第1話

文字数 6,438文字

アパトサウルスと陽だまりの花

 ぼくは神奈川県の海辺の町に住んでいた。小学生の時だ。
 ぼくの家の隣には、同い年の女の子の一家が住んでいた。両家の境界には、トキワマンサクの生垣が植えられていた。日当たりは悪くなかったが、土との相性が良くないのか、トキワマンサクは慢性的に元気がなく、葉も枝もまばらで隙間が多かった。その生垣の隙間を行き来して、ぼくは隣の女の子とよく一緒に遊んだ。

 小学五年生になった春に、隣の女の子は一緒に塾に入らないかとぼくを誘った。
「英語やプログラミングは中学に入ってから学び始めても、もう手遅れなんですって。今のうちにスタートして基礎を作っておく必要があるのよ」
 隣の女の子はぼくと同い年だったが、少しおませだった。
 ぼくはあまり塾に興味を持てなかったが、母親に相談した。すると、意外にも母親は乗り気で言った。「あの子と一緒だったら心強いわ。せっかくの話だし、試しに通ってみたら」
 ぼくと隣の女の子は入塾した。塾は国道一号線沿いにあり、ぼくは隣の女の子と一緒に自転車で通った。小さな塾だったが、クラスには同学年の子どもたちが集まって活気があった。
 塾では英語とプログラミングを習った。プログラミングの講師は背筋の伸びた若い男の先生で、プログラムについていつも具体的に説明してくれた。
「プログラミングとは、コンピュータに対する命令であり、命令は一つ一つの手順の組合せになる。」と先生は言った。
「例えば、画面の左下端にいるロボットに、画面真ん中を旗を取らせて画面上の上に七十五マス、右に十三マスにあるゴールまで行かせるには、
ロボットに、一.上に五十マス移動する。
      二.右に十三マス移動する。
      三.旗を取る。
      四.上に二十五マス移動する。
      五.右に四マス移動する。
という、五つの手順を命令すればよい」と教えてくれた。授業は簡潔でわかりやすく、先生は生徒たちに好かれていた。
 先生は、授業のカリキュラムが一通り終わると、残った時間に、よく物語を聞かせてくれた。授業とは関係のない物語ばかりだったが、生徒たちはその物語を楽しみにしていた。
 今では授業の内容はほとんど思い出せないが、先生の物語はどれも覚えている。そんなものなのかもしれない。

 特に子どもたちに人気があったのは、島に住む小さな草食恐竜の物語だった。
主人公の小さな草食恐竜は、アパトサウルスと言われる種で、大人になると象の五十倍の重さほどまでに巨大化するらしかった。けれども、主人公はまだ子どもで、ニワトリ程の重さしかなかった。
 島には他に恐竜はおらず、小さな恐竜は独りぼっちだったが、島のあちこちを冒険した。
 ある日、先生は言った。
「春の、ある満月の晩に、あたりには甘いにおいが漂っていた。海岸にある熱帯植物が一年に一度の実をつけた。」
 ぼくたちは、満月に照らされた島の、熟れた果物の甘ったるい香りを想像した。
 小さな恐竜が実を食べてみると、これまで食べたこともない不思議な味がした。はじめの一口はほろ苦いのだが、後味はねっとりと甘く、いつまでも口の中に残った。

 また別の時には、小さな恐竜は、洞窟に足を踏み入れた。やがて洞窟の出口が見え、外に出た。そこは島の反対側だった。小さな恐竜は、島の反対側に繁茂したヨモギの葉を心ゆくまで食べたのだった。

 授業が終わると、いつも先生は教室のドアの前に立って、子どもたちが教室から出るのを見送ってくれた。
ぼくが「先生、さよなら」と言うと、先生はいつも「さようなら。また来週会いましょう。」と言ってくれた。

 入塾してから一ヶ月ほど立ったある日のことだった。隣の女の子と国道一号線を西に進み、塾に向かっている時に、隣の女の子は自転車を停めて言った。
「ほら、あれ見てよ」
 隣の女の子が指差す方を眺めると、若い女性が運転するパステルカラーの軽自動車が、ぼくらを追い越して行くのが見えた。軽自動車は信号を越えて進むと、塾の少し手前で停車した。
 軽自動車の助手席から、男の人が降りてきた。プログラミングの先生だった。先生はいつもの生真面目な様子と違い、終始にこやかだった。
「あの二人、コイビトよ、いい感じね。」
「どうしてわかるの?」
「鈍感よね。見ればわかるわよ。表情とか動作とか。」
 ぼくはあまり興味をもてなかったが、確かに二人は親密そうだった。隣の女の子が言うことは、的外れではなさそうだった。

