に到着してから急に雲が多くなってきたので、雷雨を心配した。今回は棚田が目的なので、すぐに峠を下りた。峠を下りると、「飯山マラソン」に遭遇してしまった。最初は少なかったのだが、市内に近づくにつれ、交通規制が厳しくなった。そこを過ぎると、「戸狩スキー場」の看板が多くなってきた。
戸狩の信号機右側のセブンイレブンで、小休止をした。バイクの横で牛乳を飲んでいると
「北海道から来たんですか?」
と、おばさんに尋ねられた。私は、
「いえ、茨城県からです。昨日来て、今日は帰るところです。」
と、答えた。どうやらパニアケースに貼ってあるステッカーで、勘違いをしているようだった。ナンバーを見れば分かることなのに・・・。
飯山駅の観光案内所でパンフレットをもらい、棚田へと向かった。パンフレットからだと、どうも「菜の花の丘」の近くに棚田があるようだった。千曲川に沿って国道一一七号線を走っていると、左側に道の駅があったので、道の駅で昼食をとることにした。まだ食堂は混んでなかったので、混む前に昼食をとることにした。この道の駅は昨年できたばかりだそうで、とても綺麗だった。それに、低価格なのも良かった。
私が昼食を食べ始める頃に、急に客が多くなってきた。私は、食事が終わるとすぐに外のベンチで横になった。出発前から腰が痛かったので、なるべく横になる時間を多くとるようにしていた。それに、腰にはバンドをしていた。
食後の休息をとり終えると、バイクを「菜の花の丘」へと向けた。菜の花の丘にある二つ目の信号機を左折すると、道路が急な登りとなった。高度を増すと、棚田が見えた。さらに進むと、小さな村があった。その村を過ぎたところが棚田になっていた。湾曲した棚田が、とても美しかった。私はバイクで進めるところまで進み、写真を何枚も撮った。それから、棚田を後に下った。「福島新田の棚田」
村の雰囲気がとても気に入り、すぐには下らずに、バイクを何度も止めて、歩きながら村の中の風景をカメラに収めた。特に、建物と花は綺麗だった。村を過ぎると、私は何度かバイクを止めて、このまま高速を使って帰るか、志賀高原に行くか悩んだが、最終的には高速に入った。
小布施を過ぎると、長野インターで下りて裾花中(女子バレーでお世話になっていた)に寄っていこうとも考えたのだが、失礼にあたってもいけないと思い長野インターは素通りした。上信越から関越に入り「花園」で下りるつもりでいたが、藤岡から先は混んでいたので、国道十七号線をいつもの通り走り、帰宅した。着いたのは、午後六時半だった。
☆ 去年「日本棚田百選」を購入して、真っ先に訪れたのが新潟県の棚田だった。正確に は、二00二年九月一〇日に訪れている。棚田の数が多く、名前と場所が一致せずに苦 労した。

●その二「長野県の棚田」を求めて (二〇〇三年六月二十一日~二十二日)     ◆原田沖、根越沖(ねごしおき)、慶師沖(けいしおき)、栃倉、大西、田沢沖     重太郎、姥捨(おばすて)、稲倉(いなぐら)、滝沢、姫子沢、宇坪入(うつぼいり)
□六月二十一日(土)◆「原田沖、根越沖、慶師沖(けいし)」県道一二号線沿いの棚田
「栃倉、大西、田沢沖」旧中条村の棚田
梅雨の中休みなのか、週間予報がはずれて快晴となってしまった土曜日、喜んでいいやら、悲しんでいいやら・・・。天気予報を見てから、午前七時過ぎに出発・・・。東北道か、上信越道か迷いに迷って上信越道へ・・・。
節約のため、藤岡インターからはいる。途中の朝食は、久々のディニーズで・・。残念ながらお目当てのサラダセットはなかった。
高速道は混んでいた。梅雨の中休みと言うこともあり、バイクも多かった。朝から太陽の照りつけるアスファルトの上を快調に飛ばし、「坂城インター」で下りた。国道一八号線から県道一六〇号線へ・・・。県道一六〇号線は拡張工事のため、所々「工事中」の立て看板がおいてあったが、快適なワィンディングロードを一部楽しむことができた。この拡張工事が終わったら・・・。
今回のお目当てである県道十二号線は、かって白馬からの帰りにフレンディで走ったことがある県道だった。私も出発する前はあまり考えていなかったのだが、「麻績インター」の下を通過して、棚田が右手に見え始めてから、かすかな記憶がよみがえってきたのだった。決定的だったのは「地蔵様」だった。
棚田の場所が分からず大岡村役場に行き
「すいません。この辺に棚田があると聞いたのですが・・・・。棚田マップのような物が有れば・・。」
と声をかけると
「棚田マップですか・・・?すいません棚田マップはありませんけれど、観光マップならなんとかなりますが・・・。」
と、受付の人が返事をして、観光マップを渡してくれた。残念ながら、観光マップには棚田がチェックされていなかった。
私はあらかじめ自分で下調べしていた場所を走ってみたが、棚田はあるのだが正式な名称が分からなかった。とりあえず、所々で写真は撮ってみたが不安は残った。昼食を食べる場所がほとんどない場所だったので、迷わずに展望レストランに入った。メニューを見て驚いてしまった。食べる物は、パンのみだった。私は思わず、
「ランチは、ありますか?」
と尋ねてしまった。すぐに
「パンとサラダと飲物がセットになっておりまして・・・・。お客様がどうしてもパンが食べられないと言うのでしたら・・・、パンをスパゲッティにかえますが・・・。」
と返事が返ってきたので、私はスパゲッティを頼んだ。「慶師沖、根越沖、原田沖」
昼食が終わると、県道十二号線を下り「信州新町」に下りた。ここから国道十九号線に合流した。この辺はカヌーで下ったことがあったし、白馬に向かうときも通ったことがあったので懐かしかった。中条村にはいると、再び県道に・・・・。
ロードマップを頼りに、林道に入った。林道と言ってもすべて舗装済みの林道なので、
何の問題もないが・・・?大岡村と違って、ここは案内板があった。「棚田百選」の案内板を頼りに、私は棚田に向かった。一つ目は、左折するとあった。左側に棚田が見えた。写真を撮っていると、一人の老人が話しかけてきた。
「棚田の写真を撮ってるのけ・・・、ここで撮るよりあそこさ行って撮った方がいいのが撮れる・・。」
私は老人の言われるままに行ってみたが、道がわからなくなってしまい次の棚田に向かった。次の棚田も左側に「棚田百選」と書いた案内板があった。そのまま左折すると、今度は道が急に細くなった。下手をすると、アフリカツインでUターンできないおそれも出てきた。私は適当な場所を見つけると、Uターンしてもとの林道に引き返した。再度マップを見て、途中から右折してみた。今度は、うまく棚田の所に着いた。しかし場所が狭いので、長く写真を撮ることはまずいと思い、撮るだけ撮ったらもとの林道に引き返した。
三つ目の棚田を探していたのだが、見つからず、最後には国道に出てしまった。
三つ目を見つけるために、中条村でも同じように役場で
「すいません。この辺に棚田があると聞いたのですが・・・。棚田マップのような物はありますか?」
と、尋ねた。受付の人は奥に入ると、パンフレットを持って戻ってきて
「このようなパンフレットしかございませんが。」
と言い、パンフレットを差し出してくれた。私は、それを見た。そこには三カ所の棚田が載っていた。「栃倉、大西、田沢沖」
私は、パンフレットを頼りに再度林道に向かった。しばらくして、三か所目も探すことができた。再び国道に出ると、白馬に向かった。途中の三叉路のところで白馬に向かうことをやめ、木崎湖に向かった。
木崎湖には、すぐに着くことができた。このまま宿を探すより木崎湖の写真を撮った方がおもしろいと思い、木崎湖のところにバイクを止めた。山に太陽が沈むところまで太陽が来ていた。そのためか、湖面に太陽の光が反射して、綺麗な景色を作り出していた。私はその写真を何枚か撮ると、宿を探した。
何軒か見て回ったが、最終的には民宿に泊まることになった。一泊二食付きで六千円という料金が気にいった。
□六月二十二日(日)◆「重太郎」大町市、「姥捨」千曲市、「稲倉」上田市                「滝沢・姫子沢」東御市、「宇坪入」小諸市
朝風呂に入り、朝食を午前六時半にとった。天気予報をずっと見ていた。どうやら、松本地方より長野地方の天気がよいようだ。本当ならビーナスラインを走りながら帰宅するつもりでいたが、今回の目標である「棚田」を優先して・・・?更埴から東部と棚田を回って帰宅することにした。
大町市から県道五十五号線で、八坂村に向かった。ここには、小さな棚田が三つある。今までの経験からすぐに役場を探したが、時間が午前八時と早すぎて役場が開いていなかったので、                                   「すいません。近くに棚田があると聞いたのですが?」
と、役場の近くにいた老人に尋ねた。老人は
「この道を左下に曲がると一つ、それと右に曲がると一つ、それからこの役場下に一つあるよ・・・。」
と、教えてくれた。私はお礼を言うと、左下の棚田に向かった。道の右側に棚田が広がっていた。それから、休息所もあった。私は、棚田を歩いて写真を撮った。その後、残りの棚田を見たが、写真は撮らなかった。(重太郎)
県道五十五号線をさらに進むと、国道四〇三号線と合流した。私は、国道を左折した。国道とは言っても、道は狭かった。ここから更埴に向かった。「田毎の月」で有名な姨捨に行くためだった。
「聖高原」での峠越えが、とても気持ちよかった。交通量の少ないワィンディングロードが続いたからだった。峠の頂上で休憩をとり、峠を下った。下りの途中で、右下に棚田が見えた。「田毎の月」の案内板に従って、国道を右折する。右折した後も、長い下りが続いた。右折すればすぐに棚田が見えるかと思っていたが、かなり下った所に「姨捨駅」と「田毎の月」の看板が見えた。
神社の所をさらに右折すると、棚田の所に出た。ひとまず私は、そこでバイクを止めカメラを取り出した。ファインダーを覗いていると、さらに右奥の方にたくさんの棚田が見えた。私は、ここで写真を撮るよりあちらに移動したほうがよいと考え、バイクの所に戻った。
ヘルメットをとろうとすると、駅の方から老夫婦が下りてきた。私のところで立ち止まると、老人は
「これは、ホンダのアフリカツインですよね・・・、確か二気筒でしたね・・。」
と話しかけてきた。私は、
「ええ、これは最終型でもう生産されていません。たしか今あるのは、輸出用だけだと思います。」
と、答えた。さらに老人は
「実は、私も二五〇のスクーターを持っているんですよ・・、今日は電車で銚子から来ましたが・・・。」
と言った。私にそのことを話すと、老夫婦はお礼を言ってその場を通り過ぎた。
私は、老夫婦が降りてきた駅の方向に向かった。本当なら初めから上まで行きたかったのだが、あまりにも狭く急な登りだったので私はためらってここでバイクを止めたのだった。慎重に登って行くが、三百メートル進んだところでライトバンが止まっていて、それ以上前に進むことはできなかった。適当なところでバイクを止めてバイクから降りると、民家に入り
「こんにちは、誰か居ませんか?」
と声をかけると、奥から
「はい。」
と言う返事と共に男の人が出てきた。私は、
「すいません。この先はどうなっていますか?バイクなんですけれど通れますかね?」
と、尋ねた。男の人は、
「この先は行き止まりだよ。でもスクーターのような小さなバイクだったら大丈夫だけど、大きなバイクだったら通れないよ。」
と、応えてくれた。
私はその話を聞いて、先ほどの道を引き返した。県道に出ると、棚田が見えた方に下った。神社から少し下ると「田毎の月」という案内板が見えた。私は、その案内板に従って県道を右折した。すると、目の前に棚田が開けた。すぐに駐車場の案内板があったが、それを無視してさらに上にあがった。
バイクでUターンが難しいなと思われる場所まで上がり、そこにバイクを止めてカメラを取り出した。思っていた以上に棚田は綺麗だった。ちょっと残念だったのは、「更埴市」が眼下に見渡せるので、その景色がファインダーの中に入ってしまうことだった。なるべく棚田だけが収まるようにフレーミングして、シャッターを切った。(姨捨の棚田)
かなりの枚数を撮り、国道一八号線にでた。国道を下り「上田市」に出た。ここには、棚田が三カ所ある予定だった。あらかじめロードマップで確認したとおりに進むと、右側に「稲倉の棚田」という看板が見えた。看板を通り過ぎると、Uターンしやすい場所でUターンをして、棚田の所に戻った。
左下に大きな棚田が見えた。高速道の近くにこんな素敵な棚田があるとは、私は今まで全く知らなかった。ここは、何十回となく通っている道だったのに・・・・・。道路にバイクを止め、何枚かの写真を撮ると、県道を左折して、棚田に下りた。今までの棚田よりは、アプローチが簡単だった。場所を変えては写真を撮り、移動しながらかなりの枚数を使った。途中で、小さな穴に足を踏み入れてしまい転んでしまったが、カメラに異常はなかった?(稲倉の棚田)
さらにここから東部町に向かい「姫子沢の棚田」「滝沢の棚田」と探した。どちらも「湯ノ丸高原」に向かっていけば分かるだろうと、私は湯ノ丸高原方面にバイクを進めた。ロードマップには「滝ノ沢」という名称だけが載っていたので、それを頼りに探した。
昼食もかねて道を聞こうと、左側にあったできたばかりのそば屋に入った。入ると
「すいません、とろろ蕎麦一つ下さい。それから近くに滝沢という地区がありますかね?棚田があると聞いてきたんですが・・・。」
と、私は尋ねた。そば屋の主人が
「このまま行くと、左がわに滝沢という看板が立っていますから、左折して下さい。」
と言った。私は、その話を聞いて自分が道順を間違わなかったことに安心した。
私は、蕎麦を食べるとすぐに滝沢に向かった。しかし、私が思っていたような棚田はなく、いつの間にか「姫子沢」に着いてしまった。「姫子沢」は、ロードマップに載っていなかったのであきらめていたのに・・・・。喜んでいいやら悲しんでいいやら・・・。神社の右側を上にずっと登っていくと、棚田が広がっていた。狭くUターンが難しい農道だったが、私はそのまま上に上にと登った。農道と言っても、舗装された農道だったので、走りやすかった。
棚田を見渡せる場所でカメラを取り出したのだが、かなりの棚田が休耕田となっていた。そのため、棚田の美しさが少し失われてしまったような気がした。農家の人には申し訳ないが、是非棚田を続けてほしいと思った。(姫子沢の棚田)
滝沢の棚田がはっきりしないまま、私は最後の「宇坪入の棚田」に向かった。ここも、ロードマップで確認しておいたので、思ったよりすぐに見つけることができた。いつもは下りで使っている「高峰高原」への道を、今度は上がっていくことになった。
☆ 私の購入した「日本棚田百選」には、棚田の住所は載っていたが、地図が載っていな かった。(有名な棚田のみ、いくつか地図が載ってはいたが?)又、ツーリングマップ ルにも、棚田は載っていなかった。(現在のツーリングマップルには載っている物と載 っていない物があるが、以前に比べたら棚田の情報量は多くなっている。)
とにかく、地図を頼りに探すより地元の人に尋ねることが多かった。だから地元の人 との会話が多かった。

●その三「伊豆半島の棚田」を求めて (二〇〇三年六月二十八日~二十九日)
□六月二十八日(土)東名から伊豆半島へ                 時間は、午後一時過ぎ・・・・・。空模様は、どうにか雨が止み回復の兆し有り、朝の天気予報でも午後には雨があがると言っていた。ちょっと太陽が見えたので、即準備を始める。
どうにか午後二時前に出発することができた。ちょっとフロントブレーキの戻りが悪いので、引き返すことも考えたがそのまま走る。久喜インターから東北道にのる。アスファルトが濡れているので、先ほどまで雨が降っていたことが伺える。
首都高にはいると、すぐに左折して川口サービスエリアにはいる。フロントブレーキと、首都高の混み具合を確認する。フロントブレーキは、アジャストを閉めたらすぐに直った。首都高は、一部混んでいるが流れはまあまあだった。問題は、箱崎からはいるか、池袋からはいるかだった。今年から池袋を回って東名や中央にはいることができるようになった。サービスエリアから出ながら悩んで走っていたが、「箱崎渋滞一キロ」の掲示板を見て、箱崎から東名にはいることにする。池袋方面は渋滞六キロになっていた・・・。
首都高も箱崎が渋滞していただけで、流れは良かった。約一時間ほどで東名にはいることができた。東名は全く問題なかったが、天気が心配になってきた。「足柄サービスエリア」ではかなり時間をつぶしてしまった。なぜかというと、天気が心配だったからだ。予定では御殿場インターから下りるつもりでいたが、時間に余裕が出てきたのでこのまま静岡まで走り、明日伊豆半島を回ろうかという考えも浮上してきた。最終的には、沼津インターで下り、国道四一四号線を走った。
 修善寺に着いたのは、午後六時だった。問題は、ここからだった。見つけた二十四時間営業の健康センターが「休館」になっていたのだ。ここから、宿探しに一時間半かかってしまった。最終的には、修善寺温泉の民宿に素泊まりすることになった。
夕食を買いにサークルKまでもどり、その後風呂に入り、夕食を食べたのは、午後八時過ぎだった。
□六月二十九日(日)◆「下ノ段棚田(しものだん)」伊豆市
午前五時ごろ目を覚ますが、朝風呂が午前六時頃からだったので、そのまま布団に入っていた。ついうっかりして、起きたのは午前六時半、宿を出たのは午前七時だった。せっかく来た修善寺なので、バイクを止めぶらりとする。観光客の姿はまばらだった。修善寺で交通安全のステッカーでも買おうと思ったが、時間が午前七時と言うことで店はすべてしまっていた。再びバイクに戻り、出発・・。途中「虹の郷」に行くが、開園が午前九時と言うことで、ここも入れず棚田探しに向かう。
国道一三六号線を、下田方面目指して走る。「天城湯ケ島町」から、国道一三六号線を右折し、県道五十九号線に入る。ところが、県道にはいるときに大型のバスが国道に出てきたので私は県道にはいることができず、そのまま進みUターンして県道五十九号線にはいった。最初は古びたせまい温泉街になっていたが、温泉街を過ぎると左側に棚田が見えた。「金山」という地名を頼りにいくつかの棚田を見て回っていると、偶然 「塚越」と言う地名を見つけた。(これはまずい、行き過ぎた。)と思って引き返す。途中に「金山」という地名を発見、バイクを橋の所に止めカメラを持って歩く。なるべくならバイクで上まで行きたかったが、畦道なのでバイクは通行不可能だったので、徒歩にした。
歩いていると、人家の中を歩かなければ上に行けないことに気付き、許可をもらって上まで歩く。やっとの事で上に着いたが、上から見てがっかり、休耕田が多く棚田の美しさが半減していた。ここに来る途中も棚田はあったが、休耕田が多くシャッターを押すことができなかった。「下ノ段棚田」
再び県道から国道一三六号線に出ると、下田方面に走った。国道四一四号線に出ると、右側に「道の駅天城越え」が見えた。私は朝食をとっていなかったので、ここで朝食をとろうとパーキングに入った。中に入って受付でもう一つの棚田の場所を聞き、朝食をとるためにレストランに向かったが、開店が午前九時となっていた。私は朝食をあきらめ、再び国道を走った。
峠の道は走りやすかった。アッという間にトンネルの所に着いてしまい、私は迷わず旧道に向かった。「伊豆の踊り子」の天城越えの舞台となった旧道は、ハイカーが多くバイクは私だけだった。舗装されてはいなかったが、固く締まったダートだったので走りやすかった。そして、トンネルの中に入った。中は、左右に小さなランプが明かりをともしていた。
トンネルを抜けると、思わずバイクを止めて後ろを振り返ってしまった。とても素敵なトンネルだった。下りも長いダートが続いたが、走りやすかったので苦痛ではなかった。国道に再び出ると、下田方面目指してふたたび走った。特にループ橋は眺めが良く、快適だった。下田には、午前九時過ぎに着いた。偶然見つけた「すかいらーく」で遅い朝食をとった。
☆ 伊豆半島は、「河津ザクラ」と「あじさい」で訪れることが多かった。棚田目的で訪 れたのは、これが最初で最後だった。

●その四「栃木県の棚田」を求めて
□二〇〇三年七月五(土)◆「石畑(いしばたけ)」茂木町、「国見」那須烏山市
今週も、週間予報がはずれて晴れてしまった。本当ならのんびりと過ごすつもりでいたが、晴れてしまったので?そうです、棚田を求めて烏山・茂木に向かってしまいました。
距離的に近かったので、朝出発したのは午前九時過ぎでした。思っていたより太陽の陽ざしが強く、今夜も日焼けで風呂にはいるのが大変かなと思いながら走った。
茂木を過ぎてから県道二十七号線を走り、那珂川を渡った。渡ると、県道沿いに「石畑、棚田百選」という看板が左下に見えた。私は、その看板に従って左折した。左折すると、さらに左折の看板があった。棚田は、その左折した左下に広がっていた。棚田百選の写真で見るより、棚田は大きく広がっていた。
ひとまずカメラの電池を入れ替え、道路から写真を数枚撮った。電池を入れ替えてみると、モーター音が今までとは違った音だった。私は、こんなことなら初めから電池を交換しておくんだったと、後悔しながらシャッターを押した。
再びバイクに乗り、農道を下った。こんな時は、アフリカツインで良かったと思う。これがロードスポーツだったら、ぬかるんだ農道を走ることは不可能だ。やはり、アフリカツインはオールマイティーに走れるバイクだ。
棚田の脇の農道を上に上にとあがると、棚田は休耕田となっていた。私はそこでバイクを止め、再び写真を撮り始めた。ここからの眺めは、さらに棚田らしい風景を私に提供してくれた。「石畑の棚田」
再びバイクに乗ると、次の「国見の棚田」を探した。私は、いったんもとの県道に戻ったのだが、再び先ほどの棚田に戻り、上に上にと向かった。「小木須」という地名を探していくと、いくつかの小さな村があった。紀伊半島で見かけた山村の風景を思い出した。こんな地域があったのだと、改めて感動してしまった。
正午を過ぎていたのでどこかで昼食を食べたかったのだが、とても食堂があるという雰囲気ではなかった。私は昼食をあきらめて、棚田を探して県道一一七号線を北上した。それから、左折してさらに山奥へと向かった。
途中ヘビがいた。私はヘビの横を通り、そのまま山奥へと向かった。登り切ったところは、開けていて展望台になっていた。公園もあった。公園の横には、「蕎麦」と書いてあった。私は、その蕎麦の垂れ幕の所を右折した。そこは、村営の宿泊施設があった。老人会のグループが一グループいた。私はバイクを止め
「こんにちは、何か食べるものを作れますかね?」
と、中にはいると尋ねた。責任者らしき人が
「すいませんね、蕎麦しか作らないんですけれど、その蕎麦も予約制なんですよ・・・。」と、言った。私は、昼食をあきらめ
「この辺に国見の棚田が有るんですけれど・・・。」
と、棚田のことを尋ねた。受付にいたおじさんは
「ああ棚田ね・・、公園の所を右下に下れば左側に見えますよ。見えると言ってもはっきり見える訳じゃないので、左下に道がありますからそのまま左折して下さい。」
と言った。
私は、言われたとおり公園の所を右折した。右折すると、大きなカーブになっていた。私は、そのまま下った。しかし、棚田は見えなかった。Uターンして再びカーブの所にさしかかると、右側に道が見えた。右折すると、右下に棚田が開けていた。
「国見の棚田」と看板が立てられていた。私はその場所で何枚かの写真を撮ると、狭い農道を下った。農道と言っても舗装されていたので、走りやすかった。下からのアングルの方が棚田らしい写真が撮れた。「国見の棚田」
写真を撮り終えると、先ほどの大きなカーブがあった道路を下った。下っていくと県道二十七号線に出た。そのまま県道を右折し、県道を下っていくと「蕎麦」の垂れ幕がたくさん見えた。私は昼食を食べていなかったので、その垂れ幕に誘われて下った。     そば屋は、二軒あった。最初私が考えていたそば屋は奥にあったので、県道沿いにあるそば屋に入った。広い駐車場だったので、私は歩かなくて済むように入り口のそばにバイクを止めた。中にはいると、すぐに注文をした。時間がもったいないからだ。蕎麦は、思っていたよりすぐ来た。それに、何かとおばさんが気を使ってくれて退屈はしなかった。 蕎麦を食べ終えると、外で少し横になって休んでいた。それから、再び県道を下った。下ると那珂川に出た。私は久しぶりの那珂川なので、バイクで河川敷まで下りてみた。那珂川では、数台のカヌーがパドリングを楽しんでいた。このまま帰ってしまうのももったいないので、しばらく那珂川沿いに北上した。
しばらくすると、私がよく利用していた「道の駅」があった。道の駅にあった食堂はつぶれていた。それに、コンビニもつぶれていた。信号機を右折すると、国道一二三号線を走り、帰路に就いた。
☆ 棚田百選を見ながら棚田巡りをして思ったことは、関東は棚田が少ないと言うことだ。 特に山間部である群馬県などにない?茨城県には存在しない?

