第1話

文字数 3,416文字

3年ぶりの湖畔は冬が深まるごとに静けさを増している。外国人観光客が大挙押し掛けた時期が、たちの悪い冗談だったように、静まり、水鳥が浮かぶ湖面に峠から降りた寒風が吹きすさむ。なぜかこの岸辺に訪れるのは冬ばかり。新型感染症の影響で世の中の仕組み、個々人の距離感や間柄は激変したが、相変わら勝気な成美と冬の湖畔にいると、変化が腑に落ちない。待ち合わせした、湖畔のカフェは木こりが暇つぶしで拵えたような建物が薄い水面から突き出た幾本もの柱に乗っかっている。床下を季節風が調子づいて抜けているのだろう。足元から吸い上げられた冷気が背骨や項にまとわりつく。そんな寒さすら味方に取りこみ、成美はホットジンジャーの白い暖気を舞い上がらせていた。
「そういえば、3年前、ここに来たんだ」
「13年前でしょ、他の女と勘違いしてない?」
「女性ではないが成美でもない、前の会社の同僚、アメフトだか学生相撲だかやっていた若手営業マンと来て、それを飲んだ」
「男2人で飲んだの?」
「ラザニアだかドリアも喰った、そして感じのいい店員さんにラザニアとドリアの違いについて教えてもらった」
「どう違うの?」
世界が滅びに向かっているというのに、愚問で世間の感じよさを簒奪するのではない、と言いたげな表情。彼女の左目じりが不自然につりあがり、小刻みに震えている。
「その子って、面長だった?」
「いや、たぶん丸顔」
「だったらミノルちゃんね」
「いや、女子だよ」
「ミノルちゃんは女子、会いたければ麓の神社で巫女さんをやっているわ、彼女は宮司さんの一人娘なの」
3年前、一緒に来店したアメフト男子は彼女のことが気に入ったらしく、顔を会わせる度にあれこれ尋ねてきた。
「たしかにミノルちゃんかわいいからな」
「成美だってかわいいじゃないか」
大した意図もなく口にしたが、思いがけず成美が赤面する。耳の外輪まで駆け抜けた女子っぽさが放電するよう耳毛がそばだつ。が、その表情になにかしらの思惑を差しはさむ刹那すらなく憤怒へと変遷し、とりあえず勘定を払うことでその場をしのいだ。

国を挙げて世界自然遺産への登録を試みたほど豊満な樹林のど真ん中、成美の青い国産セダンはエグゾーストノートを響かせ爆走する。自分の白いハイブリットカーはウスバカゲロウの羽音のような音で寒気に乾燥したアスファルトをグリップし追いすがった。真っ直線の県道、アクセルを踏み込んで初めて出くわす信号機の手前で減速し、道すがらの駐車場へと侵入した。どんよりした空の下、現れた成美は国産セダンと同じオフホワイトを混ぜた青色のコートを着込んでいた。冷気に瞼をパチパチさせ、吐く息を眉毛に結露させている。苔むした石灯篭と整然と屹立する巨木の列、それら古めかしく荘厳な参道を歩く。歩きながら、成美は先ほどのドリアについての話を蒸し返した。
「ネットには日本が発祥とかいてあったわ、ナポリタンといっしょでニューグランドのコックさんが考えたそうよ」
「トルコアイスもトルコライスもトルコに、ナポリタンスパゲティーなるものもイタリアには無い、それと同じってことか」
「それはちょっとちがわない?」
とにかく、3年前、自分が腑に落とした説明をミノルという娘に訊きに行こうとなった。会えば解決するというのに、なぜ参道でモメなければならないのだろう。
「白黒つけたいのよ」
「なんだよそれ、説明を施してもらうのに、白も黒もないだろ」
「そうじゃなくて、わかんないかな、腑に落としたいのよ」
「彼女、ミノルちゃんが語れば納得するのか」
「納得、ではなく腹落ちするの、それには内容の正誤なんか関係ない、3年前にあなたが納得した理由が彼女の口から語られるだけでいいわ」
気温の低さと乾燥によって引き出された人のぬくもりが、白い焔のようにただよう参道。会話から視線を戻すと眼前には巨大な鳥居が聳える。見上げるには近づきすぎ、鋭い角度で見上げる。かたわらの成美、背中から吹く風が緩んだ口元に髪先を絡ませる。
「3年前にシンガポールからやってきた家族連れに、これをバックに写真を撮ってあげた」
その頃はまだインバウンドという言葉が普及すらしていなかった。多少の外国人観光客はいたものの稀であり、その家族も閑散とした参道で浮いていた。
「当時はこんな山の中に何をしに来たのか理解できなった、山があって、自殺で有名な深い森と湖があるくらいなのに」
「なにもないことがいいんでしょうね、神秘的で、トロピカルなお国だと、乾燥した冷気が漂っている、それだけで新鮮なのよ、きっと」
「後はあれだな」と山の頂を指そうとしたが、木々に遮られた空はこぢんまりしすぎていた。
「あれってなによ」
「ああ、山頂、の雪」
「ああ、雪ね」
とはいえ、今年の山頂は12月も半ばだというのに着雪がないらしい。
「こういう風になる度に富士山噴火説、とかいいはじめる人がいるのよね」
「今年はそれどころではないだろ」
黒光りするほど深い紅の太い柱が、深い樹木の切れ間へと伸びている。鳥居の奥には門があった。仏教建築の山門と違い、両脇の建物には仁王ではなく、弓矢を持った武人の人形が鎮座していた。ひな飾りの3段目くらいにいる老人と若者のコンビに似ていると成美がコメントした。女兄弟がいなかった自分には理解できず、どうでもよかったが、成美は画像を検索し示す。門の内側は真ん中に神楽やらを奉納するための木造ステージがあり、奥には拝殿があり、その両脇には巨杉が屹立していた。手順通りに礼拝をし、こんな時ばかりなんなのだが…と願い事を想った。冬の午前は静かで、手を合わせていると、涼やかな心持になる。想うことで願い事の邪さがほどけ、願い事自体が消失することで叶うという成就もあるものだと感じた。

