第1話

文字数 4,830文字

 どうにも後味の悪い遭難事故だった。
 大学生の男女四人が晩秋の鈴鹿山脈中部で遭難、警察、消防、地元の消防団員総出で捜索したにもかかわらず、結果的に三人が死亡、生存者は男一人という惨憺たる結果だった。
 われわれは上記のうち〈地元の消防団員〉にあたる。消防

と消防

のちがいはずばり、プロかアマチュアか。火消し(とその他あらゆる救助活動)のみで飯を食っているか、そうでないか。前者はみんなのヒーローであり、後者は田舎の圧力に屈して半強制的に徴兵された奴隷労働力である。
 一応〈準公務員〉という怪しげな肩書きはもられるけれども、その

はだいたい

前後(誤解が生まれないようもう一度くり返す。二万円前後だ。桁はこれで合っている)。それでいて火事が起こればプロと同様火事場に駆けつけねばならず(それも生業をほっぽってだ)、今回のように人手のいる捜索が始まれば問答無用で徴発される。奴隷労働力という形容が大げさでないことを理解してもらえたものと思う。
 われわれ三人の消防団員はいま、捜索失敗反省会の真っ最中だった。晩秋の午後九時すぎ、無機質なコンクリート打ちの車庫で各自がだらしなく固いパイプいすにもたれかかっている。
「いつもの道迷いだと思ったんだがなあ」車庫長の倉本さんがニコチンの混じった毒ガスを吐き出した。「なんであんなところにいたんだろうな、あいつら」
「まるで自分から迷いにいってるような場所でしたね」二つ年下の根岸が、いすに限界までもたれながら頭の後ろで手を組んだ。「本当は自殺サークルだったんじゃないですか」
 倉本さんは無精ひげをしきりに撫でている。「日下部大先生よ、お前はどう思う」
「どうにも不可解な事故だったという感触ですね」
「さすが登山家」車庫長はふざけてそう言うだけで、むろん登山はただの趣味だ。「ご意見を拝聴しましょうかね」
「これを見てください」

「ぼくはどうもこの地形図ってやつが苦手でしてね」根岸が大げさに舌を出してみせた。
「大学生パーティが」二人が肩をすくめたので、言い直す。「大学生の能天気メンバーが発見されたのは神崎川からさらに西、めったに人が立ち入らない鈴鹿深部と呼ばれる山域でした」
「そのなんとか川というやつはどれのことだ」
「ヒロ谷、大瀞、お金出合が縦に並んでるところに川があるでしょう」
「ああ、あの清流ね」毒ガス発生。「山んなかにあんなでっかい川があるとはねえ」
「生き残った城島くんの証言によれば、彼らは隠れたパワースポットだとかでお金明神に詣でるつもりだったようです」
「そのなんとか明神はどこにあるんです。地図に記載がありませんよ」文句を垂れる割に、根岸は地形図を見てすらいなかった。
「お金出合から西へ沢を遡行した先にある。この地図じゃ見切れてるな」
 おっさんがため息をついた。「それで」
「彼らは男二人、女二人の四人連れ。登山経験があったのは生き残った城島くんだけで、あとの三人は日本でいちばん高い山の名前を言えるかどうかも怪しいようなずぶの素人でした」
 再度地図を広げて南端を指さす。
「ルートは南の湯の山温泉からロープウェイで入山し、御在所、国見峠、根の平峠、中峠をえんえん歩き通し、大瀞に下って危険な沢の渡渉を敢行、さらにお金出合から荒れた沢を遡行してお金明神を目指すというものです」
 根岸が大きく伸びをして、首の凝りをほぐした。「耳にタコができるほど聞きましたよ」
「だったらおかしいと気づくはずだぞ」
 やつはやっと地形図を見る気になったようだ。「朝明渓谷ってところから入山したほうが手っ取り早いんじゃないですか」
「その通り。ふつうお金明神に詣でる登山者は例外なくそうする」
 車庫長のおっさんが苦笑した。「そりゃお前みたいな登山家の意見だろ。ロープウェイで楽したいって思ったのかもしれんぞ」
「お金明神というのは主稜線から大きく外れた位置にある、一部の好事家がいくような場所です。それを知ってるほど地理に詳しいはずの城島くんが、朝明渓谷を起点にするのを思いつかないはずがない」
 根岸はじっと地形図を睨んでいる。「まあそうかもしれませんけど」
「最終的に四人はお金明神を見つけられず、西に流れる北谷尻谷へ迷い込んだ」