●その五「四谷千枚田・よこね田んぼ」を求めて (二〇〇三年九月二十七日~二十八日)
□九月二十七日(土)◆「よこね田んぼ」長野県飯田市
連続した飲み会にもめげず私は朝から旅支度、長野にある棚田に向かう予定だった。予定だったと書いたのは、途中大幅に予定が変わってしまったからだった。二日間遅くまで飲み歩いて本当は疲れているのだが、天気が良かったので午前七時半過ぎに出発・・・。途中マックで朝食をとり、国道一七号線を北上する。今回は、「本庄児玉インター」から関越道にはいる。関越道は、混んでいた。パーキングに入っても混んでいた。
「下仁田インター」を下り、佐久のコスモス街道に向かう。走り慣れた「内山峠」もなんとなく懐かしかった。コスモス街道を過ぎ、佐久市内で昼食をとる。問題は、ここからだった。予定では上信越道を走り、長野に向かう予定であったのだが・・・・?麦草峠を走り、中央道を走ることになった。
彼岸花の美しい「四谷千枚田」を見に行くことにしたのだった。もし今回行かなかったら、彼岸花の時期をはずしてしまうおそれがあったので、私はとにかく飯田市に向かった。佐久から麦草峠目指す。麦草峠は、もう紅葉が色づき始めていた。峠に近づくと、気温も下がってきたのか寒くなってきた。私はバイクをいったん左肩に止めて、ウィンドブレーカーを着た。
麦草峠を過ぎると、茅野市を通り国道一五二号線を高遠目指して走る。高遠を過ぎると、伊那インターから中央高速道にはいる。飯田市には、午後四時過ぎに着いた。ちょっと時間が余ってしまったので、私は「よこね田んぼ」に向かった。はっきりした場所が分からないので、途中でパンフレットをもらう。
天竜川を渡り県道八十三号線沿いに走ると、右側に棚田が開けていることになっていた。途中尋ねながら、何とか棚田に着くことができた。私が思っていたより、綺麗な棚田だった。時間が午後五時近かったこともあり撮影するには暗すぎたが、何枚か撮影する。
市内に戻ったのは、午後六時近くだった。いつものビジネスホテルにはいるが、満室とのこと・・・。ソフトボールの大会があるため、貸し切り状態になっていたようだ。途方に暮れてしまったが、近くに一泊六千円というホテルがあった。ちょっとためらったが、そこに泊まることにした。
□九月二十八日(日)◆「四谷千枚田」愛知県新城市、「よこね田んぼ」
午前六時半に宿を出る。国道一五三号線は、走りやすかった。ただコンビニがなかったので、朝食をとることができなかった。根羽村から県道一〇号線にはいる。なぜか、この県道はローリング族が多かった。途中にバイクが数台止まっていた道の駅があったので、バイクを止めて休憩をとる。めずらしく、スズキのDR800がとまっていた。会話の内容から、シングルだけのミーティングがあるようだった。
設楽町から国道二五七号線に合流、国道沿いにコンビニがやっと見えたので、そのままコンビニに直行・・・・?コンビニの前で朝食をとっていると、バイクが五台ほどやってきた。一台は、真新しいアフリカツインだった。オーナーは、私に近づくと      
「こんにちは、遠くから来ていますね・・・。」
と言った。私も
「同じアフリカツインですね・・・。」
と、答えた。私は朝食を食べながら、彼等と一緒に旅の話をしていた。なぜアフリカツインを購入することになったのかという話も・・・。そして鳳来町へ・・・。       県道三十二号線を走ると、右側に棚田が見えた。かなり傾斜のきつい棚田だった。雑誌で見た風景と同じで、棚田と彼岸花のバランスが良かった。私以外にもかなりのアマチュアカメラマンが棚田の所を歩いていた。適当なところにバイクを止めると、私もカメラバックを肩に掛け、棚田の中を歩いた。途中農家の人にいろいろな質問をしながら、写真を撮った。
バイクの所に戻ると、県道三十二号線を北上した。北上したと言うより、棚田全体を見渡せる場所があると思って、県道沿いにそって走ったのだった。いったん棚田からはずれてしまったので私は戻ろうかと思っていたが、左折する道があったので左折した。そこは工事中だったので、私はあきらめて引き返そうとバイクをUターンさせた。すると
「おーい!おーい!先までいけるぞ!。」
と言う、怒鳴る声がした。私はバイクを止め、その言葉に従って再びUターンして先に進んだ。
先は開けていて、視界がとても良かった。駐車場とトイレが完備されたパーキングがあった。そこには車が一台あるだけで、後は誰もいなかった。誰も知らない、秘密の場所のような気もした。
私が写真を撮っていると
「カメラはどこのカメラを使っているずら?」
と、先ほど私に大声で怒鳴っていた作業員の人が話しかけてきた。どうやら、その作業員もカメラ好きらしかった。私は、その質問に丁寧に答えた。
上からの写真を撮り終えると、再びバイクで下に降りてみた。そのとき、たまたま左折する道があったので、バイクならいけるだろうと、左折した。左折し、道なりに下っていくと「歩行者以外通行禁止」の看板が立っていたので、私はそこにバイクを止めた。
パニアケースからカメラバックを取り出すと、カメラバックを肩にかけて歩き出した。先ほどは真上から眺めたのだが、真下から見たアングルもなかなかだった。私が棚田を歩いていると
「おい、バイクどこさおいた?」
と、私に声をかける農夫がいた。私は、その声がする方を向いた。そこには、先ほど棚田の真上で私にカメラのことをいろいろと質問した作業員がいたのだった。さらに
「あそこに木を切った跡が見えるずら・・・。」
と、私に話をし始めた。私は、場所は分かったのだが内容が分からないまま、そこに向かった。もちろん、バイクで・・・。
回りを気にしながら、木を切ったところまで行ってみた。しかし、そのまま木を切ったところまで行ってしまっては写真が撮れないので・・・。途中途中バイクを止めながら、向かった。私のバイクが珍しかったのか
「日本全国を回っているんですか?」
「もしかしたら・・・、写真が本業では?」
などと質問されることがあった。「四谷千枚田」
時間を見計らって棚田を後にしようとしたとき小学生が野菜の販売を行っていたので、その写真を撮らせてもらい棚田を後にした。国道四七三号線から国道一五一号線に合流すると、県道七十四号線を北上し、阿南町に入った。道の駅で昼食をとり、芝生の上で横になり休息をとった。横になっていると、バイクの音が行ったり来たりしていた。
阿南町から県道一号線を天竜川に沿って北上すると、「よこね田んぼ」だった。棚田には、午後二時に着いた。昨日と違って太陽の光が十分棚田に届いているので、写真は撮りやすかった。写真を撮り終えると「飯田インター」に向かった。
飯田インターにはいると、このまま高速を走り続けて帰路に就くか、それともいったん高速を下りて、国道一五二号線を走るか迷った。最終的には、宿泊費がかかってしまったので、国道を走ることにした。
峠を越え、佐久に着く頃にはあたりは暗くなっていた。上信越道も、藤岡から先は混んでいるようなので、東関東自動車道を走ることにした。足利で夕食をとり、午後八時半には帰宅した。今日一日だけで、五五〇キロ走行した。
☆ どちらの棚田も今回が初めてではあったが、その後たびたび訪れることが多くなった。 特に四谷千枚田では、農家の人との会話が多かった。内容は、後継者不足についてだっ たが?
●その六「山形の棚田」を求めて (二〇〇三年十月十一日~十三日)   
□十月十一日(土)◆「大蕨の棚田」山辺町、「くぬぎ平」朝日町、「四ヶ村」大蔵村
朝の天気予報を見る。午前五時五〇分に目覚まし時計をかけておいたので、すぐにテレビのスイッチを入れた。どうやら、二日目は天気が崩れそうだ。午前六時三〇分の天気予報でもおなじことだった。唯一秋田県だけが、続けて快晴のマークだった。
能登半島から岐阜県方面へと考えていたのだが、急きょ東北方面へと予定を変更した。ツーリングマップルも東北方面に変更・・・。出発が遅れてしまったが、どうにか午前七時前には出発することができた。節約するため、国道四号線を矢板まで走る。午前七時過ぎの国道四号線は混んでいた。やはり高速道で走った方が良かったかなと後悔もしたが、途中コスモスの写真を撮ることができたので、ちょっと気分が良くなったかな・・。
矢板インター前のコンビニで、朝食をとる。ちょっと話しかけられ、さらに気分は良くなった。高速道にはいると、アクセル全開・・・・。三連休のため、混み具合が気にはなったが・・。ライダーが多かったので、それも許せるか・・・。
東北道から山形道へ・・・。山形北インターで下りると、すぐにガソリンを満タンにする。ヘルメットバイザーのねじが無くなっていたので、山形市内のショップでねじを購入しようと、スタンドの店員に
「すいません。近くにバイクショップがありませんか?」
と、私が尋ねると
「高速インターに向かっていけば、左側にありますよ・・、もしそのバイクショップが閉まっていても、さらに先に行けばレッドバロンがありますから・・・。」
と、店員は答えた。店員の言われたとおり、左側にバイクショップがあった。
駐車場にバイクを止めて、私が
「こんにちは!」
と挨拶しながら店内に入ると、店員がすぐに出てきた。私は、ヘルメットのバイザーのねじが無くなったことを説明した。店員は、すぐにプラスチックのねじを持ってきて
「このねじがあうと思いますけど・・・、純正のねじはちょっと難しいので、今回はこれを使ってみて下さい。」
と、店員は私にプラスチックのねじを渡した。私は、すぐにそのねじを使ってみた。しっかりとバイザーの所を締め付けることができた。私は、
「良かった。高速道路でどうしようかと思いましたよ・・・。いくらですか?」
と、店員に尋ねると、
「お金はいりません。これは余った物ですから・・・。」
と、店員は言った。私は礼を言うと、バイクの所に戻った。店員も外に出てきてくれた。私のバイクを見ると
「大きなパニアケースですね・・・、ツーリングの途中なんですね。気をつけて旅を続けて下さい。」
と言い。私を見送ってくれた。
私はバイパスを走りながら、時計を見た。正午前だった。バイパス沿いにあるファミレスを探しながら、走った。左側に、それはあった。正午前と言うこともあり、すいていた。休憩もかねて、早いランチとなった。
昼食をとった後、棚田の場所を確認して再びパイバスを走る。県道二七五号線から県道一八号線に入り、棚田探しが始まった。左右を見て走ると、棚田らしき物はなかったが、峠を下った左側に棚田らしき物が広がっていた。私はバイクを左側に止め、周辺をバイクで回りながら写真を撮った。
「棚田百選」に載っている場所が見つからなかったので、再び県道一八号線にでた。すると、左側に一部奥深まった棚田が見えた。その棚田は、まさに「棚田百選」に載っている棚田だった。かなりの急斜面に、狭い棚田が階段のようにできていた。写真を撮っていると老夫婦に話しかけられ、棚田の話に会話が弾んだ。(大蕨の棚田)
県道一八号線を下ると、朝日町に着いた。最上川を渡ったところに、棚田がある。橋を渡ったところに、棚田百選の看板が立っていた。ここは、展望台から写真を撮って終わりにした。「くぬぎ平」
国道二八七号線に出て左折すると、寒河江市に向かった。寒河江市から国道四五八号線を走り大蔵村に向かうつもりでいた。国道とは言っても、林道が二〇キロ以上続くダートを走らなければならなかったが、大蔵村に行く近道になっていた。舗装された国道を走っても行くことはできるが、かなり大回りになってしまう。
実際に林道にさしかかると、かなりの山奥なので時間もかかってしまった。良かったのはダートとは言っても固められたダートなので、走りやすかったことだった。大蔵村には、午後三時半ごろついた。太陽も斜めに傾いていたので、日のささないところもあった。棚田はなかなか見つからなかった。私は、
「すいません。この近くに棚田があると聞いたのですが・・。」
と、農作業をしている農夫に尋ねた。農夫は
「棚田・・・、あの国道をずっと上がるとそば屋があるから、そのそば屋を左折したところにあったはずだが・・・。」
と、答えた。わたしは一瞬迷った。その場所は、かなり戻らなくてはならなかった。この時間から考えると、このままでは日本海に沈む夕陽をカメラにおさめることができなくなるおそれもでてきた。「四ヶ村の棚田(しかむら)」
私は国道に出ると右折せずに、左折した。それから国道四十七号線に出ると、バイクを最上川沿いに酒田市へとむけた。酒田市には、午後五時前に着いた。太陽は、すでに沈みかけていた。私は倉庫と沈む太陽をカメラにおさめるため、倉庫に向かった。しかし、太陽はすでに倉庫の向こうがわに沈んでおり、カメラにおさめることは不可能となってしまった。私は、酒田港にバイクを向けた。それから、沈んでしまった夕陽を撮った。これからが大変だった。泊まる場所が、すべて満室だったのだ。なぜかというと、スポーツ関係の大会が重なって、どこも満室だったのだ。市内の宿泊所はあきらめて、再び国道七号バイパスに向かった。
バイパス沿いにビジネスホテルが一軒あったが、高そうだったのでそのまま走った。走っていると、ついに市街地を抜け、明かりが少なくなってきてしまった。何度か引き返すことを考えながら走っていると、左側に健康センターがあった。看板を見ると、宿泊も可能なので、右折して駐車場に入った。バイクを止め、フロントに向かうと
「すいません。今晩泊まれますかね?」
と、私は尋ねた。受付の人が
「あいにくと満室になっておりますが・・・。休息室は空いておりますが・・・。」
と言った。私は、
「休息室は、いくらですか?」
と、料金のことを尋ねた。
いくつかの質問の後、じゃお願いしますと言って、バイクの所に荷物を取りに戻った。休息室の利用代と温泉代で、一五〇〇円だった。それに、タオルと毛布、パジャマがついた。休息室は、思ったより利用者が少なく快適だった。
□十月十二日(日)鳥海ブルーライン、道の駅深浦、
午前五時前に起き、風呂に入った。それから、午前六時前に健康センターを出た。朝の日本海側の国道は、対向車もなく距離だけが延びた。時間に余裕があったので、思い切って鳥海山に寄ってみることを思いついた。鳥海ブルーラインは、私のバイクだけが走っていた。高度を増すごとに紅葉と日の出が微妙にマッチして、景色は最高だった。展望台の所に来ると、車が数台止まっていた。雲がかかっていたが、高気圧の張り出している秋田県側は、青空が見えた。展望台は、風が強かった。
峠を下り、再び国道七号線を秋田目指して走った。秋田、男鹿半島、能代と確実に距離を伸ばした。深浦の道の駅で、昼食を取った。この町は、「イカ」で有名だった。私は、迷わずイカを注文することにした。食事をする場所は、混んでいた。私は、「イカさし」と「焼きイカ定食」の食券を買った。窓口に食券を持っていくと
「焼きイカは時間がかかりますけれどいいですか?」
と言われた。私は迷って、
「すいません。じゃ刺身定食に変えて下さい。」
と言った。
私は、席が空くまで立って待っていた。席が空いたので荷物を置くと、同じように荷物をおいたカップルがいた。私は、そのまま動かなかった。カップルも又動かなかった。
「五十一番のイカさしの方・・・。」
と呼ばれたので、私はカウンターにイカさしを取りに行った。カップルの方も、呼ばれて品物を取りに行った。しばらくすると
「五十二番の刺身定食の方」
と呼ばれ、私は刺身定食を取りに行った。
狭いテーブルに、「イカさし」と「刺身定食」をおいた。特に刺身定食は、値段からは考えられないぐらいのボリュームがあった。カップルは食べ終わるとすぐに席を立っていってしまったが、私はなかなか席を立とうとはしなかった。なぜなら、刺身定食があまりにもボリュームがあるため、食べきれなかったのだ。
私はとうとう刺身定食だけで、イカさしは残してしまった。席を立った後は、外の芝生でごろりと横になった。青空と海がとても綺麗だった。しばらく休息をとってから、再び旅を続けた。
 省略
☆ 「大蕨の棚田」は、稲杭が素晴らしい。関東では、「のろし」と言われるところに稲 を干すのだが、山形では「稲杭」と言われるところに稲を干す。機械化が進んでいる現 在では稲を干すことはあまり無いが、面積の狭い棚田では機械化が進まないので、手で 苅って稲を干す作業が今でも必要だ。

●その七「紀伊半島の棚田」を求めて (二〇〇三年十一月十七日~二十日      ◆「丸山千枚田」熊野市、「蘭島(あらぎじま)」有田川町、「下赤坂の棚田」
□十一月十七日(金)川崎フェリーターミナルへ
東北道から、首都高速にはいるところだった。私は、時間を気にしながら走行していた。バックミラーを気にしながら車の間をすり抜け、時間に追われながらのライディングだった。
葛西ジャンクションを午後六時に通過すると、落ち着きを取り戻した。なぜなら、フェリーの出航が午後七時二〇分であったからだった。ここからフェリーターミナルまで混んでなければ、二〇ほどでつく。そのことを考えたら気が楽になったのだった。最終的には、午後六時半にフェリーターミナルに着いた。
玄関前の二輪置き場にバイクを止めると、走ってターミナルの中に入った。受付のところで
「すいません、那智勝浦行きのフェリーはまだ大丈夫ですか?」
と、尋ねた。受付の人は
「大丈夫ですよ。そこにある乗船名簿に必要なことを記入して下さい。」
と言った。
私はすぐに乗船名簿に必要なことを記入すると、受付の所に持っていった。すぐに乗船券を手にすることができた。もしここで乗船できなければ、そのまま走れるところまで東名を走ることを覚悟していたのだが、どうにか間に合った。
安心したのか、自動販売機で缶コーヒーを買った。缶コーヒーを自販機から取り出すと、口にした。二口飲んだとき
「二輪で乗船なさる方は、すぐに乗船の準備をして所定の場所に移動して下さい。」
と言うアナウンスが流れた。私は一気に缶コーヒーを飲むと、すぐにバイクの所に行き、移動した。バイクは、私のバイク一台だけだった。
誘導に従いバイクをフェリーに積むと、すぐに客室に向かった。客室には誰もいなかった。荷物を置くと、必要な物だけを持って浴室に向かった。浴室にはすでに二人の客が入浴していた。私は食事の時間まで余裕がある為、のんびりと入浴していた。
浴室からあがるとすぐにレストランに向かったが、すでに行列ができていた。並ぶか、このまま客室に戻り時間をずらして又来るか迷ったが、迷っているうちに、後ろにさらに人が並び始めたので、そのまま並んでいた。
どうにか料金を払うことができたのだが、バイキング形式のため流れが悪かった。せっかちなので、そのまま焼きそばと刺身だけをとってテーブルに着いてしまった。ひとまず食べ物を確保して、空いてきたら又取りに行こうと思ったのだった。しかし、食べ終わっても、思ったより人の流れは減らなかった。食べ終わってから数十分ほどして、人の流れが減ってきたので、再び皿を持って歩いた。
夕食は、珍しく一時間ほどかかっていた。食べ終わると、客室に戻った。客室はすでに六人ほどの人が寝ていた。私も、歯を磨くととすぐに横になった。
□十一月十八日(土)丸山千枚田、龍神スカイライン、蘭島、生石高原のススキ、
フェリーは、午前五時に那智勝浦港に着いた。去年の三連休の時は薄明るかったが、今回は真っ暗だった。空を見上げると、曇っていた。去年は星が出ていたのに・・・。国道に出ると右折しなければいけなかったのだが、右折しても朝からやっている喫茶店もないだろうと考え、勝浦市内に出る左折を選び、左折した。できたら、去年日の出の写真を撮ったところまで行こうと考えた。しかし去年の場所が見つからず、再び新宮市に向かった。
新宮市は思っていたより大きな町だったが、ファミレスはなかった。結局、去年と同じようにコンビニで朝食をとった。国道四十二号線を再び走ると、県道六十二号線に合流した。国道を左折すると、県道六十二号線を北上した。北上していくと、「丸山千枚田右折」の看板があった。私は、その看板に従って右折した。
県道四十号線は道幅が狭かった。くねくねした道を登っていくと、霧が濃くなってきた。霧が濃くなったり、薄くなったりした。左側の霧の合間から、千枚田が見えてきた。狭い道幅にバイクを止めると、千枚田を眺めた。写真で見るより、ずっとすばらしかった。私は数枚の写真を撮ると、棚田に向かって下りた。急な下りだったが、見晴らし台には駐車場があった。右側にあった見晴らし台から、又写真を撮った。雲の間から、太陽も顔を出した。太陽の光で、又棚田の景色が変わった。「丸山千枚田」
棚田の写真を撮り終えると、国道一六九号線に出るため、国道三一一号線に再び出た。本宮から「龍神スカイライン」へ入るつもりでいたのだった。国道三一一号線は、思っていたより道幅が狭く苦労した。特に、ダンプが前を走っていると追い越すこともできず、スローペースになってしまった。
国道一六九号線に出ると、またペースがハイペースになってきたのだが、空がどんよりと曇りだしてきてしまった。本宮にはいると、雨は本格的になってきた。私は雨具を着込むために、バイクを止めた。雨具を着込むと、再び走り出した。龍神温泉に着いたのは、午前十一時過ぎだった。
 去年のことを思い出しながら(去年もここで雨宿りしたっけ)、缶コーヒーを飲んだ。缶コーヒーを飲むと、雨具を着込んだまま再び走り出した。ガソリンが急に心配になり、スカイライン前の左側のコスモ石油でガソリンを入れた。雨のためかライダーが少なかったが、同じように雨具を着込んで走っている姿を見ると私は急にうれしくなってしまった。龍神スカイラインでは、「平成十五年十月から無料」という電光掲示板が点灯していた。
「ごまさんスカイタワー」の駐車場に着いたのだが、回りがガスっていて何も見えなかった。もちろん、スカイタワーも見えなかった。とりあえず駐車場にバイクを止め、スカイタワーの中に入った。タワーの入園料が三百円だった。回りの景色が見えないタワーに登っても仕方がないと考え、タワーには登らなかった。
駐車場に戻ると、すぐにスカイラインを下った。何キロか下ったところで「清水町」という看板があった。いったんバイクを止め、マップで確認をしてから左折した。左折すると、急な下りが続いた。下っていくに従い、雨も止み、青空が出てきた。途中で雨具をとり、清水町に向かった。
清水町には、棚田があった。そのために清水町に向かったのだが、昼食をとるべき場所が見つからず苦労した。最終的には、道の駅で昼食をとった。昼食をとり終えると、私は棚田に向かった。思っていたより、棚田はすぐに見つかった。なぜなら、国道から棚田を見ることができたからだった。棚田は、国道の左側に見えた。狭い国道だったので、バイクでなかったら撮影はすぐにできなかったかもしれなかった。棚田は、写真で見る以上にすばらしかった。たぶん、芸術的な観点から見ればこの棚田が一番ではないだろうか?扇形の棚田は稲刈りが終わっていても、私の心を満足させることができた。「蘭島」
棚田から「生石高原」に向かった。国道から県道に入った。問題はここからだった。県道にはいると、すぐに県道がT字路になっていた。左折したが、その道は通行止めになっていた。あわてて引き返し、今度は右折してみた。どんどん道幅が狭くなってきたが、どうにか「生石高原」に出ることができた。高原には確かに「ススキ」があったが、感動するような風景ではなかった。正直言うと、がっかりした。私は、風が強いのですぐに高原を後にした。高原を後にしたとき、ちょっと残念だったので、明日もう一度来てもいいかなと感じてしまった。
長い下りが続くと、麓に着いた。辺りはミカン畑だらけだった。ミカン畑を過ぎ、県道沿いに走っていると、前の乗用車が路肩にタイヤを落としてしまった。なぜそうなったかというと、前からダンプが来たのでバックしたら、タイヤを側溝の中に入れてしまったらしい?私は乗用車の脇をすり抜け前に出ようと考えたが、ダンプが前をふさいでいるのでそれが不可能となっていた。私も加わり、何人かで乗用車を側溝から引き上げようとしたが、駄目だった。ロープを使ってダンプで引っ張ろうとしたが、車体をすってしまうので無理だった。最終的にはその乗用車をそのままにして、自分のバイクに戻った。
国道四十二号線に出ると、宿泊場所を探した。有田温泉の国民宿舎に電話をしたら満室とのことだった。湯浅温泉に宿泊場所を求めたが、ここも駄目だった。最終的には、湯浅町の民宿に泊まることとなった。ちょっと高かったが、それも仕方ないかとあきらめた。本当は、温泉つきの民宿が良かったのだが・・・。値段も高く汚い民宿ではあったが、湯浅の町並みはとてもすばらしいものがあった。
□十一月十九日(日)◆「下赤坂の棚田(しもあかさか)」大阪府
朝から天気が良かった。日の出の写真を撮ろうと港に向かった。しかし、海からの日の出を見ることはできなかった。なぜなら、太陽が山から登ってきたからだった。あきらめて宿に戻り、朝食をとった。
湯浅の町は、醤油の歴史が残る町だった。人通りの少ない町並みの写真を撮り終えると、私は再び「龍神スカイライン」を目指した。湯浅の町から海岸に沿って県道二十三号線を走った。ミカン畑がとても素敵だった。県道を左折すると、国道四十二号にでた。国道を少し走ると、左折した。県道二十六号線である。この県道を走っていくと、国道四二四号線と合流した。
私は、国道を右折した。この国道は、ライダーが多かった。たぶん、皆龍神スカイラインに向かっていくのだろうと思った。この国道はあまり走らず、すぐに県道に入ってしまった。国道を選択するか県道を選択するか迷っていたのだが、去年走ったことのある国道よりは走ったことのない県道に魅力を感じていた。
県道二十九号線は、考えていたより時間がかかった。距離があると言うより、狭く走りずらかったのだった。途中でバイクを倒してしまい、ミラーを折ってしまった。幸いなことにけがはなかった。これは、すべてパニアケースのおかげだった。ただ、バイクを起こすのに時間がかかってしまった。
県道は途中からダートに変わり、やっとの事で国道三七一号線に出た。国道は、バイクが多かった。昨日と同じところで、休憩をとった。今度は、雨具を着込む必要はなかった。やはり、バイクに雨具は似合わないと思った。今度は思い切りコーナーを楽しみながら、バイクを走らせた。やはり、バイクはコーナーが楽しい。こうでなくてはいけないと、思った。
峠を登っていくと、昨日と同じように霧がかかってきてしまい視界が悪くなってきた。私が「スカイタワー」に到着する頃は、回りは見えなくなっていた。昨日と違っているのは、「スカイタワー」がはっきり見えたことだった。そのスカイタワーを右手に、素通りした。昨日寄ったことと、駐車場がバイクでいっぱいだったからだった。
スカイラインを下っても、なかなか霧はとれなかった。最終的には、高野山に到着してから青空を見ることが出来た。高野山の回りは、混んでいた。バイクでも、なかなか止める場所を探すのは大変だった。私はT字路を左折すると適当なところにバイクを止め、どうするか考えた。このまま国道を走り橋本市に抜けるか、いったん戻ってから国道三七一号線を下ってから橋本市に抜けるか考えた。
先ほどの駐車場が無料と分かると、そこにバイクを止め高野山を見学し、それから国道三七一号線を下ることを考えた。駐車場は混んではいたが、バイク一台はどうにかなった。歩道を渡り、左手に見える大きな墓石の所まで行き、そのまま引き返した。奥の院まで考えてはいたのだが、この後の日程を考えるとそれは無理と判断し、すぐに引き返してしまったのだ。国道三七一号線は、想像していた道路よりも道幅が狭かった。それから、コーナーも多かった。交通量は少なかったのだが、道幅が狭かったため前の車がすれ違いが難しくなると、止まることが多かった。しかし、景色は良かった。
国道から県道五十五号線にはいるために、右折をした。県道沿いにレストランでも有れば遅い昼食をと考えていたのだが、それはなかった。県道から再び国道に入った。この国道三一〇号線沿いにもレストランはなく、そのまま千早赤坂村に入った。この村に入る手前の峠は、かなりローリング族が走っていた。私は、それを楽しむことができた。時計を見ると、午後一時を過ぎていた。棚田を探していると、それはすぐに分かった。中学校の裏にあったのだ。本当なら昼食をとりたかったのだが、適当な場所がないまま棚田の所まで来てしまった。
棚田は、思っていたより広かった。所々にミカン畑が見えた。ただ残念なのは、棚田の向こう側に建物が見えることだった。今までの棚田の場所は、本当に山奥にあったので、建物などがあっても民家が数件並んでいるぐらいで、それはそれで絵になっていたのだが、今回は大きな建物が多く、ちょっとバランスが悪かった。私は建物がファインダーの中に入らないように位置を何度か変えて、シャッターを押した。写真を撮り終えると、又空腹感におそわれたが、いったんバイクに乗って移動を始めると不思議と空腹感は薄らいでいった。「下赤坂の棚田」
昼食をとらないまま棚田を後にした。明日香に行こうとマップを何度か見ていると「富田林」に古い町並みがあることが分かった。私は、気持ちがすでに富田林に行ってしまった。そして、富田林に・・・・。思っていたより早く、「富田林」に到着した。それから、古い町並みにも・・・。ただバイクをどこに止めていいやら、・・・。最終的には、町並みの所にバイクを止め、あわててシャッターを押した。なぜあわてたかというと、早く明日香に行かないと、日が暮れてしまうからだった。時計は、午後三時を過ぎていた。
途中コンビニで遅い昼食の代わりに、パンを買って食べた。明日香には午後四時に着いたが、ちょっと写真を撮るには遅い時間だったので、たまたまあったバイクショップで壊れたミラーの代わりになるものを買って取り付けた。
国道二十五号線に入る頃には、当たりはすでに暗くなっていた。国道二十五号線は、国道と言っても高速道路と同じだったので、かなりのハイスピードで距離を稼ぐことができた。途中でミラーを取り付けたのも、グッドだった。
疲れたので、途中のサービスエリアで缶コーヒーを買った。問題は、このサービスエリアを出るときだった。国道に出て何気なくポケットをさわってみたら、財布がなかった。私は、あわててバイクを止めた。もう一度ポケットを見たが、やはり財布はなかった。パーキングまで逆走することを考えた。そのとき、財布をシートの所にいったんおいたことを思い出し、シートの所を手で探ってみた。ラッキーなことに、財布はシートの所にあった。                                       私は、再び国道を走った。走りながら、今夜の宿をどこにするか考えていた。とりあえず、東名阪自動車道で夕食をとりながら考えようと考えた。「御在所サービスエリア」に、入った。ここまで来てしまったからには、亀山に宿泊することはできないと考え、「豊田市」に宿泊することにした。そうすれば、次の日「足助」に行くことも簡単だ。夕食の後、ビジネスホテルの一つに電話をした。空いていると言うことで、今夜は、豊田市内のビジネスホテルに宿泊することにした。
四日市から「伊勢湾岸道路」が出ていた。完全に豊田市までは出ていないが、距離的には近かった。迷っていたが、迷っている内に湾岸道路に入るジャンクションを過ぎてしまった。そして、東名に入った。インターを下りてからの道順が分からないため、ガソリンスタンドでビジネスホテルの場所を聞いた。ホテルは、すぐに分かった。 
□十一月二〇日(月)足助、岩室町、大正村、明智町
朝から天気が良かった。早く出発することもできたが、太陽が昇ってからの方が気温が上がるので、午前七時まで待って出発した。国道一五三号線を北上する。国道沿いのコンビニで朝食をとる。最初は太陽が照りつける快適なツーリングだったが、山沿いの所にはいると、所々太陽の光が届かなく寒かった。。
足助には、午前八時半に着いた。まだ人通りが少なかった。しかし、ここは紅葉の時期はかなり混むと言うことだった。今年は紅葉が良くないため、例年より観光客も少ないと言うことだ。私はこの足助を一度訪れたことがあったが、その時期は夏だった。だから、紅葉の時期は初めてだった。残念なことに、初めての足助の紅葉はあまりよくなかった?
時間が早すぎるため、太陽の光が渓谷に入っていない。そのため、カメラを片手にぶらぶらと歩いた。徐々に太陽光線が入ってくると、本格的にカメラのシャッターを押した。約二時間ほどで、私は足助を後にした。
国道一五三号から国道二五七号に入り、岩室町へと向かった。この岩室町には、古い町並みがあるという。私はその岩室町の町並みの写真を撮り、さらに明智町へと進んだ。明智町には大正村という村があり、大正時代の古い町並みが残っているという。明智町は、すぐに着いてしまった。あの「明智光秀」から名前が付いた町だった。
再び国道二五七号に入り、恵那インターを目指した。高速道にはいると、正午を過ぎてしまった。恵那で昼食を考えていたのだったが、中央高速に入ってしまったので、サービスエリアで昼食をとることにした。恵那サービスエリアで昼食をとった。私は、昼食をとりながら考えていたことがあった。それは、このまま高速を走り通して帰宅するか、いったん高速を下りて国道を走り、佐久から高速に再び入るかと言うことだった。私のこれまでのパターンでは高速を走り通したことがなかったが、今回は走り通したいと考えていた。問題は、料金だった。
岡谷ジャンクションまで迷ってはいたが、高速を走った方が時間的にも体力的にも余裕ができると考え、左折してそのまま高速道を走った。高速道を下りたのは、午後四時過ぎだった。時間的には、約一時間高速を使った方が早いと言うことが分かった。料金的には、二二〇〇円ほどオーバーしてしまうが・・・。
☆ 数ある棚田の中で、「あらもぎの棚田」ほど形が美しい棚田はない。あの扇形の棚田 はどのようにして生まれたのだろうか?