 隣の女の子は、先生についての知識を披露した。
「算数クラスの子に聞いたところでは、先生は料亭の御曹司らしいのよ。海辺の図書館の裏にある料亭の。きっとそのうちに跡を継いで若旦那になるのね。あんな老舗料亭の若旦那なんて素敵ね」
「若旦那になるのならば、どうしてわざわざ塾で先生をしているのだろう。」
「武者修行よ。先生は修行をしているのよ。」
「ムシャシュギョウ?」
「人生の修行よ。荒波に耐えられるように、今から己をきたえるのよ、子どもたちなんかを相手にして」
 老舗料亭の若旦那になるために、どんな修行がいるのか見当もつかなかった。

 やがて梅雨が始まった。
 ぼくは窓に粘液をつけて這うナメクジを見ていた。先生は小さな恐竜の物語の続きを話しだした。

 ある雨の夜、唐突に恐竜は目を覚ました。
 まだあたりは暗かった。恐竜は自分でも何かわからない苛立ちを感じていた。見上げると、霧雨の中にぼんやりと月が出ていた。
 恐竜は、何かに背中を押されたように、夜の島を歩き回った。砂浜を歩き回り、丘を登り、海が見える中腹まで来た。
 小さな恐竜は海に向かって、遠吠えをした。長く寂しげな遠吠えだった。これまで感じなかった感情が体の内面から湧き上がるのを感じた。
 小さな恐竜の中で、何かが育ち始めていた。

 霧雨の翌日、小さな恐竜に友達ができた。
 丘に囲まれた小さな盆地があり、その陽だまりに白いユリの花が咲いていた。
「あら」と陽だまりの花は言った。
なんと言ってよいか言葉が見つからず、恐竜は絞り出すように言った。「やあ。」
「あなたは海辺から来たの?」
 恐竜は頷いた。
「わたしは根が生えていて、ここから動けないの。生まれた時からずっとここに住んでいるのよ。」
「ここは良いところみたいだね」
「この谷にはきれいな水が湧いていて、甘い香りの実がたくさんなっている。近くに島もなく、天敵もいないのよ。」
 小さな恐竜は陽だまりの花と友達になった。

 小さな恐竜は、晴れの日には泉に足を浸しながら澄んだ水を飲み、雨が降ると椰子の葉の下で寝て暮らした。
 居心地の良い生活だった。
 夜中に突然目を覚ますこともなくなった。

 梅雨が終わり夏がきた。
 ぼくは近所の林でノコギリクワガタを捕まえた。去年もその前の年もそうしたように、ノコギリクワガタを虫かごに入れて、飼育を始めた。
 隣の女の子はぼくからみてもわかるほどに身長が伸びた。自転車のサイズはいつの間にか隣の女の子の方に追い越されていた。

 ある日、先生に異変が起こった。
 先生はプログラミングの「命令」という言葉を「銘柄」と言い間違えた。ロボットに旗を取らせる手順を説明したが、ロボットは思う通りに動かず、三回もやり直した。クラスで一番優秀な生徒を指名する際に、名前を間違えた。これまでにないことだった。
 それでも一通り授業を終わらせると、一番前の席に座った男子生徒が、小さな恐竜の物語の続きをせがんだ。
 先生はゆっくりとした動作で腕時計を確認した。授業の終了まで、まだ時間が余っていることを確認した。それから先生は話し出した。

 出来事が起こった。島の入江に何かが流れ着いた。
 小さな恐竜が近づいてみると、それは恐竜の死体だった。どこか別の島から流れ着いたのだろう。もしかしたら海でおぼれて死んでしまったのかもしれない。
 小さな恐竜は、流れ着いた恐竜の死体が自分とそっくりであることに気がついた。首や尻尾が長く、足回りは重い体重を支えるために頑丈にできていた。
 小さな恐竜と決定的に違うのはその大きさだった。死んだ恐竜は島にある丘ほどもあった。
 小さな恐竜はその大きさに圧倒された。
 もしかしたら、自分は思っているよりもずっと大きくなるのではないか。この死んでしまった恐竜のように。

