第7話

文字数 2,981文字

「本日から仕事復帰します。一日でも早く仕事の勘を取り戻してバリバリ働こうと思いますので、よろしくお願いします」
 しばらく空席になっていた隣のデスクに、今日から遠藤さんが戻ってきた。育休中も何度か手続きのために会社に来ていたが、今日から本格復帰することになった。
「というわけで、またよろしくお願いします」
「いえいえこちらこそ、よかったですね、保育園見つかって」
「ほんとだよ、まじでいい加減にしてほしいよね、まあシングルマザーだしその点はましだったかもしれないけど」
 遠藤さんが産休、育休に入っていた間に、会社でもいくつか変化があった。クライアントの数が増え、大手の新案件も獲得した。社員が増えてオフィスも引っ越した。遠藤さんが座っているデスクには数カ月前まで別の社員が座っていたが、彼女は退職した。激務から体調を崩してしまったからだ。彼女を激務に追い込んだのは私だった。私が体調を崩して一カ月入院してしまったからだ。幸い再手術の必要はなかったが、その間の仕事をすべて押し付けてしまった彼女には本当に申し訳なかった。それでも忙しい時間を縫って見舞いにも来てくれるような人だったので、引き止めることなどはできず、ただゆっくり休んでほしいと思った。
「で、うちのチームが担当してるクライアントなんですけど」
 現在の状況をまとめた資料を共有する。
「え? 神野さんのとこってこんなにでかくなってんの? 楠さんのとこから独立したってのは聞いてたけど、これうちでも一番大きいお客さんじゃないの?」
 遠藤さんが驚くのも当然で、楠さんの会社から独立した神野さんの組織は千人以上を集客するイベントを開催するほど大きくなっていた。一方で楠さんの会社も企業の多様性をコンサルティングすることで引き続き成長を続けていた。その二企業からのイベントは私のチームが担当している。
「でもさ、楠さんと神野さんって犬猿の仲なんでしょ? 別のチームが受け持った方がいいのにね」
「片方を別のチームに譲ると私たちがもう片方を優先したってクライアント側が受け取りかねない、って営業部長が反対してるんですよ、そんなこと気にする人たちじゃないと思いますけどね、神野さんも楠さんも」
 楠さんは以前からたまにテレビで見かけることがあったが、元女性であることをとある番組でカミングアウトしてからはさらに人気が出て、朝のワイドショーではレギュラー出演しているくらいだ。それに伴って講演や主催イベントの数も増え、私たちが関わる機会も多くなった。楠さんと神野さんは当初同じ会社で女性の地位向上を目指す同志だったのだけど、徐々に方向性がずれてきた。楠さんは女性の地位向上全般を推進しており、その中で子育てをする女性のサポートも手厚くするべきという主張だったが、神野さんが子供を持つこと自体を否定するため、講演を行っても整合性がとれなくなった。結局は神野さんが独立して自分の組織を作ることになり、それ以来二人は犬猿の仲になった。
「それで早速なんですけど、今日神野さんと打ち合わせがあるんで遠藤さんも復帰の挨拶がてら一緒に来てもらっていいですか?」
「うん、いいよもちろん、何時から?」
「一時半です。神野さんのとこ、ここから近いんでランチ食べてそのまま行きましょう」
 ランチをとるため行きつけのイタリアンレストランへ歩いていると、神社の大きな鳥居が近づいてきた。ビジネス街の真ん中に鎮座するこの神社には珍しくエスカレーターがついている。
「そういえば、前もここ近道して通ったら神野さんに会ったよね」
「ああ、あれ偶然でしたね。ひょっとしてあの頃から独立考えて場所探しでもしてたんでしょうかね」
 エスカレーターを上がって境内に入ると平日にもかかわらずそれなりに参拝客がいた。拝殿の方よりも横にある猿の像に行列ができていて、その猿の像の腕には赤ん坊が抱えられている。私たちは境内を横切ると反対側の階段を下って目的地のレストランに到着した。
 パスタを食べているとスマホが鳴った。楠さんだった。どうしても変更できない予定が入ってしまったので、明日の打ち合わせを今からにリスケできないかという相談だった。電話を切って遠藤さんに伝えると「私はどっちでもいいよ」とのことだったので、私が楠さんのところへ向かうことにした。
 数時間後、オフィスに戻ると既に遠藤さんが打ち合わせから戻っていた。麩菓子を食べながら私に目をやる。
「神野さんの方どうでした?」
 バリバリバリと一気に食べ終え水を飲んでから、音声なしで口を動かした。その動きは「やばい」と言っているようだった。
「やばかったですか、ていうかちゃんと声出してください」
もう一口水を飲んだ。
「いや、ほんと話には聞いてたけどあれ、神野さんは何? 名前通り神様にでもなっちゃったの? なんで打ち合わせに行くだけであんなぞろぞろ人が出てきてんの? なにあの取り巻き達」
「私はもう、わりと慣れちゃったんですけど、最初は普通に神野さんだけだったんですよ。打ち合わせに出てくるの。でも徐々に人が増えてきて、セキュリティチェックみたいなのもされるようになって、いくつかあった同じフロアの企業が居なくなったと思ったらワンフロアまるごと借り切っちゃって、今に至る、って感じですね」
「そうなんだ……、なんか遠いところに行っちゃったなって感じするね……。でも、大口のお客様だし神野さん自体は変わらずいい人だったから、まあ、いいんだけどさ」
 神野さんの組織は大都市圏を中心に数千人の会員がいるらしく、そのほとんどが女性だという。ただ男性会員もいないことはないようだ。共有している理念が同じであれば性別は関係ないということだった。その理念に基づいて街頭演説をしたり、大規模なイベントを開いたりしている。最近では親に育児放棄された子供や、親のいない子供たちを支援するチャリティも活発で、テレビに取り上げられているのも目にする。
「そういえば、打ち合わせの時に居た人、前ここで働いてたって言ってて、吉崎の部下だったって。桑沢さんって女の人。その人がこれから窓口になるってさ」
「え?」
 桑沢さんというのは、遠藤さんの休暇中に一緒に働いていた子だ。体調を崩して辞めたけど、しばらくは主婦業に専念しながら療養すると言っていた。神野さんとはもちろん面識があったけど、引き抜かれるほど仲が良かったとは知らなかった。
「そうなんですね、まあうちのやり方も知ってるしスムーズかもしれないです。ちょっと驚きましたけど」
「吉崎に会いたがってたよ、来週の打ち合わせで相談したいことがあるってさ」
「わかりました。んじゃ来週は私が行きますね」
「よろしくー。あ、ごめんそろそろお迎えだから帰らせてもらうね、お疲れさまでした!」
 バタバタと出て行った遠藤さんのデスクには、イベントの企画書が置かれていた。内容を見るとこれまでよりもさらに大規模になりそうだった。
 数時間の残業の後、帰宅して風呂を済ませ、テレビを見ながらビールを飲んでいるとニュースのとあるコーナーに楠さんが出演していた。パートナーの女性とソファに座り、子供を膝に抱いている。数年前、精子バンクから提供された精子で奥さんが生んだ子供だそうだ。楠さんと奥さん、息子さん、幸せそうな家庭の姿が映し出されていた。
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