●その八「関西の棚田を求めて」 (二〇〇四年四月三〇日~五月四日 )      ◆「畑」滋賀県高島市、「日引(ひびき)」福井県高浜町、「毛原(けはら)」福知山市、 「西ヶ岡」「うへ山」兵庫県加美町、「横尾」鳥取県岩美町、「つく米(よね)」鳥取県 若桜町、「北庄(きたしょう)」岡山県久米南町、「小山」岡山県美咲町、       「岩座神(い さりがみ)」兵庫県多可町、「長谷(ながたに)」大阪府能勢町    □四月三〇日(金)  東名高速道                   
川崎からのフェリーが満室と言うことが分かったので、夜の午後八時に自宅を出る。夜の高速道路は、思っていたより混んでいた。いや、思っていた以上に混んでいて首都高を抜けるのに二時間もかかってしまった。運の悪いことに、首都高を抜けた後も事故渋滞が続いてしまった。
時計を見ると、首都高を抜けたのは午後一〇時過ぎだった。事故渋滞が厚木インターまで続いたが、車の間を抜けてうまく渋滞はパスした。足柄パーキングに到着すると、バイクの台数もぐっと増えてきた。東名は混んでいてスピードが出せず、一〇〇キロのスピードを維持するのがやっとだった。連休の東名は、思っていた以上に混んでいた。
静岡を過ぎ、目的地の浜名湖パーキングに着いたときには午前一時を過ぎていた。浜名湖パーキングは、深夜だというのに車を止める場所がない状態だった。二輪は思っていたより少なく、すぐにとめることができた。私はシュラフを取り出すと、すぐに適当なところで横になった。            
□二〇〇四年五月一日(土)びわ湖バレイのスイセン、朽木宿◆畑の棚田、日引の棚田
明け方の午前五時にスタート、思っていた以上に東名は混雑が続き、明け方でも状況は変わらなかった。内心、連休にツーリングにでたことを後悔していたところもあった。夜中に走ったから距離が稼げたが、これが昼間だったら・・・・。そう思いながら走っていると、名古屋の先が渋滞になっていた。本当なら夜中に走り抜いて名古屋を抜ける予定であったが、混雑していたのでそれが難しかったため明け方に名古屋を通過することになったのだった。
一宮JCTから先は、流れが悪かった。養老パーキングで朝食をとる。本当なら、温かいコーヒーにトーストがほしかったのだがレストランはやっていなかった。簡単な弁当を買い、パーキングで食べる。午前七時だった。正直、この時間パーキングはいっぱいだった。落ち着いた朝食をとれないまま、パーキングをあとにする。
関ヶ原、米原と流れは悪かったが、どうにか距離を稼ぎながら栗東インターを抜けることができた。ここから、琵琶湖大橋に向かう。「米プラザ」で休憩をとり、琵琶湖大橋の写真を数枚とり、国道沿いに出る。たまたまガストがあったので、再び朝食をとる。もちろん、コーヒーとトーストを注文する。
朝食をとり終わったのが午前九時過ぎだった。もうこの時間帯は暑くなっていたので、オーバーズボンとジャケットを脱ぐ。国道一六一号線を湖畔沿いに走ると、「琵琶湖バレイ」の看板があった。看板の指示通り、国道を左折する。料金所があったが、払わずに進む。登り切ったところが、ロープウェイ乗り場だった。人はほとんど居なかった。チケットも一七〇〇円と高かったので
「すいません。スイセンの花は見られますか?」
と、受付のところで尋ねると
「今がちょうど見頃ですよ。」
と、返事が返ってきた。それを聞くと、すぐにチケットを購入してゴンドラに乗った。ゴンドラはかなり古く、四人乗りだった。ゴンドラから眺める琵琶湖は、新緑の景色の中に美しく映って見えた。
終点について驚いたのは、さらにリフトがあると言うことだった。あるのは分かっていたが、リフトに乗らないとスイセンの花を見ることはできなかった。私は歩いても良いと思っていたのだが、これからの予定を考えると歩く時間はないと思い、すぐにリフト券を購入してスイセンの所に近寄った。近寄ってみると、スイセンはちょうど見頃だった。空の青さが、黄色いスイセンをさらに引き立ててくれた。かなり撮影した。私はフィルムの枚数のことを考えながらも、さらにシャッターを押し続け、再びリフトに乗った。高校生の宿泊学習の集団に会った。職業柄ジャージに書いてある学校名が気になってしまい、ジャージに目が集中してしまった。
ゴンドラの料金のことを考えるとすぐに下りることはもったいないと思ったのか、ゴンドラの回りを散策し始めてしまった。ゴンドラ周辺で琵琶湖の写真を数枚撮ると、ゴンドラに乗った。下って行くと、観光客の数に驚いてしまった。ゴンドラに乗るために、観光客の列ができていたのだ。私は、朝早かったことをラッキーと思った。
再び国道に出ると、高島町に向かった。湖畔沿いの国道は、快適だった。数分も走ると「高橋町」という看板が見られるようになった。右側の琵琶湖に大きな鳥居が見えたので、バイクを左側の神社の駐車場に止めるため、左折した。バイクを止め、鳥居の写真を一枚撮ると
「すいません。この高島町の棚田の写真を雑誌で見たのですが、どの辺にあるか分かりますかね?」
と、神主に聞いた。神主は、
「棚田ですか・・・。確かありましたね・・・。この国道をまっすぐに突き進み、二つ目の信号機を左折して、どこまでもまっすぐに行くと、棚田の所にぶつかりますから・・。」と、言った。私は礼を言うと、神社をあとにした。
国道を走り続けてもなかなか信号機が表れなかったので心配してしまったが、神社から六キロほど走ったところで、信号機が続けて二つ見えた。二つ目の信号機が赤になったので止まると、信号機のところが交差点になっていた。神主に言われたとおり信号機の所を左折した。左折すると、人家の少ない田園風景が続いた。途中心配になり、何回かロードマップで確認をしながら走ると、「畑の棚田」が見えてきた。かなり道路が狭くなってきたので、Uターンすることも考えてバイクをいったん止めた。カメラを二台肩にかけ、棚田の風景を撮り始めた。連休なので、観光客が何人かいた。私は上から車が下りてくるのを見て、バイクでさらに奥まで入った。突き当たりが駐車場になっていた。駐車場にバイクを止め、再び棚田の風景を撮り始めた。「畑の棚田」
写真を撮り終えると、国道二十七号線に出るためと古い町並みの写真を撮るため、県道二九五号線を走り「朽木村」に入った。朽木村の古い町並みを走り抜けると、「道の駅」があったのでそこで昼食をとる。駐車場には、バイクがかなり止まっていた。オフロードバイクが多かった。レストランにはいると、千円のバイキングを注文した。このバイキングが又良かった。とても千円では食べられないものばかりだった。ちょっと得した気がした。
昼食が終わると古い町並みの写真を撮り、国道三六七号線を北上した。北上し、T字路を左折して国道三〇三号線に入り、そのまま国道二十七号線に合流し日本海に抜けた。
途中、熊川宿の古い町並みの写真も撮った。
小浜市、大飯町と過ぎ、高浜町に入ると県道二十一号線を右折した。内浦湾に面したところに棚田があるのだった。私は日本海に沈む夕陽をバックに棚田の写真を撮るため夕方に着くように、時間の設定もしていた。私が棚田の写真を撮っていると、一人の老人がカメラを片手にシャッターを押していた。私は、夕陽のことを老人に話した。老人は、私に対して
「私も夕陽をバックに棚田の写真を撮ることを考えていたのですが、ここでは向こうの山の方に太陽が沈むそうです。だから日本海に沈む夕陽をバックに棚田の写真を撮ることは
不可能です。」
と、言った。私は夕陽のことも考えてここの民宿に泊まることも考えていたのだが、そのことを知ると「日引の棚田」をあとにして舞鶴市へと向かった。「日引の棚田」
 舞鶴に着いたのは、午後六時を過ぎていた。宿泊所を探す前にガソリンを満タンにしようと思っている内に、国道一七五号線のところまで来てしまった。私はここでいったんバイクを止めると、ロードマップからこの先に温泉があることを知った。国道一七五号線を走行すると決め、ロードマップをバックにいれようとしたとき
「どうしたんですか?私は地元の者ですから・・・。」
と、私に優しい言葉をかけてくれたライダーがいた。私は礼を言い、大丈夫であると言うことを告げ、温泉に向かった。温泉は、すぐに分かった。ただ、宿が一軒の温泉でたまたま満室であった。先ほどあったビジネスホテルに宿泊することに決め、再び国道一七五号線に戻った。
青森で泊まったことがある、「グリーンホテル」だった。ただ、こちらの部屋の方は少し古い気がした。真向かいにある和食屋に行くと一割引きだというので、そこで夕食をとる。疲れたのかビールが効いたのか、部屋に戻るとすぐに寝てしまった。
□五月二日(日)◆「毛原、西ヶ岡、うへ山、横尾、つく米」
午前七時にホテルを出る。国道一七五号線から県道九号線に入り、大江町にはいる。ここは「鬼」に関する物がたくさん有り、ちょっとかわっていた。「毛原の棚田」に行くまでに古い町並みがあり、古い町並みで写真を撮り棚田に向かった。棚田の中に古い民家があり、茅葺き屋根がまたなんとも言えない味を出していた。棚田は思っていたより小さかったが、芝桜のピンクがまぶしかった。
国道一七六号線から四二六号線に入り出石町にはいる。古い町並みを探したがすぐに見つからなかったので出てしまった。国道四八二号線からは、日高町にはいる。ここで「植村直己記念館」の看板を発見した。予定していなかったが、なぜか直己記念館に足が向いてしまった。国道四八二号線沿いにあったので、又引き返さなければならないから遠回りになるかと思っていたが、トンネルが開通していたので時間短縮にもなった。
「植村直己記念館」は、国道の左側にあった。入り口が分からずと惑ってしまったが、見る価値は十分にあった。改めて胸が熱くなった日だった。記念にTシャツをと考えたが、やめた。グッバイ直己と心でつぶやいた。
国道四八二号線はトンネル開通のため、村岡町まで時間短縮となった。ラッキーだった。暑さのためにTシャツになったが、トンネルの中は寒かった。神鍋高原を過ぎ、トンネルを抜けると村岡町だった。ここで昼食をとる。
「西ケ岡の棚田」と「うへ山の棚田」をここで探す。最初に西ケ岡の棚田に行く。国道から県道にはいると、狭く急勾配が続いた。そこに小さな村があり、さらに奥に行くと棚田があった。バイクをおいて、かなり歩いた。途中
「ここは、急勾配が続いて大変ですね。」
と、農作業しているおばあさんに声をかけた。
棚田は湾曲していて、とても綺麗だった。できたら、ここに夕陽が沈むまでいたかったのだが、次の棚田もあるので早々と棚田をあとにした。国道四八二号線からキャンプ場に向かう急勾配の道を登っていくと、右側に「うへ山の棚田」が見えた。この棚田は、探すのに時間がかかった。棚田の所では、トラクターで農作業をしている老人と孫がいた。
再び国道に戻り、岩美町に向かう。国道九号線を北上していると、木造の学校があり、その周辺が棚田のようになっていたので右折する。しかし、そこは「横尾の棚田」ではなかった。ロードマップを取り出し、再びルートのチェックをする。どうも通り過ぎてしまったらしい。いったん戻り、県道にはいる。県道にはいると「横尾の棚田」という看板があった。棚田の所には、カメラマンが何人かいた。カメラマンの一人が        「去年の夕陽は綺麗だった。」
と一言いったので、できたらここの夕陽を撮りたいなと思ったが、余裕がなかったので早々と国道に戻る。
国道九号線を北上して、鳥取砂丘に沈む夕陽でもとろうかと考えたのだが、どうも夕陽が撮れるか分からなくなってきたので、再び「棚田」探しにはいる。ここからだと「つくよねの棚田」が近いので、若桜町に向かう。県道三十七号線を南下する。「こんなことだったら先ほどの横尾の棚田からいけたのに・・・」と後悔しながら南下する。
若桜町に着くと国道沿いに棚田の看板はなかったが、地名が載っていたのでスキー場方面に国道を左折する。午後四時を過ぎているので、棚田の写真を撮れるかどうか心配だったが、スキー場から棚田を見ることができた。ただ残念だったのは、田に水が張っていなかったので、棚田らしい風景写真が撮れなかったことだった。
棚田の写真を撮ろうとしたところが宿泊所になっていたので、ここで宿泊することも考えたのだがもう少し距離を伸ばしたいという考えがあったので棚田をあとにする。国道二十九号を南下すると、「山崎」に着いた。ここに来ればビジネスホテルがあると思っていたのだが、なかなか見つからず姫路方面に足をのばした。しかし宿はみつからず、再び山崎に戻った。何度か市内を回っていると、民宿があったのでそこに泊まる。午後八時だった。遅い夕食を市内に有るガストでとると、民宿に戻り床に着いた。
□五月三日(月)◆北庄の棚田、小山の棚田、岩座神の棚田、長谷の棚田
山崎インターから、津山に向かう。中国自動車道は交通量が少なく走りやすかった。約三〇分ほどで津山インターを下りることができた。古い町並みがどこにあるかわからないので、インターを下りると国道五十三号を走る。鶴山公園のところでバイクを止めてロードマップを見ていると、いつの間にか雨が降ってきた。雨具は着る必要もないだろうと考えて、着用しなかった。ひとまず古い町並みを探しながら走っていると、古い町並みの看板があった。その看板の所をゆっくりと走った。思ったより、古い町並みは続いた。
写真を撮り終えると、再び国道五十三号線を走る。「高尾」という信号機の所にローソンがあったので、そこで朝食をとる。朝食をとりながら、棚田を回る順番を考えた。ここには三つの棚田があるので、順番を考えながら走らないと時間のロスが多くなるので慎重にする。ひとまずローソンの信号を右折して、国道四二九号線にはいる。国道を左折して、県道四五五号線を走る。この県道を走っていくと「小山」と言うところに出るはずであったのだが、なかなかその場所が分からなかったので
「すいません。ここは小山の棚田ですか?」
と、棚田のところで農作業をやっている人に聞いた。農家の人は
「いやいや、ここはそんな場所ではありませんよ。たぶんここを下ってから登ったところが大きな通りになっていますから、そこを右折すると分かると思いますから・・・。」
と、答えてくれた。
ちょっと不安になりながらも、言われたとおりに進んだ。確かに、下ったところは広い県道になっていた。ロードマップで現在地を確認する。右折をすると、県道七〇号線を少し走る。右側に「誕生寺」という看板が見えてきた。そこで再びバイクを止め、ロードマップで確認をする。どうやら、棚田はこの誕生時の近くにあるようだ。私は県道を誕生寺に向けて、左折した。
登ったところに棚田が見えたが、ちょっと違うのでそのまま走る。走っていくと、下りになった。下ったところに、棚田の看板があったので、右折をして再び登っていく。登っていくと、棚田が目の前に姿を現した。久米南「北庄」の棚田だった。まだ、田に水が張ってないところが多く、農家の人が草刈りをしていた。「北庄の棚田」
「北庄」の棚田をあとに、再び県道七〇号線に出る。県道を少し走ると、右折をした。何とか「小山」の棚田を探さなければと、注意しながら走る。「小山」という看板があるのはあったのだが、棚田は全く姿を見せてはくれなかった。道が細くなるたびに心細くなってきたが、どうにか幹線道路に出ることができた。幹線道路が下りにかかると「待てよ、道が間違っているかもしれないな?」と思い誰かに尋ねようかと思うのだが、山奥なのでなかなか人に会うことができなかった。やっとの事で地元の人に出会ったので
「すいません。この辺に小山の棚田というのがありませんかね・・・。」
と、尋ねてみた。聞いてみると、どうやらこの辺にあるらしいのだが、看板のようなものはないらしい。
聞いたとおりに走るが、急勾配が続き道が狭くなってくると「間違ったかな?」と思い、たびたびバイクを止める。やっとの事で、小山の棚田は探すことはできた。老夫婦が田植えをしていた。山桜が散り始めていて、散る場面が棚田をバックに何とも言えない風景を作っていた。「小山の棚田」
小山の棚田をあとに津山に戻ろうとしていたら、偶然大併和西(おおはがにし)の棚田に遭遇してしまった。この棚田はかなり大きく、観察順路があった。このころには、雨は完全に上がってしまった。しかし、雲はどんよりとしていた。ツツジをバックに何枚かの写真を撮ることができた。「大併和西の棚田」
津山に着いたのは、ちょうど正午だった。津山で昼食をとり、この先どうするか考えた。とにかく九州まで行くことは不可能なので、天気の様子を見ながら移動することにした。問題は今日中に走り抜いて帰宅するか、思い切って京都に一泊するかだった。天気予報だと四日の日が大荒れになると言うので、できたらこのまま走れるところまで走り抜いた方が得策と考え始めた。
ファミレスを出ると、携帯電話で
「あ、もしもしご無沙汰しています。今岡山にいるんですよ・・・。天気が悪くなりそうなので、もしかしたら明日の午前中ぐらいに富士宮を通るかもしれませんから、そしたらよりますので、よろしく・・・。」
と、一方的に話をした。話が終わると、中国自動車道にバイクを乗り入れた。このまま走り関東に戻ることも考えたのだが、「岩座神の棚田」を見ておきたいと考え、中国自動車道から播但連絡道路に入ることにする。どういう訳か、このインターの出方と入り方が分からず時間がかかってしまった。連絡道は流れが良かった。
神崎南インターを出ると県道八号線から国道四二七号線に出る。国道沿いに走っていき、峠を下って左折すると、棚田は見えた。茅葺き屋根の民家も見え、それが又独特の風景をつくっていた。全体は小さいが、風景はなかなかだった。「岩座神の棚田」
棚田を見終わって時計を見ると、午後三時を過ぎていた。このまま関東に帰るのだったら、「長谷の棚田」も見たくなってきた。ひとまず、滝野インターから中国自動車道にはいる。帰るか棚田によるか迷いながら走っていたが、最終的には「舞鶴自動車道」に出て丹南篠山口インターで下り、国道三七二号線に入る。篠山市からは、国道一七三号線に合流、流れの良い峠を登り、下りきったところが能勢町だった。棚田が分からず困っていた。このまま間違って通り過ぎてしまってはいけないと、途中で尋ねていく。通り過ぎてはいなかったようだ、国道を右折してさらに左折したところが棚田だった。午後五時を過ぎてはいたが、十分に写真を撮ることはできる明るさはあった。
棚田の奥の方に、パトカーと消防車があった。何かあったのではと思い、なるべく奥に入らないようにした。この棚田も田植えはまだだったが、水が張ってあったのでどうにか写真を撮ることはできた。私の他にカメラマンが数人いた。どうやら夕焼けの写真をねらっているようだった。
私は、バイクを降りて歩いた。何台かの車が棚田の所を走っていたが、私は急勾配なのでバイクがこけてはいけないと思い、歩くことにした。高度を増すごとに景色が変化して、とてもおもしろかった。ただ残念だったのが、左側の棚田に金網がしてあって、中に入れなかったことだった。「長谷の棚田」
午後六時過ぎまでいたが、夕焼けの写真は無理とあきらめ、私は棚田をあとにした。国道に出たところの交差点にローソンがあったので、ひとまずそこで今後の予定を考えることにした。雨は、まだ降ってはいなかった。ローソンの所には、オフロードのバイクが二台とめてあった。時計は、午後七時だった。オフロードのライダーと会話をしたが、どうやら彼等は日帰りのようだった。                          私はここから中国自動車道にはいるのは渋滞のことを考えると得策ではないと考え、亀岡から京都丹波道路に入り、京都市内から再び高速道にはいることを考えた。夜道は方向感覚が狂い、山道を走るのには良くないが、渋滞をさけるためにはそれが一番と、亀岡に向かった。亀岡から高速道に入ろうと思っていたが、渋滞のため国道九号線を市内に向けて走ることとなってしまった。国道は、混んでいた。私は夕食を食べて、混雑が和らぐのを待つことにした。たまたま国道沿いにあったココスに入り、一時間ほど時間をつぶした。
国道に出るが、あまり渋滞は変わらないように思えた。そのまま市内にはいると、さらに渋滞は激しくなっていた。こんな事なら最初から中国自動車道を使えば良かったかなと、後悔してしまった。京都東インター手前が、ピークだった。ひとまず高速道にはいる前に、ガソリンタンクを満タンにしないといけない。私はインター手前のガソリンスタンドへ、休憩もかねて入った。
満タンにすると、インターにはいった。高速道は、考えていたよりは流れが良かった。さらに、中国自動車道に入らなかったことを後悔した。高速道にはいってから、草津パーキングですぐに休憩をとった。このまま走るか、京都に泊まるか考えていたからだ。草津か大津だったら安いビジネスホテルに泊まることもできるので、パーキングで考える必要があった。雨は、ポツリポツリと小雨模様だった。私は明日京都に残っても雨の中では楽しいツーリングは望めないし、このままここにいるよりはなるべく関東に近づいた方が得策と考え、走り通すことを選択した。
八日市手前が少し流れが悪かったが、関ヶ原まではどうにか渋滞に巻き込まれることなく走ることができた。矢吹パーキングで休憩をとりパーキングを出る頃には、雨は大粒の雨となっていた。渋滞も激しく、路肩走行をしないと距離が稼げない状態だった。一宮から先は、どうにか渋滞にはなっていなかった。関ヶ原を抜けたのが、午後十一時過ぎだった。名古屋を通過したのが、深夜零時過ぎだった。ここまで来ると、ビジネスホテルに泊まるという考えはなくなっていた。浜松まで走り、浜名湖パーキングで仮眠をとることだけを考えた。途中アフリカツインのライトが片目になっていることに気がつき、遠目で走る。こんな時、デュアルヘッドライトは便利だなと思った。アフリカツインのライトは大変明るく片目でも十分走ることができたが、雨の中を走っているので片目よりは遠目にして両方のライトがついていた方がよいと思い、夜は遠目で走った。相変わらずカウリング効果が良く、濡れも疲れも少なくて快適な走行ができ、浜名湖まで来てしまった。
来るときは、夜中だというのにバイクが十数台止まっていた浜名湖パーキングも、夜中の雨と言うこともあり、私のバイクを含めて三台だった。雨と風が強く、来るときのようにはシュラフにはいることができないので、トイレに近い通路にツェルトを敷き、シュラフを広げた。人通りが多いので一瞬ためらったが、それ以外にシュラフを濡らさずに仮眠をとるのは難しいと考え、シュラフを広げた。シュラフに入っても人通りが多いので、人の声が一晩中していた。仮眠をとれたかどうか分からないが、午前一時半から午前五時まで体を休めることはできた。
□五月四日 暴風雨の東名高速道路
バイクの所に行くと、一台のGSが入ってきた。軽く頭を下げると、向こうも頭を下げた。昨夜以上に雨と風が強いのに走行している姿を見ると、なぜか笑いが出てきてしまった。
午前五時に浜名湖パーキングを出発、ただひたすら東名を走る。午前七時前には、富士宮パーキングに着いてしまった。ここで、温かいうどんを食べる。富士宮に寄るかどうか迷ったが、雨が強いのでそのまま東名を走る。足柄パーキングに着くと、再び休息をとる。雨と風が強いから体の疲労のことが心配になり、休憩を多くとることにする。ここで、小野さんに電話を入れる。
「もしもし、今足柄のパーキングにいるんですけれど、雨が強いのでこのまま帰りますから・・・・、吉田さんにもよろしく。」
私が言うと
「あれ、夕べは岡山にいませんでしたか?」
と言われてしまった。
走り慣れた東名を順調に進む、海老名パーキングに着く頃には、風は強かったが雨は完全に止んでしまっていた。海老名パーキングには、何台かのハーレーが止まっていた。年齢も高齢者ばかりだった。ほとんどのライダーは、ここで雨具を脱いでいた。
首都高の渋滞のないまま、久喜インターを下り帰宅したのは午前一〇時だった。
☆ 岡山県久米南町には棚田が多く、場所が分からなくて苦労した。人と会うこともない 場所での棚田探しは、農家の人との会話でもあった。現在のツーリングマップルには棚 田百選が記されているので便利だ。

