たった一つの嘘

文字数 5,000文字

「……もしかして宮川か?」
 害虫や汚染された小動物たちが蔓延り、吐しゃ物を目にすることも珍しくない路地裏に彼女はいた。排気された空気によって汚れた建物の外壁に背中を預け、両脚は地面の上で力なく伸びている。衛生環境が良好と言える状態とは程遠いことから、意識的にそうしているのではないことはわかった。
 初めはまた酔っ払いが寝ているのかと思った。この界隈では酔いつぶれた人間と出くわす機会など小石のようにいくらでも転がっている。
 こうした人間は運が良ければ生き延び、運が悪ければ死ぬだけだ。何も不思議なことはないし、世界中のどこにおいても同じことが言える。この場所では少し顕著になるだけのこと。
 だからこそ僕は意識があるのかもわからないソレを無視して先を急ぐつもりでいた。急用というほどではないが、見知らぬ他人に世話を焼くよりは大事な仕事があったのだ。
 だが、僕は足を止めてソレに声を掛けていた。通り過ぎ際、何げなく覗き込んだ顔にどこか見覚えがあるような気がしたのである。
 僕が遠い記憶の中にあった名前を口にすると、彼女はおもむろに顔を上げて僕を見た。
「……武本くん?」

    ■

 僕が小学校の六年生だった頃、クラスに一人の女の子が転校してきた。先生に連れられて教室に現れた姿は印象に残っている。
 彼女は先生に促されると、騒ぎ立てるクラスメイトたちとは対照的に「宮川さおりです」と、二度に渡って自己紹介をした。どうして二度も名乗る必要があったのかというと、彼女の声が小さかったせいもあり、一度目は自己紹介をしていることにほとんどの生徒が気付かなかったからだ。僕だって席が前の方じゃなきゃ気付かなかったかもしれない。

 突然の転校生の登場に小学生が浮かれないはずもなく、暫くの間クラスの話題は宮川のことで持ちきりだった。宮川が整った顔の造りをしていたこともあり、特に男子たちは彼女を意識せざるを得なかった。
 そんな中で僕は少し冷めていたと思う。それは宮川に対する興味がなかったとかじゃなく、僕は席が前の方だった分、自己紹介をする彼女の顔を他の生徒よりも近くで見ていたから。
 僕は、おそらくは本人の意思に反する熱狂の中心に置かれる身となってしまった彼女のことを不憫に感じていた。
 けれどそれも最初の頃だけで、日が経ち、宮川さおりという人間の人となりが明らかとなるにつれて状況は変わっていった。原因の多くは彼女の『嘘つき』と称されるような言動にあった。

 転校初日。きっとほとんどの転校生がそうであるように、宮川はクラスメイト達から質問攻めにあっていた。僕はその輪の中にいたわけではないけれど、聞き耳を立てていたのである程度の内容は把握している。
 中でも印象に残っているのが、「どこから引っ越してきたの?」というありふれた質問に対する宮川の返答だ。
「とても遠いところ」
 と彼女は言った。静かな声色が相手に対する無関心からきていることに、そのときの僕は気付いていなかった。
「遠いってどのくらい? もしかして海外とか?」
「もっと、ずっと遠く。月よりも、太陽よりも、もっと、ずっとずっと遠く」
 そう言うと宮川は遠くの星でも眺めるように窓の外へと顔を向けていた。
 周りの反応は良好だった。彼女の周りは笑いに包まれ、笑っていないのは中心にいる彼女だけだった。
 たぶん、僕が同じ言動をしていたら冷めた反応しかなかっただろう。あのときはみんな、宮川を転校生というフィルターを通して見ていたから、彼女の発言を冗談として温かく受け入れたのだ。
 だけど、あんな突拍子もない発言がいつまでも続くようであれば、みんなの心が冷めていくのは必然だった。そんなことは成績の悪い僕にだってわかったのに、宮川は態度を改めはしなかった。

