第1話

文字数 2,591文字

 少なくともぼくの仲間たちは喜んでいた。
 明日から学校が休みになり、もう学校に来なくていいンだ。こんなにうれしいことは、この世にないもン。春休みまではまだ三週間もある。それなのに「明日から春休みになる」とセンセが言ったンだ。男子の一人が手をあげて質問した。
「センセ、休みはいつまでですか」
「センセにもわかりません」
 なんでも知っているはずのセンセが、「わからない」と言うのを、これまでぼくは見たことがない。そのあと、センセは突然泣き出し、泣きながら言った。
「今日で小学四年生は終わりです。五年生になるとクラス替えが行われますので、このメンバーがここに集まるのは今日が最後です」
 ぼくは知らないことがあって、そのショックで泣き出したとばかり思っていたが、それは間違いだった。春休みになるということは、今日でこの学年は終わりということなンだ。えっ、教科書も全部終わってないのに。えっ、お別れ会もやってないのに。えっ、ひな祭りの日に給食に出るひし形三食ゼリーを食べてないのに。えっ、えっ。波留亜に好きだって、まだ言ってないのに。
 学校の予定って、こんなに簡単に変わってしまうのか。いつも、ルールを守れ。ルールは大切だと言っている学校が、突然、予定を変えたンだ。ぼくの心の中は驚きと戸惑いの気持ちでいっぱいになったが、それはほんの一瞬のことで、そのあとすぐ、うれしい気持ちがこみ上げてきて、全身に広がっていった。明日からは休みだ! 休み、休み!
 センセの話が終わると、帰りの歌の時間になった。ぼくはいつものように歌っているフリをした。口パクでみんなに合わせていると、気になることがあった。「さよなら、あしたの朝まで」という歌詞だ。ぼくたちは、明日はもう学校に来ないンだ。金曜日にもいつもおかしいと思っていた。だからそこだけは、声を出して「ゲツヨウの朝まで」と金曜だけは歌っていた。今日は黙っていた。「学校が始まる日の朝まで」という歌詞が浮かんだが、「あした」のところに「学校が始まる日」という歌詞はうまく収まらなかった。
 歌が終わると、日直のかけ声に合わせて、「センセ、さようなら。みなさん、さようなら」とみんなで言って、ぼくの小学四年生時代は終わった。前を見ると、センセは眼鏡をとって目をハンカチで覆っていた。いつも怒ってばかりいたセンセが今日は怒っていない。泣いてばかりいる。センセは、ホントはやさしい人なのか。泣き虫なのか。それを隠すために怒っていただけなのか。センセが一体どんな人なのか。二年間もいっしょにいたのに、ぼくはセンセのことを何も知らないンだ。
 教室では女子たちがみんな抱き合って涙を流していた。あまり仲が良くなかったはずの子たちも今日はなぜかいっしょに泣いている。「また会おうね」「元気でね」「今度、学校が始まったらいっしょに遊ぼうね」などと言いながら。それならいつも仲よくしていればよかったじゃないか。どうして今日だけみんな仲良しなンだ。これまで仲よくする時間はいっぱいあったンだから。
 男子はみんな、我先にと教室を出た。センセのことを振り返ることもなく。慣れ親しんだ教室に未練もなく。学校なんてそんなモンだよ。「明日からなにして遊ぶ」。廊下を小走りで進むと、あちこちから聞こえてきた。みんなの頭の中はもう明日になっていた。ゲーム、DVD、マンガ……。それより公園で思いっきり遊びたい。やることはいっぱいある。時間もたくさんある。
 学年が変わる春休みは宿題がないはずだが、今回はたくさんの宿題が出された。なンでだよ。約束がちがうよ。でも、学校はいつ始まるかわからない。もしかしたら、このままずっと学校は休みになるかもしれない。だからすぐにやる必要はない。学校が再開される日がわかったらやればいいンだ。
 ぼくはしっかり読んでおいた。センセがくれたプリントには、まずは自分の力で解いて、解き終わったら答えを見ながらマルつけをしましょうと、そう書かれていた。宿題には答えがついているンだ。
 答えがあるなら、アレが使える。問題なんて解かない。答えを写すだけでいいンだ。先生に怪しまれないように、三問、正しい答えを写したら、そのあとの一問はあえて間違える。二問、正しい答えを写したら、そのあとの二問を間違える。四問続けて正しい答えを書いたら、二問は間違える。ア、イ、ウ、エの記号で答える時はマルにする。二十字以内で答えよ、というような文章で答えなければならない問題は空欄のままバツにして、赤ペンでしっかり答えを写す。そんな問題は、ぼくはテストではどうせ答えられないンだから。答えを写しただけということがバレないように、うまくマルとバツのバランスをとって答案を完成させる。これが必殺バランス解答法だ。だれにも教えないよ。コレだけは。うん。
 そんなことを考えていると、ウチに着いた。身体はうっすら汗をかいていた。三月になったばかりで、まだ風は冷たかったが、いつもなら一週間かけて、少しずつ持ち帰る画用紙や絵の具や笛、お掃除グッズ、上履き、シューズなど、ふだん学校に置いておくものをたった一日で持ち帰ることになってしまったので、それはもう、引っ越しをしているようで身体のあちこちが痛くなった。そうでなくても毎日、たくさんの教科書とノート、筆箱がぎゅうぎゅうに詰まったランドセルを背負い、ジャージ、水筒まで持たされるンだから、たまったもンじゃない。人権侵害だよ。
 ぼくは玄関に入ると、持ち物のすべてをそこに放り投げた。何かがカシャンと音を立てた。その荷物の山を見て、ふと心配になった。
「一年生たちは、こんなにたくさん、持ち帰れたンだろうか」
 ウチが近い人がいたら、ぼくが少し持ってあげればよかったと思って外を見たが、だれの姿もなかった。
 お母さんがやって来た。仕事のはずなのにどうしてウチにいるンだよ。
「なにコレ。まずはお片づけをしなさい」
 ぼくは無視してその横を通り過ぎようとしたが、腕を強くつかまれた。
「大変だよ。新型コロナウイルスが日本にも入ってきたんだよ。学校が休みになるのは、それに罹らないようにするためなんだから」
「ふーん」
 大変な危機が迫っていることを知ると、いま帰って来たばかりだというのに学校に行きたくなった。友だちに、波留亜に、センセに、ぼくは無性に会いたくなった。
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