●その十三「中国地方から九州の棚田(一)」を求めて(二〇〇四年七月二十二日~  ◆2「長谷」、2「北庄」、「神谷(かんだに)」島根県邑南町、「井仁」広島県安芸太田町 「大井谷」島根県古賀町、「竹」福岡県東峰村、「尾戸の口(おどのくち)」「栃又」  「徳別当」高千穂の棚田、「美生(びしょう)」熊本県八代市          
□七月二十二日(木) 東名高速富士の川Pで寝袋
首都高速の渋滞を考え、午後八時過ぎに自宅を出発。東北道から、首都高速にはいる。流れは、思っていたとおりよかった。深夜零時、体調のことを考え、無理をせずに寝袋にはいる。前回は浜名湖パーキングまで走ったが、今回は冨士の川パーキングで寝る。もちろん寝袋だ。
□七月二十三日(金)久多の麹、◆2「長谷の棚田」、丹波篠山、津山
午前五時にパーキングを出発、順調に名古屋を抜け、朝食を午前七時にとる。前回は、午前七時前に通過したので朝食をとることができなかったが、今回は「ぴったしかんかん」で、バイキングセットを注文することができた。(養老SA)
前回と同じように栗東インターを出る。琵琶湖大橋を通過したのは、午前十時過ぎだった。インターを出たのは前回とあまり時間がかわっていないのは、琵琶湖で時間をつぶすことがなかったからだ。あらかじめ、三六七号線からはいる。
久多にはいるため、国道を左折して町道一一〇号線に・・。久多には着いたが、雑誌で紹介されている菊の花はまだ七分咲きだった。なるべく花の咲いている場所を選び写真を撮る。途中知りあった親子の話では、今年は八月頃が見頃とのこと・・。
久多から国道四七七号線に入り、能勢に向かう。能勢の棚田には五月に来ているが、再び・・・。一度来ているのですぐに分かると思ったが、能勢町に入ってから分からなくなってしまい、警察署で尋ねる。地図をもらい、何とかローソンの所にたどり着く。ここからは簡単だった。あのときの苗が大きくなり、もう穂がつきそうだった。
能勢から国道一七三号線に入り、篠山市に向かう。篠山市は通過したことはあったが、今回は改めて古い町並みに焦点を当て訪れることになった。着いたのは、午後四時過ぎだった。町をあとにしたのが、午後五時近く。一時間近くここでカメラを持っていたことになる。
滝野インターから津山に向かい、津山に宿をとる。なぜとったかというと、ツーリングマップルに紹介されていたからだ。でも、ちょっとがっかり・・・。値段的には安くてよかったのだが・・・。
□七月二十四日(土)◆2「北庄」、高梁松山城、吹屋、鯉が窪湿原、帝釈狭、尾崎豊
朝七時前に宿を出る。五月に走った国道五十三号線をはしる。国道沿いにある久米南町には三つの棚田があるが、今回は一つだけに絞って写真を撮ってみた。国道を走っていると、右側に「誕生時」という看板があった。私は、その誕生寺に向かってバイクを走らせた。誕生寺方面に棚田があるのだ。棚田はすぐにわかった。一度行っているからわかるはずだが・・・。朝早かったのか、少し霧がかかって全体の様子がわからなかった。適当にシャッターを切った。「北庄の棚田」                        国道五十三号線から国道四八四号線にはいり、高梁市に向かった。マップルに「古い町並み」と書いてあったので行ってみたくなったのだった。思っていたより、高梁市には早く着いた。適当に走っていると「古い町並み」の看板があったので、バイクを止めてカメラを片手に歩いていると、おばあちゃんが
「松山城へは、入ってみたか?」
と、私に何度か尋ねた。
「日本で一番高いところにあるのが松山城だぞ、当時の人はあの石垣を作るために石を運んだ。あの石垣は人力で運ばれた石で作られたんだ。当時の人はすごかったんだな・・。」
と、一方的に私に話しかけていた。おばあさんは、きっとこの町の松山城が好きなのだろうと私は考えた。
高梁市を出ると「吹屋」に向かった。観光協会でもらったパンフレットに「ベンガラ格子の吹屋の町並み」と書いてあったので、私は行ってみた。そこは、着いてみると思っていた以上に、町並みがすばらしかった。ついつい何度も町の中を走ってしまい、最後はここで昼食をとることになった。
昼食をとると、県道五〇号線を走り、東城インターに向かった。途中「鯉が窪湿原」と言う看板にひかれ、湿原を訪れた。「関西の尾瀬」と言われるくらい綺麗だというので行ってみたが、高山植物はほとんど終わっていた。歩いたので、かなりの時間ここで時間をつぶしてしまった。帰るときに
「すごいバイクだね。」
と、受付のおじさんにいろいろと質問をされた。
東城のコンビニで休憩をとると、帝釈峡に向かう。県道二十五号線を走ると、渓谷が見えた。ただ、雨雲が広がってきて雷雨になりそうな雰囲気だったので、再び東城の町に戻り道の駅で雨宿りをしようと思ったが、雨が降ってこなかったのでインターから中国自動車道にはいることにした。
道の駅で何台かのライダーと会話をしていると
「わざわざ茨城からこちらに来るとは・・・。」
と言われたので、私は、
「ただ来ただけではないんだ。今年は、棚田の写真を撮るために走っているんだ。ただ走っているだけでなく、それぞれ目的があって走っているんだ。若い頃はただ走るだけで楽しかったけれど、四〇代なるとテーマを決めて旅を続けるんだ。」
と、私は一方的に話を始め、(高梁のおばあちゃんのように・・・。)インターの中に消えていった。途中雨雲の下を走ってしまい大変な目にあったが、雨具を着ることなく走り続けた。アフリカツインだからできたことかもしれない。
三次インターで降り、「みよし風土記の丘」に向かう。着いたときには、午後五時を過ぎていたので博物館の中にはいることはできなかった。市内のビジネスホテルに宿を取るため市内を走り、どうにか宿をとることができた。「江の川」で鵜飼いを見ることができるというので、徒歩で川に向かう。帰りに歩いていたら偶然焼鳥屋があったので、何気なく入ってしまった。焼き鳥を食べていると、「尾崎豊」の音楽が流れていた。なぜか北海道を思い出してしまった。なぜなんだろう・・?
□七月二十五日(日)「神谷、井仁、大井谷」、津和野SL、門司港
 午前七時に宿を出る。国道五十四号線から国道三七五号線に入り、江の川にそって走る。この国道はとても狭い場所があったり、急に広くなったりと変化に富んだ国道だった?景色も、良かった。羽須美村の上口羽の「神谷棚田」は、この国道から県道七号線に入ったところにあった。棚田は、思っていた以上に小さかった。特に、道が狭く急勾配だったので写真を撮る場所を選ぶのに苦労した。「神谷棚田」
棚田の写真を撮り終えるといったん江の川に沿って戻り、国道三七五号線から国道四三三号線に入り、浜田自動車道に向かった。浜田自動車道から、旭町の棚田の写真を撮ろうと考えていたのだ。ところが、国道四三三号線の途中で峠越えに時間がかかることと、古い町並みがあることを知り、美土里町から高田インターに向かった。美土里町には、昭和初期の古い町並みを作った温泉があった。
高田インターから中国自動車道を使用して、筒賀村に向かった。筒賀村にはいるためには、戸河内インターで降りなくてはいけなかった。インターを降り国道一八六号線バイパスを走り、国道を左折して県道四十一号線にはいりトンネルを抜けると、「井仁の棚田」はあった。棚田では、地元の小学生とその引率の先生らしき人がスケッチブックを片手に棚田の中を散策していた。とてもほほえましい光景だった。バイクを止められる場所を何カ所か確認して、写真を撮った。「井仁の棚田」
井仁の棚田をあとに、再び戸河内インターから中国自動車道に入り、六日町インターに向かった。六日町から国道一八七号線を北上して柿木村に向かった。柿木村には、「大井谷の棚田」があった。途中国道沿いのスタンドでガソリンを入れる。思っていたよりガソリンは安かった。ガソリンを入れ再び走り出すと、小雨がぱらついてきた。私は昼食のことも考え、適当なところがあったら昼食をとり、雨具を身につけることも考えた。
右側に道の駅があったので、そこで昼食をとる。津和野が近いので、ライダーもそこそこ見ることがあった。道の駅では、私と同じように雨宿りをしているライダーもいた。私はレストランの中にはいると、すぐに注文をした。客が少なかったのか、注文した物はすぐに届いた。
私が昼食をとっていると、雨は止んだ。私は雨具を着ることなく、すぐに国道を北上した。途中で知りあったライダーが、柿木村から津和野につながる県道がおすすめだと言っていたが・・・。そんなことを考えていると、左側に「大井谷の棚田」という看板が見えた。私は、その看板のところで左折した。
棚田は、石垣で囲まれていた。どのアングルから撮っても絵になる写真が撮れた。花を入れながら写真を撮ろうとしたのだが、うまくいかずあきらめた。最後に展望台に登り、写真を撮った。「大井谷の棚田」
展望台を降りると、再び国道に出た。私は迷わず国道から県道二二六号線に入り、津和野に向かった。先ほど昼食をとった道の駅の所を、右折した。右折すると快適なワィンディングロードに出たのだが、すぐに雨が降ってきた。最初はどうにか我慢できるぐらいだったのだが、途中から強くなり、私はとうとうバイクを止め雨具を身につけた。
峠を登り、眼下に津和野の町が見えてきた頃、雨は完全に止んだ。雨具を脱がなければならなかったのだが、バイクを止めるのも面倒なのでそのまま走り続けた。津和野はこれで三回目だが、バイクで訪れたのは初めてだった。峠を下っていくと、津和野の町がどんどん迫ってきた。途中景色のいいところで津和野の写真を撮ろうとしたが、バイクを止めるにはちょっとためらう場所が多く、なかなかバイクを止められなかった。そうしているうちに、とうとう町まで降りてしまった。
私は自動販売機の前でバイクを止め、雨具を脱ぐと小銭を自動販売機に投入した。ちょっと考えたが、ファンタグレープのボタンを押した。のどが渇いていたので、うまかった。
自動販売機の前には橋があった、橋を渡り右折すると、古い町並みだった。私はいったん停まり、バイクをどこに止めるか考えて町並みの中に入った。何年ぶりの津和野だろうと考えながら、カメラのシャッターを押した。相変わらず、小川の中には鯉が泳いでいた。観光客が多かったが、どうにか写真を撮ることができた。
再びバイクのエンジンをかけると、古い町並みから再び国道に出た。本当ならここでのんびりとするのがよいのだが、目的地は九州なので先を急いだ。先は急いでいたのだが、津和野駅でSLが停まっていたので、そちらに向かってしまった。向かってしまったと言うより、強引にバイクを駅前に入れてしまった。それからヘルメットをあわててとり、カメラをパニアケースの中から取り出すとSLの前まで走った。とにかくSLが出発してしまう前に写真を撮りたい一心で走った。SLの前には大勢の人がいたが、どうにか写真を撮ることができた。
津和野の町を出ると、国道九号線を、山口市目指して南下する。思っていたより混んでいなかったので、山口市には午後四時前についてしまった。市内を抜けると、小郡インターが右側に見えた。私は迷わず、小郡インターにはいった。中国自動車道にはいると、なぜか心がうきうきしてきた。それは、もうすぐ関門海峡を渡るからだろう。私は、一人でそう考えた。もし今回関門海峡を渡ることができれば、バイクで九州上陸は三回目になるはずだ。
バイクに会うことはなかったが、美祢、小月、下関と順調に高速道を走ることができた。壇ノ浦パーキングには是非寄りたいと思っていたの、下関では壇ノ浦パーキングで休息をとった。壇ノ浦パーキングは、とても風が強かった。バイクを止めると、ここの駐車場にロードマップを忘れてきてしまったことを思い出した。あのときは、フレンディのバンパーの上にロードマップを乗せたまま走行してしまったのだ。
パーキングで宿泊所のパンフレットをもらい、私はパーキングを出た。関門橋を渡るときは、日本の国を出て違う国に渡ったような錯覚を起こしてしまった。バイクでここを渡るのは、何年ぶりだろう。たぶんRZで日本一周をしたとき以来だと思う。だから二十二年ぶりのことなのだろう。
橋を渡るとすぐに左折のウィンカーを出して、門司港インターを降りた。今夜は、門司港の夜をカメラにおさめるつもりでいた。左折しながら、港を目指した。インターを出て、二十分で煉瓦作りのレトロ風の場所に着いた。バイクを適当な場所に止め、何枚かの写真を撮った。私は夜もここに来るつもりでいたので、そんなにあわててはいなかった。それよりも、むしろ宿泊場所で時間がかかってしまった。最終的には、港から少し離れた「船舶簡易宿泊所」に泊まることとなった。どうやら、船舶共済関係の宿泊所らしい。宿泊費は、三千円と安かった。ただ、レトロ風の建物がある場所まではかなり歩かなければいけなかった。
夕食がすんでいないため、まず食事をする場所を探さなければいけなかった。宿泊場所から歩かされたので、のども渇いていた。まず、ビールを飲まなければいけなかった?たまたま地ビールのレストランがあったので、そこに入った。しかし、すぐに出てしまった。なぜかというと、値段がかなり高額という雰囲気だったからだ。いったんでてしまったのだが、ここまで歩いてきたので疲れてしまい、違う場所を探す気力もなかったので再び中に入った。高いだけあって、雰囲気が良く港の夜景がよく見えた。ビール二杯と適当につまみを注文しただけで、四千円ほどとられた。今回のツーリングでは、最高額だ。
レストランを出ると、カメラを片手に夜景を撮した。疲れているところに飲んだので、いちだんと疲れとしまい。しばらくベンチで休んだ。再び写真を撮り始め、宿に戻る頃、回転寿司を食べた。食べたあと、再び長い宿への道のりを歩いていった。
□七月二十六日(月)秋月、◆「竹の棚田」、日田、阿蘇の国民宿舎
今日は、南下しなくてはいけなかった。なぜかというと、最終日にフェリーを使用するからだった。門司インターから高速道に入り、小倉南インターで高速道を降り、国道三二二号線を南下する。甘木市に近くなると、コーナーの多い峠道に出た。国道にしては交通量が少なく、コーナーを楽しみながら走ることができた。峠を下ると、そこは「秋月」だった。
秋月は前々から訪れてみたかったので、大変興味があった。九州の小京都と言われる、城下町の中の一つでもあった。特に、古い町並みが魅力的であった。朝食をとっていなかったので、早速「くずもちセット」を注文した。何回か町中をバイクで回り、国道五〇〇号線にでた。宝珠山村にある「竹」の棚田に向かうためだ。国道は、山間部を通過するため、コーナーが多く対向車が少なかった。ちょっと心配になりながら走っていたが、小石原村に着くと、ちょっと安心した。
十字路を右折して、峠を下ると宝珠山村に出た。問題は、「竹の棚田」に出るための道だった。国道二一一号線を右折すればよいのだが、町に行ったん出てから右折するより、途中の林道を右折したほうがよいと思い、その右折する場所に注意しながら下った。かなり下ってしまい、とうとう麓の町まで下ってしまった。私はマップルで確認した。どうやら右折する場所をすぎて、麓の十字路の所まで来てしまったようだ。私はマップルで確認したあと、信号機を左折した。左折すると、県道五十二号線に出た。この県道を登っていくと、右側に棚田が見えるはずだ。「竹の棚田」
県道は、上に行くほどに狭くなり急登になった。小さな橋を渡ると、そこに棚田が広がっていた。早速カメラを取り出し、写真を撮る。再び国道に出ると、日田市へと向かう。国道から日田市へ向かうより、斜めに県道を通ったほうが日田市に近かったので、いったん県道に出る。間違えはここから始まった。日田市に向かうはずが、どうも違っているような気がしてきて、県道を何度も行ったり来たりしてしまった。最終的には、ガソリンスタンドで道を尋ねた。
どうにか日田に出ると、再びカメラを取り出し写真をとり始める。昼食の時間なのか空腹感が強くなってきたので、日田市内で昼食をとる。入ったところは、とても高級感のあるお店だった。ちょっと高そうなので「失敗したかな?」と思っていたが、ランチがあったのでラッキーだった。一番安いランチを注文する。値段は一五〇〇円だが、内容はとても高級なランチだった。昼食を食べ終えると、市内をぶらりと回った。古い町並みがとても良かった。私は、この日田市で帰りのフェリーのチケットも手にいれた。
午後二時過ぎに、市内を抜けて高速道にはいる。阿蘇に向かうためだ。ちょっと空模様が心配だが、何とかなるだろうと思いながら高速道を走る。九重インターで降り、県道四〇号線にはいる。この県道は、山なみハイウェイに合流していた。私は県道にはいると、すぐに引き返してきてしまった。理由は簡単だった。雨雲が広がっていたからだ。私は迷ったあげく、国道三八七号線で阿蘇町に抜けることにした。山間部より、雨の降る確率が少ないからだ。
いったん国道に戻り阿蘇に向かったが、麓も天気は同じように雨になってきた。雨は時間がたつと、雷雨に変わった。あまりにも激しく降ってきたので、私はとうとう雨具を着用して走ることを決意した。南小国町から国道二一二号線にはいる。雨はいっこうに弱まらなかった。私が大観峰を下ると、雨は止んだ。国道の右手にある道の駅で小休止をし、雨具を脱いだ。
国道五十七号線に出る頃には、雨の心配はなくなってきた。私は、またここで迷ってきた。このまますすむべきか、明日阿蘇に向かうべきか・・・?私はこのまま草千里に寄らないのはもったいないと考え、阿蘇に一泊することを考えた。ちょうど駅前に国民宿舎があったので、そこに宿泊することにする。
国民宿舎は、もう倒産寸前の会社のようなたたずまいだった。客も見あたらなかった。うれしいことに、温泉が付いていた。ひとまず温泉に向かったが・・・、汚かった。食事も・・・、でも値段が六〇〇〇円と安かったので・・・、仕方ないと思った。
□七月二十七日(火)◆「栃又・尾戸の口・徳別当」高千穂の棚田、「美生」、通潤橋
朝食をとると、すぐに宿を出た。雨は降っていなかった。阿蘇に雲が懸かっていたが、私は阿蘇に向かった。景色が良かった。県道一一一号線をひたすら走ると、回りの景色が見えてきた。バイクを止めて牧場の写真を数枚撮ると、再び走った。標高が高くなると、視界が悪くなり草千里は何も見えなくなってしまった。せっかく来たのだからと、視界が良くなるのを待つことも考えたのだが、どうもいっこうに視界が良くならないのでそのまま県道を下り始めた。
有料道路手前を右折し、くだり始めると視界が急に開けてきた。国道三二五号線は、晴れていた。私は、高千穂に向かうため国道を走り続けた。この国道は、高森を過ぎるとほとんど対向車はなかった。とても走りやすい国道だった。国道二一八号線と合流するところを右折すると、トンネルが二つあった。私はそのトンネルの手前でバイクを止め、マップルでもう一度確認をした。トンネルを通過すると県道七号線を通過してしまうので、トンネル手前の信号機を左折しなければならなかった。私はバイクをUターンさせると、右折した。
県道七号線は、棚田だらけだった。国道から離れると、回りに棚田が見えてきた。棚田百選に書いてある棚田がどれだかわから無いまま走ると、天岩戸神社に着いた。私は棚田の場所も分からなかったので、ここで観光マップを手に入れれば分かるかと思い、神社の所にバイクを止めた。
神社の境内を少し歩くと、売店で棚田のことを尋ねた。観光マップには棚田は書いてなかった。私はバイクのところでもう一度確認して、再び県道七号線を走った。神社を過ぎると、県道は狭くなってきた。対岸にも棚田が見えてきた。私はせっかく来たのだからと、県道沿いにある棚田を適当にカメラに収めた。「高千穂野棚田?」
棚田が分からないまま、高千穂渓谷へと向かった。私は今日中に宮崎に戻らないといけないので、ここからは宮崎に行くことだけを考えた。国道二一八号線は、何度かとおったことのある国道だった。ただ、夏に通るのは初めてだった。清和村で昼食をとり、矢部町で再び通潤橋の写真を撮った。やはり、冬より夏のほうが絵になる写真が撮れた。
国道四四三号線から東陽村に入り、「美生の棚田」に向かった。時間的にはぎりぎりだったので、県道二十五号線ではすぐに場所を尋ねた。尋ねるといっても、ほとんど人通りのない山の中だったので苦労した。棚田はすぐに分かった。なるほど、棚田には生姜だけが植えてあった。再び国道に戻り、八代インターから高速にはいる。「美生の棚田」
インターに入ったときには、午後三時を過ぎていた。私はフェリーに間に合わないことも考え、すべて高速を使って宮崎まで行くことにした。えびのパーキングを午後四時前に通過したときに、当初の予定を変更して「小林インター」から国道二六八号線に入りそのまま宮崎港に向かうことにした。
国道は思っていたより混んでおり、港に着いたのは午後六時だった。私は手続きを済ませると近くのファミレスで夕食をとり、港に戻った。港には、すでにバイクが六台ほど止めてあった。台風一〇号の影響で海はしけていた。
◆七月二十八日(水)
予定より一時間遅れでフェリーは川崎港に着いた。首都高が混雑していて、結局自宅に着いたのは、午後九時だった。
☆ 九州は何度か訪れているが、棚田探しで訪れたのは今回が初めてだった。ただ分かっ たことは、九州の棚田は石垣が素晴らしいと言うことだ。

●その十「北陸・中国地方の棚田」から、九州へ(二)二〇〇四年七月三十一日~   ◆「青鬼」長野県白馬、「長坂」富山県氷見市、「白米の千枚田(しろよね)」石川県輪島 「室谷」島根県浜田市、「東後畑(ひがしうしろばた)」山口県長門市
□七月三十一日(土)◆「青鬼」長野県白馬、塩の道、「長坂」富山県氷見市
台風十号の関係で北海道へ行くのが一番最良の方法なのだが、チケットの関係で最後の最後まで迷う。朝の午前六時の気象情報を見る。北陸地方は晴れているようなので、北陸地方から中国地方に入り、島根インターハイに行く計画で出発する。
久々に国道三五四号線を走る。以前、墨坂の先生が「藤岡インターから国道三五四号線を走行して総和町に入るのが一番ですよね?」と質問してきたときに、「はい」と返事したことを思い出したので、三五四号線を利用した。
藤岡から上信越道に入ったのは、午前九時頃だった。横川パーキングで休息をとると、バイクの多さに驚く。東名方面が台風の影響で雨と言うことで、ライダーが北陸方面に流れたのか?
東部湯ノ丸パーキングでは、CB400Fのオーナーが集まっていた。どの顔を見ても中年だった?更埴インターで降りると、オリンピック街道に向かう。白馬に行くためだ。長野オリンピックが行われたとき道路が整備され、「オリンピック街道」と言われた。
途中、中条村で棚田の写真を考えたが、時間のことを考えパスする。白馬に着いたのは、午前十一時だった。白馬駅前で「青鬼の棚田」の場所を聞き、向かう。場所は、すぐに分かった。棚田の風景よりも、村の建物の風景が興味を引いた。建物の補修工事をやっている場面が多かったのがすこし残念だった。「青鬼の棚田」
棚田から、「塩の道」へと向かう。途中道の駅で昼食をとる。本当なら信州蕎麦を食べたかったのだが、タイミングがあわず蕎麦は断念し、ランチを注文する。塩の道は、「岩岳スキー場」の所にあるのを知っていたので、スキー場に向かう。塩の道で写真を撮っていると民宿のオーナーから声をかけられ、会話が弾んだ。住んでいる場所は名古屋で、毎週白馬に来るそうだ。
写真を撮り終えると、ひたすら国道を走り続けて日本海に出る。糸魚川に出るとツーリングマップルを取り出し、最終的には北陸道を走る。途中すれ違うライダーは多かったが、北陸道を利用するライダーは少なかった。
インターを考えていたが、能登半島に出ることを考え小杉インターを降りる。国道一六〇号線に出て氷見市に向かう。「長坂の棚田」に行くためだ。氷見市を通り過ぎたのが午後五時を過ぎていた。時間的に暗くなってしまい、撮影は難しいかもしれないと考えながら棚田を探す。左側に駐在所があったので、そこで尋ねて棚田に向かう。棚田は湾曲したところが無く、長方形の区画された棚田だった。数枚の写真を撮ると、再び国道に戻る。 ここから、宿探しに一時間以上かかってしまった。どこも満室で、氷見市に戻ったがビジネスホテルが見つからず、最終的には市内から離れた温泉民宿に泊まる。「長坂の棚田」
□八月一日(日)◆2「白米の千枚田」、福知山、能登半島一周
朝から天気は良かったが、テレビの天気予報では台風十一号の影響で中国・四国地方は雨と言うことだった。それを考えると、島根に向かうのはちょっと・・・?あれこれと悩みながらも、ひとまず能登半島を一周することにする。国道一六〇号線沿いに時計と反対回りに回る。七尾市からは、国道二四九号線沿いに合流する。和倉温泉からは、能登島大橋を渡り、能登島に入る。能登半島は、何回か訪れているが能登半島を一周するのはこれで二回目になる。それから、能登島に渡るのは今回が初めてだった。
小さな島だったので一時間ほどで回ってしまい、再び国道二四九号線にでる。穴水市からは、県道三四号線にそって海岸線を走る。この県道に沿って古い町並みが何カ所かあったのだが、止まるのが面倒になりそのまま走行すると、国道二四九号線に出る。
内浦町でも、国道からずれて県道三十五号線を走る。珠洲市では、県道二十八号線を走ると「ランプの宿」という看板がかかっていたので、日本一周したときのことを思い出してしまった。記憶の中では、能登半島を一周したのかどうかあやふやだったのだが、「ランプの宿」という看板を見て、当時能登半島を一周したことがはっきりした。
再び国道二四九号線にでると、「揚浜塩田」「曽々木」「千枚田」と距離を伸ばす。再び千枚田を訪れたのは、ちょうど昼食時だった。前回千枚田を訪れた季節が夏だったので、次回訪れるときは違う季節に訪れたいと思った。2「白米の千枚田」          輪島市から県道一号線で、能登有料道路に出る。有料道路に入る前に遅い昼食をとり、ガソリンタンクを満タンにする。暑い中、能登有料道路から北陸自動車道にはいる。能登有料道路と北陸自動車道はつながっていなかったので、内灘で有料道路を降りると、金沢西インターから北陸自動車道にはいる。小松、加賀、福井、敦賀と距離を伸ばし敦賀インターで降りる。インターを降りると、午後五時だった。
インターを降りると国道二十七号線を日本海にそって走る。小浜市で長い休憩をとると、再びエンジンをかけ国道を走る。舞鶴市に宿泊するつもりでいたのだが、舞鶴東インター手前でガソリンを満タンにするときに、「福知山」に宿泊することも考え始めていた。ガソリンスタンドで少し考え、最終的には「福知山」に宿泊することがベターと考え、舞鶴自動車道で福知山に向かう。舞鶴自動車道に入る頃には、辺りはもう真っ暗になっていた。福知山には、三〇分ほどで着いた。                         市内にはいるとビジネスホテルの料金が高かったので、安いホテルを探して宿泊した。宿泊が決まり、夕食をとったのが午後八時過ぎだった。
□八月二日(月)山陰街道、島根インターハイ、出雲、益田市内の民宿
朝から曇ってはいたが、雨は降っていなかった。本当なら京都当たりで時間をつぶしてから九州に向かえばよいことは分かっていたのだが、インターハイの初戦である今日は、やはり島根に向かわなければと・・・。午前中に島根に着かなければいけなかったので、午前六時に宿を出発する。
京都大阪方面は明るい空だったが、鳥取方面はどんよりと曇っていた。出発して一時間もたたない内に、雨は降ってきた。ここから島根まで、雨が降ったり止んだりの状態が続いたが、私は国道九号線をひたすら北上した。私はこのとき、国道九号線が別名「山陰街道」と呼ばれていることを知った。
日本海に出ると、遅い朝食をコンビニでとる。そして、島根へ・・・。途中時間にゆとりがあることが分かったので、鳥取砂丘へ行ってみる。砂丘を眺めながら、この砂丘を訪れると必ず雨が降ってくるとつくづく思った。
会場には予定より二時間ほど早く着いてしまい、時間調整のために早い昼食をとる。そして再び会場へ・・・。一試合目が終わると、そのまま出雲へと向かう。これが今回の大きな失敗だった。会場がインターの近くだったので出雲には午後三時頃着いたのだが、いきなり雨が・・・。私は思わず近くのひさしのあるところへ駆け込み雨が止むのを持ったが・・・・・。雨は強くなるばかりで、いっこうに止む気配がなかった。        私は雨を見ながらしばらく考えて、雨は止むことはないと考えた。必要なものを出雲大社で購入すると、雨具を身につけ雨の中へと出発した。出雲を出発すると、しばらくして右側に道の駅があった。私はたまたまそこで休息をとっているライダーを見かけたので、道の駅へと入ってしまった。
道の駅で一時間ほど時間をつぶしたが、雨は相変わらず強く降っていた。休息所にあるテレビは、「出雲地方に集中豪雨注意報」と放送していた。時計を見ると午後四時過ぎぐらいで、ちょっと宿を取るには早すぎる気がしたので再び雨具を身につけ雨の中へと出発した。私が出発に踏み切ったのは、同じライダーが雨の中へと消えたからだった。本当なら・・・。それほど強い雨だった。
道の駅(キララ多伎)をぬけて太田市に近くなると、雨も小降りになってきた。何軒かの宿泊場所があったのだが、浜田市へと向かった。国道九号線をいったりきたりしながら宿泊場所を当たってみたのだが、思うように宿泊場所をとれなかったからだ。私は、浜田市内で宿泊場所を決定することにした。
浜田市に着いたのは、午後七時過ぎだった。ビジネスホテルに宿泊することを考え、浜田駅へと向かった。数件のビジネスホテルがあったが、どこも満室だった。それには理由があった。この浜田市が、「島根国体ソフトボール」の開催地だったのだ。ここで宿泊することをあきらめ、益田市へと向かった。
浜田市を出発する頃には、辺りはすでに暗くなっていた。本当ならこの浜田市からは素敵な夕陽が見えるはずだったのだが、雨のために夕陽はあきらめなければいけなかった。しかし、浜田市を過ぎてから、雲の切れ間からちょっぴりと見ることができたのがうれしかった。
益田市に到着した頃は、午後八時を過ぎていた。雨も上がり、アスファルトの上が乾き始めた頃、私は国道沿いに宿泊所を見つけることができた。とうとう益田市まで来てしまったが、益田市は思ったほど大きな町でなかったのか、宿泊場所が少なく、最終的には民宿に泊まることになってしまった。この民宿安いのは良かったのだが、かなり老朽化していた。ただ一つおもしろかったのは、ここの長男がつくば市に努めていると言うことだった。オーナーと、「つくば市」の話題で盛り上がった夜だった。
□八月三日(火)◆「室谷」島根県、「東後畑」山口県
素泊まりだったので、朝食をとらずに宿を午前六時過ぎに出発する。バイクのところで荷物をパニアケースに入れていると、昨夜バイクを倒したところが大きくへこんでいるのが分かった。不思議とこのアフリカツインはへこみやキズが気にならないバイクだと、今朝は思った。
国道九号線をいったん浜田市方面に戻り、三隅町に向かった。ここには、「室谷の棚田」があった。朝早く出た為人に会うこともなく、このままでは棚田の場所を聞くことはできないかなと心配しながら国道を走っていると、右側に「室谷」という看板が見えた。その看板に従ってすすんだが、すぐに土砂崩れのため迂回路に入ってしまった。人通りのない迂回路なので、道に迷ったらという心配があったが、どうにか「室谷」に着くことができた。景色の良い棚田が続く場所だった。ただ、バイクを止める場所に時間がかかってしまった。どの棚田でもおなじことが言えるが・・・・。「室谷の棚田」
棚田をあとに再び国道に出る頃には、太陽が辺りを照らしていた。昨日の雨が嘘のように、今日は天気が良かった。特に、右側の海を眺めながらの国道は景色がよく、「ツーリング」という感じを強めてくれた。萩に向かう国道一九一号線は、特にすばらしかった。
萩にある道の駅で、早い昼食を食べることとなった。朝食をとるつもりでいたのだが、ついついとらずにここまで来てしまったのだ。だから、朝食と昼食が同じになってしまっだ。
昼食を終えると、すぐに市内にある「松下村塾」に向かった。バイクで訪れたのは、今回が二度目だった。車で二回訪れているので、合計すると、四度ここを訪れたことになる。初めて訪れたのは、バイクで日本一周したときだった。あのときから比べると市内は大きく変わってしまったが、この「松下村塾」は変わってはいなかった。古い町並みの様子も、昔のままだった。ただ、市内の様子が変わっているだけだった。古い町並みで写真を撮っていると、おばさんに話しかけられてしまい、ちょっと時間がつぶれてしまったが、これまた楽しい会話だった。
萩をあとにして、再び国道へ出た。そのまま日本海沿いにすすむと、長門市に着いた。国道の左側に大きな看板があった。「金子美鈴記念館」という看板だった。その名前を見て、どこかで聞いたことのある名前だなと思いながら、その看板に従って国道を左折した。どうにか記念館にたどり着くと、チケットを購入して中に入った。いろいろな詩が展示してあったが、さっぱりだった。しかし、一番最後に来て「わたしと小鳥とすずと」という詩を読んだとき、初めてこの金子美鈴が分かった。この詩は、私の教室に掲示してある詩だった。改めて、この記念館を訪れたことをうれしく思った。
長門市を抜け日置町に着くと、県道六十六号線にそって海岸沿いを走った。ここには「東後畑の棚田」があった。本当なら太陽が沈む夕方にここを訪れる予定であったのだが、午後二時に訪れてしまった。だが、日本海の見える棚田は景色が良かった。途中二台のチャリダーに会うことができたが、ライダーに会うことはなかった。
午後になると急に眠くなってきたが、我慢して国道一九一号線を南下する。途中脇道にはいることも考えたが、いつの間にか下関に着いていた。ここからは高速道に入り、関門海峡大橋を渡る。先週渡ったばかりで今週再びこの橋を渡るとは・・・。それも、先週と同じように「壇ノ浦パーキング」によった。
関門海峡大橋を渡ると、そのまま九州自動車道を走り、福岡インターから都市高速道に入った。都市高速道がよく分からず、二回ほど都市高速道の途中で停車して、マップルを見てしまった。都市高速一号線にそって走り、そのまま福岡前原有料道路に出て、前原で降りた。
前原からは県道五十四号にはいり、糸島半島を一周した。「茶屋」で夕陽を見ようと待っていたのだが、なぜか見ることができなかった?県道から国道二〇二号線に出ると、そのまま博多へと向かう。博多駅手前でビジネスホテルを見つけ、そこに宿泊する。ここのところお世話になっている、「東横イン」だ。バイクをどこに駐車するかで時間がかかってしまったが、どうにか無事駐車させることができた。
楽しみにしていた夕食を求めて博多の町に出たのだが、ちょっと疲れ気味で歩くのが面倒になってしまった。「博多ラーメン」を食べて終わりにするつもりだったが、二軒のラーメン屋を回ってしまった。なぜ二軒ラーメン屋を回ったかというと、一軒目のラーメン屋でラーメンと餃子を食べたのは良かったのだが、いまいち味が・・・・。せっかくきたのに・・・。あきらめきれずにまたラーメン屋を回って、同じくラーメンと餃子を注文してしまった。二軒目はおいしかったので、満足してホテルに帰った。博多の夜景を見るためにバイクで出かけることも考えていたのだが、アルコールが入ってしまったのでそのままお休み・・・。
□八月四日(水)志賀島、唐津、日向のフェリー三時間遅れ
朝から小雨模様だったが、雨具は身につけずに出発する。行き先は、「志賀島」だ。前々から興味があったのだが、なぜか行かなかったところだ。今回は、迷わず朝イチで志賀島へと向かう。島へは、フェリーを使わずに行くことができた。ただ島全体が小さかったため、すぐに回ってしまい、ちょっと物足りない気もした。海水浴客はほとんど見かけず、海の家だけが浜辺に寂しく立っていた。
志賀島を回ってしまうと、唐津へと向かうため、都市高速にはいる。やはり都内を早く抜けるには高速道が一番と、迷わずに入った。前原からは、国道二〇二号線を海岸沿いに走る。唐津手前に「虹ノ松原」と言うところがあったのだが、いまいちだった。唐津の町では思ったほどの物はなく、唐津城だけが目立っていた。市内を抜けると、国道二〇四号線にそって走る。「鎮西町」「玄海町」「伊万里市」とすすむと、時計の針は午後二時を過ぎていた。私は、今日中に日向市に行かなければいけなかった。なぜなら、フェリーのチケットがあるからだ。伊万里市を抜けると、とにかくアクセルを開けた。
九州自動車道にはいってからは、さらにアクセルを開けた。そうしなければ間に合わない場所に来ていたのだった。何を思ったかパーキングで
「すいません。日向まで行くのに、高速を使って宮崎まで行った方がいいのか、熊本インターで降りて、国道を使った方がいいのか教えてほしいのですけれど・・・。」
と、真剣な顔で尋ねると
「そうですね。みなさん熊本インターで降りて、国道を使っていく方が多いと思いますよ。」と、売店の店員が答えてくれた。高速料金のことも考え、国道を使うことを考えていたので、これで迷わずに熊本インターを降りることができると思った。時計の針は、午後三時二〇分を指していた。
国道五十七号線は二車線ではあったが、思っていたより混んでいた。さらに悪いことに、雨が降ってきた。その雨も、国道三二五号線にはいると本降りになってきた。道路工事の看板が多い上に、混んできた。さらに雨とは・・。私は、雨具を身につけながら熊本インターで降りたことを後悔した。あのまま南下していれば雨にあうことはなかったのではと、そんなことを考え始めていたのだ。
高千穂を通過したのは、午後五時過ぎであった。どう考えても午後六時には間に合わない。電話をすべきかどうか迷ったが、電話をする時間ももったいないと思い、そのまま走り続けた。雨は、弱くなることはなかった。特に山間部では、強く降っていた。かなり無理なライディングをしてもこの時間、このまま走っていても時間には間に合わない。どうすればいい・・・?国道二一八号線は混まないが、山間部のため大型トラックが走っているとなかなかスピードが上がらない・・・。追い越しをするにも山間部なので、思うようにできない・・。私は、そんなことを考えながら走っていた。
国道一〇号線に入り、延岡から日向に向かう国道に有料バイパスがあったので、それを利用する。結局日向に到着したのは、午後六時半だった。私はバイクを止めると、受付の所に駆け込んだ。すぐに
「すいません。午後七時出航の川崎行きは乗れますか?」
と尋ねた。私の慌てた姿を見た受付の人は、落ち着いた声で
「台風の影響で川崎到着が三時間ほど遅れていますが、それでもいいですか?」
と、逆に尋ねてきた。私は、
「フェリーに乗れるんだったらそれでかまいません。」
と、安心した顔で答えた。私はちょっと疲れたので、待合室で休んでいた。間に合ったのでほっとしたが、台風のことが少し気がかりになってきた。
午後八時過ぎ、予定より一時間半遅れでフェリーは出航した。このフェリーはシケの中を航海したので、かなり揺れた。おかげでタイタニックの夢を見てしまった。
□八月五日(木)川崎港着
川崎港に着いたのは、午後九時だった。首都高は混んでいなかったので一時間ほどで帰宅することができた。それに、雨も降っていなかった。
☆ 二週続けて、九州に上陸してしまった。関門海峡を二週続けて渡ったことになる?特 に二週目は、雨に泣かされたツーリングだった。