 みんなの宮川を見る目が冷めた決定的な出来事がある。
 あれは、彼女が宿題をやってこなかった理由を先生から問い質されていたときのことだ。
 算数のドリルが手元にない理由を「持ってくるのを忘れた」と、ありきたりな言い訳でもしていれば、あそこまで角が立つことはなかったかもしれない。先生には嘘を疑われてしまうだろうが、嘘であることを証明する手立てがない以上、しつこく追求されることはなかったと思う。そういう先生だったし、そういう先生であることをクラスのみんなは知っていた。
 宮川は転校生だからそこまでの理解がなかったとは考えられる。だけどあのときの彼女の言動は、そうした事情があったにしても到底受け入れられるようなものではなかった。
「宿題はやりましたが、鞄にしまう際に誤って燃やしてしまいました」
 と、彼女は冗談とも取れない口調で言ったのである。
 そして、あそこで止めておけば、まだ救いようはあったかもしれない。
「どうしてそんなことになるの?」
 このときはまだ、先生は冷静さを保っていたように思う。
「私の手からエネルギーが熱に変換されて放出されたからです。私はまだコントロールが下手なせいで過剰に熱を発してしまい、それで……」
「わかりました。もういいです」
 冗談と受け取るには面白みのない嘘が続くと、先生はもう宮川を見ることなく授業を再開した。
 あれ以来、宮川に対する嘘つきというレッテルがクラスに浸透していき、しまいには『嘘川』という渾名が彼女に定着した。

「なあ。どうしていつも嘘ばかりついているんだ?」
 もう誰も進んで宮川に話し掛けることのなくなった頃、僕は彼女に尋ねたことがある。
 あれは地域によって呼び方の異なる、警察と泥棒のグループに分かれて遊ぶ一種の鬼ごっこをしていたときのことだ。僕のクラスでは二週間に一度、昼休みにクラスの全員で一つの遊びをする決まりがあったので、僕と宮川も必然的に参加していた。
 泥棒のグループに割り振られた僕は警察から身を隠すために体育館裏の物陰に駆け込んだ。するとそこに先客として身を潜めていた宮川がいたのである。
 レクリエーションを楽しむ様子をまるで感じさせない宮川は、膝を抱えるように座り、時間が過ぎるのをただただ待っているようだった。
 僕は他の場所に移ることもできたけれど、宮川の同意を得て彼女の隣に座った。なぜそうしたのかは自分でも不思議だった。もしかすると僕は彼女の境遇にシンパシーを覚えていたのかもしれない。
 そうして僕は警察の目が届かないまま時間を過ごす中で、沈黙を破るように尋ねたのだった。
「嘘?」
 宮川は小首を傾げ、僕の顔を見た。
「いつもついてるだろ。宿題を忘れたときなんか……なんであんなこと言ったんだよ。孤立するだけじゃん」
「孤立することがなんだって言うの? どうせこの世界に私の居場所なんてないのに」
 また変なことを言い出したと思った。だけど、突拍子もない発言をしているくせに、やけに大人びた雰囲気を漂わせていて、僕は何も言い返せなかった。
「それに私、嘘なんてついてない」
「いや、さすがにそれは無理があるだろ」
 僕は宮川の冗談で初めて笑った。僕が笑うと宮川は少し驚いたようだったけれど、何かを言ってくることはなかった。
「宮川の親ってどうしてるの?」
 少しして、僕は尋ねた。唐突な質問のようだったけれど、以前から気になっていたことだった。それがあのタイミングでなら訊けると思った。
「いない」
 と端的に、宮川は躊躇うことなく答えた。
「どうして?」
「二人とも昔に死んでしまったから」
「ふーん」
 やっぱり、と僕は思った。予想通りだったから驚くこともなかった。
 驚いたと言うなら宮川の方こそ僕の反応の薄さに驚きを覚えたようだった。と言っても、いつも無表情でいる彼女の顔に少しだけ変化が現れた程度だけれど。
「どうしてそんなことを訊いたの?」
 宮川は僕の目を見て尋ねた。
「僕もそうだから。宮川も同じような気がしてた」
 僕が答えると宮川は目を見開いた。そして、次第に治まっていく驚きと入れ替わるように、彼女はうっすらと笑みを浮かべたのだった。
 後にも先にも、僕が彼女の笑ったところを見たのはこのときだけである。
「私、武本くんのことが好きかもしれない」
 他の女子に同じセリフを言われたら僕の鼓動は速まっていたと思う。だけど、嘘つきのレッテルを貼られるような相手の言葉では、そのような変化をもたらす効果に乏しかった。
「だ、だからッ、そうやって揶揄うのをやめろって!」
 僕は声を荒げて立ち上がっていた。ほとんど反射的な行動だった。子供ながらに侮辱されたと感じたのだと、今では思う。
 僕は睨み付けるように宮川を見下ろした。だけどその後に続く言葉がなく、宮川の方も僕を見つめたまま何も言わなかったことから、僕は場の空気に耐えきれなくなり、逃げるように立ち去った。
 僕がもっと大人だったら違った対応ができたのかもしれないが、あの頃の僕はどうしようもなく子供だった。