「地図を出してもらって悪いんですけどね、さっぱりわかりませんよ」
「根岸の言う通り、このあたりはかなり地形が複雑だ。ちゃんと地図読みを習った山屋でもパッと見じゃどうなってるのかよくわからない」
 現場のようすを思い出したのか、倉本さんはぶるりと身体を震わせた。「あんな地の果てみたいなところに素人が置き去りにされちゃ、一巻の終わりだろうな」
「北谷尻谷は人がめったに入らないうえに、両サイドを裏鈴鹿の支脈に挟まれた擂鉢地獄です。経験者でも迷い込んだら最後、脱出は難しい」
 沈黙が下りた。いやな空気が流れる。
「最終的に城島くんは助けを呼んでくるという名目で別行動をとり、奇跡的に朝明渓谷へ降りてこられました。当日の昼飯しか携行してなかった三人は谷をさまよったあげく、沢がどん詰まりになるクラシ北西の出合で発見されました。低体温症で遺体となって」
「で、結局お前はなにが言いたいんだ」倉本さんはもううんざりだとでも言いたげに、乱暴そうにタバコをもみ消した。「城島が連中を殺したとでも言いたいのか」
 わたしは肯定も否定もしなかった。

     *     *     *

――ちょっといいかな。ぼくは城島くんたちの遭難事件で捜索を担当した消防団の者なんだけど。
「消防団の人か。うちの城島が迷惑かけたね、ご苦労さん」
――その城島くんのことで聞きたいことがある。
「いいよ。大学じゃ奇跡の生還者だとかでちょっとした有名人だよあいつ」
――彼は遭難死した三人とどういう関係だったか知ってるかな。
「奴隷だよ奴隷。折戸に目つけられててさ、ほらあいつ身長高いだろ。折戸は奴隷くんを一号から三号まで所有してて、そいつらをパシリにしたり金をせびったり、けっこう好き放題やってたわけさ。大学生にもなってみっともねえ」
――例の登山は城島くん発案だったんだろうか。
「そうらしいよ、詳しくは知らないけどね。たまたま次の休みになにするかって話になったとき、例のパワースポット――神田明神だっけ、忘れたけど――の話を持ち出したらしいね。まあ城島はいつもアッシーくん扱いされてただけなんだけど。折戸は取り巻きの女の子二人の手前、ろくに調べもせずに二つ返事でOKしたんだろうな。格下も格下、人間とすら思っちゃいないやつから『山深い場所にある』とか言われて黙ってられなかったんじゃないかな」
――城島くんの登山経験については。
「又聞きだけど、高校のころ登山部に入ってたらしいよ。そういえばときどき、図書館でじっと曲がりくねった線ばっかの地図を眺めてにやにやしてたのを見たことあるなあ」
――城島くんは折戸くんたちを恨んでたと思うかい。
「奴隷扱いされて人を恨まないやつがいるとは思えないけどね」