●その十一「四国の棚田(一)」を求めて(二〇〇四年八月二十五日~        ◆「樫原(かしはら)」徳島県上勝町、「下影」徳島県三次市、「奥内」愛媛県松野町   「堂の坂(どうのさこ)」愛媛県西伊予市、「泉谷」愛媛県内子町、         「神在居(かんざいこ)」高知県ゆすはら町
□八月二十五日(木)常磐道、有明港、オートスナック二千円分の食券
水戸から茨城東インターに入り、常磐道に合流すると、すぐに雨が降り出した。私は、すぐに雨具を身につけようとはしなかった。友部パーキングに入ってから、雨具を身につけようと考えていたのだった。多少の雨なら、カウリングで何とかなると考えていた。
友部ジャンクションを左折すると、すぐに友部パーキングの看板が見えた。急激にアクセルを開けるとスリップする恐れもあるので、ゆっくりとコーナーを回り、左折のウィンカーを出した。友部パーキングへと入ると、すぐに二輪の駐車場に向かう。屋根のある駐車場ではあるが、すでに屋根の下には数台のバイクが止めてあり、私のバイクを止めるのは難しかった。ひとまずバイクを止めると、トイレに向かった。
トイレから帰ってくると、屋根付きの駐車場が空いていたので、そこにバイクを入れて、雨具を身につける。本当なら雨雲の様子を見てから行動するのがよいのだろうが、フェリーの時間に間に合わないおそれがあるので、雨具を身につけると再び常磐道を走りだした。
土浦を過ぎると雨は完全にあがったが、雨具を身につけたまま走っていた。私のバイクの後ろには、バイク便がずっとついたままだった。バイク便も同じように雨具を身につけたまま走っていた。私と同じように、時間に追われているのかもしれない。
谷田部パーキングで休憩をとり、再び常磐道へ・・・。もちろん、雨具は谷田部パーキングで脱いだ。首都高にはいっても流れは順調だった。湾岸線に入り、有明インターを降りると、東京フェリーターミナルに向かった。XLにのっている頃一度だけこのフェリーターミナルから紀伊半島方面を訪れた記憶があったが、その当時のことを思い出せないままターミナルに入った。
ターミナルは新しかったが、観光客が利用している雰囲気が無く、ただ貨物用のトレーラーやトラックが行き来しているだけだった。チケットを買う場所が分からずと惑ってしまうほど、人はいなかった。やっとの事でチケットを購入する受付を探したとき、私以外に人はいなかった。
午後七時、予定通りフェリーは出航したが、バイクは私のバイクを含めて六台だった。船内は、狭かった。それにレストランはすべてオートスナックだった。今までにない体験だった。料金の中にオートスナックの料金二0〇〇円分が含まれていたので、料金てきにはお得かもしれない。それに船内は綺麗だった。
□八月二十六日(金)◆「樫原の棚田」、雨降る林道で迷う
朝からチャーハンを食べた。もちろんオートスナックで・・・。本当ならトーストにコーヒーがよいのだが・・・。徳島には、午後一時に着いた。これはほぼ予定通りだった。天気も良かった。ただ河野さんに連絡が取れなかった。
タラップを降りると、まず国道五十五号線から県道一六号線に向かうことを考えて走った。残念なことに、すぐに道を間違えてしまった。ただ、これもすぐに気がついたので、問題はなかった。一緒に降りたセローの女の子も道を間違えてしまったのか、ロードマップとにらめっこをしていた。
県道一六号は、すぐに分かった。県道一二〇号線を走っていると、大きな看板があった。そこに、「県道一六号」と書かれてあったので、右折した。そのまま走って行くと、大きな国道があった。その国道が五十五号線だった。県道一六号線は、その国道から始まっていた。右側には川が見えたと言うより、川に沿って県道ができていた。私は、そのまま県道を走り続けた。
勝浦町を過ぎ上勝町にはいると、空模様が悪くなってきた。私は雨具を身につけるかどうか迷ったが、きっかけがつかめなくてそのまま走り続けた。棚田がある地名の所に入ったところで、ちょうど左側に公衆トイレと休息所があった。そこでは、ジェベルが一台止まっていた。そのまま左折の合図を出して、ジェベルの脇にバイクを止めた。ジェベルのオーナーは軽く会釈をした。
「剣山スーパー林道に行くんですか?」
私が尋ねると
「ええ、初めて走るんですけれど・・・。」
と、ジェベルのオーナーは答えた。私は、
「私も剣山スーパー林道を走ろうと思っているんですけれど・・・、その前に棚田の写真を撮らないと・・、それに今回は台風の影響で・・・。」
と話した。ジェベルのオーナーは会話を交わしたあと、雨具を身につけると剣山スーパー林道へと向かっていった。
私は棚田の場所を確認するために、前にある駐在所に向かった。
「今日は、誰か居ませんか?」
大きな声を出してもすぐに人が出てこなかったが、少しして中から駐在所の人が出てきた。
「はい、どうかしましたか?」
駐在所の人が言うと、私は
「すいません。この辺に棚田があると聞いてきたのですが、場所が分からなくて・・。」と言うと、駐在所の人が
「棚田・・?そうそう、確かあったな・・。このパンフレットに載っているはずだが・?」
といい、パンフレットを見せた。そのパンフレットと簡単な略図をもらい
「それと、剣山スーパー林道は通行できますか?」
と、再び尋ねた。それに対して
「台風でかなり荒れていて通行止めになっているはずですよ。」
と、駐在所の人は答えてくれた。
私はその話を聞いて、スーパー林道に行くことをやめた。それに時間的にも余裕もない。それにこの雨・・・。私は雨具を身につけるかどうか迷いながら、そう考えた。
略図の通りに走っていくと、確かに右折の看板があった。右折はしたのだが、あまりの急登と道の狭さに、間違ったのではないかと考えはじめた。人家が無くなり、さらに奥にはいると、再び棚田の看板があったので安心したが・・・。その安心とは逆に困ったことが起きた。雨が急に降り出してきたのだ。この雨ではカメラを取り出すことができない。そんなことを考えていると、目の前に棚田が見えた。
カメラを取り出す前に雨宿りできそうな場所を見つけることが先決と考えたのだが、なかなか見つからない。迷っていると、雨が小降りになってきた。これがチャンスとカメラを取り出して、棚田の写真を数枚撮った。私がさらに奥へと向かうと、再び雨が強く降り出してきた。カメラが濡れることを恐れ、それ以上の写真は撮らなかった。何を思ったか、コンパクトカメラを取り出して写真を数枚撮り、県道に戻った。「樫原の棚田」
麓に降りると、雨は止んだ。このまま県道を走り国道一九三号線から、国道一九五号線で高知市に向かうことを考えた。県道は上勝町の役場を過ぎると、ほとんど人家はなかった。そのためか、ルートが間違っているのではないかと何度か思い、そのたびにマップルを見た。この県道では、役場を過ぎたところでヘビをひいてしまった。そのたたりか、このヘビをひいた後は雨が強く降り、県道や国道が通行止めになってしまい、途方に暮れてしまった。
県道から国道に向かう下りのところでマップルを見ていると、対向車が来て私のところで止まった。
「どこに行くの?」
ドライバーは私に尋ねた。私は、
「国道一九三号線に出ようと思っています。」
と、答えた。するとドライバーは、
「この先に国道一九三号線があるけれど、高知方面にはでられないよ。通行止めになっているから、どうしても高知方面に行きたいのだったら、私のあとについてきなさい。」
と、言った。その言葉に従って、ドライバーの運転するトラックの後に続いた。
県道から林道に入りどうにか国道一九三号線に出ると、ドライバーにお礼を言って国道一九五号線に向かった。国道は右側にある大きな橋を渡ると、そこが一九五号線になっていた。そのときには、雨は完全にあがっていた。この一九五号線は途中土砂崩れがあって、片側通行のところが多かった。木頭村から物部村へとはいると、太陽も少し見えてきた。高知市に入る頃には、辺りは真っ暗になっていた。午後八時前に何とか高知市に着き、ビジネスホテルに宿泊する。夕食は、高知市内でとった。高知市内は、思っていた以上に料理店が多かった。ビールも魚もうまかった。思っていた以上にお金も使ってしまった。思わず、河野さんに電話をする。今埼玉にいると言うことだった。
□八月二十七日(土)◆「神在居、奥内、堂の坂、泉谷」、CB1100
朝から晴れていた。今日は四国カルストか「神在居の棚田」を見て、松山か今治に宿泊することを考えた。国道三十二号線から国道五十六号線に入る。県道一四号、県道四十七号と海岸線に沿って走ることも考えたが、海岸線はコーナーが多く距離数がのびないので、国道を走ることを選択した。
州崎市まで順調に距離を稼ぎ、国道一九七号線から檮原へと向かう。この国道一九七号線は交通量が少なく景色の良い国道だった。東津野村に近づくと「四万十川源流」という看板が多くなってきた。こんな山奥に四万十川が流れているはずはないが、ここから流れている渓流が、四万十川に流れ込んでいるので、「四万十川源流」と言われるようだ。
棚田は、国道の右側に広がっていた。「坂本龍馬脱藩の峠越え」などと言う看板も多く見られた。棚田は驚くほど広がっているわけではなく、さほど気を引くものはなかった。むしろ、四国カルストのほうが私の目を引いた。四国カルストは、棚田の北側にあった。本当なら林道を走ったほうが景色が良かったようなのだが、道が分からず国道四三九号線を北上した。上部では国道と林道が一緒になっているのだが・・・。
上部の天狗高原には、レストハウスとカルスト学習館があった。ただ、人はいなかった。風が思っていたより強く、肌寒く感じられた。私は、学習館からカルスト地形の広がっている県道に入った。尾根伝いにのびている県道で、見晴らしがとても良かった。
県道を走っていると、国道四四〇号線にぶつかった。私は、しばらくそこで休息をとっていた。ライダーに会うことはなかったのだが、ここでは数台のライダーに会うことができた。会話はなかったが、軽い会釈はあった。私はしばらくすると、再びヘルメットを取り上げ、国道を左折した。
この国道、左折すると下りの狭い林道のようだった。私は道を間違えてしまったのかと何度か思ったのだが、国道四四〇号線と書いてあるので間違ってはいなかったようだ。それぐらいの、狭くコーナーの多い国道だった。
不安に思いながら下った国道四四〇号線も、やっとのことで檮原町のある国道一九七号線に降りることができた。その国道を右折し、日吉村へと向かった。日吉村にはいると、道の駅が左側にあったので、その道の駅で昼食をとる。
昼食をとり終えると、二つの棚田を探しに向かうことになるのだが、二つとも全く逆の方向に棚田があったので、村から遠いほうの棚田へと向かった。村の国道を右折すると城川町へと続く。左折すると広見町へと続く。私は、左折して国道三二〇号線を「奥内棚田」目指して走った。
「奥内の棚田」は、広見町を左折したところにある松野町にあった。広見町を左折すると国道三八一号線に合流していた。棚田は、その国道を左折したところにあった。私は途中で農家の人に道を尋ねてから、棚田に向かった。下手をすると、人に会うことなく山奥に入ってしまうことがあるので、早めに確認をとっておいたほうがよいと思ったのだ。棚田はあったのだが、もうすでに稲刈りが終わっていた。さほど大きくない棚田ではなかったが、せっかく来たのだからと写真を数枚撮り、再び国道に戻った。「奥内の棚田」
いったん日吉村に戻り、国道一九七号線を城川町に向けて走る。「堂の坂」という棚田が城川町の田穂というところにある。国道をしばらく走ると、左側に道の駅があったので、道の駅で尋ねたが、「知らない」と言われてしまった。中には、棚田があるのは知っているが、場所がよく分からないと言う人がいたが・・・。結局マップルを頼りに県道三十五号線を走り、田穂でもう一度尋ねた。棚田は、あった。県道の右側に棚田はあったのだが、狭い場所でよく分からなかったのだった。「堂の坂」
棚田の写真を撮り終えると再び国道に戻り、五十崎町に向かった。五十崎町に向かうためには、国道を左折しなければならなかった。国道一九七号線から県道三十二号線に入るために国道を右折する。県道の交通量は少なかった。いったん内子町に入り古い町並みを見たあと棚田に向かう。今度の棚田は「泉谷の棚田」だ。ところが道を間違えてしまい、ちょっと時間に手間取ってしまった。CB一一〇〇のオーナーが途中まで道案内をしてくれたのでどうにかなったが、なかなか棚田にはたどりつかなかった。運の悪いことに途中から豪雨になり、いったん引き返すことも考えたが、ここまで来たからには・・・。そんな気持ちで雨の中を走った。
県道五十六号を河辺村に向かって走るが、雨が強くなるばかりで棚田がなかなか見えてこなかった。雨は強くなり、道も狭くなり、とうとう人家が見えなくなったのだが「泉谷の棚田」という看板が見えたので、どうにか道を間違えていないことだけは確認できた。
途中あまりの雨の強さに、人家の納屋の中にバイクを入れ少し休息をとった。たまたま県道沿いに納屋があったので、無意識にバイクを入れてしまった。数分だけ休み、雨の中へと再び走り出した。勝手に納屋に入ってしまったが、誰に会うこともなく怒られることもなく、納屋を出ることが出来た。
棚田が見えてきたのは、本当に奥の奥に入ってからだった。こんな所に人家があるなんて・・・、そんなことを考えながら棚田の所にバイクを止めた。棚田の所に来ると、先ほどの激しい雨も弱くなり、私がバイクを止めるとぴたりと雨は止んだ。また雨が降って来るとも限らないので、そのすきまをねらってカメラのシャッターを切った。思っていたより、はやく雨は降ってきた。雨が止んだのは、内子五十崎インターに入ってからだった。 伊予にはいると、太陽が顔を出していた。パーキングに入り雨具を脱ぐと、しばらく休んだ。瀬戸内海に沈む夕陽が見たかったので、ちょっと時間をつぶしたかったのだ。午後五時まで休んでいたが、太陽が沈むまでまだまだ時間がかかるだろうと思い、再び高速道にはいる。今治か、松山かと悩んだが、松山に宿を取ることにする。松山に宿をすぐに取ることはできたのだが、夕食の場所を選ぶのに時間がかかってしまい、夕食の時間が遅くなってしまった。理由は、「生ビール」にあった。
□八月二十八日(日)金砂湖のコスモス、◆「下影の棚田」、琴平
朝食をとると、すぐに出発する。本日の日程は、「広島」だった。今日の夜に河野さんと広島で会うことになっていた。夜に広島の駅前に着けばよいので、広島までどのような行程で行くか考えた。
まず、金砂湖のコスモスを見たいと考えたので、土居インターで降りることにする。インターは、午前九時前に降りることができた。ただ、コスモスが咲いているかどうか不安だったので、途中のパーキングで情報を収集してからインターを降りた。もちろん、咲いているからインターを降りたのだ。国道十一号線から国道三一九号線に入り、長いトンネルを抜けると、「コスモス畑」左折の看板が立っていた。左折すると、急登が続いた。しばらく登っていくと、コスモス畑が右側に広がっていた?正直に書くと、ちょっと小さくてがっかりしてしまった。それに、花もピークを過ぎていた。私は数枚の写真を撮ると、再び国道に戻った。ただ戻るだけではおもしろくないので、別子銅山に行こうかとも考えたのだが・・・。結局もとの国道に戻った。
再び国道から高速道にのると、井川池田インターに向かった。「下影の棚田」に向かうためだ。インターには、すぐに着いてしまった。インターを降りて国道を右折すると井川町だったが、左折してしまいあわてて戻った。町の中に県道一四〇号線が走っているので、そこを川に沿って右折していくと「下影の棚田」に出ることになっていた。
県道一四〇号線は、道が狭かった。その県道を登っていくのだが、棚田がなかなか見えてこない。尋ねる人もいないので、困ってしまった。道を間違えてしまったのかなとも思ったが、そうでもなかったようだ。なぜなら、私がやっと見かけた人に
「すいません、この辺に棚田がありませんか?」
と、尋ねると
「そこの所を右に下っていけば、棚田が見えるよ。」
と、道路工事をしていた人は教えてくれた。私はお礼を言うと、県道の所を右折した。急な下りでちょっとためらってしまったが、すぐに棚田が見えた。大きくはなかったが、棚田らしい湾曲した綺麗な棚田があった。数枚写真を撮ると、再び国道に戻り琴平に向かった。金比羅山で交通安全のステッカーが買いたかっただけなのだが・・・・?      琴平に向かうためには、このまま国道三十二号線を北上するのが早いと思い、国道三十二号線を北上した。この国道、思っていたより交通量が少なかった。このまま琴平で昼食をとることより、途中に「讃岐うどん」を食べる場所が有ればそこで昼食と考えていた。なぜなら、朝食をまだとっていなかったからだ。そんなことを考えながら走っていると、運良く左側に讃岐うどんの大きな店があった。私は、すかさず左折のウィンカーをあげるとその店の駐車場にバイクを止めた。
店の中は広かった。こんなに客が多かったら、注文してもすぐに注文した物がくるのかなと不安に思いながらも注文をした。思っていた以上に早くうどんは届いた。注文した物にちょっと物足りなさを感じて、三品別に注文をした。ところが、この三品が大きな間違えだった。あまりにも量が多すぎたために食べきれなくなってしまったのだ。私は、ちょっと時間をかけどうにかこれを食べることができたが・・・。
昼食をとり終えると、再び琴平に向かう。ロードマップで見るより、カーブは結構多く楽しめる国道でもあった。そんなことを考えていると、琴平の町が見えてきた。この町に来るのは、今回で二度目だ。二度ともバイクでこの町を訪れている。
金比羅山に登るための駐車場が何カ所もあるのだが、どこも有料だった。できたら、登り口にバイクを止めることを考えていたのだが、ちょっと難しい状況だったので、路地裏にバイクを止めた。バイクを止めていると
「そこは狭いので、バイクを止められると困るんですけれどね・・・。」
と、女の人がいいに来た。私は、
「ちょっと交通安全のお札を買ってくるだけなんですけれど・・・、それにここは駐車禁止になっていませんよね・・・。」
と、反論した。私はそれ以上のことは言わず、そのまま階段を上っていった。ちょっと後ろめたい気もしたが、そのまま先を急いだ。
交通安全のステッカーは、なかなか見つからなかった。「もしかしたら最上部まで行かないと買えないのかな?」とも思いながら歩いていると、右側に神社が見えた。私は、「ちょっと面倒だな」とも思いながら、右側の階段を上り、神社の境内に入った。受付のとこの売店の中を覗くと、探している物が置いてあった。息をハァハァさせながら「これ下さい。」
と言い、二枚買った。
買うものを買ってしまうと、すぐに階段を下った。下りは楽だった。私は買ってしまうとバイクのことが心配になりだし、先を急いだ。バイクは無事だった。
 その後、広島原爆ドームを見て、長野を回りながら帰宅した。
☆ 雨の林道で道に迷い、地元の軽トラックに誘導されながら、何とか麓にたどり着いた。 また、泉谷の棚田手前で土砂降りに絶えきれなくなり、かってに民家の納屋に入り雨宿 り、四国の皆さんありがとう!