 島の中央に小高い山があった。小さな恐竜はその山を登った。
 山の頂上からは、島を取り巻く海が一望できた。海は霧でうっすら霞んでおり、水平線は見えなかった。

 半日の間、小さな恐竜はその山の頂上にいて、寝そべったり、空を眺めたりして時間を潰した。
 頂上に生えた小さな木に、虹色に光る甲虫が集まっていた。翼竜がその甲虫を食べるためにこの島にやってくる。そのことを小さな恐竜は知っていた。
 やがて昼過ぎになって、数羽の翼竜が降下して、木の枝に止まった。
 小さな恐竜は翼竜の一匹に声をかけた。年老いた翼竜だった。
「甲虫はおいしいかい。」
 年老いた翼竜はちらりと小さな恐竜を見たあとで、嘴で甲虫をついばんだ。そして甲虫を丸呑みした。
 五匹の甲虫を胃に収めたあとで、ようやく年老いた翼竜は言った。
「なかなか悪くない味じゃ。それぞれの島にそれぞれの味の甲虫がいる。この島の甲虫は海岸に近いから、磯の風味がするんじゃ。若いもんは嫌がるが、なかなかどうして、美味なものじゃ。」
「聞きたいことがあるんだけど。」
「わしにわかることであれば。」
 年老いた翼竜に、この島の周囲に他の島はあるかと聞いた。

 年老いた翼竜は黙って小さな恐竜をじっと見た。
「この島は良い島じゃ。時折来る嵐の激しさは相当なものじゃが、果物がよく熟す。真水も出る。もちろん、甲虫も山程おる。お前さんのような若者が、よその島のことを知る必要はなかろう。」
 そこで年老いた翼竜は言葉を切った。
「外の世界が知りたいんだ。ここじゃない。外の世界に関心があるんだ。」
 年老いた翼竜は慎重に言葉を選んで言った。
「島はある。すぐ隣にな。わしらは西風に乗れば、ひとっ飛びじゃ。けれんど、お前さんのその体では隣の島に行くのは無理じゃろう。お前さんには羽がない。ヒレが無い。水掻きがない。」
「確かに、泳ぎ向きの体ではないかもしれないけど、自分は泳げると思う。どうやって行ったらいいんだろう。」
「その入江から。」と年老いた翼竜は巨大な恐竜の死体の流れ着いた入江の方を向きながら言った。「出発するのが良いじゃろう。この島からは目視できんじゃろうが、朝一番の太陽の方向に隣の島はある。」
 小さな恐竜は頷いた。
「この島は外洋に面しているんじゃ。入り江を出て半日ほども進むと、突然潮目が変わるはずじゃ。強い横波がくるじゃろう。潮に流されて進路を狂ったら終いじゃ。よく頭に刻むのじゃぞ。」
 年老いた翼竜はじっと小さな恐竜を見つめた。
「よくわかったよ。大丈夫。やってみる価値はある。話を聞かせてくれてありがとう。」
 小さな恐竜は言った。
「なかなかいい顔じゃな。」と年老いた翼竜は笑いながら言った。「されば、お前さんに言葉を一つ与えよう。闇夜の中を飛翔せよ。されば、汝には暗闇の自由が与えられん。」
 小さな恐竜は、よく意味を理解できなかったが、とりあえずお礼を言った。

 陽だまりの花は反対した。
「この島が嫌いになったの?」
 恐竜は首を横に振った。
 陽だまりの花は聞いた。「じゃあ、どうして?」
「希望を感じるんだ。」
「この島じゃダメなの?」
 小さな恐竜は頷いた。
「もっと大きくなれるような気がするんだ。もっと大きな島でどこまでできるか、自分の可能性を試したいんだ」
「よかったら、君も一緒に行かないか」と誘った。
 陽だまりの花は首を横に振った。「わたしはこの島が好き。これ以上のところはないと思うし、探したいとも思わない。ここにいればいいじゃない。」
 陽だまりの花は、涙を流した。「私は行かない。あなたはこの島にいるべきよ。そんな夢みたいなことを言って泳いでいる途中でおぼれてしまうんだわ。」
 そうかもしれない。
 小さな恐竜は陽だまりの花とのこれまでの出来事を思い出して寂しくなった。