ミノルちゃんはあの時イタリア料理の違いを教えてくれたことを覚えていた。本人が知れば泣き出しそうなのだが、アメフト後輩のことも覚えていた。
「あの門は神門というの、門の中に仁王様みたいなのがいらっしゃるのは随身といって天皇や公卿など貴人に随行した警護の武人です、左手にいらっしゃるのが…」説明は分かりやすく丁寧で続きを聞きたくなる雰囲気があった。3年前ショートカットだったミノルちゃんは、伸びた髪を紙で作られた筒状の飾り物で恭しく束ねていた。髪筋の乱れが儀式の遂行の障害になるかのごとく固定され、前髪に縁どられた表情が以前より面長にみえた。成美の視線を感じ、ミノルちゃんを見つめていることに気づく。あわてて冠雪の話をすると、穏やかではない話になった。
「あの山の地下には1200℃のマグマが溜まっているそうです、そのマグマが上昇して山頂まで熱が伝わっている可能性もゼロではないです、前回噴火は300年前ですが、地殻の経時感からいうと、300年なんて一瞬で、山もいまだに活火山として定義されています」
冠雪が遅れると同じようなことが取り沙汰されるが、今年は事情が違うらしい。
「なにせ、ここ1年以上だれも登っていませんから」
さすがに監視カメラや異常検知システムくらいあるだろう。ただし「誰も肉眼で見ていない」。彼女の冬空を吸い込んだように青味がかる白目と、コアの部分の黒さに引き込まれるように、スーパーナチュラルな雰囲気がカオティックに染みてくる。乾いた冷気が肺胞のウエットな内壁に吸い付くように。
「まあ何が起こっても不思議じゃないわね、こんな世の中になってしまったし」
有史以来、最大人数規模による個人間の隔絶が始まってしまった世界の事情についてコメントし、成美は杜の中から雪のない山頂を思い描いている。

いろいろあった。制約が多かったせいもあって”結局どうしたいねん?”という自問に曝され続けた1年だった気がする。人間同士の隔たりがあろうがなかろうが、閉塞感は日々生まれるものだ。結局、やれることをよりスピーティーに、より効率的に回したり、また、期待されていることを喰い気味にやったところで悶々とした日々は終わらないと改めて思い知った。明日はどうなるかわからないのだから”明日やれることをやっている暇はねえな”と太く生きていくしかないのだろう。こんな世の中なのに再び顔を会わせた女友達と、髪が伸びた感じのいい巫女さんと、冬なのに山の頂の雪が見れない杜の中で、白い息を吐きながら語らう。災禍が不可逆な必然だとしても、まだ、そんな時間がこの世に残されていることに感謝すべきだろう。
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