●その十二「紀伊半島から九州の棚田(三)」を求めて 二〇〇四年九月十七日~   ◆2「丸山千枚田」、2「蘭島」、「白川」福岡県朝倉市、2「竹」、「広内・上原(ひろう ちうえばる)」福岡県八女市、「葛籠(つづら)」福岡県うきは市、「江里山」佐賀県  小城市、「蕨野」佐賀県唐津市、「幸田」鹿児島湧水町
□九月十七日(金)満室の川崎マリンエキスプレス                 私は、湾岸線を走行していた。ちょうど、夕方のラッシュ時だった。どうにか川崎のフェリーターミナルに着くことができた。私がターミナルにはいると、         
「勝浦方面のバイクはこちらに止めて下さい。」
と、すぐに案内係から指示をされた。私がこのターミナルを何度も利用しているが、初めてのことだった。それほど、ターミナルは混んでいたのだ。
フェリー出航の二時間前に着いたのだが、すでにバイクは並んでいた。宮崎方面行きの二輪の駐車場は、とめる場所がないほどだった。私があわててチケットを買うため待合室の中にはいるとすでに人が並んでいて、購入には時間がかかりそうな様子だった。並んで待っているのがめんどくさいので、少し外で時間をつぶしてからここに来ることにした。外に出てみると、さらにバイクの数は増えていた。いつも当日こここでチケットを買っていたが、今回は二日ほど前に電話をして予約を入れておいた。それを考えると、今回は、ラッキーだったかもしれない。
再び中に入ったが、どうも数は変わっていないような気がする。それに「本日は満員です。キャンセル待ちの方はこちらで手続きして下さい。」と言う張り紙があった。私は、ちょっと不安になって、並ぶことにした。
私が並んでチケットを購入したあとも、人の列はなかなか減らなかった。私がチケットを手にしてバイクの所に行ってみると、数人のライダーがチケットを購入して乗船の準備をしていた。バイクが誘導されたのは、出航三〇分ほど前だった。バイクが誘導されたあとも、トラックや乗用車が誘導されていた。船が出航したのは、予定より三〇分ほどおくれてのことだった。
私は荷物をまとめると、すぐに風呂に向かった。そしてレストランへ・・・。このパターンはずっと変わっていなかった。乗船したらすぐに風呂に向かう、そしてレストランへ。バイキングのため、いつも無理して食べてしまうのでなるべく食べ過ぎないようにとったつもりが・・・・。やっぱりとりすぎた。
部屋に戻ると、すぐに眠りについた。本当なら二等室だったのだが、状況を見て、すぐに二等寝室に変更した。これも正解だった?
□九月十八日(土)◆2「丸山千枚田」、熊野川沿いの喫茶店、3龍神スカイライン、           2「蘭島」、泉大津からフェリー
予定より遅れて、フェリーは勝浦港に到着した。タラップから降りるとすぐにT字路を右折した。そして道なりに走った。前の車も同じ土浦ナンバーだった。違っていたのは、国道に出る時車は左折して私は右折したことだった。
国道四十二号線は、すいていた。目的地が決まっていたので、迷わずに国道四十二号線を北上した。熊野川を渡り、御浜町から左折して、県道六十二号線へと入った。風伝トンネルを抜けると右折して県道四〇号線を走り、丸山千枚田についた。途中ダンプが走っていたが道を譲ってくれたので、思っていたより早く着いた。
千枚田は、彼岸花でその棚田の景色をいっそう引き立てられていた。稲刈りもまだすんでいなかったので、稲の穂と彼岸花が程良いコントラストを演出してくれた。私は撮影に夢中になってしまい、最初の日からフィルムをオーバーして使用してしまった。場所を変えながら撮影すると、最後に棚田を見渡すことができる場所に移動して、全体の写真を撮った。2「丸山千枚田」
棚田の写真を撮り終えると、龍神温泉に向かった。やはり、龍神スカイラインを走らなければ・・・。途中、朝食をとる。本当ならフェリーを下りた勝浦で朝食をとりたかったのだが・・・。初めてこの棚田を訪れたときには、コンビニで朝食をとり、この棚田を訪れた。今回も同じようにコンビニで朝食をとれば良かったのだが、コンビニを通り越してしまい、そのままこの棚田まで来てしまったのだ。もっと正直に書けば、コンビニを通り越してしまったあと、コンビニがなかったのだった。
丸山千枚田をあとにしたのは、午前九時頃だった。この喫茶店についたのは、午前十時前だった。偶然トイレ休憩のつもりで入ったのだが・・・、モーニングサービスがあったなんて・・・、ラッキー!
熊野川を見ながらのコーヒーの味は、又味わいぶかいものがある。やはり朝は、ホットコーヒーにトーストか一番だ。遅い朝食をとると、再び国道を走る。国道一六九号線から国道三一一号線に入り、龍神スカイラインへと向かう。
国道三一一号線にはいると、雲が多くなり小雨が降ってきた。私はどこかで雨具を身につけた方がいいかなと、迷いながら走行した。トンネルを抜けると、右側に道の駅があった。何度か利用していた道の駅だった。トイレ休憩をかねながら、そこで雨具を身につけることにした。
雨具を身につけると、再び国道へ・・・・、考えてみたら「龍神スカイライン」へ向かっていて、天気の良かったときはなかったような・・・・?初めて訪れたときは、雪で通行止めだった・・・。今回は、雨か?そう思いながら、雨の中を走った。国道から県道にはいると、トンネルが多くなった。雨もこのトンネルに入る頃には、小降りになってきた。県道から国道にはいると、龍神温泉だった。去年泊まった民宿が左手に見えた。
龍神スカイラインにはいる頃には、雨は止んだ。私は何度か走ったことのある龍神スカイラインを、今回初めて雨の降らない中を走行することができた。ただ残念だったのは、碁石タワーがあるところだけがガスっていて、視界が悪かったことだった。ここに三回立つことができ、今回で三回目なのに・・・・。
スカイラインを下ると、左折して国道三七一号線にはいった。この国道から、国道四八〇号線にでることができた。国道三七一号線は、林道のように狭かった。初めてこの国道を下ったときは、間違っていないか何度もマップルで確認をした。下ったところが、T字路になっていた。国道四八〇号線である。T字路を左折して、「清水町」に向かった。この清水町には、扇形をした棚田があった。私は棚田の写真を撮るために、龍神スカイラインを左折したのだった。
棚田は、ちょうど稲刈りに入っていた。コスモスの花が綺麗だった。早速バイクを左側に止めて、カメラをパニアケースから取り出した。ここは道幅も狭く駐車場がないので、バイクでの撮影が理想的だ。
休息もかねて写真を撮っていると、急に回りが暗くなってきた。どうやら雨雲が発生したらしい。雨で濡れてはいけないと思い、すぐにカメラをパニアケースに収め、雨宿りする場所を探した。棚田の所には、ちょうど道の駅ができていた。私は、ひとまず左側にある道の駅に逃げ込んだ。
時計を見ると、時計は午前十一時過ぎだった。昼食には早いなとも思いながら、雨宿りもかねて昼食にすることを考えた。よく見ると、バイクが二台ほど止まっていた。私は、道の駅の中にあるレストランにはいると、ランチセットを注文した。朝食が遅かったので、おなかはそれほどすいていないが・・・・。
私は、窓の外を気にしながらランチセットを食べていた。雨は小降りになるどころか、かなり強くなってきた。ランチセットを食べ終わっても、雨は強く降っていた。コーヒーを飲みながら、ひたすら時間をつぶした。一時間ほどすると、雨は小降りになってきた。外に置いてある二台のバイクのオーナーは雨具を身につけると、小雨の中へと消えていった。
二台のバイクが去っていくのを見届けると、私は席を立ちレジの所へと向かった。料金を支払うと、私も同じように雨具を身につけながら道の駅をあとにした。目的の棚田の写真は撮ってしまったので、予定通り高速道を使って泉大津市に向かった。午後五時のフェリーに乗れば、明日の朝には九州に着くはずである。
先ほどの雨は、私が道の駅を出るとすぐに止んでしまった。逆に、太陽が顔を出した。天候の変化は、速かった。高速道にはいると、思っていたより早めに泉大津に着いてしまった。フェリー乗り場に着くと、チケットを購入して時間をつぶす。予定通り、船は午後五時に港を出た。
私は乗船すると、いつものように風呂場へと向かった。人はいなかった。船は、とても綺麗だった。ただ、夕食の時間にレストランに向かったら、とても混んでいて食べられる状況ではなかった。いったん部屋に戻り時間を調整して並んだのだが、あまり変わらなかったような・・・?こんな事なら並んで待っていた方が・・・。私は、じっと自分の番が来るのを待ち、席に着くと生ビールをぐっと飲んだ。あまりにもおいしいので、二杯目も注文した。
ほろ酔い気分で部屋に戻り、少し休んだ。気がついて起きてみると、午後八時を回っていた。デッキに出ると、観光客が夜景を楽しんでいた。私はこの時間帯に初めて瀬戸内海航路のフェリーを利用したが、値段も安く朝には九州に着くし、夜景がまた素敵だったので、これからこの航路を利用することも考えてツーリングプランを立てようと深く思った。特に、明石海峡大橋、瀬戸大橋の下を通るときにはアナウンスが流れ、夜景を存分に楽しむことができた。
□九月十九日(日)門司港、太宰府、◆「白川、竹(二)、星野村、浮羽」、佐賀駅
明け方の午前五時過ぎにフェリーは、門司港に到着した。窓から外を見ると、雨が降っていた。雨具を身につけなければならないのかと思うと、湯鬱だった。フェリーがターミナルに着き、乗客が下船を始める頃、デッキに出てみると小降りだった。私は、ひとまず雨具を身につけることをせずに船を下りた。
路面は、雨で濡れていた。ひとまず船を下りると、目の前にあったファミリーマートに入った。ジュースが、飲みたかったのだ。このときも、雨具を身につけるかどうか迷ったが、つけずに国道へと向かった。
国道に出ても、辺りは真っ暗だった。国道を三〇分ほど走行すると、右側にあったファミレスに入った。いったんは通り過ぎたのだが、Uターンして入ったのだ。午前七時前ではあったが、店内に数名の客がいた。私はモーニングを注文すると、セルフサービスのコーヒーカップを取りに行った。やはり、缶コーヒーよりはこちらの方がおいしい。そう考えながら、コーヒーを飲んだ。
朝食を済ませると、再び国道を走行した。先ほどのマップルでルートはだいたい分かってはいたが、高速インター手前でもう一度確認をして、高速に入った。今回は、「棚田と彼岸花」がテーマである。くれぐれもミスのない様にと思い、マップルで確認をしたのだ。 今年は、今回で三回目の九州上陸である。三回目ともなると走り慣れているので、感動は薄れてしまっている。ただ、「彼岸花と棚田」の組み合わせだけは是非ともカメラにおさめたいと思った。もし彼岸花が咲いていなかったら?そう思いながらひたすら高速道を走る。
走り慣れた九州自動車道を、太宰府に向けて走る。まずは、受験生への土産として「合格祈願」のお守りを買わねば・・・。本当は、「太宰府」に行きたかったのかも・・・。何せ、太宰府によったことはないので・・。午前八時過ぎに、太宰府インターを降りる。そして「太宰府天満宮」へ・・・。朝がはやかったこともあり、観光客はほとんどいなかった。もちろん、お店も閉まっていた。さすがに境内では、お札を買うことができたが・。
太宰府から県道を利用して、「白坂峠」へと向かう。ここには、「白川の棚田」がある。県道六十六号線は、広いところもあったが、峠に近づくと狭くなっていた。いつの間にやら峠を下ってしまい、国道三二二号線に出てしまった。
私はマップルをもう一度確認し、峠の所に戻った。人がいれば聞くこともできるのだが、全く人のいない林道である。峠を下ると、左側にお店があった。私は、そのお店の所にバイクを止めた。
「すいません、この付近に棚田があると聞いたんですけれど・・・。あ、そうですか・・、分かりました。」
私はお店の人に、県道の右側にあるのがその棚田だと言われ、お礼を言って棚田の所にバイクを止めた。棚田は小さく、また人家の道らしく、バイクを奥に入れることは難しかったので、バイクを降りて徒歩で見晴らしの良いところを探し歩いた。しかし、気に入ったところが見つからず、写真を一枚だけ撮るとバイクの所に戻った。「白川の棚田」
もうすでに、午前一〇時を過ぎていた。私は次の棚田の所に向かうため、再び先ほどの国道へと降りた。そして、「秋月」を抜けて、国道五〇〇号線へと向かった。この国道をつかい、国道二一一号線から宝珠山村へと向かった。この宝珠山村にも、棚田があったのだ。「竹」と言われる地名の所に棚田が広がり、所々彼岸花も咲いていた。「竹の棚田」
この竹の棚田を過ぎると、再び県道を使用して吉井町へと向かった。この吉井町には、古い町並みがあり、ここから星野村へと続く。目的地は星野村であって、吉井町ではない。私は、そのことを考えて星野村へと先を急いだ。浮羽町から星野村へとすすむこともできたのだが、マップルで確認すると、星野村から浮羽町へと向かう方が無駄がない。私は、国道二一〇号線を左折して、町道七一八号線を使用して星野村へと向かった。この町道、かなり狭く、林道を舗装した感じの道路だった。
この町道にはいってから、星野村へと抜けるまでにかなりの時間を費やしてしまった。県道五十二号線を使用すれば良かったのだが・・・。この町道、いくつかの林道と交差していて、途中で何回かマップルを確認しながらすすんだ。峠を下ると星野村だったのだが、至る所台風の影響で樹木が倒れていたりして、このアフリカツインでなけれど通ることができないような場所もあった。
やっとの事で星野村に着いたときには、すでに午後になっていた。私が思っていた以上に星野村は、棚田と彼岸花の素敵なところだった。とりあえず腹が減っていたので、食堂を探す・・・。ところが、食堂はあったのだが閉まっていた。二軒の食堂が閉まっていて、他にはないと言うことが分かったので、私はお店でパンなどを買って昼食にすることを考えた。そのお店は、一軒しかなかった。
店内を探し回ったが、どれも古いパンではないかと思ってしまうような、雑貨屋だった。私は、これならと思うパンを二個とり、
「すいません、カップラーメン用のお湯はもらえますか?」
と、尋ねた。お店のおばさんは、快く返事をしてくれた。私はその返事を聞くと、カップラーメンを一個とった。お湯が切れているらしく、お店のおばさんは奥にお湯を沸かしに行った。私はお店の前で、ひとまずパンを食べていた。私がパンを食べていると
「お兄さん、どこから来たの?」
と、地元の人に尋ねられてしまった。私はお湯が沸くまで、パンを食べながら地元の人と会話をしていた。しばらくすると、お湯が届いた。やはりこのときにも、お店のおばさんからいろいろと尋ねられた。
カップラーメンを食べ終えると、再び棚田の写真を撮りに戻った。私はこのときに、雑誌にあるような棚田はどこにあるのだろうと思いながら、探していたのだが、見つけることはできなかった。あきらめて、県道五十二号線で浮羽町へと向かった。このときに、左側に人が多かったので、なんだろうと思いながら近づいてみた。この時初めてこの人混みが、棚田を見に来た観光客なのだと、分かった。県道沿いに大きな棚田があったのだ。写真なんかでは言い表せないほど、大きな棚田であった。「広内・上原」
私は今までで一番標高差の大きいこの棚田を見上げながら、棚田の美しさに見とれてしまった。見上げれば見上げるほど、この棚田を作った人の偉大さに感心させられた。そして、彼岸花の美しさにも・・・。この棚田で稲作を行う農民は、さぞかし足腰が強いのだろうと思われるほどの、急勾配でもあった。
私は写真をかなり撮り、それでも尚撮りたいと思いながらも、この棚田をあとに「浮羽町」へと向かった。下っていくと、「浮羽町つづら棚田祭」という看板が多くなってきた。要所要所に、案内板もあった。案内板に導かれながら、私は棚田祭の場所へと向かった。交通量が多くなってくると、なかなかバイクが前に進まなくなってきた。脇を素通りするにも、狭くて思うようにすすまなかった。私は、目の前に棚田が広がったところにバイクを止め、徒歩で棚田の所を歩き始めた。
この棚田は、彼岸花が多かった。そのため、棚田一面が赤く燃えているような景色だった。町全体が、この棚田で町おこしをやっている雰囲気もあった。ここは、「車で来たら身動きがとれない」と思いながら、棚田の中を歩いた。小さな駐車場はいくつかあるのだが・・・。すれ違うのは大変な狭い農道を車が、何台も連なっていた。私は、時間のことが気になりだしたので、再びバイクの所に戻り先を急いだ。一方通行になっていたので、奥に奥にと進んでいった。「葛籠」
さらに奥に進むと、道は下りになっていた。矢印にも「出口」という漢字が見えた。矢印に従い、麓に戻った。時計を見ると午後四時を過ぎていた。コンビニでトイレ休憩をとり、これからのことを考えた。あれこれ考え、大分自動車道から長崎自動車道に入り、佐賀市に向かうことを考えた。長崎道の佐賀インターを降りれば、そこは佐賀市である。ここから一時間ほどで着くと思われた。たぶん午後六時ごろつくだろうと考え、コンビニを出た。
大分道から長崎道に入り佐賀インターを降りたのは、予定通り午後六時過ぎだった。インターを降り、佐賀駅までは思っていたよりすぐに分かった。佐賀駅前は、思っていたより静かだった。ビジネスホテルは、すぐに見つかった。迷わずに最初の一軒目に宿をとる。そして、夕食をとりに駅前へ・・・。問題は、ここからだった。駅前には、私が望むような店がなかったのだ。駅の中に入り、反対側に出ても、見つからなかった。最終的には、駅前の小さな居酒屋に入った。
中に入ってみると、客は居なかった。中は小さく、ちょっと失敗したかなと後悔した。「すいません、生ビールに・・・。」
と、いくつかの注文をした。テレビがあり、野球をやっていた。午後八時に近かった。そこへ、客が一人はいってきた。客は、常連客のようだった。
「地元の人じゃないね・・・。」
その男は、私に向かっていった。私は、
「ええ、茨城県から来ました。」
と、答えた。男は再び
「仕事?」
と、私に尋ねた。私は、中途半端な答え方をした。男は、私との会話に夢中になり出した。「つくばの学園都市に住んでいたんだよ・・・。」
と、さらに男は私に話しかけた。
一時間ほどすると、店の女将さんが
「明日又来るんだから、それぐらいにしておけば・・。」
といいながら、男のコップを取り上げてしまった。男は、
「じゃ、気をつけて・・・。」
と、言いながら店を出た。男が店を出たあと、女将さんが男についていろいろと私に話しをしてくれた。
私は店を出ると、すぐに宿に戻った。
□九月二十日(月)◆「江里山の棚田」「蕨野の棚田」
朝食をとらずに、私は宿を午前七時半に出た。次の棚田も、彼岸花の綺麗なところだ。高速道を使わず、一般の国道を使って向かった。場所は、すぐに分かった。なぜなら、「江里山の棚田彼岸花祭」というのろしが、あちこちに上がっていたからだ。午前九時前に棚田に着いたのだが、もうすでに観光客が来ていた。すべてアマチュアカメラマンだった。私もパニアケースからカメラを取り出し、写真を撮り始めた。
この棚田も彼岸花が多く、とても綺麗だった。茅葺き屋根も何軒か有り、それがまた風景をかもしだしていた。私は、さらに高い場所へと移動した。車で来ていたら、ここまでは来れなかったろうと思われる場所にバイクを止め、徒歩で移動する。私は何カ所か周り良い場所を見つけたのだが、次の棚田があるので移動を開始した。
狭い坂道を下っていると、一組の夫婦が路上に車を止めて景色を満喫していた。私も、その車の脇にバイクを止め、棚田を見下ろした。何となくこの場所が、一番景色がいいと思い、再びパニアケースからカメラを取り出していると
「すいません、シャッターを押してもらえますか。」
と、その夫婦から頼まれ、私はシャッターを押してあげた。旦那の方が
「すごいバイクですね・・・茨城からですか?」
と尋ねられると、私はにこっと笑った。取り出したカメラで数枚の写真を撮ると、再び次の棚田へと向かった。「江里山の棚田」
江里山の棚田をあとに、蕨の棚田へと向かった。今回の棚田は彼岸花がメインではあるが、この蕨の棚田は石垣がとても大きく、写真だけでなく実物も見たいと思ってこちらまで来た。
棚田に行くルートを一カ所間違ってしまい、棚田には違うルートから入ってしまった。その間違いに気がついたのは、「棚田」の看板が出てきてからだった。棚田の看板に導かれて、広い展望台のところでマップルを見ていると、白い一台のカローラが展望台の駐車場に入ってきた。私はその白い車が止まると、かけより
「すいません。蕨の棚田はどの辺にあるのか分かりますかね?」
と、尋ねた。私が尋ねると旦那さんらしい人が
「この辺一体の棚田を、すべて蕨の棚田と言うんですよ。だから、目の前に広がっている棚田が蕨の棚田なのです。」
と、言った。私はそれを聞き、大きな声で
「え!このへんをさっきからぐるぐるまわっていたのに・・・。なんだ、ここが蕨の棚田なのか・・・。」
といい、展望台から広がった棚田を見ながらつぶやいた。
ひとまず展望台を下り、麓にあった公園に向かった。その公園の所に、案内板が置いてあったような気がしたからだ。急な坂を写真を撮りながら下っていくと、思った通り右側に公園があった。その公園の駐車場にバイクを止めると、ひとまずトイレに向かった。  トイレから出ると、案内板を見た。案内板を見たが、雑誌に出ているような大きな岩の案内はなかった。公園のどこかに棚田の案内板がないか確認したのだが、やはり無かった。あきらめて、公園を出た。県道を右折すると、左側に棚田の案内板のような物があったので、それに従って左折した。
左折したのは良かったのだが、不安になるぐらいの急勾配の所があり、ちょっと不安になりながら登った。バイクだから良かったが車だったら・・・。そんなところが何カ所か有り、そこを過ぎると棚田が一面に広がった。狭い舗装された道をさらに奥へと進むと、右側に探し求めていた棚田があった。バイクで行くことができない場所だったので、徒歩で棚田の所へと向かった。良くこんなものを作ったものだと、感心させられるぐらいの高さがあった。
回りではコンバインで稲を刈っていたが、さすがにこの棚田まではコンバインが入ってはいなかった。この一番上の棚田は、手で刈っているようだ。でもよく考えてみると、結構コンバインで刈っているところが多かった。蕨の棚田は石垣が多いが、コンバインで刈れる広さのところが多いのか?「蕨の棚田」
私は、さらに次の目的地である「やまなみハイウェイ」へと向かった。高速道を使い、久住連峰へと向かった。今年はこのやまなみハイウェイへと向かうと、必ず雨になってしまったが、今回は晴れていた。とても気持ちの良いコースだ。
このやまなみハイウェイから、再び高速道にはいると「生駒高原」へと向かった。生駒高原には、コスモス畑がある。私は、それも楽しみにしていた。ただ時間の関係で、生駒高原に着くのが夕方になってしまった。あわてて駐車場にはいると、「閉店」という看板があった。午後五時前なのだが・・・、とにかくバイクを止め、コスモス畑の方へと歩いた。大きな看板には「今年は台風のため・・・。」と書かれてあった。どうも今年は、難しいようだ。考えてみたら、台風が何回あったろうか・・・。私はあきらめて、今夜の宿である、都城へと向かった。
都城には、午後六時過ぎに着いた。都城に宿を取るのは、初めてのことだった。ただ、市内を通過したことは、何度かあった。ビジネスホテルが何件か有り、四千円の安いビジネスホテルにした。問題は、夕食だった。駅前は思っていたよりひっそりとして、私が望んでいるような店がなかった。最終的には、居酒屋チェーン店に入った。茨城にもある「養老の滝」だ。
□九月二十一日(火)走行不能、◆「幸田の棚田」
えびの高原に向かって朝の午前七時に宿を出る。途中ガソリンスタンドでタンクを満タンにする。国道から左折して、県道にはいる。問題は、ここから始まった。左折して二百メートルほどすすむと、信号機が赤に変わったので、ブレーキをかけ、バイクを停止させた。信号機が青に変わると、クラッチを握りギヤをローに入れた。アクセルをふかしながら、ゆっくりとクラッチを離した。
ところが、バイクは前に進まなかった。ギヤをニュートラルにして、もう一度クラッチを握り、同じことをしたが、バイクはすすまなかった。あわててバイクを道路の脇に止め、各部のチェックを始めた。分かったことは、以前からスプロケットから異音がしていたので、スプロケット関係であることは分かった。とにかくバイクを修理できる場所を探さなければならなかった。ガソリンスタンドはたくさんあるが、バイクを修理することはできない。バイクショップを求めて、再び市内へと向かった。
重さが二百キロ以上あるバイクを押していくのは、かなりの肉体労働であった。休みながらバイクを押していた。たぶん、押している時間より休んでいた時間の方が長かったかも分からない。私はタオルをパニアケースから取り出し、汗を拭きながらバイクを押していた。
バイクを押して二時間もすると、右側にホンダのマークがあった。バイクショップに間違えないと思いながら、いったんバイクを置いてショップに駆け込んだ。
「すいません、今日やってますか?バイクが故障してしまったもので、・・・・。」
私が一方的に言うと、ショップのお兄さんは、
「今日は定休日なんですよ。たまたまどうしても納車しなければいけないバイクがあったので、私は来ているんですが・・・。」
と、言った。
私は、事情を説明してバイクを見てもらうことにした。スプロケットの所にあるカバーをはずすと、ショップのお兄さんは、
「これは、エンジンをばらさないと修理できませんね。こちらで一ヶ月ほどお預かりするか、溶接して帰ってから修理するかのどちらかですね。」
と、言った。溶接して、茨城に帰ることを告げた。溶接は、すぐに終わった。
「このまま宮崎まで行って、そこからフェリーに乗ってかえって下さいね。溶接は、茨城に帰ってから、すぐにはずせるように簡単に溶接しましたから・・・。」
ショップのお兄さんは、私に告げると、すぐにバイクの配車に向かった。
このまま宮崎に向かうため、ショップを後にしたが、どういう訳か、先ほどのえびの高原に向かった。忠告を受けたので、宮崎に向かうつもりでいたのだが・・・、休みが後二日間残っていることを考えたら・・・(リフレッシュ休暇)。そのことを考えたら、このまま宮崎に行くことは?
えびの高原に行き、バイクの調子が悪かったら明日フェリーで帰るのもいいと考えた。
国道一〇号線から国道二二一号線に入り、高原町から国道二二三号線に入った。霧島町から、県道六〇号線五〇号線五三号線とつないでいくと「幸田の棚田」にでた。ここまで丁寧にクラッチをつないで走行したが、これと言った異常は見られなかった。バイクの調子がよいことを理由に、さらに宮崎に戻らずえびの高原に向かった。「幸田の棚田」
えびの高原はややガスがかかっていたが、すばらしい景色を見せてくれた。問題は、えびの高原からだった。えびの高原の下りにはいると、雨が降ってきたのだ。雨具を身につけ走り続けていくと、雨は止んでしまったが・・・。
宮崎市に向かわず、下った後は日向に向かった。私の失敗は、ここから始まった。国道一〇号線を日向に向けて走っていた私に、アクシデントが待っていたのだ。日向に入り、有料の橋を渡るときだった。料金を払い、クラッチを握りギヤをローに入れてクラッチをつないだときだった。「ガチャ」と音がしたかと思うと、バイクは走行不能に陥ってしまったのだ。都城の時と同じである。後続車のじゃまにならないように、すぐにバイクを脇に押していった。
バイクを止め先ほど払った料金を返してもらい、料金所を後に市内へと向かった。市内へと向かったのは、バイクショップで同じように溶接をしてもらおうと思ったからだった。国道一〇号線に出ると、なるべく歩道の所を押してショップを探した。ただ、思うようにショップが見つからないまま、時間だけが過ぎてしまった。反対側に一軒バイクショップがあったのだが、溶接ができないという事だった。橋を渡っていると、右側にビジネスホテルがあったので、ひとまず今夜はそこに止まろうとビジネスホテルまでバイクを押していった。チェックインの時、バイクの故障の話をすると、近くにバイクショップがあると言うことなので、明日の朝そのバイクショップに向かうことにする。
その夜どこで食事をとったらいいかと、一時間も市内をうろうと歩き回ってしまった。疲れたからだに、一時間の散歩はつらかった。
□九月二十二日(水)日向港
朝食をとると、バイクショップへとバイクを押していった。時間のことも考え、ホテルを午前九時に出た。バイクショップは、思っていたより近くにあった。午前十時前だというのに、ショップはオープンしていた。
「すいません。バイクの修理できますか?」
と、中にはいると尋ねた。店員が、私のバイクの所に近寄り、
「大丈夫だよ。溶接の機械もあるから、心配しないで・・・。」
と、いった。その言葉を聞いて安心したのか、ソファに腰を下ろしてカタログを見ていた。店長が私に
「排気量の大きいシングルやツインのバイクは、トルクが太いから良くシャフトのねじ山が駄目になるんだよ・・・。」
と、話しかけた。その話を聞いて、ちょっと安心した反面、これは欠陥ではないのかと思ったりもした。私がその話をすると、ねじ山が駄目になる前に、何らかの以上が起きるはずだと店長はいった。私はその話を聞いて、思い当たることがたくさんあったので、ちょっと後悔した。
約三十分で、バイクは何とか補修できた。若い店員が自慢げに
「溶接がとれないように、かなり溶接の箇所を多くしましたから・・・、見て下さい・・。」
といい、若い店員はバイクのクラッチを無造作に離して、アクセルを大きく開けた。私の前を何度か往復して、大丈夫だと言うことをアピールしていた。
修理代三千円を支払い、今日の日程を考えた。このまま高速道を走り通し、茨城まで行くことは考えず、フェリーで帰ることを前提にプランを立てた。絶対に溶接がはずれることはないと言う保障もないし、やはり高速道での事故も怖い。時計を見ると、午前九時過ぎだった。フェリーは、午後七時だ。そのことを考え、今日の行動を午後四時までとした。そして、できたらすぐ修理できるように、山間部には行かないようなルートを考えた。
国道一〇号線を北上し、佐伯市周辺の海岸を走るルートを考えた。ひとまず国道に出た。溶接のことも考え、クラッチ操作とアクセルには神経を使った。天気はいまいちだが、こうして無事走れることに感謝しながら、ゆっくりと走る。
延岡市から国道三八八号線に入り、海岸沿いにルートをとる。いくつかのトンネルを抜けると海が見えた。北浦町から蒲江町へと足を延ばすが、ちょっと不安になり、蒲江町で折り返す。時計の針は、午後一時過ぎだった。ここから日向まで二時間も有れば着くと思われるが、もしもの事を考え、これ以上足をのばすのは良くないと考えたのだ。
延岡を過ぎる頃小雨が降ってきたが、どうにか日向に着くことができた。問題はここからだった。フェリーの出航まで三時間近くある。待合室で時間をつぶすことより、近くのファミリーレストランで時間をつぶすことを考え、近くのファミレスに入った。そして、一時間半前に再び待合室に行った。それから、チケットを購入した。しかし、フェリーは定刻の午後七時になっても来ないのだ。やっとの事でフェリーが来たのだが、バイクはかなり後の方だった。なんやかんやで出航は定刻の一時間遅れだった。それに雨も降ってくるし・・・。
どうにかフェリーに乗ることができ、船内に入り風呂にはいるとぐったりとしてしまった。同じ部屋に、ハーレーのおじさんがいた。バイク談話に花が咲き、かなり盛り上がった。このおじさん「七十歳まで乗れたら乗る。」と、はっきり言いきった元気のいい爺さんだった。
□九月二十三日(木)川崎港
約一時間遅れで、フェリーは川崎に着いた。夕食は出なかったが、首都高は混んでいな
かった。
☆ 今回の目的は、九州の棚田の中でも「蕨野の棚田」がメインだった。前々から九州を 訪れるが、「蕨野の棚田」は今回が初めてだった。あの大きな石垣の棚田を是非カメラ に納めたいと楽しみにしていた。
ところが実際に訪れると、棚田全体に圧倒されてしまい、大きな石垣のことなど忘れ てしまった。棚田全体の石垣が大きかったことと、蕨野の棚田全体が広かったことから、 それだけで満足してしまった。そのため、帰宅してから後悔してしまった。今度訪れる ときには、是非あの雑誌に載っていた大きな石垣をメインに撮影を行いたい。
これで、蕨野の棚田を再び訪れる楽しみが増えたか?

●その十三「四国の棚田(二)」を求めて (二〇〇九年八月六日~九日)                      ◆2「よこね田んぼ」、「中山千枚田」香川県小豆島
□八月六日(木)池袋、中央高速、◆2「よこね田んぼ」
早朝の午前五時過ぎにアパートを出る。池袋に向かう。早朝と言うこともあり、池袋には午前六時過ぎに到着してしまった。約一時間という事もあり、電車で行くよりは、こちらの方が便利かも・・・。ただ、駐車場を探すのに時間がかかった。すべてが終わって、「池袋ロイヤルクリニック」に到着したのは、午前七時過ぎだった。一番かと思ったら、すでに一名いた。私はすべての手続きを済ませ、雑誌を読んでいた。
開始から約二時間ほどですべての検診が終了した。最後に
「面談を希望しますか?」
と聞かれたので、私は
「お願いします。」
と、言った。しかしすぐに訂正をして、池袋を後にした。ナビ設定に従い、都内を走行するが、すぐには高速道にはいることはなかった。
中央高速に入ったのは、昼食の時間にさしかかってからだった。高速道は、混んではいなかった。心配だったのは、天候だ。ひとまず飯田方面に向かう。なぜなら目指しているところが「小豆島」だったからだ。
午後三時過ぎに飯田インターを降りる。とりあえず今夜の宿泊場所を飯田と決めた。行きつけの温泉ホテルに直行する。空いていたので、チェックインしてから「よこね田んぼ」に向かう。ナビ設定ですぐに棚田を探すことができた。曇ってはいたが、撮影はまずまずだった。小雨模様になってきたので、ホテルに戻る。何度泊まってもここの温泉は、いい。今回は平日料金と言うこともあって、安く設定されていた。「よこね田んぼ」
□八月七日(金)淡路島、引田
午前六時過ぎにホテルを出る。いつものパターンではあるが、朝食が付いていないホテルでは、早く出発することにしている。中央高速から名神に入る。西宮周辺は混んでいたが、明石海峡大橋は混んではいなかった。SAに入り、大橋の撮影をする。できることなら夜景がよかったのだが・・・。昼食には早いが、レストランで海鮮丼を食べる。途中撮影のため、淡路島で高速道をいったん降りる。「イングランドの丘」のひまわりを撮影するためだ。ナビを頼りに見つけることができたが、「今年は雨のためにひまわりはまったくダメです。」という言葉に、園内には入らなかった。                とにかく暑い!徳島に渡ってから、引田インターを降りた。引田の古い町並みの撮影のためだ。天候がよかったので、雲を取り入れた撮影ができた。再び高速道を利用して、高松インターで降りる。それからフェリーターミナルを探し、小豆島に渡る。約一時間ほどで小豆島に到着した。とりあえず、泊まる場所を確保することにする。安いホテルもいいが、やはり温泉付きがいいと思い。千月のホテルにする。七千円と高かった。宿を確保すると、夕焼けの写真を撮るために海岸線に向かう。すでに太陽が沈もうとしていた。
宿に戻ると早速温泉にはいる。風呂場を見て、がっかりしてしまった。温泉が小さかったのだ。暑かったので、生ビールを二杯飲んでしまった。うまかった。
□八月八日(土)中山千枚田、二十四の瞳、飯田市
朝食を食べる前に日の出の写真を撮ろうと、午前五時過ぎにホテルを出る。太陽に向かって走行するのだが、なかなか海岸線から太陽が昇る瞬間に最適な場所が見つからない。そんなことを考えて走行しているうちに、太陽が昇ってしまった。
ホテルに戻り、風呂にはいると朝食を食べた。午前八時過ぎにチェックアウトをする。とりあえず棚田に向かう。棚田の場所がわからないので、たまたまいた農家の人に
「すいません。この辺に棚田があるはずなんですが・・・。」
と尋ねると、農家のおじさんは、
「今家に帰るところだから、このトラックの後についてくればいい・・・。」
といい、先導してくれた。そのおかげで、棚田にはたどり着くことができた。思っていた以上に、綺麗な棚田だった。ただ、車での撮影は困難な道路状況であり、バイクで訪れることをお勧めする。「中山千枚田」                         棚田の撮影が終わるととりあえず島内を一周して、「二十四の瞳」の舞台になった分教場に向かった。日本一周の時に訪れたところでもある。あのころと全く変わってはいなかったが、映画の撮影になったセットがそのまま残されていた。日本一周の時にはなかったものである。それから、壺井栄が女であるということがこの時初めてわかった。なぜなら「壺井栄資料館」ができていたからだ。とりあえずこの分教場を後に、小豆島を離れる。
フェリーで岡山に向かう。フェリーの時間を午前十一時四十分と思っていたのだが、実際には十二時一〇分だった。
岡山から再び高速道にはいる。明日帰宅することを考え、走れるだけ走る。再び中央高速に出る。目の前に見える雲が、大きくわき上がっている。いつ雨が降ってもおかしくない空模様だ。雨というより雷雨だ。そのことを考えると、休憩もとらずひたすらアクセルに力が入る。午後六時に飯田インターを降りる。迷わずに宿泊したばかりの温泉ホテルに向かう。今日は、満室とのこと・・・。
あわてて、「ルートイン」に向かう。すぐに受付のところに駆け込み、
「シングル空いていますか?」
と、尋ねる。「空いています。」という返事をもらい、すぐに受付をすませ、風呂に入った。このルートインは何度か宿泊したことがある。
その夜も生ビールを二杯飲んだ。毎日が暑いので、ビールがうまい。
□八月九日(日)
このホテルは朝食がサービスとなっているので、出発は朝食が済んだ午前七時半過ぎとなった。なかなかボリュームがあり、満足感のある朝食だった。走行中何となくリアブレーキの様子がおかしいと思った私は、故意にブレーキの操作をリアブレーキだけに集中してみた。おかしいと言うことが確実となったので、帰路はなるべくリアブレーキを使用せずに走行した。
昼食は、栗橋の「すかいらーく」となった。帰宅したのは午後一時過ぎだった。雨に降られず何とかクリアーできたツーリングでよかった。
☆ 小豆島は、二度目だった。前回は「二十四の瞳」の舞台となった「岬の分校」を訪れ るためであり、今回は「中山千枚田」を訪れるためだった。前回同様「岬の分校」は、 今回も訪れた。
 今回は、「映画のセット」が保存されていた。何となく「観光地」という雰囲気が漂 っていた。ただ、「岬の分校」はあの当時のまま保存されていた。

●その十四「花坂の棚田」を求めて
□二〇〇九年九月七日(月)◆5「花坂の棚田」新潟県
午前六時過ぎに出発する。ガストで朝食を考えていたら、ガストがしまっていた。私はあきらめて、そのまま国道五十号線を走行した。インター手前でETCカードを挿入する。そのときに、変なバイク集団に出会った。
朝食をどこでとるか迷っている内に、「赤城高原SA」に着いてしまった。とりあえずレストランに向かう。困ったことにレストランは、午前十一時のオープンとなっていた。私はとりあえず、パンとコーヒーを購入して朝食とした。平日なのか、ライダーは少なかった?
トンネルを抜け、湯沢に出た。晴れていると思ったら、曇っていた。曇っているどころか、石打インターを抜ける頃には雨が降ってきた。小雨程度ではあったが、気になった。いったん石打SAで、天候を見極めてから行動を開始する。場合によっては濡れるのがいやなので、引き返すことも考える。
インターを降り、棚田に向かう。心配していた天候も回復に向かう。どうやら雨は心配ないようだ。棚田の稲刈りはまだ始まってはいなかった。稲穂がとてもきれいだ。途中、ベンツに乗った老夫婦と一緒になり、棚田の話をする。「花坂の棚田」
「花坂の棚田」で撮影が終えた後、バイクにトラブルが発生した。昼食をとり、エンジンをかけギヤを入れるととまってしまうのだ。何度も同じ事を繰り返していると、お店の人が近寄ってきて
「故障ですか?近くに修理工場がありますよ。車専門ですが、バイクも見てくれます。」そう言いながら、場所を説明してくれた。私はJAFを呼ぶことも考えたが、時間がかかると思い。その場所までバイクを押した。途中の坂道がかなりきつく、私はいったんバイクを路肩に止め、修理工場の中に入ってみた。私が大きな声でお店の人を呼ぶと、中から人が出てきた。対応は早く、すぐに故障している場所がわかり、応急処置をして、乗ることができた。
修理代はいらないと言っていたのだが、私はそれに応じないで、五百円支払った。とりあえず帰宅することができたのでよかった。今回の故障の場所は考えていた場所だったので、改めて自宅で古くなってしまったアフリカツインを見た。正直、人里離れた山奥で今回のような故障が起きたらどうなっていただろうか?これからのツーリングが、とても不安になってしまうようなトラブルだった。
修理工場をあとにすると、どこにもよらずまっすぐに帰宅した。
☆ 花坂の棚田は何度も訪れている。今回はバイクが故障したことと、ベンツに乗った老 夫婦のことがあったので書いてみた。