     *     *     *

 われわれは次週、再度現場へいってみることにした。
 当日の彼らが辿ったルートを再現するため、わざわざ湯の山温泉から入山した。ロープウェイを使い、国見峠、根の平峠、中峠と北へ縦走していく。すばらしい秋晴れに恵まれ、いく先ざきで登山者とすれちがう。
「確かにこりゃおかしいな」中峠で一服するころには、倉本さんはすっかりバテていた。「いくらなんでも遠すぎるぞ」
「女の子もいたわけでしょ。途中でもう帰るとか駄々をこねなかったんですかね」
「荷物はたぶん、折戸くんが持ってやってたんだろう」中峠から四日市市の向こうに広がる伊勢湾を睥睨する。「それに疲れてると判断力も鈍るからね。あと少しで着くと言われれば、これまでの苦労を無駄にしたくないと思うもんさ」
 中峠から西へ沢沿いに下り、大瀞にいたる。大瀞は神崎川の本流にぶち当たる出合のことで、山中に流れる見事な渓流を鑑賞できるビュースポットだ。飛び石を見つけて対岸へ渡り、荒れ気味の高巻きを北上、ついにお金出合に到達した。
「いまちょうど十時半。ここまで三時間半かかってるぞ」おっさんはザックを下ろしてタバコに火をつけた。「なんつう罰当たりなルートなんだ」
「さっきまで人があんなにいたのに、神崎川に降りてきてから誰にも会いませんね」と根岸青年。
「このあたりは鈴鹿のなかでもマニアックなエリアだからな」柏手を打つ。「倉本さん、のんびりしてる暇はないですよ。いきましょう」
 おっさんはしぶしぶといったようすでタバコをもみ消して、携帯灰皿に突っ込んだ。「へいへい」
 お金出合から支沢に沿って西進し、途中で北に分岐していく道なき道をペナントを頼りに登っていけば、ようやくお金明神である。
「これがそのなんとか明神ですか」青年は不思議そうに目を丸くしている。「岩が積み重なってるだけじゃないですか」
「その通り。なんでもないただの岩塊だよ。当時このあたりに住んでた人びとが、奇岩をめずらしがって信仰の対象にしたらしいね」
「悪いが俺にゃ、こんなもんのどこにありがたみがあるのかさっぱりわからんね」おっさんは再びタバコに火をつけた。毒ガスがあたりに漂う。「三人もこれのせいで死んだわけだろ、胸くそ悪い」
 習慣とはおそろしいもので、それでもわれわれはお賽銭を投げておいた。小さな鳥居と硬貨がばらまかれていたというそれだけの理由で。
 お金明神詣では終わった。最後に分岐路をそのまま登り、お金峠に乗り越してみた。ここをそのまま西へ降りると例の北谷尻谷に出る。たぶん当日の彼らはお金明神にいたる分岐路を見落とし、そのままこの峠に着いたのだろう。そしてわけもわからず北谷尻谷へ降りてしまい、ジリ貧に陥った……。
「帰ろうぜ」おっさんがぽつりとつぶやいた。「どうもこのあたりは寂しすぎていかん」
 わたしたちはぞろぞろと下り始めた。誰も話そうとしない。
 大瀞で遅めにランチを摂り、中峠へ乗り越す。時刻は午後一時すぎ、主稜線に位置する中峠は紅葉を目当てに訪れた登山客でいっぱいだった。
 根岸と倉本さんがタバコ休憩しているのを尻目に、事故当日の城島の行動を反芻してみる。もしかしたら不自然なロングルートは単に城島が無知だったからかもしれない。北谷尻谷へ迷い込んだのも意図しない本当のハプニングだった可能性は十分ある。
 別行動をとったのも折戸に命令されたと考えれば腑に落ちる。彼の誤算は千メートル級といえども夜になれば、氷点下まで気温が下がるという事実を考慮していなかった点だろう。テントはおろかツェルトもない生身の人間が、晩秋の山中で何日も夜をしのぐのは不可能だ。
 どちらにせよ城島はいまいる中峠に命からがら(もしくは計画通りに)着いた。そのとき彼の心中に去来した気持ちはどんなものだったのだろう。
 いまから戻って脱出ルートを三人に知らせることはできたはずだ。だが彼はそうする代わりに自分だけ下山し、消防にも三人の位置はわからないと説明している。当日辿ったルートもあいまいな証言をくり返し、確定させるまでずいぶん時間がかかった。
「おーい日下部、出発するぞ」
 おっさんに手を振って答える。「いまいきます」
 登山者でごった返す中峠を振り返る。誰もが見事な紅葉と文句なしの秋晴れに浮かれ騒いでいる。
 そんななか、わたしには邪悪な笑みを浮かべる場ちがいな城島の姿が、確かに見えた気がした。
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