 静かな夜だった。
 小さな恐竜は島を歩き回った。盆地を離れるのは久しぶりだった。
 小さな恐竜は丘に登って海を眺めた。
新月の晩で月は見えなかった。
 やがて、雲の隙間からうるさいほど星空が顔をのぞかせた。星達は海に反射し、波が寄せる度に海面で星が砕けた。
 小さな恐竜はぼんやりと海面を眺めていた。
 しばらくすると、小さな恐竜は丘を下った。小川に沿って歩き、木立を抜けると入江に出た。
 恐竜の死体は、まだそこにあった。
巨大な胴と太い脚。長い首。星に照らされて、恐竜の死体は今にも動き出しそうだった。あらためて見てもその大きさは圧倒的だった。

 翌朝、太陽が上り始めてから、小さな恐竜は決行した。
 入江の波打ち際まで来ると、小さな恐竜は海水の中に足を入れた。はじめは前足、次に後ろ足、そして尻尾も。やがて、小さな恐竜の全身が海に浸かった。時折波が顔に打ち付けたが、全く気にならなかった。
 小さな恐竜は海水のなかでゆっくりと手足を動かした。顔を上げて泳ぎ出した。隣の島に向かって、未来に向かって。
 その後、小さな恐竜がどうなったのか、誰も知らない。

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、先生の話はそこで終わった。
 帰り際に、塾の子ども達が話しているのが聞こえた。
小さな恐竜が島を出たのは正しかったのか、それとも島にとどまるべきだったのか。無事に隣の島にたどり着けたのか。

 以前に比べると、隣の女の子と一緒に遊ぶ頻度は減っていた。特に仲違いをしたわけではなかった。隣の女の子は習い事が増えた上に、他の女の子とでかける時間が増えたようだった。以前のように庭に出ても、隣の女の子と顔を合わせることがあまりなくなった。

 夏休みに入って1週間がたった日のことだった。
 塾の授業が終わったので、いつものように先生は教室の入口から送り出してくれた。
 子どもたちが次々と帰っていく。
 ぼくはいつものように「先生、さようなら」というと、先生はふりむいてから「さようなら、また来週。」と言った。
 隣の女の子は聞いた。「先生、この街を出るんですか。」
 先生は驚き戸惑ったようだった。けれど、やがて言った。
「うん。東京に飯田橋というところがあるんだ。そこで友人と商売を始めようと思うんだ。」
「どうして?ここではできないの?」「自分がどこまでできるのか試してみたいんだ。ここでは駄目なんだ。」
「彼女は?」
 先生は動揺した。でも、気を取り直して言った。
「彼女はこの街に残ると言っている。彼女は全て今のままがいいんだ。」
 先生と別れた後で、隣の女の子が言った。
「残念ね。わたしはあの二人を応援していたのに」
 
 夕方、ぼくが家にかえると、飼っていたノコギリクワガタが死んでいた。新しい餌をあげようとして気づいた。
 ぼくは虫かごを抱えて庭先に出た。
 きっとぼくの様子がおかしかったのだろう。隣の女の子が庭から声をかけてきた。
「何かあったの」
「いや、なんでもないよ。ノコギリクワガタが死んだんだ。」
 ぼくは泣き出した。
 隣の女の子は驚いたようだった。
「ちょっと待ってて、そっちに行くから」
 隣の女の子は家の門を通って庭に回り込んできた。
 隣の女の子は身長が伸びるにつれて、生垣の隙間を通るのが窮屈になり、くぐり抜けるのをやめていた。

「これまでも飼っていたじゃない。また採ればいいし。」
 ぼくは首を横に振った。
 涙は止まらなかった。
 隣の女の子はぼくの横まで来ると、そっと手を握ってくれた。
 隣の女の子の手はやわらかくて大きくて、少しひんやりしていた。

 やがてぼくが泣き終わったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。
 見上げると星が一つだけ光っていた。星はぼくの手が届かない、はるか遠く暗い宇宙に浮かんでいた。(終)
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