●その十六「九州の棚田(六)」を求めて(二〇〇九年九月十八日~二十三日)    ◆2「蕨野」佐賀県、2「江里山」佐賀県、2「葛籠(つづら)」福岡県、       2「広内・上原」福岡県、「石垣の村」宮崎県日之影村、              「乙大木(おつおおきだに)」兵庫県作用町
□九月十八日(金)圏央道、中央道
今回の連休は秋と言うこともあり、棚田の撮影にはもってこいの日程だった。連休と言うこともあり、なるべく遠くへ行くことを考え、九州へと向かうことを考えた。天候によっては車で行くことも考えたり、北海道に変更することも考えたが、予報では五日間とも晴れということだったので、バイクで九州へと向かう。
ETC上限千円になってからの高速道は、連休になると大渋滞になる。私はそのことも考え、なるべく混まないルートを選択した。前日の深夜にどこまで走行できるかが、キーポイントだ。ルートは、圏央道から中央道というルートに決定した。圏央道は問題なかったが、この連休前夜なのに中央道は工事をしていた。談合坂手前ではあったが、五キロの渋滞だった。わかってはいるのだが、路肩走行でこれを乗り切り、順調に距離を伸ばし、深夜には諏訪SAを通過していた。途中、「駒ヶ岳SA」で四時間ほどの仮眠をとった。シュラフだけを取り出し、そこで四時間ほど休んだのだ。
□九月十九日(土)◆3「北庄」、鞍手PA仮眠
午前四時にSAをでる。正直、ゆっくりとしていられなかった。寒く、エンジン音がうるさかったので、寝ることは不可能だ。相変わらずSAは混んではいたが、高速道は流れてはいた。だから渋滞ではない?
養老SAには、午前六時に到着した。すでに京都大阪間は、渋滞が発生しているようだ。敦賀インターをいったん降り、舞鶴から再び高速道にはいることにする。午前七時前に高速道を降り、市内を通過した。ココスが朝から営業していなかったので、マクドナルドにはいる。
ルートの確認をして、国道二十七号線を小浜に向けて走行する。早朝と言うこともあり、流れはよかった。途中眠くなり、体を横にする場所を見つけ、休息を取る?居眠り運転が一番心配だ。
小浜西から高速道に入り、中国自動車道に合流する。津山インターでいったん降り、棚田の写真を撮る。津山では何度か降りているので、ルートは把握できていた。又ナビがあるのでナビも有効に活用し、棚田は午後二時過ぎまで撮っていた。
再び午後三時に高速道にはいる。ここから九州までは高速道を降りることはない。相変わらず中国自動車道は走行車が少ないが、ETC千円の渋滞を避けようとする観光客が増えたことは間違えのないことだ。今回は、ライダーも見かけることがあった。
壇ノ浦SAには、午後七時過ぎに到着した。ここまでくる間に交通情報では、九州自動車道が午前中に「渋滞三〇キロ」となっていたが、この時間帯は渋滞の情報はなかった。明日も午前中の渋滞が予想されるので、九州に渡ってから寝ることにする。
去年と同じ「鞍手PA」で、休息を取る。時間も午後九時になっていたので、ここで寝る。星がきれいだったので、明日も晴れることだろう。やはり野宿が一番?
□九月二十日(日)◆2「蕨野」、2「江里山」、2「葛籠(つづら)」
午前四時過ぎに起きる。いつの間にやら野宿ライダーが増え、二輪駐車場で寝ていたのは五人になっていた。一人は、テントを張っていた。去年は私だけで誰一人いなかったが、今年は五連休の影響とETC上限千円の影響があり、増加したのだろう?
奈良ナンバーのスクーターの人がやたらと話し好きで、話しかけてきた。関東からのライダーは、さすがにいなかった。昨日の渋滞のことを考え、午前五時にはPAをあとにしていた。
朝食も去年と同じローソンのある、「基山PA」でとる。今回は、ロッテリアでセットを購入して食べる。食べながら、本日の日程を確認する。当初は去年と同じ「星野村」を考えていたが、燃料があまり無いのでインターの近い「蕨野の棚田」に向かう。九州自動車道から長崎自動車道に入り、「多久インター」で降りる。有料道路は走行せず、国道二〇三号線を走行する。まずガソリンスタンドでタンクを満タンにする。それから、「蕨野の棚田」へと向かう。いったん、休憩も兼ねて道の駅で確認をする。今回はナビがあるので安心?棚田はすぐに見つかった。まだ稲刈りが始まっていないので、二年前とは違った風景を見ることができた。黄金色の棚田がすばらしい。途中、農家の人と会話をすることができた。私が「電熱線」についていろいろと質問したことが、会話のきっかけになった。やはり、北海道や新潟と同じように動物による被害が大きくなってきたので、電熱線を張ったそうだ。「蕨野の棚田」                            「蕨野の棚田」から、「江里山の棚田」に向かう。ここでもナビを活用する。今度は有料道路を使用する。棚田に近づくと、「江里山の棚田」「彼岸花祭」「棚田祭」の文字が出てきた。午前中ではあったが、すでに駐車場が満車になっていた。私の場合バイクなので問題はないが、やはり棚田での大型バイクは転倒のおそれも?
二年ほど前よりも、彼岸花が早く咲いているようだ。私は二年ほど前と同じアングルで撮影したくなかったので、思い切って奥に入ってみた。不安があったが、せっかく来たのだから・・・。やはり奥に入ってみるものだと思った。すてきな棚田が、私を待っていたのだ。「江里山の棚田」
「江里山の棚田」から、「葛籠の棚田」に向かう。再び高速道を使用する。どうやら「九州道」は、渋滞しているようだ。幸運だったのは、「長崎道」と「大分道」の渋滞がなかったことだ。「杷木インター」を降りると、すでに「彼岸花祭」の標識があった。途中コンビニがあれば昼食を購入するつもりでいたが、コンビニが見つからなかったのでやっと見つけた食堂で食べる。入ってみた食堂は、安くてボリュームがあった。何よりも驚いたのが、天ぷらなどが自由に食べられたことだ。それでもって、料金がリーズナブル。食べ過ぎたおなかを抱えて、再びバイクに乗る。やはり食べ過ぎたか?動きが鈍くなってしまった。「葛籠の棚田」は、すでに混んでいた。今回は人が多いが、交通量が少なくなっている。ここの彼岸花も、ピークを過ぎてしまっていた。「葛籠の棚田」         二年前の失敗を繰り返さないように、いったん国道に出てから「星野村」に向かうのではなくて、「葛籠の棚田」から林道を使用して、「星野村」に向かう。ナビもそのように設定されていた。ナビの使用によって、すぐに「星野村」に着くことができた。私は、目的の「広内・上原の棚田」に向かった。二年前は地理の把握ができていなくて、時間ばかりが費やされたが、今回はストレートに「広内・上原の棚田」に向かった。
電話で確認していたように、台風の被害はなかった。残念だったのは稲刈りがまだ始まっていなくて、稲を干す風景が見られなかったことだ。できたら稲干しの風景をカメラにおさめたかったのだが・・・・、残念。「広内・上原の棚田」
目的の棚田の撮影は、ほぼ終わった。ひとまず、今夜の宿泊場所を探さなくてはいけない。いったん国道二一〇号線から国道二一二号線に出て、「小国町」に向かう。二年ほど前は、山間部の県道をかなり走った。やはり山間部の県道は、時間のロスが多い。国道に出るのが一番と思い、一番近くにある国道二一〇号線に出た。
「やまなみハイウェイ」を走行するためには小国町に出るのがよいと考え、国道二一二号線を走行し、道の駅を目指す。途中「杖立温泉」により、公共浴場で汗を流す。驚いたのは、地元の人から鍵を預かり、公共浴場の鍵を閉めたことだ。
小国町の道の駅に宿泊することを考え、とにかく道の駅に行く。そして、適当なところにバイクを止め、夕食の場所を確保する。この道の駅には泊まったことはあるが、生ビールを飲む場所が無く困った経験があったので、生ビールの確保も忘れずに行う。とりあえず近くの居酒屋で生ビールを飲み、辺りが暗くなってからテントを張ることにする。バイクを止め
「こんにちは、生ビールありますか?」
と、私が尋ねると
「ありますよ。」
と店員が返答したので、とりあえず生ビールとつまみを注文した。喉が渇いたのか、二杯目をすぐに注文した。最初は私だけだった店内も、人が多くなってきた。私は一時間ほどで、店を出た。
バイクからテントを取り出すと、張る場所を確認した。正直、道の駅にテントを張るのは今回が初めてだ。いろんなところに張ってはいるが、こんなに人目につくところに張るのは初めてのことだった。治安維持のためには問題ないが、マナー違反では?
酔っているので、テントを張り終えるとひとまずテントの中で横になった。そしてそのまま寝てしまった。深夜にトイレに行くときに、道の駅が満車状態だったのに驚いた。私がテントを張った午後八時頃は、あんなにスペースがあったのに・・・?また、私と同じようにテントを張ったライダーが二名いたのにも驚いた。
□九月二十一日(月) 生駒高原、通潤橋の放水、◆石垣の村
午前五時に道の駅を出る。薄暗い中テントを撤収して道の駅を後にするが、改めて満車状態の道の駅を見て、テントを張ったことを深く後悔した。たぶんこのテントとバイクで、車二台分は駐車場を占領していた。それを考えると、あきらめて路上に車を止めているドライバーに申し訳ないと思った。
阿蘇の手前で早い朝食を食べる。まだ午前七時前であるが、コンビニの前で朝食をとり、草千里へと向かう。雲が少しかかってはいたが、景色はすばらしい。すぐに国道に出ると、高速道に向かった。熊本にインターがある。高速道に向かい、今日中に「生駒高原」からとんぼ返りで下関に向かわなければならない。日程的に今日中に九州を出ないと、苦しい。
午前中の渋滞を心配していたが、熊本周辺は渋滞にはなっていなかった。すでに太宰府周辺は渋滞らしいが・・・。インター手前でガソリンを満タンにして、快適な走行を楽しむこと約一時間半、「小林インター」に着く。途中ライダーを見かける。この連休は天候に恵まれ、絶好のツーリング日和だ。
「生駒高原」は、インターからすぐだった。ただ残念なことに、コスモスはまだ一分咲きだった。もしかしたら・・・という期待があったのだが・・・。無料の園内で適当にシャッターを押し、再び「小林インター」から高速道にはいる。SAでルートの確認をしながら走行する。まだ午前中ということもあり、帰路は再び「やまなみハイウェイ」を使用する。湯布院で温泉につかり、時間調整をして高速道にはいることにする。
「松橋インター」で降りる。国道二一八号線を「高千穂」目指して走行する。この国道は、「石橋」が多い国道でも有名だ。ラッキーだったのは、「通潤橋」で、放水が見られたことだった。何度かこの通潤橋を訪れてはいるが、放水の場面は初めてのことだった。すでに駐車場は満車で、かなりの人混みだった。考えてみれば五連休の放水だ。バイクを止められるだけでも、ラッキーなことかもしれない。バイクでよかった。
ここで放水を見た後、昼食にする。混んではいたが、いつ食べられるかわからないので簡単なカレーだけにする。残りは、屋台で適当に食べる。放水と彼岸花、そして棚田が同時に見られた。黄金色の稲穂と橋が、とてもすてきだ。
高千穂から「日之影村」へと向かう。国道からはずれると、さすがに不安だ。「石垣の村」という文字が見えた。なるほど、人家が石垣に囲まれ、棚田も石垣でできている。ほとんど人に会うことも、車とすれ違うこともない村だ。この五連休でさえ、ほとんど車とすれ違うことはなかった。「日之影村」
私は目的を達成することができたので、この九州から出るために「やまなみハイウェイ」へと向かった。高千穂から小国町、そして「やまなみハイウェイ」に出る。県道十一号線が「やまなみハイウェイ」だ。かっては有料道路で、全線走行で約三千円ほどかかった。
湯布院に近くなるにつれ、日が暮れてきた。問題は、ここから起きた。私が湯布院か国道二一〇号線かで迷いながら走行し「湯布院」に向かったとき、渋滞が起こった。かなりの時間、渋滞が続いた。本当ならすでに湯につかりながらのんびりしている時間なのだが、湯布院に到着できない。到着したときには、すでに午後七時を過ぎていた。又困ったことに、入るべき温泉が見つからないのだ。そして、食事をする場所も・・・。
最終的には公共浴場に三百円で入り、居酒屋でうどんを食べただけで終わってしまった。風呂にはいること三十分ほど、うどんを食べること三十分ほど・・・。ゆっくりとすることはできなかったが、けっこう居酒屋がおもしろかった。
のんびりと時間調整するつもりでいた湯布院で渋滞に遭い、到着してみれば街は閉店していた。何とか夕食にたどり着き、ふたたび高速道にはいる。午後九時のことだった。大分道は流れていた。ただ途中の掲示板で「渋滞」という文字を見てからは、先に進もうとせずバイクからシュラフを取り出しSAで寝ていた。午後十時を過ぎる頃から人が少なくなり、渋滞が解消されたようなので、再び大分道を走行する。九州道にはいると、再び「渋滞」の掲示板、ここでもSAでシュラフに入りながら時間調整をする。ただ、雨が降ってきたのには参ってしまった。シュラフが濡れるからだ。
午後十一時を過ぎると渋滞の掲示板も消えたので、再び走行する。渋滞に遭うことなく九州を抜けることができたが、雨には参った。ガソリンが無くなってきたのでガソリンを入れるが、寝る場所が確保できないまま雨の中を走行している。それも夜中の一時過ぎだ。美東SAに着いたのは、午前二時だった。たまたまテントがあったので、テントの中に駆け込んだ。ライダーが四人ほどシュラフを出して休んでいた。私はひとまずここで寝ることにする。テントの中は私が寝る場所を確保するには難しいので、私は雨の中でテントを張った。外灯がついていたので、夜中でもすぐに張ることができた。そして、深い眠りについた。
□九月二十二日(火)◆「乙大木の棚田」兵庫県、大原宿で出会った人
午前五時に起きて、テントを撤収する。雨が降っていたが、小降りだった。昨夜のライダーは、まだいた。昨夜といっても三時間ほど前のことだが・・・?二輪駐車場にも、車が止まっていた。それほど駐車すべき場所がないのだ。これがハイエースだったら・・・。バイクでよかった。
時間とともに雨もやんできた。全く降らないというわけでもないが、雨は広島を過ぎる頃にはやんだ。私はせっかく来たのだからと、「作用インター」を降りた。ここには、「平福」「大原」などの古い町並みが残っていた。特に平福は有名だ。平福で昼食を食べると、棚田に向かった。目的は、その古い町並みよりも「棚田」にあった。「乙大木谷」という棚田があるのだ。まだ一度も訪れたことがなかったので、今回訪れた。ここでもナビは活躍した。棚田での稲刈りはほとんど終わっていたが、まだ刈り取りが終わっていないところもあった。「乙大木谷の棚田」
この棚田から、「大原」へと向かう。再びナビの出番である。宮本武蔵の生まれたところで有名だが、古い町並みも残っている。ここで、ある不思議な人に出会う。それは、「町おこし」をやっている人だった。動くおもちゃを製作していた。昔で言えば「からくり人形」である。たぶん彼の活動が、雑誌で取り上げられることと思う。
佐用インターに入り、再び中国自動車道を走行する。問題は、岡山を過ぎてからだ。渋滞があれば「舞鶴」に抜けるつもりでいる。加西SAで渋滞情報があったので、私は舞鶴へと向かった。前々から泊まってみたい道の駅があったのだ。それは「シーサイド高浜」だった。温泉があるのだ。私は濡れた体を温泉で温め、ゆっくりしたいと思っていた。テントがあるので、小国の時のようにテントを張るつもりでいた。
午後五時過ぎに道の駅に着いた。雨が降っていた。適当なところにバイクを止め、温泉に向かった。温泉を出ると、マッサージに向かった。右腕が痛いのだ。アクセルを保てない状態にあった。料金は三千円で三十分だった。ただ、ここのマッサージはとてもつらかった。荒かったのだ。韓国人らしいが、私の体を痛めて楽しんでいるようにさえ思えた。終わった後は、痛みが取れたのでよかったが・・・・・。
温泉に食事を取る場所が無く、私はレストランに移動した。オーダーすると
「ただいま店内は大変混み合っていますので、多少時間がかかりますがよろしいですか?」と尋ねられたので、私はビールさえすぐに飲めれれればよいと考えていたので、    「はい」                                    と答えた。
ビールを二杯飲み終えた頃、オーダーしたものがテーブルに届けられた。オーダーストップが午後七時半という事だった。私は、追加注文はしなかった。食事が終えると、レストランが閉店するまでベンチに横になっていた。休息室がありテレビが見られたが、私はそこには行かなかった。ホームレスのような人たちが、そこにたくさんいたからだった。
私と同じライダーが六人ほどいたが、二人は雨の中に消えた。四人はベンチでウィスキーを飲んでいた。私は、そのライダーたちと交流を持つこともなかった。何となく年齢が離れていたからかもしれない。
レストランが閉店したので、テントを張った。本当はベンチで一夜を明かすつもりでいたのだが、テントが三張り張ってあったので同じようにテントを張った。私がテントを張ると、二人の若者が近づいてきた。
「土浦ナンバーですけど、茨城の土浦からですか?」
と、話しかけてきた。私も会話に加わった。どうやら、二人の内一人は「石岡」から来たらしい。それと、かなりバイクに詳しく、アフリカツインを所有したこともあったと言うことだった。会話は楽しかったのだが、疲れたのかすぐにテントに入ってしまった。不幸な出来事はそれから始まった。
午後十時頃、大きな話し声とともに私の近くにロッジ型テントが張られ、大家族が来た。あまりにもうるさいので、私はその場でうるさいことを告げ、テントを移動させた。それを見ていた先ほどのライダーたちは、驚いていた。
□九月二十三日(水)北陸道から中央高速、ドカの少年
午前五時に起き雨の中でテントを撤収すると、雨の中を走り始めた。雨の状態から、北陸方面は雨が強いが、内陸方面は雨がやむと考え、内陸部を走行するためには、早朝に市内を通過しないと渋滞に巻き込まれるおそれがあると考え、午前五時過ぎに道の駅を出発したのだ。
約一時間の走行で、敦賀のマックに到着した。雨は相変わらず降ってはいたが、小浜ほどの降水量ではなかった。マックで朝食にする。このマックには何度かはいっているので、あらかじめ朝食の予定は考えていた。
雨具を脱がず、ツーリングマップルを片手に店内にはいる。早朝のためか、お客はいなかった。注文をすると、温かいコーヒーがすぐに届いた。マップルを見ながら、帰路の確認をする。私は食べ終えると、すぐに店内を出た。雨具を来たままなので、あまりのんびりとはできなかった。
北陸道を米原に向けて走行する。米原JTから関ヶ原方面に向かう。関ヶ原を抜ける頃には、雨はやんだ。特に、飯田を抜ける頃から晴れ間が見え始めた。私は諏訪SAで雨具を脱いだ。完全に太陽が顔を出した。やはり、バイクには雨よりも太陽が似合う。途中のPAで知り合ったドカッティの少年は、途中で会うことが無くなってしまった。純粋なバイク好きの少年に見えたが?何よりも、バイクがぴかぴかに磨かれていた。
☆ ETC千円乗り放題で、毎週のように高速道路は混雑していた。特に連休になると、 遠出をすればするほど割引率が良くなるので、高速道路を降りないで走行し続ける旅人 が多くなった。

●その十六「九州の棚田(八)」を求めて(二〇一〇年四月三十日~五月五日)    ◆2「大井谷」島根県、3「蕨野」佐賀県、「大浦」佐賀県唐津市、3「浜野浦」佐賀県、
 3「土谷」長崎県、2「室谷」島根県、「都川」島根県浜田市、2「横尾」鳥取県   2「うへ山」兵庫県、2「西ヶ岡」兵庫県
□四月三十日(金)圏央道、中央道、養老SA
桜を求めて東北・北海道へと向かう計画を密かに立てていた。ところが、我が愛車ハイエースがラジエーターの不調と言うことで、長距離は不可能となってしまった。そこで急遽予定を変更して九州へと向かうこととなった。目指すは棚田に映る夕日だ。
午後八時過ぎに出発、ゴールデンウィークと言うことを考え中央道を使わずに上信越道から北陸道がよいのではと最後まで迷う。とりあえず圏央道を走行し、渋滞情報でルートを変更すればよいと考える。
圏央道、中央道とも混んではいるが、流れているのでそのまま中央道を走行する。寒いが、何とか「養老SA」に深夜の一時半に着く。ここで仮眠をとる。シュラフにはいるが寒い。さすがゴールデンウィークである。SAは、満車である。
□五月一日(土)北陸道、舞鶴道、中国道、◆2「大井谷の棚田」
午前五時半にSAをでる。朝から快晴である。短時間ではあったが熟睡したため、快適な朝だ?予定通り名神には入らず、北陸道から敦賀インターに向かう。北陸道は全く混んではいなかった?
敦賀インターを降り、国道二十七号線を走行し、舞鶴へと向かう。途中、いつものマックにより、朝食とする。そして、ガソリンも満タンにする。早朝と言うこともあり、国道はまだ渋滞していなかった。
西小浜インターから、再び高速道にはいる。中国道には、午前十時過ぎに合流することができた。このまま中国道を走行すれば、九州には午後三時頃上陸することができる。しかし、今までのパターンからなるべく夜に上陸することが望ましいので、途中インターを降りる。「六日市インター」をおり、棚田へと向かう。本当なら棚田から「津和野」に向かうのがよいのだが、時間を考えると棚田までがよいと判断する。
「大井谷の棚田」の看板は道の駅を過ぎるとすぐにあった。これなら迷うことはない?一度来たことがあったが、風景は全く変わっていなかった。むしろ「道の駅」が大きく変わってしまった。水張りが終了し、田植えの準備中だった。棚田によっては、農家の人が耕運機を使用して農作業を行っていた。石垣の美しい棚田の撮影が終わると再びインターに戻り、温泉にはいる。まだ午後三時過ぎと時間に余裕があるのだが、六日市温泉には一時間も入っていなかった。なぜなら、これから九州にはいるからだった。「大井谷の棚田」
午後六時過ぎ、九州道にはいる。相変わらず「壇ノ浦SA」は、混んでいた。SAは混んでいたが、九州道は思ったより混んでいなかった。午後十時過ぎ、宮崎手前のPAでテントを発見する。私もそこでテントを張る。
□五月二日(日)生駒高原◆3「蕨野」、「大浦」佐賀県、3「浜野浦」、3「土谷」
午前五時過ぎにテントを撤収して出発しようとするが、二輪駐車場前に車が止めてあるため、バイクを駐車場から出すことができない。私は車をノックして、車を動かしてもらった。おばちゃんは車のノックに驚いたのか私の顔に驚いたのか、驚いた顔をしてすぐに起き、車を移動してくれた。
「小林インター」を降りたのは、午前六時過ぎだった。迷わずに「生駒高原」に向かう。去年と同じように、早朝は入園料が無料になる上に人が少ないので撮影には適していると、考えてのことだった。実際入園料は無料だったが、「ポピー」の花は三分咲きだった。そのことを考えると、ちょっとがっかりだった。
日程のことを考え、再び高速道にはいる。心配だったのは、交通渋滞だった。早朝だから心配ないと思っていたが、交通量は多かった。相変わらずSAは、混んでいた。ただ、流れているので走行に問題はなかったが?
とりあえず長崎へと向かう。棚田の夕陽を撮影するのが今回の目的なので、時間と天気を考えながら日程を組む。長崎道を走行し、このまま長崎方面に行ってしまうにはまだ時間が早すぎるので、「蕨野の棚田」に向かう。
長崎道は、思っていた以上に混み具合が激しい。昨年と同じように「多久インター」を降りる。有料道路には入らず、国道を走行する。道の駅でいったん休憩をとり、「蕨野の棚田」へと向かう。ナビがあるので心配はなかったが、国道をはずれるとやはり心配だ。
棚田はすぐにわかった。トイレ休憩をすると、早速棚田を見渡せる高台へと向かう。残念ながら、まだ水が張っていなかった。幸いなことに、展望台の真下に少し水が張ってあった。私は、その水が張ってある棚田の写真だけを撮った。全体の撮影からは、真下は水張りがほとんど行われていないことが分かった。「蕨野の棚田」
再び下の休憩所におり、トイレ休憩。喉が渇いたので、売店でペットボトルを買う。おばちゃんと会話が弾む。「ほんまに茨城から?」と、おばちゃんが驚いた顔で私に何度も尋ねる。棚田を後に、松浦半島に向かう。この松浦半島には二つの夕陽が見られる棚田がある。又二つの棚田を訪れる前に、浜野浦手前の「大浦の棚田」を訪れなくては行けない。
私は時間調整をしながら、棚田に向かう。じっくりと撮影するためには、午後四時には棚田に着きたいと考えていた。もし速く着いてしまった場合は、時間調整をかねて温泉に入りたいと考えた。「浜野浦の棚田」「土谷棚田」二つの棚田とも訪れたことはあるのだが、どちらも稲刈りの頃だった。今回は、是非真っ赤な夕陽と棚田を撮りたい。
大浦の棚田は、今回が初めてだった。海と棚田と街並みがレンズの中に収まった、小さな棚田だった。浜野浦の棚田には、午後三時に着いてしまった。近くに温泉があれば温泉に入り時間調整をしたいと考えたが、近くにはなかった。とりあえず撮影をする。スイセンの花が咲いていたので、スイセンの花と棚田をうまくフレーミングしながら撮影をする。 もう一つの「土谷の棚田」は、温泉があった。私はとりあえず二つの棚田を撮影することは無理なのだから、「土谷の棚田」で夕陽の撮影をして、この浜野浦での撮影はあきらめるという結論に達した。天気がよいので、間違えなく撮影はできるだろうと考え、「浜野浦の棚田」での撮影が終えると、「土谷の棚田」に向かった。
まず、ツーリングマップルに書いてある温泉マークを確認する。場所はだいたいあっていた。たぶんこの国民宿舎が温泉の場所だろうと思いながら、通り過ぎる。「土谷の棚田」は、その国民宿舎から十分ほど奥に入ったところだった。
棚田では、すでにカメラマンたちが三脚をたてて準備をしていた。私は、時計を確認した。午後四時である。太陽が沈む瞬間までは、三時間ほど余裕がある?そのことを考え、温泉に入り時間調整をしてから、棚田のところで夕食を食べながら夕日が沈むのを待つという計画を立てた。
先ほどの国民宿舎に向かう。看板があるのですぐにわかったが、肝心の建物がない。雰囲気としては、国民宿舎はつぶれてしまったらしい・・・?温泉を求め伊万里市内へと向かう。温泉はあったが、掲示板からするとまだ先らしい。このまま棚田からどんどん離れてしまってもまずいので、私は温泉をあきらめてコンビニで夕食の準備をしてガソリンタンクを満タンにしてから棚田に戻った。
午後五時過ぎの棚田の駐車場は、すでに満車になっていた。私はバイクなので問題ないが、後から来た車はすべて路上駐車となってしまった。ほとんどがカメラマンであり、観光客は三分の一ほどだった。そのこともあり、三脚があちこちに立っていた。
午後六時を過ぎると、シャッター音があちこちから聞こえ始めてきた。残念だったのは、午後七時近くまで粘ったのに、最後は雲がかかってしまい真っ赤に焼けた棚田の撮影ができなかったことだ。「土谷の棚田」
私は他のカメラマンと同じように撮影をあきらめ、伊万里市内へと向かった。先ほどの温泉の場所を確認することと、改めて夕食を食べるために・・・。とりあえず、混雑するファミレスで夕食を食べる。
温泉のパンフレットから、ナビで場所はすぐにわかった。私は、とにかく今夜は温泉に入り高速道で寝ることを考えていた。日程を考えると、九州で一泊しても問題ないが、できたら九州を抜けて一泊したいと考えていた。
「伊万里温泉」はナビですぐにわかったが、ロッカーの鍵がなかなかかけられず、脱衣所で時間がかかってしまった。いくらお金を入れても、鍵がかからないのだ。私はとうとう違うロッカーに荷物を移し替えて、再びお金を入れて鍵を回した。先ほどと同じように、鍵がかからない。私はさらに次のロッカーに荷物を移し替えて、お金を入れた。やはり、鍵がかからない。
私は独り言を言いながら、ロッカーのところをゆっくりと確かめた。原因がそのときにわかった。ロッカー料金が「十円」なのだ。だから鍵がかからなかったのだ。私は「百円」という金額のみが脳の中にインプットされていたので、まさか「十円」という料金があるとは・・・?
あわてて温泉にはいる。時間に余裕があるが?できたらこれから走行することを考え、長湯はしたくないと考えていた。わずか三十分で風呂から出ると、バイクのところに戻り、近くのインターから長崎道に入った。時間は、午後十時を回っていた。私は、時間は遅い方がいいのかなとも考えていた。なぜなら、深夜の渋滞があるからだ。九州道の登りは深夜まで渋滞する。去年の経験からそれはわかっていたので、高速道は渋滞のことを考えながら、走行した。
やはり長崎道の掲示板に、渋滞情報が掲示されていた。私が予想していたとおり、九州道の登りが渋滞している。私は渋滞地点の手前のSAで寝ることを考えながら、走行した。去年も渋滞をさけて、SAで寝た。
九州道に入ったのは、午後十一時に入ってからだった。流れは悪かったが、動いているので、そのまま走行する。最終的には、関門海峡手前のPAでテントを張った。深夜の零時を過ぎていた。
□五月三日(月)◆2「室谷の棚田」、「都川の棚田」島根県浜田市
午前五時過ぎにPAをでる。朝から天気がよかった。このまま中国道を走行し、舞鶴に向かうか、途中寄り道をしながら舞鶴に向かうか迷いながら走行する。最終的には、再び「六日市インター」を降り、「津和野」に向かった。津和野の町は何度も訪れているが、国道九号線から日本海に出て、「室谷の棚田」へと向かうことを思い立ったからだ。室谷は一度訪れたことがあったが、やはり夏休みの時期だったので、この田植えの時期は初めてのことだ。
「津和野」は、朝から観光客で混んでいた。私はできることなら「アヤメ」の時期に訪れたいと考えながら、室谷へと向かった。「三隅」にくれば、「室谷」という標識が立っていたので、私は三隅にはいると右側を注意しながら走行した。
右側に、標識が見えた。今回は「室谷の棚田」という看板も立っていた。そして道幅が広がっているのには驚いた。初めてここを訪れたときは、道幅が狭い渓谷沿いの道だったのに、今回は車が往来できる広さの道に変わっていた。これなら車でここを訪れることも可能だ。私はそんなことを思い出しながら、棚田へと向かった。さすがに棚田のところは道幅が狭くなっているが、バイクなので自由に撮影は可能だ。
田植えの最中だった。まだ始まっていない棚田もあれば、終了した棚田もあった。どの田も、水張りが終了していた。棚田の所々に軽トラックが止めてあり、農家の人が作業を行っていた。あぜ道のツツジが花を咲かせ、棚田風景に色を添えてくれた。「室谷の棚田」
再び国道九号線に出ると、浜田へと向かう。浜田からは、高速道を使い「旭インター」を降り、「都川の棚田」へと向かう。ガソリンが少なくなってきたので、とりあえずガソリンスタンドのある場所を聞いて、そこから棚田へと向かう。
この棚田を訪れるのは初めてのことだ。前々から高速道を利用したときに立ち寄ることは考えていたのだが、今回になってしまった。インターから近いので、いつでも訪れることはできるという考えがあったのかもしれない。運が悪いことに、この棚田に向かう途中「へび」に遭遇してしまった。思わずブレーキを踏んでしまったが、蛇は何回遭遇してもいやなもんだ。
棚田の場所はすぐにわかった。きちんと整備された道と休息所、そして案内板が設置されてあった。小さな棚田ではあったが、湾曲した棚田で美しい棚田だった。菜の花と桜が咲いていたので、花を入れながら撮影を行った。また、出来る限り石垣の美しさを強調することも心がけた?「都川の棚田」
再び浜田自動車道に入り、浜田インターで降りる。国道九号線を走行し、「松江」に向かう。「宍道湖」の夕陽を撮影したいからだ。この国道九号線は、途中途中無料の高速道が開通されており、まだ完全につながっているわけではなかった。たぶん利用する人が少ないために、全線開通がとまったままなのだろう?私はそう考えながら、海岸線をひたすら走行した。
松江には、午後六時に到着したのだが、雲がかかっていて風が強く撮影には向かなかったため「玉造温泉」に向かう。この温泉には健康センターがあり、何度か利用しているので迷わずに向かうことができた。驚いたことに駐車場が満車で車が入りきれず、駐車場が空くのをを待つ車が外に並んでいるために前に進まないことだった。バイクなので、駐車スペースはあったが、道路の混雑には驚いた。
ここで温泉に入り、夕食をとり、マッサージもしてもらう。快適なスパなのだが、宿泊はできない。私は、今夜の宿泊場所を道の駅に決めた。何故かこの宍道湖に来ると、泊まる場所が道の駅だった。この道の駅にテントを張って、寝てしまおうと考えた。
道の駅は、静かだった。静かだったが、車中拍車が多かった。私のようにテントを張っている者はいなかったが、私は迷わずにテントを張った。テントを張り終えると、先ほどのコンビニで買ってきた缶ビールを飲んだ。寝る準備をしていると、静かだった道の駅も強風と車の音でにぎやかになってきた。途中テントが心配になり、ポールとバイクを絞りつけた。
□五月四日(火)大根島ボタン、鳥取砂の美術館、◆「横尾、うへ山、西ヶ岡」
午前五時にテントを撤収して、予定通り「大根島のボタン」を見に行く。前々からボタンの花を見に行きたかったのだが、日程が合わず、今回やっとの事でボタンの花を見ることができる。
「大根島」は訪れたことはあったが、ボタンの時期にここを訪れるのは今回が初めてのことだった。島には二本の橋が架けられていたが、どちらがいいかわからなかったので道の駅に近い方の橋から渡った。なるほど、大根島にはボタンの花が咲いていた。私はなるべく、バックが海になるところを探して撮影した。
大根島を後に、鳥取砂丘へと向かう。今回は、砂丘に行く目的があった。「砂の美術館」がテレビで放映されていたので、是非みたいと思っていた。鳥取砂丘は、朝から混んでいた。まだ午前八時過ぎだというのに、駐車場のところは渋滞だった。私は奥までバイクで行きたかったのだが、とりあえず止められるところにバイクを止めて砂丘に向かった。砂丘は、人だらけだった。こんなに混んでいる鳥取砂丘は、初めてのことだった?このままではまずいので、美術館を探す。後でわかったことだが、美術館は私がバイクを止めたところだった。
入場制限があるのか、人が並んでいた。私はこれ以上混んでは中に入れないと思い、すぐに列に並んだ。待たされたが、ほんの数分で流れた。砂で作った作品が展示してあった。たとえるなら、「北海道の雪祭り」のようなものだった。
私は美術館を出ると、すぐに砂丘の駐車場を出た。道の駅で日程を考える。ここまで来たのだから、「棚田」の撮影に重点を置くプランを作る。ひとまず「横尾の棚田」「うへ山の棚田」「西ヶ岡の棚田」を候補にあげる。順番から行くと横尾の棚田が一番近い。
「岩井温泉」を抜け、「横尾の棚田」に向かう。ここは、二度ほど訪れている。ところが棚田があるのはあるのだが、どれが「横尾の棚田」かわからずに通過してしまった。戻るのも面倒なので、次の目的地である「西ヶ岡の棚田」に向かう。ここはかなりの急斜面で、バイクをおいて徒歩で訪れた記憶があったので同じように徒歩で向かった。
景色は前と変わっていなかったが、かなり整備されていた。舗装がされていたところもあった。残念だったのは、水が田に入っていなかったことだ。以前訪れたときには水が田に張ってあり、湾曲した棚田がきれいだった印象が残っている。私が残念がっていると
「バイクで来た人ですか?」
と、女の人が声をかけてきた。三脚とカメラを持っていたので、棚田の撮影のようだ。私は、水が張っていないことを残念に思うと話した。その言葉に対して女性は、
「奥の棚田には、水が張ってありますよ。」
と、教えてくれた。私は帰ろうとしていたが、帰らずにさらに奥に向かった。なるほど、そこには水の張った棚田が広がっていた。全部が全部水が張っていたわけではないが、水の張ってある棚田があったことは、朗報だった。私はとりあえず、水の張ってある棚田を中心に撮影した。「西ヶ岡の棚田」
「うへ山の棚田」は、すぐ近くにあった。とりあえず昼食のことも考えながら、棚田に向かう。ところがどうしても棚田が見つからず、近くの人家で尋ねる。私は道を間違えていたようだ。棚田があちこちにあったので、どれが「うへ山の棚田」かわからず、迷ってしまったのだ。
棚田は、人家から離れていた。看板も立っていたので、今度は間違うことはなかった。私は目の前に広がる棚田を見て、以前訪れたことを思い出した。とりあえず目の前で行われている農作業の撮影を済ませ、再び国道に出る。それから食べたいと思っていたレストランで、「但馬牛ステーキ」を食べる。ただ、このレストランの調理に時間がかかり、注文してから食べ終えるまでに一時間ほどかかってしまった。「うへ山の棚田」
敦賀までのルートは、国道九号線から福知山に抜けると高速道を使った。問題は、小浜西インターを降りてからだった。国道二十七号線が混んでいたので、国道一六二号線を使い海岸に沿って走行した。
敦賀インターからは北陸道を走行し、上信越道に抜ける。上信越道は、かなりの渋滞でJTから全く動きがとれない状態であった。バイクの利点を生かして深夜の路肩走行となった。妙高を過ぎたあたりから流れ出したが、これが車だったらパニックになっていた。深夜零時に坂城PAにテントを張る。
☆ 「浜野浦の棚田」「土谷の棚田」での撮影のために、この時期を選んだ。田に水が張 ってあり天候もまあまあだったので、目的は達成できたと思われる。残念だったのは、 二つの棚田の夕焼けの撮影が不可能だったことぐらいかな?でも、土谷の棚田は何とか撮影できたからいいか?(かなり満足したぞ!)