    ■

 僕は古臭いアパートのベランダで煙草を吹かす。
 あの日の昼休み以降、今日になるまで僕が宮川と口を利くことは一度もなかった。
 僕が宮川に対して声を荒げてしまったあの日を最後に宮川は学校からいなくなってしまったのである。
 先生は転校して行ったのだと言った。
 クラスメイトの反応は薄かった。クラスにおける宮川の立場を思えば当然だろう。
 僕も大きな反応を見せはしなかった。宮川は元々転校生だったから、そういうこともあるのだろうと軽く受け止めようとした。宮川があの日、立ち去った僕のことをどう思っていたのかはわからないけれど、僕は恣意的に解釈することで何かから救われようとしていたのだ。
 あれ以来、僕は心の奥底で小さな罪悪感を抱え、そしてその罪の意識を忘れながら今日まで生きてきた。

「! 宮川!」
 僕はバスルームから出て来た宮川に気付くと、急いで煙草も揉み消して室内に戻った。
 何かを期待していたつもりはない。ただ、シャワーを浴びた彼女が汚れたままの服を着直していたことに少なからず落胆を覚えたのは事実だ。
「僕の服で良ければ貸したのに……」
 明らかな提案の遅れを理解していながらも言うと、僕は宮川の全身を見遣った。
 彼女は汚れたままの服を着てはいるものの、シャワーを浴びた分、身体の方は綺麗になっているようだった。この状態が充分だとは思えないが、路地裏で見つけた頃よりはだいぶマシになっただろう。
 と、そんなことを思っていると、宮川は早い足取りで僕に近づいて来た。下心を見せていたつもりはなかったけれど、怒らせてしまったのかもしれない。
「隠れていて」
 僕の予想に反し、宮川は怒りを感じさせない口調で言うと、僕を背中から押し込むように近くのクローゼットの中へと入れた。戸惑いがあったのもあるが、宮川の手際の良さに僕は抵抗することもできず、されるがまま押し込まれるしかなかった。
「宮──」
 僕が彼女の名前を呼びきるよりも早く、彼女はクローゼットの扉を閉めた。そして、続けざまに彼女は言葉を発する。
「巻き込んでしまってごめんなさい。でも、あなたに危害を加えさせはしないから。……少しの間、ここで大人しくしていて」
 そんなことを彼女は言った。伝わってくる振動から、彼女がクローゼットの扉に密着するほど近くにいることがわかった。
「それともう一つ。私はあなたの知る宮川という女性ではないから」
 そう言うと彼女が扉から離れて行くのがわかった。
「だから……。私のことは忘れて」
 次の瞬間、平穏な暮らしを送っている人間にはおよそ聞くことのないような大音声、そして見知らぬ人間、おそらくは複数人の声が聞こえてきた。明らかに何かを争っているようだった。
「宮川ッ‼」
 僕は言いつけを破り、急いでクローゼットの外に出た。彼女を守らなければならないという心理が瞬間的に働いたのだ。
 だけど、それでも僕の行動は遅かったようで、僕が外に出たときには、何か大きな熱エネルギーでも放出されたような、人間同士によってつくられたものとは到底思えない争いの痕跡があるだけで、僕以外には誰もいない──嘘つきと呼ばれた彼女の姿も、もうどこにもなかった。
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