●その十七「大蕨の棚田(四)」を求めて
□二〇一〇年九月二十六(日)◆4「大蕨の棚田」、4「くぬぎ平の棚田」
 山形県の大蕨の棚田に向かう。東北道栃木ICから高速道に入り、山形道山形中央ICを降り、棚田へと向かった。すでに稲刈りが始まり、棚田の中に稲杭(いなぐい)が整然と並んでいた。私は、更に奥までバイクで向かった。奥の棚田に並んでいるはずの、稲杭が見あたらなかった。私は作業している農家の人に                 
「お仕事中すいません。奥の棚田に稲杭が見られないのですが・・・?」
と尋ねた。農家の人は
「奥の棚田は、持ち主が死亡したため休耕田になったのかな?なんか、農業を継ぐ人がいないので、今年は休耕田・・・・?」                       
と、説明してくれた。私は、
「お仕事中、ありがとうございます・・・。」
とお礼を言いながら、周りの撮影を行った。正直、ショックだった。
帰路はくぬぎ平の棚田を撮影して、寒河江SAから高速道に入り栃木ICで降りた。高速道をかなりのハイアベレージで走行する。ICを降りると、ココス栃木店で夕食をすませる。
☆ 「大蕨の棚田」は、「稲杭」が棚田のすばらしさを引き立ててくれる。特に、奥にあ る棚田は急勾配で、「稲杭」が整然と並んでいる姿は他の棚田を圧倒していた。その奥 の棚田が休耕田となってしまったことは、とても残念だった。

●その十八「九州へ」 (二〇一六年五月五日~二十六日)
☆ 熊本震災が起きたことにより、私は九州を訪れることが多くなった。今までは、「九 州と言えば、棚田」が多かった。途中から「教会」を撮影する為に五島列島を訪れるこ とが多くはなったが・・・。「熊本震災」が、再び私が九州を訪れるきっかけを作って くれた。
ただ九州へと向かうだけではつまらないので、「木造駅舎」「棚田に沈む夕陽」「教会」 をプラスして九州へと向かった。
□五月五日(木)
 午後二時出発、連休中ではあったが、上信越道の下りは混んではいなかった。上りは混んでいたが?佐久南ICを降り、大門街道を伊那ICまで走行する。諏訪大社前のファミマにトイレがたくさん設置されていた。御柱のためか? 伊那ICから再び高速道を走行する。養老SAは混んでいたが、眠くなったので車中泊をする。
□五月六日(金)若桜駅舎とピンクの蒸気機関車、出雲大社
 関ヶ原ICを降りて、国道を走行して小浜へと向かう。舞鶴から国道九号線で日本海へと抜ける。国道九号線は思っていたより混んでいなかった。途中、若桜駅にあるピンクの蒸気機関車の撮影を行った。なぜなら、連休明けには黒に戻ってしまうからだった。また、若桜鉄道の駅舎の撮影も行った。                          再び国道九号線を走行し、日本海に抜けると出雲大社に向かう。午後十時、道の駅「大社ご縁広場」に車中泊する。連休なのに空いていた。
□五月七日(土)2◆東後畑(ひがしうしろばた)山口県
 早朝、旧大社駅舎撮影後、出雲大社の街並みを撮影する。国道四三一号線から再び国道九号線に出る。国道四三一号線は、思って以上に狭かった。国道九号線から国道一九一号線を走行し、私は萩の世界遺産である反射炉を撮影した。セブンイレブンの裏にあった。一度撮影したことがあるが、コンビニはなかったが?
 国道からそれて、私は俵山のシャクナゲを撮影に向かった。残念ながらピークを過ぎていた。せっかく訪れたのだからと、私は咲いている場所だけを選んで撮影を行った。撮影後、私は「東後畑の棚田」の夕陽を撮るために長門市へと向かった。
 長門市に到着するが、太陽が沈むまでにはまだかなりの時間があった。私は時間調整をするために、温泉にはいることにした。やっと見つけて温泉にはいるが、料金が一〇五〇円と高かった?今までJAF割が適用されていたが、残念なことについ最近無くなってしまったらしい?                                  温泉入浴後、楊貴妃ロードを走行し私は午後五時過ぎに棚田へと向かった。駐車場は大丈夫だったが、水張りがほとんどされていなかった。午後六時過ぎに、たまたま農家の人がいたので話しかける。農家の人が「毎年二十日過ぎになれば、棚田全面に水が張られるんですよ。」と教えてくれた。私はそれを聞き、九州からの帰りに再び立ち寄ることを考えた。午後六時過ぎに数枚撮影すると、私は棚田を後にした。             海岸沿いのルートは距離があったが、下関まで二時間はかからなかった。下関ICから高速道にはいると、私はPAで車中泊をした。
□五月八日(日)木造駅舎撮影、耶馬渓
 小倉南ICから、国道三三二号線で「彦山」「耶馬渓」方面へと向かう。日田彦山線に沿って国道をしばらく南下すると、最初の目的地である小倉鉄道「採銅所駅舎」の案内板が右側に見えた。案内板に従って右折すると、駅舎がすぐに見えた。駅舎は綺麗に整備され、「有形文化財」の石碑はお花畑になっていた。早朝と言うこともあり、人影はなかった。
 彩銅所駅舎の撮影が終えると国道を更に南下し、県道五十二号線を南下する。しばらく走行すると、国道五〇〇号線に突き当たる。突き当たる手前左側に「彦山駅舎」が見えた。私が撮影しようと思って時刻表を見たら、二十分ほど待てば列車が入ってくると分かったので、駅舎を撮影しながら列車を待った。すぐに、黄色い車体の列車が入ってきた。一両編成のディーゼル列車だった。更に県道五十二号線を南下すると、国道二一一号線に合流する。国道を南下すると、右側に「宝珠山駅舎」が見えた。駅舎前にツツジの花が咲いていた。                                      次は、久大本線と合流する「夜明駅舎」撮影に向かった。個々で、一つ問題が出て来た。国道三八六号線と突き当たると、私は左折した。左側に「夜明け駅舎」が見えたのだが、駐車場が小さすぎて通り越してしまった。通り越したと言うより、駐車場が狭かったので、私の大きなハイエースでは駐車が無理かなと躊躇してしまい通り越してしまったのだった。Uターンしてゆっくり走行しながら改めて車をめることは出来たが、私の車一台で駐車場を占領してしまった?駅舎は建て替えられていたが、木造駅舎だった。
 次の目的駅舎である「豊後森駅舎」に向かって国道二一〇号線を走行していると、左側にたくさんの鯉のぼりが見えた。私はその鯉のぼりに引かれるようにブレーキを踏み、車を駐車場に入れた。駅舎には、「北山田駅」の文字が見えた。駅舎に鯉のぼりが下げられ、駅舎に「がんばれ熊本」「がんばれ大分」の大きな文字が見えた。中にはいると、ホーム内にも鯉のぼりが下げられていた。運のいいことに、列車が入ってきた。私は列車と駅舎をファインダー内に納めた。
 北山田駅は「豊後森駅」の隣だったので、続けて撮影が可能だった。ただ豊後森駅前に駐車場がなかったので、路上駐車して撮影を行ったためゆっくりと撮影できなかった。豊後森の街並みが気に入り、観光駐車場に車を移動して古い街並みを散策しながら町並みを撮影した。
 豊後森から県道二十八号線を北上し、耶馬渓に向かう。旧耶馬渓鉄道跡地のサイクリング道路を走ってみたくなった?それとも耶馬渓ダムカード?道の駅「耶馬トピア」に車を止め、自転車で散策する。「耶馬渓三橋」と言われる石橋、「耶馬渓橋」「羅漢橋」「馬渓橋」を撮影する。耶馬渓は、石橋の多いところだった?
 「メイプル耶馬サイクリングロードマップ」を手に入れ、旧耶馬渓鉄道駅跡地を巡りながら散策する。「青の洞門」で、「耶馬渓橋」「羅漢寺橋」を撮影する。「耶馬渓線平田駅跡」の石碑や「耶馬渓サイクリングロード平田宿場」の建物があったところで、「馬渓橋」を撮影する。長いトンネルを過ぎると、メインスポットである「第二山国川橋」を気分よく走行する。道の駅小国に車中泊、誰もいなかった?
□五月九日(月)熊本震災
 ガスって居て何も見えない。テールランプだけがたよりのミルクロード、どうにか国道五十七号線に出て益城町に入ることが出来た。阿蘇大橋が崩落したため、熊本市内と阿蘇を結ぶルートは「ミルクロード」が主な幹線道路となってしまった。旅人の私としては、「ミルクロード」はバイクで走行するのは好きだが、こんなに「混雑するミルクロード」」は初めてだ。                   
 益城町でも雨が降っていたが、被災地の撮影は出来た。熊本県庁と市役所へ立ち寄ると、私は国道三号線を南下した。道の駅阿久根に車中泊、阿久根町は寂れていた
□五月十日(火)廃線跡をたどる
 南薩線の撮影。サイクリングロードになっていたが、雨のためサイクリングできず。
○枕崎線(南薩線)廃止五十九年三月十七日 日置市日吉町吉利「吉利(よしとし)駅」
○「浜田橋」南薩鉄道。三連アーチが美しい石橋。
○「ながよし駅」
○「阿多(あた)駅」跡、薩南中央鉄道
駅舎跡を撮影する。
○万世特効平和記念館
○二〇一六吹上浜砂の祭典
○坊津の町並み、雨がすごかった
○枕崎線「西大山駅」、風雨のため運休
★道の駅喜入に車中泊、温泉とコインランドリー
□五月十一日(水)知覧、喜例川駅舎
○知覧サイクリング、本落とす。以前アフリカツインで訪れていたことを思い出す。
○嘉例川駅舎、撮影。桜の時期に来るのが楽しみ。「やっぱり木造駅舎が似合うね」
○志布志駅から日南線。「福島高松駅舎」日南線、撮影する。
★道の駅南郷に車中泊、都井岬方面は通行止め
□五月十二日(木)◆「坂本の棚田」宮崎県日南市
飫肥の街並みを撮影すると、道の駅「酒谷」に向かう。近くに「坂元の棚田」があるからだ。道の駅は、かやぶき屋根で出来ていた。更に国道を右折すると、坂元の棚田はあった。残念ながら、まだ水が張っていなかった。関西が水張りを行っているのに、温暖な気候である九州地方が何故水張りをまだ行っていないのか?棚田は、石垣が大きく九州の棚田らしい作りだった。
 宮崎県庁・市役所を訪れたあと、田野駅舎と青井岳駅舎を撮影する。
★道の駅「ゆーぱりのじり」は、久々の車中泊、温泉があるのがよい。
□五月十三日(金)木造駅舎
 道の駅から国道二六八号線を北上し、県道一号線で生駒高原へ。生駒高原は、ポピーがピークを過ぎていた。県道一号線を更に北上し、「えびの高原」へ。ミヤマキリシマは、撮影することが出来た。韓国岳は、ガス発生のため登山できず?高千穂高原は、行って良かった。登山途中で、私が                            
「天気も良く、ミヤマキリシマが見えて良かったですね。」
と、ハイカーに話しかけると
「今年はあまりきれいでない。去年の写真があるよ、ほら。」           
と、私にスマホの写真を見せてくれた。私は目を大きくして、それを見た。その写真を見て、私は途中で下山をしてしまった。
 再び嘉例川駅舎、今度は車両(はやとの風)も入れて撮影、ツツジの花も満開だった。つづいて県道五十五号線を北上し、国道二六八号線を走行して「えびの駅舎」も撮影に向かう。「えびの駅舎」の撮影が終了すると、国道四四七号線を走行して、「真幸駅舎」へと向かう。駅舎に「間幸駅開業百周年平成二十三年五月十一日」の看板が掲げてあった。真幸駅の平和の鐘は、よかった。ここも桜の時期が楽しみ。ここから矢岳駅、大畑駅への道が狭かった。正直泣きたかったぐらいだ。
 マップルを片手に、地方道四〇八号線を走行して、矢岳高原へと向かう。カーブの続く道路を上り詰めていくと矢岳高原だった。問題は、この先の林道だった。ハイエーススーパーロングワイドの車では曲がりきれなくて切り返しが何カ所か続いた。小さな村のような所を過ぎると、「矢岳駅舎」が右側に見えた。駅舎周辺は駐車場もあり、広かったので良かった。駅舎奥には、「人吉市SL展示館」があった。デゴイチが展示されていた。この矢岳駅舎と「大畑駅舎」を繋ぐ林道が又狭く、通行止めのカ所が何カ所か有り「迂回路」の看板が多かった。何故か対向車が来なかったので、どうにか「大畑駅舎」にたどり着くことが出来た。駅舎内には、たくさんの名刺が挟んであった。私も名刺を挟んできたが?
 人吉市内を抜け国道二一九号線を線路沿いに走行していると、「白石駅舎」が川向こうに見えた。この駅舎も木造だ。道幅が狭く、駐車場がなかった。
★道の駅「たのうら」に車中泊
□五月十四日(土)◆5「土谷の棚田」長崎県、5「浜野浦の棚田」佐賀県
 「日奈久温泉」の街並みを早朝撮影。撮影後国道三号線を北上。熊本市内の混雑を避けるため、国道五〇一号線を北上する。大牟田市内国道沿いに、世界文化遺産「三池炭坑」の看板有り。何気なく立ち寄る。観光客はほとんど居なかった。
 午後四時過ぎ、土谷棚田到着。棚田に水が張ってあり、天気もまあまあ。土手にアザミの花が咲いていた。以前撮影したデータがあるので、浜野浦の棚田へと向かう。午後六時に到着する。夕焼けは浜野浦の棚田と的を絞って訪れたが、残念なことに午後七時前に曇ってしまった。午後六時過ぎまでは、晴れていたのだが?曇ってはいたが、所々で光が差してきたのでそれはそれで良かったかな?いつのまにか浜野浦の棚田も「恋人の聖地」になっていた。
□五月十五日(日)平戸の教会
 平戸の教会に向かうが、教会への道が狭く苦労した。平戸市内は、サイクリングする。
何度か散策しているが、春のこの時期は初めてだった。早朝なので、人はいなかった。「平戸ザビエル記念教会」にも観光客は居なかった。「寺院と教会の見える道」からも 撮影する。                                      「古江教会」は、場所が分からず地元の人に何度か道を尋ねる。狭い道は苦労した。「山野カトリック教会」は、県道十九号線沿いに看板があったのでよかった。「壱部カトリック教会」は、場所が分からず地元の人に尋ねる。駐車場がなかった。教会がカラフルだったことも印象に残っている。                            「山田教会」は、看板があったが道が狭かった。草取りをしていた地元の人と会話。後ろのステンドガラスを撮影してくれと言われた。「中野教会」は道路脇にあり、看板もあったので楽だった。建物がシンプルだった。「紐差教会(ひもさし)」は、葬式の準備をしていた。業者の人と会話をする。ほとんど、仏教と同じように葬式を行うそうだ。白亜のロマネスク様式大天主堂。りっぱだ。「大佐志教会」は、地元の人に尋ねた。白いシンプルな教会だ。
 「木ヶ津教会(きがつ)」雨の中わからず、地元の人もいないので尋ねることも出来ず困った。ナビをたよりに何とかみつけた。木造だった。「宝亀教会(ほうき)」、道が狭く車をおいて徒歩で探す。軽の車がよいと思った。建物が明るくカラフルな色だ。中も撮影が出来た。「上神崎教会(かみこうざき)」、すぐに分かった。シンプルな建物だ。「平戸口教会」は、ナビで一発。「田平教会」は、レンガ造りの立派な教会で一番訪れる回数が多い教会だった。
★道の駅「さいかい」に車中泊、八十歳になるリヤカーで海岸線を日本一周の老人に出会 う。家族から「春と秋だけの約束で」「夏と冬は自宅で休養」?
□五月十六日(月)
 一日雨、佐賀県庁に行き、コインランドリー、オイル交換、洗車と一日暇つぶし
★道の駅「山内」に車中泊
□五月十七日(火)◆6「土谷の棚田」長崎県、6「浜野浦の棚田」佐賀県
 国道三十四号線(長崎街道)を走行し、大村市へと向かう。「大村駅舎」を撮影する。大村公園駐車場に車を置いて、大村の街並みサイクリング、桜の時期がよい。
 国道三十四号線から五十七号線に出て、「諫早駅舎」を撮影する。諫早湾は、堤防に道路が出来ていて通行することが出来た。Pに諫早湾干拓事業の看板があった。
 島原市内をサイクリングする。武家屋敷の石垣が目立つ。「島原カトリック教会」、島原鉄道「島原外港駅舎」を撮影する。
 「馬込教会」、国道二五一号線から県道二十九号線を走行し、伊王島大橋を渡り馬込教会に向かう。長崎市内を通過するのが大変だった。海を入れて撮影すると素敵だ。高速を使って、「土谷の棚田」へと向かった。
十四日は「浜野浦の棚田」に狙いを定めて撮影を行ったので、本日は「土谷の棚田」の撮影を行う。太陽が沈みそうな午後七時前後でも、雲がかかることはなかった。最後まで雲にかかることなく撮影が出来た。ラッキー!
★道の駅「桃山天下一」に車中泊。
□五月十八日(水)◆「浜野浦の棚田」
 有田の街並みをサイクリングし、「上有田駅舎」を撮影する。国道二〇二号線から県道五十二号線を走行し、大島大橋を渡り、寺島大橋から太田尾教会へ。道が狭いため、教会へは徒歩で向かう。幼稚園の形が教会に似ているので、幼稚園を教会と勘違いしてしまった。教会までの街並みも、撮影する。国道に戻らず、県道十五号号線を最南端まで走行する。展望台から綺麗な海が見え、温泉施設があった。戦争の遺品もあった。
 再び国道二〇二号線に戻り、国道を海岸に沿って南下する。かなりへんぴなところをしばらく走行すると、教会の看板が見えた。「大野教会」は、看板がなければ分からなかった。国道からそれているので、看板がなければ建物は見えなかった。トイレ付きの整備された駐車場から徒歩で向かう。石垣で作られた、小さな教会だった。教会と言うより、山小屋のような感じがした。五島列島で見た、いままでの教会とはちがっていた。行って良かった。                                     「出津教会(しつ)」は、大野教会から国道を五㎞ほど南下した左側にあった。駐車場が狭く苦労した。教会は海を見下ろせる高台にある、大きな立派な建物だった。教会の周りは段々畑と小さな村?「外海の石積み集落景観」の看板があり、観光地にもなっているようだ?近くに「ド・ロ神父記念館」と「旧出津救助院」があった。 
 「黒崎教会」は、出津教会から国道を二㎞ほど南下した左側にあった。途中道の駅がある。ただ、駐車場がなく苦労した。道の駅に戻り、道の駅に車を置いて自転車とも考えたが、最終的には国道に路上駐車?教会は、レンガ造りの大きな立派な教会だった。周りがツツジの花で綺麗だった。室内の撮影もさせてもらった。周りは石垣で出来た高台であり、階段も石垣階段だった。                             ☆道の駅で、リヤカーの老人と再会する。午後二時になるので、この道の駅に泊まるか下 にある公園に泊まるか考えているという。私に、スマホで下の公園を見せてくれた。(八 十歳になり、スマホを使用しての徒歩旅行とは・・・。私がスマホが使えないのに?)
リヤカー老人の問題は、下の公園に着いてから泊まれないことが分かり、この道の駅に 戻らなければならなくなったときの労力?
 混雑する長崎市内を走行し、長崎県庁に立ち寄る。印象を悪くした。失敗?浜野浦の棚田の撮影のため、長崎街道を走行する。途中大村線の撮影を行い。時間調整しながら高速道を使用して棚田に向かう。午後六時過ぎに浜野浦の棚田に到着する。間にあったが、ここは相変わらず人が多く、駐車場の確保が大変だった。前回とは違い、午後七時過ぎまで撮影を行うことが出来た。最後に、「恋人達の聖地」の鐘と棚田と夕陽のミックスで撮影を行った。「浜野浦の棚田」
★道の駅「桃山天下一」に車中泊。水戸ナンバーの軽ワンボックスの隣に停車
□五月十九日(木)
 唐津から国道二〇二号線を走行し、筑前深江から県道四十九号線を走行する。県道五十六号線に合流すると、国道三八五号線を南下し南畑ダムへ。更に南下すると、国道三十四号線を走行し、新鳥栖から県道十七号線を北上し龍光徳寺へと向かう。五重塔を撮影すると「山神ダム」へ。ダムカードを手に入れると、再び県道十七号線を南下し、鳥栖駅舎を撮影する。国道五〇〇号線を走行し、秋月へ。秋月はサイクリングする。桜の時期に訪れたい。おばちゃんに自転車をどかすように言われた。国道二一二号線を走行し、杖立温泉へ、鯉のぼりが良かった。温泉五百円で、誰もいない露天風呂を独り占めする。
★再び道の駅「小国」に車中泊する。誰もいない
□五月二十日(金)廃線跡地をたどる
 「旧国鉄宮原線」廃線跡地をたどる。「旧国鉄北里駅ホーム跡」は、綺麗に残っている。
「北里橋梁」も、綺麗に残る。「幸野川橋梁」も綺麗に残る。晴れているので、再び杖立温泉の鯉のぼりを撮影に杖立温泉へと私は向かった。
 鯉のぼりの撮影が終わると、再び益城町へと向かった。「益城中央小」「益城中」「御船中」を訪れると、南阿蘇へと向かう。南阿蘇は、道が狭く迂回路が多かった。道の駅に車中泊するため、温泉にはいる。道の駅の近くにあった温泉は、無料だった。道の駅の弁当四百円を百円で購入し、夕食とする。
□五月二十一日(土)熊本震災、◆3「東後畑(ひがしうしろばた)」山口県
 阿蘇駅は被災して立ち入り禁止、線路は不通。やまなみハイウェイは部分通行止め、諦めて竹田市方面へと向かう。最終的には竹田市を迂回して、再びやまなみハイウェイを走行する。長者原でハイキング、ミヤマキリシマはあるにはあったが撮影するほどではなかった。
 湯布院ICから高速道を走行し、国道十号線で小倉東ICから再び高速道。下関ICから、長門に向かう。どうにか棚田の夕焼けには間に合ったが、駐車場がなくて困ってしまった。棚田で知り合ったおばちゃんが「漁り火」のことばかり言うので、私も午後八時まで棚田にいた。ほとんどの人がその場を動かないので、駐車場に困った。
 午後七時半を過ぎると漁り火の撮影が可能になり、私は撮影が終えた午後八時に萩へと向かった。「東後畑の棚田」                           ★萩の道の駅は、車中泊が多かった。
□五月二十二日(日)津和野、石見銀山、木造駅舎
 目的であった津和野の花菖蒲は、まだだった。残念!
 大森の町並みは、十年ぶり。駐車場は有料になり、遺産センターなる建物が造られた。遺産センターからバスで移動しないと町並みは見られないくらい、観光客が増加しているのか石見銀山はマイカー乗り入れ規制中だった。私は遺産センターに車を置いて、自転車で石見銀山へと向かった。五百羅漢は、有料になっていた。
 山陰本線最古の駅「御来屋駅舎(みくりや)」を撮影する。最低でも舞鶴まで、いけたら敦賀までと思っていたが・・・。養父でリタイヤ・・・?温泉で、おじさんと今後の過疎化対策と農業の話に盛り上がる。養父では、若者がより住みやすく収入のある市町村へと流失しているという悩みを抱えている。
★道の駅「但馬楽座」に車中泊。
□五月二十三日(月)◆「白米千枚田」
 国道九号線から国道二十七号線へ、敦賀から国道八号線にはいる。「永平寺駅舎」、「松尾寺駅舎」どちらもすぐに分かった。
 「のと里山海道」は、無料だった。だったら最初から走行するんだった?千枚田はカメラマンが多かった。午後七時まで撮影することが出来た。ポケットパークは、以前よりきれいで大きくなっていた。朝ドラの舞台になったので、観光客が増えたと言うことだった。棚田の夕焼けも撮影できた
★道の駅「千枚田ポケットパーク」に車中泊。
□五月二十四日(火)◆「白米千枚田」、木造駅舎
 早朝、棚田の撮影をしながら千枚田で農家の人とお話、「のろし」と「はぜ」について会話が続いた。棚田の撮影が終了すると、輪島の朝市へと向かった。ランプの宿は、海のそばだった?
 「宇出津の町並」「穴水駅舎」「能登さくら駅舎」「上堀駅舎(かみほり)」を撮影すると、富山市を抜けた。
★ダム公園に車中泊、誰もいないので淋しかった?
□五月二十五日(水)八尾、神岡鉄道廃線跡地、木造駅舎
 朝から八尾の町並みへと向かう。一度訪れたが、今回は徒歩でじっくりと撮影を行った。前から気になっていた、「風まかせ」があった?これで悩み事が一つ解消された。
 高山本線の撮影を行いながら、私は神岡町へと向かった。神岡の町並みも、徒歩で撮影を行った。神岡鉄道廃線跡撮影に夢中になってしまった。「旧奥飛騨温泉口駅舎」は、線路も駅舎も残っていた。「飛騨神岡駅舎」は、鉄筋コンクリートだった。レールマウンテンバイクは、利用している人はいなかった。
 新穂高温泉の無料露天風呂へと向かったが、利用者が多かったので諦めた。松本に向かいながら、松本電鉄「旧新村駅舎」と「新村駅舎」を撮影する。国道一四三号線を走行して、上田市へと向かう。この国道はカーブが多い峠道で、時間がかかった。
★道の駅に車中泊、「みまき」で風呂に入り「雷電くるみの里」に車中泊、涼しかった。
□五月二十六日(木)スキーバス事故現場
 帰路を碓氷峠に選んだのは、「スキーバス事故現場」を撮影するためだった。慰霊碑は建っていなかったが、献花台が設置されていた。群馬県庁に立ち寄って帰宅すると、走行距離は「六千七百㎞走行」だった。

おわりに
棚田の夕陽を撮影するためには、いくつかの条件が揃っていなければ撮影できなかった。
まず、第一条件は「水張り」だ。第二の条件は、「晴れた日の夕方」だ。今回は、日本海の棚田に沈む夕陽を条件とした。「土谷の棚田」と「浜野浦の棚田」は何度か訪れているのでチャンスはあったが、「東後畑の棚田」は訪れることがなかった。今回は一度チャンスを失ってしまったので、再び帰路に二度目のチャンスを設定した。
帰路に「東後畑の棚田」を訪れると、天気が良かった。夕方棚田を訪れると、全ての棚田に水が張ってあった。太陽の光が、棚田の水面に反射してまぶしかった。太陽が沈むと、辺りは赤く焼けた。いつもならこの時点で撮影を終了させるのだが、今回は「漁り火」を棚田の風景の中に取り入れるために動かずにジッと待っていた。午後七時半を過ぎると、日本海に「漁り火」が見えた。私は手振れ防止のために、感度を上げて撮影を行った。夕陽の棚田とはまたひと味違った風景を、私は見ることが出来た。
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